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湧くわく本心塾は互師互弟で、志を高め合おうとする集まりです。


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湧くわく本心塾は、互師互弟で、志を高め合おうとする集まりです。
儒教や天風哲学などの教えをベースに、さまざまな先哲の叡智に共通する真理を学び、また実生活で実践することで、塾生一人ひとりが自らの人間力を向上させていきます。
そして、各自がそれぞれの持ち場で「一隅を照らす人」となることを目的としています。

トピックス

  • 潜学講座第7期スタート
  • 照隅ライブラリー第4弾『ブッダの言葉~最古の原始仏典「アッタカヴァッガ」を読む~』 発刊
  • 照隅ライブラリー第3弾『禅の言葉~随処に主と作(な)れ!』発刊
  • 照隅ライブラリー第2弾『論語 人間を磨く言葉』発刊
  • 照隅ライブラリー第1弾『天風哲学の基本と実践 わが師中村天風に学んだ心身統一法』発刊
  • CD『中村天風から教わったお鈴・ブザーを使う瞑想法』制作

わくわくブログ新着情報

【担当】月曜…池田光、水曜…冨樫功、土曜…佐々木秀彦、日曜…八木正典


4月9日(日)
「精進」   日曜担当…八木正典

精進(はげみ)こそ不死の道
放逸(おこたり)こそは死の径(みち)なり
いそしみはげむ者は
死することなく
放逸にふける者は
生命(いのち)ありとも
すでに死せるにひとし  (法句経)


天風哲学の観念要素の更改法を続けております。
毎晩寝る前に、鏡を前において顔を見ながら「お前は信念、強くなる」と唱えてから寝床に入り、
朝起きたら「私は信念が強くなった」と自己断定しているのです。
天風先生はその著「真人生の探究」の中で、大事なことは効果を焦らないことだと言っておられます。どんなものでも完成するまでには、一定の期間というものが必要とされる。だから食事をしたり、呼吸をしたりするのと同様な安易な気持ちで生活行事の一つと思う気分で行うのがよいということなのです。
毎日の新しい習慣として自分のものにして長く続けていけるように、焦らず進んでいきたいと思っております。


日曜担当…八木正典



4月2日(日)
「桜花舞の宴」   日曜担当…八木正典

花には散ったあとの悲しみはない
ただ一途に咲いた悦びだけが残るのだ (坂村真民)



昨日は本心塾主催の大阪城桜花舞の宴でした。
毎年大阪城公園で花見を行っておりますが、満開の桜が咲き誇った素晴らしい宴となりました。

過去寒すぎて凍えそうになりながらみんなで宴を楽しんだこともあれば、葉桜ですっかり桜がなくなっていたこともあります。またコロナによって残念ながら中止となってしまった年も。
今年はごった返すような多くの人が公園に桜を楽しみに来ていましたし、外国人の姿も目立ちました。

今年は佐々木さんのブログの友達が3名参加いただいたり、千秋さんの娘さんと友達も飛び入りで参加してくれたりして、新鮮で楽しい会となりました。
それぞれが好きなお酒や料理を持ち寄り、美しい桜のもとで杯を酌み交わす。千秋さんの手作りの料理も堪能させていただきました。
この楽しい時間がもっともっと長く続けばいいのにと、そう思えるような悦びあふれる会でした。

今年度が始まりましたが、また一年縁のある方々と一緒に多くの時間を共有し、更に悦びを深めていきたいと感じております。


日曜担当…八木正典



3月26日(日)
「教」   日曜担当…八木正典

人は教(おしえ)によって人であり、教は国があって行われ、国は歴史があって存立する。人と教と国と歴史とは一環状をなし、其の実一である。若し四者がその連貫を失ったならば人は真に人ではなく、教は真に教でなく、国は真に国をなさず、歴史というものから断絶される。(西晋一郎)


先日祖父の三十三回忌でした。
実家に帰って残されていた祖父の本棚を覗いてみたところ、西晋一郎の書籍が多く含まれておりました。恥ずかしながら西晋一郎のことをよく存じ上げてなかったので、調べてみたのですが、「東に西田あり、西に西あり」と西田幾多郎と並んで戦前の日本哲学界をリードした方であります。西洋哲学と東洋哲学の双方に造詣が深く、国民道徳の普及にも力を尽くされた方です。

祖父の学んだその方を私が知らないということは既に歴史が分断をされているということだと思いますし、私の学の浅さを示しているのだと思います。

本心塾では、古事記、空海、本居宣長、近江商人等、日本の偉人や書籍を通して多くの方から日本の歴史や先人の素晴らしさを学ばせていただいておりますが、日本人として正しい歴史観を自分の中にいかに育て、いかに伝え続けるのかが重要だと感じます。
私の中に先祖から脈々とつながるその日本民族の思想や精神を改めて認識し、更に学びを深めて実践に活かしていきたいと思っております。

日曜担当…八木正典



3月12日(日)
「運命を拓く」   日曜担当…八木正典

中村天風先生の「運命を拓く」を読んでおります。
素晴らしい本です。改めて読むと新鮮な驚きがあります。

これまで何度か読んでいる本ですが、来期の潜学講座で一年を通して「運命を拓く」を講義することが決まっており、改めて初心に戻って天風哲学を学びなおしてみたいと考え、一から読み直しております。
まだ読み直している途中ですが、これまでさまざまな方に天風哲学を教えていただき、多くの書籍を読んできましたが、何かテクニックを学ぶようなとらえ方をしていたような気がします。
観念要素の更改法や積極観念の養成法、誦句や安定打坐などなど、誰でも真理に到達できる方法を、丁寧に説いているだけにわかりやすく、実践しやすいのですが、やり方にこだわり、本質は何だという見方が少し欠けていたような気がするのです。
簡単にわかるものではないと思いますが、分かるまで何度も読み返し、11期の潜学講座で講師の方々の視点を取り入れながらこの本を十分に味わい、そのエッセンスを自分のものにしていければと考えております。

日曜担当…八木正典



3月5日(日)
「潜学講座」   日曜担当…八木正典

徳は弧ならず、必ず鄰あり。(里仁第四)

3月の潜学講座に参加してきました。湧くわく本心塾第10期の最終回でした。
今回は第一講で冨樫講師の「安定打坐入門」の講義、第二講で「論語を楽しむ」をテーマに講師をさせていただきました。

第一講の安定打坐入門は聞き応えのある素晴らしい講義でした。
瞑想と坐禅の違いから始まり、安定打坐の目的、効果や特徴までを丁寧に説明いただきました。
恥ずかしながら瞑想と坐禅の違いをこれまで追求したことがなかったので、冨樫さんの文字の起源を含めた説明は納得感が高く目からうろこでした。
また、参加者全員でブザーとお鈴の音で安定打坐を実際にやってみました。無になった0コンマ数秒という時間が積み重なっていくということですので今後も継続していこうと思います。
過去冨樫さんが中国に行った際に持参した本の一冊が「運命を拓く」とのことで、これまで徹底的に読まれています。さらに先月の小林さんの「運命を拓く」の講義以降、何度も「運命を拓く」を読み返された上に、安定打坐を実践されているそうです。
天風哲学に長く触れているだけに深みのある講義で多くのことを学ばせていただきました。

第二講は「論語を楽しむ」をテーマに講師として話をさせていただきました。
今年に入って原点回帰で論語を改めて学ぼうとしておりますが、今の自分の理解を出来る限り参加メンバーにお伝えしたいと思いつつ話をしました。
孔子の生きた時代は、道義的意識が失われ、人々の心が荒み、利己主義的な考え方が蔓延しています。残念ながら今の日本の状況が非常に似通ってきているようにも思えます。
利己主義から人間の主体性・自由な権利があるかわりに社会に対する義務・責務を果たす真の個人主義への転換、真の人間性の回復が必要である。そのためには修身斉家治国平天下で、個人から家族、地域社会、国家、世界へと段階を踏んだ愛、仁の実践に取り組むことが大切である。そのためには論語を人生哲学として活用するのがいいと話しました。
また、論語の話からずれましたが、大阪は商人が設立した「懐徳堂」が出来て来年で300年、大大阪時代のピークから100年、関西万博も半世紀ぶりに行われるということで歴史的転換点が近い気がしております。本心塾の存在する意義は大きいのではないかとの認識をお話しさせていただきました。
また、2029年に到来する王陽明没後500年では本心塾主催の何かをやりたいという個人的な希望を参加メンバーにお伝えいたしました。

今回の講義で改めて天風哲学と儒学を両方学べるというのが本心塾の原点であり、魅力を高めているところだと感じます。
記念すべき第10期を無事に終了し、来年度から更にパワーアップした潜学講座となるようご縁のある方々とともに盛り上げていきたいと心を新たにしております。

日曜担当…八木正典



2月26日(日)
「みちしるべ」   日曜担当…八木正典


梅園に出かけてきました。早咲きの花が開いて春の訪れを感じられます。
その中で美しいピンクの一重咲の大輪を咲かせているものに引き込まれました。
名前は「道知辺」(みちしるべ)。
昔、旅人の道標に使われたので、その名前がつけられたそうです。

美しい花をめでて、春の到来を待ちつつ幸せな気分を感じながら、これまで多くの方々に人生のみちしるべとして進むべき道を教えていただいたことが有難い気持ちとともに思い返されました。
その感謝の念を、少しでも先輩や仲間、後に続く人たちにお返ししていくことが出来ればと感じております。

日曜担当…八木正典



2月19日(日)
「学ぶ」   日曜担当…八木正典


子の曰わく、吾れ嘗て終日食らわず、終日寝ず、以て思う。益なし。学ぶに如かざるなり。(衛霊公31)


京都教育大学付属高校の教育実践研究集会に参加してきました。
本心塾の池田名誉塾長から、論語を学ぶのであればと教えていただきました。
本来であれば国語を生徒に教える高校教師のための講座なのですが、一般の方も漢文に興味があるのであれば参加ができるということなのでした。
講師は中井光先生という漢文法の本も何冊も書かれておられる方です。


とても刺激のある素晴らしい講義でした。
私のような漢文の素人にもわかるように文章の構造から入り、その後漢文で使われているが理解しづらい「而」、「所」、「可」、「豈」、「焉」の文字の捉え方を様々な文章を通じて丁寧に教えていただきました。50分二コマの講義があっという間でした。
中井先生の学問に対する真摯な姿勢、学ぶということに対して突き詰める姿勢を感じることの出来る講義でした。自分が疑問に思ったことを徹底的に考える姿勢に刺激を受け、見習いたいと感じております。


新たな学びの機会を与えられたことの感謝です。
今後も講義を参考にして論語の学びを深めていきつつ、学ぶことの喜びを本心塾の多くの方と共有していければと感じております。


日曜担当…八木正典



2月12日(日)
「衆力」   日曜担当…八木正典


「修行は衆力をもってする」
という言葉があります。
一人では自分に負けてあきらめたりやめたりしてしまうことも、道を同じくする者たちと一緒にやると、それほど苦労せずして続けることが出来るというものです。
そして共に道を求める人や同じ志を持つ人とともに行動することによって自分の力を超えたものを発揮することにつながります。

私にとって本心塾での学びがまさにそれです。
塾の先輩方から水垢離の話を薦められ一緒にやりながら都度励ましてもらわなかったら3000日以上続けていることもなかったのでしょうし、朝夕の安生打坐もどこかでさぼって止めてしまっていたような気がします。
本当に前を歩んでくれる先達や一緒に歩んでくれる仲間がいることに感謝です。

来年度の本心塾は、年間を通じて中村天風「運命を拓く」の講義を行うことになりました。
中村天風を突き詰める、実践するということがテーマとなります。
既に2月に小林さんによる中村天風の講義により盛り上がりを見せつつあります。3月には冨樫さんが中村天風の安定打坐法の講義が予定されており更に学びが深まりそうです。
この難しいテーマに多くのメンバーの方々と衆力をもって取り組み、ともに進むことが出来ることに今から欣びと感謝を感じております。



日曜担当…八木正典



2月5日(日)
「潜学講座」   日曜担当…八木正典


2月の潜学講座に参加してきました。
今回は坂口講師の「バレンタインデーとその経済効果」、小林講師の「運命を拓く・中村天風に学ぶ」の2本立てです。

第一講では、坂口講師よりバレンタインデーの起源と日本での歴史や世界各国での習慣等を教えていただきました。その後バレンタインデーでの1300億円程度の市場規模と他業態での市場規模等を説明いただきました。チョコレートを女性から男性へという日本独自の進化の仕方を興味深く聞かせていただきました。今後バレンタインデーをマーケティングの観点で新たな目で眺めることが出来るようになる講義でした、

第二講では、小林講師より中村天風先生の名著「運命を拓く」に関して講義いただきました。
小林さんは、年末年始にかけて繰り返し書籍を読まれたそうで、その中でも信念を渙発すること、積極精神を養成することの重要性を教えていただきました。
「消極観念は全てスルーして意識の中にいれない」、「朝晩に暗示を使って積極観念を引き出す」を今年絶対に実践していくとの話が印象的でした。また、潜在意識を「土壌」としてとらえ、いい種をまき続けようという姿勢、実践していこうという姿勢に勇気づけられました。
来年度は年間を通して潜学講座の第一講で「運命を拓く」を講義することになっています。来年度に向けて大きなエネルギーをいただいたようなそんな講義でした。

定期的に本心塾の塾生と話をし、一緒に学び合えることの喜びを感じられる会でした。学びを実践に結び付けるべく取り組んでいきたいと思います。

日曜担当…八木正典



1月29日(日)
「空し」   日曜担当…八木正典

子曰く、回や其れ庶(ちか)きか。屢(しばしば)空(むな)し。賜(し)は命を受けずして貨殖す。億(おもんばか)れば則ち屢中(あた)る。  (先進第十一


論語の先進第十一にある文章です。

金谷治先生は「論語」で、この文章を下記のように解説しております。

「先生がいわれた、「回(顔淵)はまあ[理想に]近いね。[道を楽しんで富みを求めないから]よく窮乏する。賜(子貢)は官命を受けなくとも[自分で]金もうけをして、予想したことはよく当たる。」

商売の上手であった子貢と対比して、空しを窮乏すると読んでおります。

一方で最近読んだ、今北洪川老師の「禅海一瀾」では空しを窮乏するではなく、一つの境地としてとらえられております。

「空しとは至誠虚明の理を体究して中心妄情無きの謂なり。達磨大士曰く、『大道は虚懐を本と為し、不着を宗と為す』と。是なり。孔門の極功また一徹なり」

空しを妄念を排除し聖人としての根本となる至誠・至仁・至道を体得したもの、虚とか空の境地に到達したものとしてとらえられているのです。

一つの言葉の捉え方で全く違った意味合いになっていることに驚きです。
その読み方の違いに新鮮さを感じつつ、人によって捉え方の違う論語を改めて丁寧に読んでみたいと感じております。


日曜担当…八木正典



1月22日(日)
「願い」   日曜担当…八木正典


わたしの三願(坂村真民)

一つ
鳥のように
一途に
飛んでいこう
二つ
水のように
素直に
流れていこう
三つ
雲のように
身軽に
生きてゆこう


坂村真民さんのまっすぐな思いが伝わってくる詩です。
坂村真民さんのその著書「愛の道しるべ」で、この詩とともに、願(願い)をもって生きることの素晴らしさを伝えてくれています。
仏さまが美しいのは願を持っているからである、同じように願を持って生きる人は美しい。本当の美しさは、願を持つ人を言うのだと。

そこで自分の願いは何だろうかと考えてみると、本心塾の目的でもある「一隅を照らす」ことかと思います。
進化と向上のために一隅を照らし続ける。そのために毎日少しでも善を求める。
そんな思いを忘れずに続けられたら喜ばしいと感じております。




日曜担当…八木正典


1月15日(日)
「ブログ」   日曜担当…八木正典

最近、宮崎市定先生の「論語の新しい読み方」を読んでおります。
いろいろと一周してきて、論語に戻ってきた感じです。
久々の論語、やっぱりいいですね。読んでいてとても楽しいです。

宮崎先生の説明に新たな視点をいただき、また違った見方が出来ることに感じ入りながら、それとは別にこれまで多くの方に教えていただいたことや経験してきたことによって同じ文章でも捉え方が変わっていることに気づきます。

振り返ってみると、最初にこの本心塾の潜学講座に参加したきっかけは、儒学(特に論語)を学べる場所だと思って参加したことを思い出します。
潜学講座で多くの素晴らしい方々に出会い、諸先輩からブログを書いたらどうかとお声かけいただいたことで私のこのブログがスタートしたのでした。2014年のことになります。

ドキドキしながら最初に書いたのは、論語雍也第六の一節でした。

「冉求曰く、子の道を説(よろこ)ばざるにあらず、力足らざればなり。
子曰く、力足らざる者は中道にして廃す。今女(なんじ)は画(かぎ)れり。」

自分に限界を作らず今まで以上に自身でも必死で学び続けていきたいという思いやもう一歩、さらにもう一歩と一隅を照らすために着実に先に進んでいきたいという思いをもってブログに書いたわけです。

その時の思いがどれほど実現できているかは分かりません。
ただ進歩はなくとも水垢離を毎日続けながら、安定打坐を毎日やりながら、祈りを毎日捧げながら初心だけは忘れないようにしているつもりです。

これまで本心塾を通じて多くの方から学んだことや受けた恩を、少しでも、どんな形でもこの世界にお返ししていくべく、引き続き歩んでいきたいと思っております。


日曜担当…八木正典



1月8日(日)
「新年にあたり」   日曜担当…八木正典

みなさま、明けましておめでとうございます。
旧年中は大変お世話になりありがとうございました。
本年もよろしくお願い申し上げます。

ここしばらくブログをお休みしておりました。
その間西洋哲学になるものにトライをしておりまして、ただ分からなさ過ぎて頭が付いていかず、そのためしばらくインプットの時期だと勝手に考えてさぼっていた次第であります。

なんでしょうか、あのウィトゲンシュタインというやつ。
なんかわかりそうなんですよね。でも読んでいくとさっぱり分からない。
分かったのは、「語ることができないことについては沈黙するしかない」ということと言葉だけでありまして、それまでの流れが全く分からないので沈黙するしかない、あきらめるしかない、そんな感じというわけです。

とそんな中、やっぱり自分には中村天風だ、儒学だ、陽明学だといろいろ考えているうちに出会ったのが、横田南嶺老師。
臨済宗円覚寺派管長で花園大学総長になられているものすごい方なのですが、朝のラジオ(You tubeで)を聴いていると、最近論語の話が多くてものすごく面白いわけです。
仏教を突き詰めた人が語る話(特に論語の話)、新鮮でたまりませんね。一度どこかでご縁があってお会いできればありがたいと思っております。

私は毎年テーマになる言葉を決めて自分の指針としているのですが、横田老師の語る「慈風」の話に心を打たれ、今年のテーマは「慈風」に決めました。
慈しむ思いをいかに風にして、私をとりまく縁のある人や私の住む世界に届けられるかを考えていきたいと思うのです。微力ながらそう思って日々を暮らすことによって少しでも思いが通じればいいなあ、より良い世界が開ければいいなあと思っております。

この本心塾は間違いなく同じ思いを共有できるメンバーの集まりだと思います。
今年も縁ある方々と楽しく明るい関係を継続しながら、新たな学びを深めていきたいと思っております。


日曜担当…八木正典


9月4日(日)
「潜学講座」   日曜担当…八木正典

9月の潜学講座に参加してきました。
今回は第一講が大橋講師の「聖徳太子に学ぶ」、そして第二講が冨樫講師の「水垢離3000日とKindle出版」の2本立てでした。

大橋講師から没後1400年の聖徳太子にスポットを当てられ、聖徳太子の生涯に関する解説と十七条憲法の原文の説明をいただきました。
十七条憲法は、恥ずかしながら「和も以て尊しと為す」の第一条ぐらいしか知らなかったのですが、全条文を原文、要旨、解説の順での丁寧な説明で、その当時の情景を想像しながら興味深く聞かせていただきました。
和の重要性はもとより、礼を大事にすることや自分の権限を乱用せず為すべき公としての役割をしっかりと果たすこと、民への配慮、信賞必罰等今の時代でも1400年経っても色あせない内容が盛り込まれており、聖徳太子の偉大さを感じることが出来ました。一方で、物質面での進化に比べ人間の精神面での進化が伴っていないことを改めて認識した次第です。

冨樫講師は、水垢離3000日を達成したことから「水垢離入門」をKindle出版から出版されましたので、水垢離をはじめたきっかけや出版に至るまでの流れや思いをお話いただきました。
出版に対する一連の流れを、戦略論やマーケティング論として聞いてもおかしくない内容に仕立て語られる姿に冨樫講師の人柄が加わって楽しい講義でした。
またアマゾン総合1位獲得とのこと、おめでとうございました。

今回の潜学講座も互師互弟の良さが出ている魅力的な講義でした。多くのことを教えていただき、それを実践することで多くの方のお返しできるよう日々精進したいと感じております。


日曜担当…八木正典



8月28日(日)
「水垢離」   日曜担当…八木正典

水垢離が3,000日を超えました。
2014年に本心塾の先輩である今西会長、坂本さんから水垢離についての話を聞き、日課としたものがすっかり習慣になり、今では生活の一部となっています。

昔は水垢離をしていれば何かいいことがあるかもといった思いや、やるからには気合を入れようという気持ちがあったわけですが、今は感謝行とともに何の思いを抱くこともなく、というか頭を空っぽにして淡々と行っております。当たり前すぎて続けようという思いすらないような気がしています。

最近、善(至善)について考えています。
どうすれば自分のものに出来るのだろうかと思うわけですが、考えれば考えるほどおそらく作為的に、意識的に善であろうという思いを持つことの中には、善はないのではないかと感じています。
自分の意識しない世界の中に自分が望むものがあるかどうかはわかりませんし、そもそもそんなものは何もないのかもしれません。
まだまだ分かっていないので試行錯誤するしかないですが、水垢離をやろうと思ってやっていた時と何のこだわりや思いもなくやっている今の違いを見ると何となくそんな感じがするのです。
善であろうと思って、思って、日々を過ごし、善であろうという意識がなくなった時やその思いから離れたところに求める善があるのではないかと。

そんなことを思いながら、湧くわく本心塾での仲間と一緒に毎日水垢離を続けられている事実に感謝し、一日一日を大事に積み重ねていきたいと思っております。


日曜担当…八木正典



7月4日(月)
「8月6日の夏期講座のこと」   日曜担当…池田光

8月の夏期講座を担当させていただくことになりました。
タイトルは、「中村天風の教えを学んだ42年を振り返る」。

今回の講座では、ご参加いただいた皆様とともに、ディスカッションしながら進めていきたいと思っています。
おおまかな進め方としては、こんなことを考えています。
・ぼくの生涯は、「天風哲学をめぐる守破離であった」と言えます。守破離を独自な解釈と体験を交えて解説します。
・武者小路実篤の詩を紹介し、天風哲学との共通点を考えます。
・私が掴んだ天風哲学の中間地点での結論をお話します。ちなみに、結論めいたことは、最新作2冊に盛り込みました。次の2冊です。

■『中村天風 「自力」で運命を動かせ』(清談社Publico)
・2022年4月10日発売。
・私は、2019年の3月の潜学講座で「天風哲学 最終結論」というお話をしました。何を話したかを記すと、次のとおり。
・安武貞雄氏(天風会第二代会長)は、「積極観」から天風哲学を説いた。
・杉山彦一氏(天風会第四会長)は、「生命観」から天風哲学を説いた。
・私は、「生かされて生きる」という他力と自力の統合から天風哲学を説く。
このときに話したことをベースにして、この本を出版しました。集大成と位置づけています。
なお、4月16日に、オーディオブック『中村天風 真理へと誘う「瞑想法」入門』(パン・ローリング)が併せて発売されました。

■『中村天風 やったほうがいいこと・やらないこと』(仮題、秀和システム)
・2022年9月17日の発売予定。Amazonで予約受付中。
・この本では、「自由な観点から書こう」と、気持ちを新しくしました。そして、中村天風先生を「天風さん」と呼ぶことにしました。

細かな流れは気にせずに、参加者とともに作る講座でありたいと考えています。ですから、8月6日の講座がどんな形になるか、お楽しみに。
なお、8月6日の講座をもって、ぼくの最後から二番目の講座とさせていただきます。
ただ、コロナ感染が増加に転じていますが、その影響が低ければいいのですが。
では、久々にみなさまとお会いできるのを楽しみにしております。

日曜担当…池田光



7月3日(日)
「潜学講座」   日曜担当…八木正典

それ善く天下の事を制する者は、事の外に立ちて、事の内に屈せず。(理財論)

7月の潜学講座に参加しました。
今月は、第一講で佐々木講師の「大和心を探求した本居宣長③」、第二講では、「山田方谷に学ぶ」をテーマに講師をさせていただきました。

第一講は、佐々木講師による本居宣長の歌論集である「石上私淑言」の講義でした。
「石上私淑言」は宣長が33歳の時に書かれたものであり、没後13年に刊行されたものです。
前回の「紫文要領」に続いて原文に触れていくという講義でした。

和歌が五句三十一字(みそぢひともじ)であることの道理を問われ、陰陽五行や五行・五常・五倫に当ったものだなどという人がいるが全くの誤りで、道理を考えるのは無用と言い切る内容や、「やまと」を「日本」、「夜麻登」、「倭」と表現する際の違いを解説する文章を興味深く学ばせていただきました。
また物のあわれとはこれまでうら悲しいとかもの悲しい表現であるように思っていたのですが、悲哀のみを言ったものではなく、うれしいこと、おかしいこと、楽しいこと、悲しいこと、恋しいことなど心に深く感じるものは全て、あわれであるということを教えていただき新鮮な驚きでした。
物のあわれという感覚が少しだけわかってきたような、そんな講義でした。

第二講では、「山田方谷」について話をさせていただきました。
幕末から明治初期に活躍した政治家であり、藩政改革者であり、教育者であり、陽明学者であるという異才。
山田方谷の経歴や功績を説明した後、理財論と擬対策の二名文を紹介させていただきました。

学びを実践にしっかりと結び付け、現在の日本の状況を彷彿とさせるような綱紀が乱れ、財政が行き詰まっている備中松山藩を7年間で立て直した強固な意志とリーダーシップ、そして、誠意を尽くして人を思いやる「至誠惻怛」とすべては藩士や領民のためという「士民撫育」の心を忘れない方谷の生きざまを少しでも伝えることが出来ていればうれしく思います。


来月は池田名誉塾長による夏の特別講座です。突き詰め続けた中村天風の教えの真髄を学ばせていただけるのが今から楽しみでなりません。

日曜担当…八木正典



6月5日(日)
「潜学講座」   日曜担当…八木正典

つねに腰骨をシャンと立てること。これ性根の入った人間になる極秘伝なり。(森信三)

6月の潜学講座に参加してきました。今月は、特別講座で佐々木奘堂先生による天正寺座禅会です。

「人間の本来あるべき姿に戻る。そのためには腰を立てることが必要である。」
奘堂先生はそうおっしゃいます。

先生は真の座禅の在り方を探求する中で、大英博物館にあるディオニソス像の生き生きした姿を見て感動し、腰の立てた座禅を突き詰めておられます。
講座の中で作為的ではない体の使い方を丁寧に説明いただき、腰の立った座禅は行住坐臥、それこそ二十四時間常にできるものなのだと教えていただきました。
実際に先生と一緒に体を動かしながら、何度も練習する内に、腰の立った状態とはどういうものなのかが何となく感じられるようになります。
これまで、先生の座禅会には何度か参加させていただいているのですが、これまで教えていただいているものとは違った新たなやり方で驚きを感じるものでした。

これまで自分としてこれが正しいのではと勝手に考えていた瞑想や座禅に対する先入観が払拭され、有意義な時間となりました。
毎日腰を立てるという意識をもって、教えていただいたやり方を少しずつでも自分のものにしていきたいと感じております。




日曜担当…八木正典



5月8日(日)
「潜学講座」   日曜担当…八木正典

5月の潜学講座に参加してきました。第10期の最初の講座となります。
今回は、第一講が大橋講師による「近江商人と三方よし」と第二講が佐々木講師の「大和心を探求した本居宣長②」でした。

第一講の大橋講師から「三方よし」の考え方を教えていただきました。
売り手よし、買い手よし、世間よしという言葉によって、従業員満足、顧客満足、社会満足までつながります。持続可能な世界の実現のために現在進められているSDGsや企業の社会的責任を示すCSRの考え方が、「三方よし」として江戸時代にすでに表現されていたというのは驚きですし、日本として誇るべきものであると感じられました。
また、「陰徳善事」は運をたぐり寄せ、善人の子孫を得るための唯一の方策であるとの考えは近視眼的な現代の風潮に一石を投じるものですし、自身でも長期目線での考えを意識したいと思います。

第二講では、佐々木講師に源氏物語の注釈書である「紫文要領」を教えていただきました。
「紫文要領」は本居宣長が34歳で記したものであり、「物の哀れを知る」という考えを示したものです。
宣長は源氏物語を何かの教えを得るという考え方ではなく、感性を重視しつつ読むべきであることを丁寧に説明していることが原文を通じて理解できました。
原文を読んでいると宣長の思考がストレートに伝わってきて、池田名誉塾長がいつもおっしゃられている「原文にあたることの重要性」を体感できたことは有難いことでした。

今期も潜学講座がスタートしましたが、学べることの喜びを感じつつ、学んだ知識を見識、胆識に変えていけるよう努力していきたいと思っております。




日曜担当…八木正典



5月1日(日)
「楽しみにする」   日曜担当…八木正典

コロナに加えロシアウクライナ問題、インフレ加速と米金利引き上げ、中国のロックダウン等外部環境は予断を許さない状況ではありますが、GWに入りそんなことはそっちのけでゆっくりと読書に励んでおります。
最近儒学と陽明学に舞い戻ってきておりますが、改めて自分の理解が進んでいたと思っていたことが思考上のものだけであり、実践としてはまったく追い付いていないことに気づき、学びを深める必要性を再認識しております。
そんな中出会ったのが次の2つの言葉。

天下の至精の理は至難の事。若し潜玩沈思を以てこれを求むれば、厭なく躁なければ、中人以下と雖も、未だ得ざる者有らざるなり。(呻吟語)

(天下の最も根本にある真理を理解するのは至難のことである。それでも心を静めて深く考えて求め続ければ、途中で飽きたり先を急いで慌てたりしなければ、中人以下の人であっても体得できなかったものはいない。)

自分自身、弛まず、おこたらず、心身統一のそのままの人間を作り上げることを目的とするより楽しみにしなさい。楽しみに。目的とすると辛くなるから楽しみにするんだ。(中村天風)


先人が残してくれた言葉を信じながら、先ずは自分の心を正すために、倦まず弛まず、着実な一歩を楽しみながら進みたいと思っております。


日曜担当…八木正典



4月30日(土)
「大和」   土曜担当…佐々木秀彦

日本国のことを『大和国』とも書きます。それでは大和と日本はどちらが古い言葉でしょうか…江戸時代の1763年(宝暦13年)に本居宣長が著した『石上私淑言』に、この話は出てきます。

日本…初代神武天皇は『神日本磐余彦天皇』と日本書記には書かれています。古事記は、文字としては漢字を遣ってはいますが、日本語で書かれた日本の正史。これに対して日本書記は、漢語で書かれた日本の正史です。そう考えると『神日本磐余彦天皇』という表記は、中国向けの表記として、重要な意味を持ちます。

本居宣長は『日本』という言葉は、饒速日が天降り給うときに『虚空見日本国(そらみつやまとのくに)』といふ古言もあるので神代よりの名と断言しています♪

大和…『倭』という文字もあります…そもそも『倭』は漢語で『倭奴国』と中国人が勝手につけた日本語とは全く関係のない当て字ということ…漢字が入ってきた時に『倭』という表記も一緒に入ってきました。日本では最初は『意味』は関係なく『音』だけで漢字を遣っていたのですが、次第に意味も重要視するようになって、天平宝字2年2月の詔で初めて『大和国』と記されて以降、そこからは『大和』の文字に変わったと本居宣長は書いています。

やまと…これは神代からの名前で、本居宣長は著書では基本的に『夜麻登』という漢字で書いています。京都を『山背国(やましろ)』と書いていたことを考えれば奈良は『山処国(やまと)』と書くのがしっくりいくとも書いています♪

5月7日の潜学講座で『本居宣長』の講座を予定していますが、レジュメをまとめようとしているはずなのに、ついつい読み始めれば止まらなくなって、本文に引きこまれて困っています。今回の講座では『紫文要領』という本居宣長の源氏物語の後釈書を取り上げる予定ですが、『石上私淑言』という違う著書を読んでしまっている(笑)

ただ『物のあはれを知る』をキーワードにすると、『紫文要領』と『石上私淑言』は、大きく関連しているわけなので、これはこれで今回も大事といえば大事です。

しかし、今さらなのではありますが、『本』は凄いと思います。259年前に書かれた『大和』や『倭』の本居宣長の解説を、令和の現代に自宅で読むことができるわけで、これは時空を超えていると思います。

本居宣長は儒学者が大嫌いだったようです。儒学者は物語の善悪ばかりを突き詰めるが、そういう価値観は唐意(からごころ)に毒されているだけで根本的に違うのだと言い放ちます。和歌に薫陶し、源氏物語や古事記を生涯かけて研究対象とした本居宣長は、表面的な文字の意味よりも、作者が何を感じてそう表現したかにだけにしか興味がなかったようです。そんな心で著した本居宣長の作品だからこそ、僕の心にもドンドン入り込んでくるような気がします

土曜担当…佐々木秀彦



4月17日(日)
「真正の英雄」   日曜担当…八木正典

小処に滲漏(しんろう)せず、暗中に欺隠(きいん)せず、末路に怠荒(たいこう)せず。
わずかにこれ個の真正の英雄なり。(菜根譚)


些細なことだからといって手抜かりをしない。人が見ていないからといって罪を犯さない。不遇な状況におかれても投げやりにならない。これだけのことができれば、それでもう立派な英雄だ。


引き続き少しずつ菜根譚を読んでおります。
著者のその人間の本性や心理に対する識見深い内容に驚くばかりです。

上記の言葉には慎独をいかに行うのかということが具体的に述べられており、深く考えずに行っている自らの意識と行動を反省しております。
王陽明は「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し。」と語り、心中の賊を破ることが出来るのならば、真に大丈夫(意志の強く立派な人)の稀な偉大な業績といってよいだろうと記しております。

自分の心に浮かぶ已発の情に関して、心中の賊を破るべくしっかりと省察していくように意識をしていきたいと考えております。


日曜担当…八木正典



4月11日(月)
「2022年4月11日のブログ」   月曜担当…池田光

今春初めてのウグイスの鳴き声を、数日前に聞きました。

ぼくの家の前は、禅寺です。そのお寺の樹から、ウグイスの声が聞こえるのです。

年々、鳴き声は少なくなってきました。

ずいぶん前にお寺の林が伐採されて駐車場になり、ウグイスが減ってしまったからです。

3月になると、今年は聞けるだろうかと気になるのですが、

「ホーホケキョ」

の声が、今年も聞けました。



湧くわく本心塾も10期を迎え、現執行部の継続力に感謝しています。

ぼくは、力とは続けることにある、と思っています。

けっこう長い人生を生きてきましたが、「続けたこと」だけが今のぼくを支えています。

「続けなかったこと」は、一時的にはうまくいっても、消えてしまいました。

歳を重ねるにつれ、「続けること」の重みがわかるようになりました。

いずれ、どこかの時点で、みなさまにお会いしたいと思います。



コロナについては、ドラッグストアに経口薬が販売されるようになったら、一応の出口になると思っています。

それは今年ではないかと、そう期待しています。



世界では、いろいろ大変なことが起こっていて、心を痛めております。

世界で起こっていることは、日本にもつながっていますし、私たち一人ひとりの考え方と行動が未来を選択することになると思います。

それぞれの立場において、当事者意識を持つことが必要だと思います。



ようやく、昨年の一年間をかけて書いた2冊が出版されます。

◎『中村天風 「自力」で運命を動かせ』(清談社Publico)

この本は、

<第1章〉中村天風の話

<第2章〉天風会第二代会長・安武貞雄の話

<第3章〉天風会第四代会長・杉山彦一の話

<第4章〉森本節躬の話

という4章から成っています。天風のお弟子さんを描いた初めての本だと思います。



◎『中村天風 真理へと誘う「瞑想法」入門』(パンローリング、オーディオブック)

何年か前に出した『中村天風 心が安定する「坐禅法」入門』の姉妹編です。

坐禅法=安定打坐法、瞑想法=真理瞑想行であり、これで一応の完結です。

オーディオブックならでは出版物です。



現在、新しい本を執筆しています。

初めての出版社さんからの依頼で、中村天風のことを超初心者に向けて書くつもりです。

計画では、6月中旬に書き上げます。

ぼくにとっては、執筆はちょっと苦しいけど、楽しい時間でもあります。

これが終わったら、勉強を兼ねた読書をしたいと思います。

人生も終盤ですので、できるだけ生産し、できるだけ読書し、できるだけ楽しみたいと思います。

そして書いたり読書したりした結果として、納得がいく、しっくりくる死生観が持てたらと思います。

では、みなさま、お元気で。

月曜担当…池田光



4月3日(日)
「桜花舞の宴」   日曜担当…八木正典

いざ子ども 山べにゆかむ 桜見に 明日ともいはば 散りもこそせめ(良寛)


4月の湧くわく本心塾の桜花舞の宴に参加してきました。
まん延防止が解除され、少し寒さを感じるもののいい天気で桜は満開。大阪城公園は人また人。物凄い人出でした。
それぞれで思い思いに桜を楽しんでいる姿が印象的で、日本人と桜は切っても切れない関係だと改めて感じた次第です。

そんな中、わが本心塾もコロナの影響で2年連続開催見送りとなっていた宴を久々に復活。
今回は少人数ながら、満開の桜をめでながら、楽しい会話と美味しい食事を楽しむことが出来ました。
千秋さんが作ってきてくれた手料理や珍しいお神酒やビール、佐々木さんチョイスの冨樫さんの誕生日用のケーキ等々、堪能させていただきました。
久々に本心塾のメンバーと一緒に同じ時間を共有できたのは本当に有難い話です。

本心塾10期を最高の形でスタートしたわけですが、来月以降の互師互弟での講義でも多くの学びや新たな気づきを味わっていきたいと感じております。

日曜担当…八木正典



3月20日(日)
「菜根譚」   日曜担当…八木正典

利欲はいまだ尽くは心を害せず、意見はすなわち心を害するの蟊賊(ぼうぞく)なり。
声色はいまだ必ずしも道を障げず、聡明はすなわち道を障げるの藩屏(はんぺい)なり。 
                                           (菜根譚前34)


利益を求める心は必ずしも有害ではない。それよりも害をなすのは偏見に凝り固まることである。
愛欲の心は必ずしも人の成長を妨げない。成長のさまたげとなるのはむしろ知ったかぶりの独善だ。


3月になって久々に菜根譚を読み返しております。
これまで読んだ時とまた違った感じで新鮮さをもって文章が心に入ってくるのに驚かされます。自分の受け止め方が変わってきたのか、どうなのか。
もしかすると、今の時世が菜根譚を記した洪自誠の生きた明朝末期の閉塞感のある状況とだんだんと似てきているからかもしれません。
しばらく読み進めて、驚きを感じていきたいと思っております。

菜根譚前34では、利欲や愛欲の追求よりも問題となるのは、偏見に凝り固まることや独善的な判断を下すことだと言われています。同じく明代を生きた大儒である王陽明も、「人生の大病は只だ是れ一の傲の字なり。」と述べ、傲慢はあらゆる悪行の始めとして、自己を尊大にし、過信し、傲慢になることを厳しく戒めておられます。
仕事や日常生活の中で自己を肥大化させてしまっていないか、偏見の目でもって物事を眺めていないか冷静に自分の思考を俯瞰して見ていきたいと感じております。


日曜担当…八木正典



3月6日(日)
「潜学講座」   日曜担当…八木正典

3月の潜学講座に参加してきました。
第9期の最終回である今回、くしくも本心塾の2大テーマである儒学と天風哲学での講義となりました。

第一講が冨樫先生の「温故知新の孔子像」とのテーマで、論語についての話でした。
孔子の生きていた時代には心という漢字がなかったそうです。心という漢字がない前提で論語を読むとどうなるのかという新解釈を教えていただき刺激を受けました。
また、仁という言葉は本心とつながる人、天とつながる人を表すのではないかという視点は斬新でありながら、さもありなんと感じられます。改めて論語を読んでみようとの気持ちが湧き上がってくる知的好奇心が非常に高まる講義でした。

第二講では、「中村天風とヨーガ哲学」をテーマに講義をさせていただきました。疫病や戦争等でマイナス思考が溢れる中で積極的な気持ちを取り戻させてくれるのが天風哲学ではないかと思ったのです。
ヨーガ哲学をその源流にもつ天風哲学。その天風哲学をおさらいしながら、ヨーガ哲学との共通点や違いを語れればと思っていたのですが、どこまで説明できたものか。
本心塾で池田名誉塾長を始めとしてこれまで多くの方が天風哲学について講義をいただいておりましたので、その学びを今回の講義の中で少しでもお返しできていれば有難く思います。

次回からはいよいよ第10期となります。
学びつづけることができることの喜びを感じながら、塾生の方はもちろん多くの方々と更に交流を深めていきたいと感じております。

日曜担当…八木正典



2月20日(日)
「生命のはたらき」   日曜担当…八木正典

家の近所の梅林で、ちらほらと花が咲き始めました。
まだまだ厳しい寒さが続いていますが、ようやく春の訪れかと楽しみに感じられます。
単に冬場の環境に耐えているだけかと思われていた木々の中には、新たな成長の要素が息づいていたのです。
生命の伸長を見るのは嬉しいことです。早く満開の花をみたいものです。

中村天風先生は、生命の本質的なはたらきとは、「生きて、生きて、ひたむきに生きて、生きて、生きぬくものである。」と言います。
また、「人の生命の内奥深くに、潜勢力という微妙にして優秀な特殊な力が何人にも実在しているという、尊厳な大事実を信念し、現実発現を期成すべし。」と強く積極的に生きぬくための実践躬行の手法を説かれております。

コロナの長期化とそれに伴う経済環境の悪化、AI化の進展等外部環境は大きく変化しており、自身の在り方や思考の転換が必要とされております。そのような状況下で、更なる進化、向上を図っていくために外部要因に惑わされないよう自分に内在する力に光を当て続ける努力を続けていきたいと感じております。

日曜担当…八木正典



1月31日(月)
「近況報告」   日曜担当…池田光


みなさま、お元気のことと思います。

久しぶりにブログをアップします。



この7か月間……、ずっと執筆していました。

年末年始も事務所にこもって執筆しました。

これまで、中村天風の本を何冊か出版しましたが、

「このあたりで、集大成としてまとめておきたい」

と考えるようになりました。

そして、そんな一冊をようやく書き上げたところです。

原稿は、すでに出版社さんにお送りしています。

今春、おそらく4月頃には発売されると思います。



今回の本は、コロナ前に湧くわく本心塾で何度か語った「中村天風」のことがベースになっています。

塾生のみなさまがいなかったら、書き上げることができませんでした。

心から感謝しており、書き上げた時点でみなさまにご報告をと思った次第です。





さて、早いもので、コロナのために事務所におこもりして、2年になろうとしています。

「パンデミックになるぞ」と危機感を持ち始めたのが、2020年1月下旬です。

このあたりから、事務所で生活できるよう準備を始め、

2020年2月21日から自宅を離れて、事務所でこもり始めました。



そのうちに、コロナの性質や、感染の波といったものがなんとなく読めるようになりました。

今年の年末年始を境に大きな波がやってくると確信したので、

昨年11月に「今のうちだ」と時期を読んで、奈良県の美術館に行きました。

特に行きたかったのは松柏美術館で、ここを含めて3つの施設を回りました。

松柏美術館では、上村松篁の絵画を前にして圧倒されました。

吸い込まれそうでした。

こういう「美」を摂取しないと、ぼくは枯れてしまいます。

これがコロナ以降の初めての遠出となりました。



さて、集大成の原稿も書けたことだし、これからは溜まっている本を読み、録画した映画などを鑑賞することにします。

いま、読んでいるのは、伊与原新『八月の銀の雪』です。

昨年のはじめに読んだ『月まで三キロ』に感動したので、続編ぽいこの本を読んでいます。



昨年の大きな変化は二つ。

一つは、お酒をやめたこと。

やめた理由は免疫が落ちていると思ったからで、生活を変えるために具体的な行動をとりました。

50年近く呑み続けていたので大きな転換ですが、やめるのはそんなに苦ではありません。

ただ残念なのは、これまで集めた、気に入った酒器を使わなくなることです。



もう一つは、全集類を処分したこと。

『漢文大系』22巻、『全釈漢文大系』33巻、『和刻漢詩集成』10巻、『西田幾多郎全集』19巻、『西谷啓治著作集』27巻など、1500冊余を処分し、少し軽くなりました。



……まあ、こんなふうに、ぼくは元気にしています。

コロナについては、次第に出口が見えてくるだろうと思います。

では、みなさま、お元気で。


日曜担当…池田光



1月23日(日)
「呼吸」   日曜担当…八木正典

中村天風先生の天風哲学に関して、安定打坐はここ5年以上毎日継続して行っているのですが、呼吸法や体操はしばらくさぼっておりました。先日師匠から呼吸法や体操も極力毎日行った方がいいとのアドバイスをいただき、それ以降意識して続けております。

中村元さんの書籍の中で、「われわれが呼吸する空気は、われわれを生かしめている生命そのものでなければならぬということは、古代諸民族を通じて当時の一般的な観念であった。」と述べ、古人の「いき」、「呼吸」を生命とみるという見解を説明されております。
サンスクリット語では「プラーナ」は息を意味するとともに生命を示す言葉となっている。
ギリシア語では「プシュケー」が元々の息から派生して後に霊魂を意味するものとなり、ラテン語でも、もともと、動く空気、そよ風、呼吸を意味したanimaという言葉が精神、生命を意味することになっています。

最近は日々マスク着用での制限された生活が続く中で、呼吸の大事さに目を向けることがなくなっていました。それが自分の生命力や活力を弱らせる原因の一つになっていたのは間違いなさそうです。
「プラナヤマ法」や「クンバハカ」を続けるうちに徐々に体の中に活力がよみがえってくるのを感じております。呼吸をするということは宇宙にあまねく存在しているエネルギーをしっかりと吸収することだとの意識し、心身統一を徹底しながら、進化向上への道をたどっていきたいと感じております。

日曜担当…八木正典



1月16日(日)
「学ぶ」   日曜担当…八木正典


誰もが速く学ばなければいけないわけではないということ。自分のペースで学べばいいのです。学ぶことは山登りと同じで大切なのは登る過程を楽しむことです。(オードリー・タン)

継続は力なりと言いますが、何かを継続することは難しいことです。
これまで思い立っては今度こそこれを続けるぞと宣言しながら三日坊主で終わることもしばしば。
ある本で読んだのですが、「したい人10000人、始める人100人、続ける人1人」だとか。続けることが出来ればそれだけで1/10000の確率なのです。
そう考えると続けることは難しくて当たり前。そんな割り切りが必要なのかも。

そういいながら真理の探究という目標を持ち、時間はかかりながらも継続して少しずつ学びを深めていけていると感じておりますし、本心塾の先達に多くの導きや刺激をいただきながら、一歩一歩進んでいけていることを考えるとありがたい限りです。
前述の山登りの話を読みながらも、池田名誉塾長に以前教えていただいた理入と行入の絵が頭に浮かび、その時の学びを再度振り返ってみたりして。
学びが定着せず後戻りばかりでなかなか前に進んでいかないですが、そうした振り返りも一つの楽しみとして受け止められればいいかと思います。

コロナ環境下も長期化しなかなか落ち着かない状況ではありますが、今年も本心塾で学びを続けられるのを喜びとし、過程を楽しみながら自分のペースで学んでいきたいと考えております。

日曜担当…八木正典



12月26日(日)
「人たり」   日曜担当…八木正典


我より前なる者は、千古万古にして、我より後なる者は、千世万世なり。仮令(たとい)我れ寿を保つこと百年なりとも、亦一呼吸の間のみ。今幸(さいわい)に生れて人たり。庶幾(こいねがわ)くは人たるを成して終らん。斯(こ)れのみ。本願此(ここ)に在り。(言志晩録)


年の瀬です。今年も残すところ数日となりました。
年内最後のブログになります。

今年は、昨年に引き続きコロナで思ったように行動できず、活動が制限される日々でした。
ただそうした状況にも徐々になれ、仕事ではリモートワークやWEB会議等も活用しつつ業務改善、効率化が進みましたし、私生活では読書に時間を注いで新たな書に出会うことが出来ました。外に行きがちな意識を内に向けることが出来たのは大きな収穫なのではないかと思います。

今年のテーマは「自我を放つ」でした。
我(自分)という思いをいかにしたら減らしていくことができるのかと、身勝手な考え方が多い自分を日々反省して改善していければと思ったのです。王陽明が語る「天地万物一体の仁」なんて理想に少しでも近づけたらなどという大それたことを考えていたわけです。

一年間で自分が変わったのか変わらないのかよく分かりません。
ただ少しだけ自分の事を後回しにする意識は出てきたように思いますし、真善美、人として生まれてきた以上は死ぬまで善く生きるのだと考えるようになってきたのではないかと。
とはいえ恥ずかしながら精神性の高みを目指すためにはまだまだ全然足りないんですけどね。
引き続き先人や先達、仲間から多くの事を学ばせていただきたいですし、倦まず弛まず着実に学びを深めていきたいと考えております。

今年一年、多くの方々のおかげで何とか無事に過ごすことが出来て有難いです。
皆さま、大変お世話になりました。ありがとうございました。
来年も皆さまにとって輝かしい良い年になりますようお祈りいたします。


日曜担当…八木正典



12月5日(日)
「12月潜学講座」   日曜担当…八木正典


早いもので今年も1か月を切ってきました。
今年もコロナ環境下での生活に慣れてはきたものの、行動がかなり制限された一年でした。
そんな中、大好きな読書にかなりの時間をさけたと思っています。過去の先人の思考スタイルを自分の思考と重ね合わせる贅沢な時間が過ごせたのは嬉しいことだと考えております。

昨日は12月の潜学講座でした。
これまでの講座とは趣向を変えて、参加メンバー間で今年一年に読んだお薦めの本を紹介し合うという新たな試みでした。
冨樫さんからは「易学」、「生きものの死にざま」を、小林さんからは「ミチクサ先生」を、佐々木さんからは「本居宣長」に関する多数の本を、千秋さんからは「DIE WITH ZERO」をご紹介いただきました。私からは池田晶子さんの著書から「14歳からの哲学」、「人生のほんとう」を紹介させていただきました。

紹介者の感銘を受けた内容から参加者の質問や共鳴、多くの話題が引き出され、またそこから新たな話に発展するという非常に会話が尽きない講座でした。参加メンバーから多様性のある本を案内いただき、自分がこれまで知らなかった分野を知ることが出来て好奇心がゆさぶられました。
また自身の一年間読んできた本の変遷を振り返ることのできるいい機会を与えていただき有難いかぎりです。
引き続き学びを共有できることの喜びを感じつつ、新たな考えを積極的に取り入れて、「善く生きる」ことにつなげていきたいと考えております。

日曜担当…八木正典



11月28日(日)
「五十にして」   日曜担当…八木正典


今年で五十歳になりました。
半世紀生きてきたことに驚きを感じているとともに、いつまでたっても人生真理に行きつかないどころか、学んでも全く見えてこない状況に自分でもあきれている次第です。
よくもまあ、こんな状態なのに、これまで多くの方に支えていただき、何とか生きてこれたものだと。
縁のある方々に本当に感謝です。

論語では孔子が「五十にして天命を知る」と述べておりますし、淮南子では、「蘧洦玉は年五十にして四十九の非を知る」と書かれております。
日々の生活に追われている身からすれば、過去の偉人の道のりははるか遠くにあり偉大なものです。
天命が分かるレベルには全くないし、日々反省で四十九年間の非を知るほどの境地には全くないのですが、先人の道を少しでもたどりたい、自分のものにしたいともがきながら、歩を止めることだけはしたくないと思うのです。
日々勇気を振り絞って、倦まず弛まず自己改革に取り組んでいきたいと考えております。


日曜担当…八木正典



10月24日(日)
「真善美」   日曜担当…八木正典


「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」


真善美という言葉を目にします。
人が生きる上での理想の状況を表したもので、「認識上の真」、「倫理上の善」、「審美上の美」という普遍の価値を示しております。
子供の頃、学校でよく教わったなと思いながら、恥ずかしながらしばらく自分の生活の中では出てくることが無くなっていた言葉です。

中村天風先生は、神人冥合の中で、人間に生まれて人間らしく生きていない人に関する真理の説明で「青色の眼鏡をかけて見ていりゃ、ひとはみんな青く見えるもんな。」と語っています。

言葉を認識するかどうかの選択も、その人ごとの自由であり、その言葉になじみがなくなっているとかしばらく出会えていないということは自分が求めていなかったということではないかと。
言葉に出会わないということは、その世界には自分がいないのだと思うのです。
そう気づくと、自分がいかに「善く生きる」ことに意識が向いていなかったのか、自分の生き方に恥ずかしさを覚えますし、反省しきりです。

自分の認識している世界の変化は、自分でしか起こせない。自分の五感で感じるものを「善く生きる」に変えていく、つなげていく意識にしていきたいと思っております。


日曜担当…八木正典



10月17日(日)
「唯心論」   日曜担当…八木正典


最近、唯心論について考えております。
心がすべて。心のみがそこにある。そんなことが本当なのでしょうか。
自分が存在している世界は自分が知覚する世界、自分が意識する世界である。自分の意識が存在しないのであればこの世界は存在しない。

陽明学を唱えた王陽明は、その真髄を致良知においております。
伝習録の中で、「良知は是れ造化の精霊なり。この些(いささか)の精霊は、天を生じ地を生じ、鬼を成し帝を成す、皆此より出づ。真に是れ物と対する無し」と述べております。
この説明を見る限りでは唯心論に近い考えと思われます。もう一段研究をしてみたい思想だと感じます。

存在論と認識論の考えの中で自分の考えがまとまっておりませんし、消化しきれておりませんが、粘り強く深く探っていきたい、考えていきたいと思います。

日曜担当…八木正典



10月10日(日)
「原典にあたる」   日曜担当…八木正典


8月の半ばから西洋哲学を学ぼうとしていくつかの本を読んでおります。
夏の休みに池田晶子さんの本を読んだところから始まり、その余波がまだ続いているというか、自分の中で新たなうねりが生じているというか。
これまで東洋思想には興味があり学びをすすめてきましたが、西洋思想にはこれまでとんと縁がなく、かつ弁証術等の理屈っぽいマイナスのイメージをもって自分でも食わず嫌いをしてきたわけです。
そして自分には関係のないものという捉え方をしていたのです。

それがデカルトの方法序説を読んだ瞬間、考えが変わりました。
皆さんご存知の「われ思う、ゆえにわれあり」(コギト・エルゴ・スム)という有名な命題を成り立たせている思考に恥ずかしながら今回初めて触れたわけです。その衝撃たるや。

真理の探究を行う中で、ほんの少しでも疑いをかけうるものは全て破棄、それまで自分の精神の中に入っていた全てを偽として考えたとしても、そう考えている私は必然的に何ものかでなければならない。そう、私は存在する。
これはインド哲学のジュニャーナヨガ(知識のヨガ)ではないか。ネーティ、ネーティではないか。
世界の思想は根底でつながっているのか。

わかっている方には当たり前の話なのかもしれませんが、そのつながりや関係性が見えていない私にとっては非常な驚きであり、自分の無知と未熟さが恥ずかしさとなって表面化してきたのです。知識量も思考の幅も全然足りないと。

以前から本心塾では、池田名誉塾長が「原典にあたること」の重要性を説かれております。
自分の勝手な先入観や誰かの意見を介した思想で学ぶのでは駄目だ。じかに原典に触れることで筆者の思想を直接読み解くことにまさるものはない、そんな学びを目指すように。
その言葉がよみがえってきました。

西洋哲学の中で読みたい本が既に私の手元にいくつか積まれておりますが、秋の夜長にじっくりと原典に取り組んで、その思想の深みの一端を感じることをできればと考えております。



日曜担当…八木正典



10月3日(日)
「潜学講座」   日曜担当…八木正典

それ善く天下の事を制する者は、事の外に立ちて事の内に屈せず。(山田方谷)

10月の潜学講座に参加してきました。
コロナの影響で7月以来となりましたが、大阪倶楽部の歴史と趣のある雰囲気の中で行われる潜学講座は本当にいいものです。全員で「大学」を素読するとそれだけで学びの雰囲気が高まります。

今回は、第一講が佐藤講師の「上杉鷹山から断行力を学ぶ」をテーマに、第二講が川島講師の「論語味読」をテーマにお話いただきました。

第一講では、佐藤講師に上杉鷹山の家系や生涯、財政改革について教えていただきました。
恥ずかしながら上杉鷹山は名前を知っているものの、あまり深い知識を持ち合わせていなかったのですが、佐藤さんに丁寧に解説をいただき理解が進みました。
疲弊して破綻寸前だった藩政を、①財政の公開、②大倹約、③改革提言を求める上書箱の設置、④新産業(養蚕事業)育成を行うことにより立て直したことは評判となり、米沢藩は幕府から模範として称揚されていたそうです。
後の備中松山藩の藩政改革を成し遂げた山田方谷の改革案にも共通点が多く鷹山の手法を十分に生かしたのだと思います。
また、養子として入ってきて、藩内の基盤もまだ固まっていないときに、改革反対勢力から出た「七家騒動」では、慎重に根気強く衆知を確認した上で果断な処分を行っており、リーダーとして難事に直面した際の心構えを学ぶことが出来ました。

第二講は、川島講師に論語を味わう上での基本の考え方を教えていただいたうえで、その魅力を語っていただきました。
本学と末学の違い、古教照心と心照古教の違いから自分で考え、主体的に学んでいくことの重要性を知ることが出来ました。その上で論語の中で「学び」について書かれている言葉を読み方の違いや考え方の違いを踏まえて分かりやすく説明いただきました。論語の根底に流れる中庸の精神、誠の精神を感じられる講義でした。
論語はこれまでに何度か読んでいるのですが、川島さんが「論語は自分の置かれている立場や状況で感じ方や気になる言葉は全く違ってくる。」との話を聞いて、改めて儒学の基本として論語を読み直してみたいと感じております。

コロナの状況はまだまだ予断を許しませんが、緊急事態宣言も解除となりましたので、出来るだけ多くの方とコミュニケーションの機会を増やして主体的な学びを深めていくべく取り組んでいきたいと考えております。



日曜担当…八木正典



8月15日(日)
「事の外に立つ」   日曜担当…八木正典

それ善く天下の事を制する者は、事の外に立ちて事の内に屈せず。(山田方谷)


山田方谷の本を読んでおります。
方谷の有名な文章である理財論、これは方谷が佐藤一斎塾に学んでいた三十二歳ごろに書かれたものです。
その当時、日本で最高レベルの塾で塾頭になっていた方谷の思想の粋を集めたものとして、今でも通用する考え方がちりばめられております。
今の自分の環境を考えると目先の対応のみ、我が事のみに振り回され過ぎている状況であると感じ反省することが多い中、方谷の思想が非常に役に立つように思われます。
「事の外に立ちて事の内に屈せず」とは、大局的な立場に立って、物事を俯瞰して方針を立て実行していくことの重要性を述べたもので、方谷の歴史に残る藩政改革の基礎となる思想です。
その思想を自身の思考や行動の中に少しでも取り入れることができるように、意識して行動したいと考えております。

日曜担当…八木正典



8月7日(土)
「協力」   土曜担当…佐々木秀彦

令和3年夏期特別講座『リュウ博士が語る最強の神様100in関西』が無事終了いたしました。冨樫さん主宰の『オンラインサロン・エンジョブ』との共同開催でしたが、本当にあたたかみのある、それでいて躍動的な素晴らしいイベントとなりました。今回のイベントをあえて一言で表現するなら『空間の創造』だったように思います。



リュウ博士(八木龍平氏)は8月25日発売予定の新刊『最強の神様100』の内容に合わせての講演でした。神様のお話なので、当然『神社』が出てくるのですが、良い神社というのは、空間がガチャガチャしていないと仰っていらっしゃいました。恋愛や金運をガチャガチャと前面に押し出して、人気のパワースポットのようになっている神社も散見されますが、そういうのは如何なモノだろうというお話もありました。



日本の神様は古事記、日本書紀、つまり日本の正史に登場することで、その役割が示唆されていらっしゃいます。天皇はもちろん、日本人も、日本の国土も、山地水明すべてみな神様の子というのが日本の原点でもあります。



そういう部分から勘案するなら、神社というのは人の心をニュートラルに落ち着かせる場所という意味合いも納得できるような気がします。そして神社に集まって、お祭りが開催されます。お祭りはみんなで力を合わせて開催するものです。それぞれが、それぞれの役割を全うすることで、素敵なお祭りができあがります。



今回、夏期特別講座というお祭りも、オンラインサロン・エンジョブの皆様が協力されて、1つの大きなお祭りが大成功したと感じます、参加者皆様の心に残る素敵なお祭りになったと、僕も参加したメンバーの1人として、心地よい余韻に浸っております。



諸行無常、歴史は常に動いております。神様にも実力はあっても、現代はあまり人気のない神様もたくさんいらっしゃるそうです。この現代はたまたま人気のない神様に寄り添うことでたくさんのパワーがいただけると、リュウ博士はお話されていらっしゃいました。



現代のデータ活用は、視聴率や消費者アンケートがわかりやすいですが、そのデータは集計された時点ですでに過去のモノです。今人気のスポットを追いかけるのは、厳密に言えば、過去を追いかけていることになります。現在はたまたま人気ない実力者を探す、そして協力する。そして一緒に成長していく、そういう創造は、情報化社会に生きる現代だからこそ、すごく大切なことだと感じました。


土曜担当…佐々木秀彦



8月1日(日)
「方谷を訪ねる」   日曜担当…八木正典

わが州の風土はもとより雄豪なり
鉄気 山にこもって山勢高し
さらに人心の剛なることは徹に似たり
練磨 一たびなれば刀よりするどし   (山田方谷)


先日、山田方谷の足跡を訪ねて岡山県に行ってまいりました。
どこかのタイミングで行きたいと思っていながら、なかなか足が踏み出せずにいたのですが、先月の潜学講座の懇親会で佐藤さんからお薦めいただいて、これも一つの機会だと思いきって行くことを決めた次第です。
日本で唯一人名が付いていると言われる方谷駅や山田家歴代の墓がある方谷園を訪ね、また高梁市にある山田方谷記念館や郷土資料館、備中松山城により山田方谷の生きた時代を感じることが出来ました。信頼回復のために発行した藩札や品質の高い鋤や鍬などは破綻寸前の松山藩の財政健全化を実現するために活用したものとして目の当たりに出来、感動でした。
これまでの自身の陽明学の学びの中での山田方谷像がより近いものとして感じとれるようになり有難い時間を過ごさせていただきました。
至誠惻怛を唱え、陽明学の考えの中でも実践的な努力を必要とする誠意を重視した山田方谷の魅力に触れ、改めて学びを深めてみたいと感じております。


日曜担当…八木正典



7月11日(日)
「速やかならんと欲する毋かれ」   日曜担当…八木正典

子夏莒父の宰となりて政を問う。子曰わく、速やかならんと欲すること毋かれ。小利を見ること毋かれ。速やかならんと欲すれば則ち達せず。小利を見れば則ち大事ならず。
(論語、子路第十三)


コロナ環境下で、家で読書する機会が増えました。
これまで自分の興味ある分野や仕事上で必要とされていた分野と違ったジャンルの書物を読み進めております。歴史や哲学、古典の本が多くなっております。
自分が知らない分野ではそもそもの知識がなく背景が分かっていないため、理解するのに何度も何度も読み返して、出来る限り調べながら取り組んでおりますが、それでも分かったようで分からないようなことも多くて困りものです。
ただ徐々に自分の視野が広がっているのが感じられることも増えてきており嬉しいものです。
これからも自分自身の成長に少しでもつながり、自分に関係する人の役に立つことにつながればと、慌てず焦らず長期的、大局的な見方で読み進めていきたいと思っております。


日曜担当…八木正典



7月10日(土)
「八月」   土曜担当…佐々木秀彦

8月の特別講座は『リュウ博士が語る 最強の神様 ㏌関西』という演題でスピリチュアルの業界の第一人者であり、27万部超のベストセラー『成功している人はなぜ神社へ行くのか?』の著者でいらっしゃる八木龍平先生の講演会を、冨樫さん主宰の『オンラインサロン・エンジョブ』と共同での開催となりました。

僕自身はリュウ博士僕個人的には講演を2度ほど聴講させていただいただけの関係ですが、『オンラインサロン・エンジョブ』のメンバーという意味では『仲間』と呼ばせていただいても怒られないかと思ったりしています(笑)さらにリュウ博士は『京都』のご出身なので、まさに『同郷』の仲間でもあります(笑)

先ほども書きましたが『成功している人は、なぜ神社に行くのか?』は27万部以上も売れているわけですが、この数字は、日本の総理大臣義偉首相の直近の衆議院議員選挙での得票数が12万3218票です。菅総理の得票数の倍以上の本の売り上げなのですからこれは総理大臣を突き放したと言って良いと思います(笑)

リュウ博士の文章はめっちゃリズムがいいので凄く読みやすいです♪端から端まで一気に淀みなく流れる文章が心地よく…流れの神様の龍神様という意味でも『リュウ博士』という
お名前そのまんまだなとそういうところでもおススメの一冊です♪

あえて具体的な内容を引っ張り出すと…
『ここまで読み進めてきて、ひとつ足りないものがあると感じた人もいるかもしれません。
人間を語るうえで欠かせないのが「性」です。』神社、神様、ご利益、、、そういうことが詳細に書かれていますのでついつい神様のお話のような気分になって読み進めてしまいますが…リュウ博士はやっぱり人間を語っていらっしゃることがこの引用文からよくわかりますよね♪『成功している人は、なぜ神社へいくのか?』…この題名の本を手に取って読む場合『性』の部分には特に触れなくても良いのではないかと…僕は読みながら心でツッコミを入れていました(笑)この引用文の後には『女性』『男性』の『性』の違いについてスパッと痛快にお話が展開されるわけですが…ホント流れの作り方が…凄いです♪

それにしても、2016年7月に初版発売なので、執筆されたのはその少し前だと推測しますが5年前の本の中でリュウ博士ご自身は水垢離どころか水浴びすらイヤだと主張しながら水垢離のスペシャリストとして冨樫功さんをわざわざ本文で紹介されていらっしゃいます。その冨樫さんと一緒に5年後に、これまた新しい本の発売のタイミングで今回の講演会を開催されるという流れ♪…何か凄いなぁーと感じます…

新しい本は『最強の神様』だそうですが、京都人のリュウ博士があえてこのタイミングで『最強』と『キョウ』の音を遣うのですから…これはやっぱり楽しみです♪

疫病騒動の影響で、入場人数を制限させていただいての開催となりますのでお早目のお申し込みを
おススメいたします♪


土曜担当…佐々木秀彦



7月4日(日)
「潜学講座」   日曜担当…八木正典


7月の潜学講座で大橋講師とともに講師として参加いたしました。

第一講では大橋講師の「近江商人の理念を家訓から学ぶ」がテーマでした。
近江商人の発祥の歴史的背景からスタートし、発祥地(高島商人、八幡商人、日野商人、湖東商人)ごとの違い、「売り手よし、買い手よし、世間よし、三方よし」の思想を多くの家訓や遺訓を通じて詳しく丁寧に説明いだきました。
商人の社会的責任を重視し、正直な商売を一生懸命励むことにより短期的な利益よりも長期的な関係の中で利益を得ていくという考えに真の商売道としてのあり方を教わった気がします。
特に、「陰徳善事」、自分が今日あるのは社会や世間のおかげであって、その恩返しとして社会に戻すという考え方は、自分の日々の活動の中で意識していきたいと感じております。

第二講では、「王陽明 抜本塞源論に学ぶ」をテーマに話をさせていただきました。
陽明学の講義は4回目となりましたが、「教うるは学ぶの半ば」との言葉通り、講師をすることで、自分の好きな王陽明の抜本塞源論にこの1カ月間どっぷりとつからせていただき有難いことでした。
功利主義に打ち克つために良知を信じ、良知に生きた王陽明の思想やその魅力の一端を少しでも伝えることが出来ていればうれしいことだと思っております。

久々のリアルでの開催でしたが、講座や温習会、懇親会を通じて、多くの方から自分が普段気づかない視点を与えていただきました。学びをしっかりと実践し、主体性の発揮に結びつけていきたいと考えております。





日曜担当…八木正典



6月12日(土)
「神道」   土曜担当…佐々木秀彦

『――いったい、この道はどのような道であるかとたずねてみると、天地のおのづからなる道にもあらず、人の作れる道にもあらず、此道はしも、可畏きや高御産巣日神の御霊力によって、神祖伊邪那岐、伊邪那美の二神が創始されて、天照大御神が継承され、維持され、伝えられた道である。それゆえ神の道と申すのである。』(直毘霊・本居宣長)




古事記伝は日本の神の道をあきらかにする書物…というようなことを本居宣長は総論としての著書『直毘霊』で言っています。



道…茶道、武道、柔道、剣道、、、世の中には多くの道があると現代でも『道』という言葉は遣われますが、古代日本では『道』という言葉は無かった。『道』という概念は間違いなくあったが、道という言葉がなかったと、宣長は言います。言葉が無かったのに、概念はあったということを証明するのは至難の業ですが、これを宣長は上記引用文のように説明しているわけです。



これは、老荘思想の「天地おのづからなる道」、儒教が信奉する「聖人の道」等々を完全に否定して、日本に伝わる道は「神ながらの道」だと称しています。これに関しては、下記のように説明しています。



『――ところで、その道の精神は、古事記をはじめ、さまざまな古典籍をよく味わってみると、今でもよくわかるものなのに、世の識者たちの心も、禍津日神に魅入られて、ただ漢籍ばかりに迷って、思うこと言うことはみな、仏書と漢籍の精神であって、皇国の道の精神を理解できないでいる』



道という概念は「神ながらの道」として認識があった。ただそれは漢国の儒教のように、「聖人それぞれの道」や、仏教の宗派のようにいちいち違う道があるような認識ではなかった。だから「道」という言葉はなかったという感じです。



あえて現代で小さな小さな事例で考察すると、東海道という道には、国道、高速道路、鉄道、自然歩道というように、いくつもの括りを言うこともできますが、空路、海路も含めて東海道と考えるのが、日本古来の考え方で、空路、鉄道、車道、歩道を分けてイチイチ自らの道というのが仏書や漢籍の精神みたいな感じでしょうか…もっと上手な表現はたくさんあると思います。



世界で一番歴史が続いている国の意識の根幹を、今こそ日本人みんなでさいかくにんしなければいけない時代だと強く感じます。



土曜担当…佐々木秀彦



6月6日(日)
「無縄自縛」   日曜担当…八木正典


もし初知を守って、解をなさば、・・・これ一切の塵労の根本なり。自ら知見を生じて、無縄自縛す。

[訳]もし、今もっている知識にとどまって、そこから理解しようとしているならば、それがすべての葛藤や思い煩いの根本である。自分の知見で「無縄自縛」してしまっている。(縄で外から縛られているわけでないのに、自分で自分を縛っている)  (百丈禅師、禅の言葉)



6月の潜学講座は佐々木奘堂先生の座禅会でした。
コロナでの緊急事態宣言延長を受け、ZOOMで参加させていただきました。
奘堂先生の坐禅を行うにあたっての考えの解説と実際の坐禅体験で充実した時間を過ごすことが出来ました。

前半では、縛りの元凶は知見だとの説明をいただきました。
自分のやり方や考え方が正しいと思うことによって他人が間違っているように感じてしまいます。思考や言葉という道具も道具を使っている間はいいが、道具が自分よりも上になれば縛りになるのだそうです。
話をききながら、なぜか天風先生の「二の念を継がない」という教えが思い浮かびました。
自分の思考パターンや使用している言葉を改めて意識し見直してみたいと感じております。

後半では、大英博物館のフィディアスの彫刻の画像も参考にしながら、せっかくの生命を使い切るための体の姿勢や主体性を持った姿勢を教えていただきました。
寝た体勢から起き上がり、そのままの自然な姿で座禅を組むというのは新鮮でした。

坐禅の在り方を心身両両面から丁寧に教えていただき有難い講義でした。
起き上がる心、立ち上がる心を意識した座禅を今後も継続してやってみることにより、自分を自分で縛らない主体性を維持する工夫を続けたいと思います。



日曜担当…八木正典



5月30日(日)
「インプット」   日曜担当…八木正典


コロナ緊急事態宣言が延長され、まだしばらくは制限のかかった生活を余儀なくされそうです。
一方で、ワクチン接種が本格化し、対策が一定の効果を示しており、長かったトンネルを抜け出し出口が少しずつ見えつつあるのではないかと感じております。

なかなか自由に活動することはできないものの、こんな時こそ先人の残した膨大な書物から自身の指針となる思想をインプットしていくことは可能だと考え読書に充てる時間を増やしております。
読みたい本がどんどん積まれており、時間がいくらあっても足りません。
既知のものとしてあった思想のつながりが伸びていき、自分の中であらたな形に変化しているのを感じられ楽しく思っております。

直に要す、人の惑わしを受けざらんことを。随所に主と作れば、立処皆真なり。
(今ここで、人の惑わしを受けてばかりいるのを脱することが肝要だ。どの場所にあっても、「主」であれば、すべてが真実となるのだ。)  〈禅の言葉〉


これまで自分になかった知識や思考を踏まえて、一方向からの視点や世の中の動きに揺さぶられないように新たに自分の定点を確立していきたいと考えております。

日曜担当…八木正典



5月22日(土)
「星座」   土曜担当…佐々木秀彦



『盗みをしてはいけません。嘘をついてはいけません。弱いものに対しても強いものに対しても(あらゆり生き物に対して)、慈しみをもって接するようにしなさい。心が濁っていることに気づいた時には、「それは悪魔の仲間だ」と思って、それを除き去るようにしなさい』(ブッダの言葉・佐々木奘堂)



座禅の座…座ると言う意味です。それでは『座る』とはいったい???



これは夜空に輝く星のように存在するという意味ではないかと気がつきました!



そうなんです、星の並びを星座と呼びます。ここに気がつきました。ここで大切なのは、星が単体ではないことです。さそり座、射手座、オリオン座、北斗七星、、、星の並びを含めて星座と呼びます。



星がただそこで光っているだけなら、やはりただの星でしかありません。しかし、並んで座っていれば、星座としての意味を持つ。この並んで座っているということを人間に置き換えると、バランスよく座っているということではないでしょうか…



人間の感情は身体の中に籠っているものではありません。池田名誉塾長も心の大きさは無限大だと、いつも仰っていらっしゃいました。最近の流行語のオーラという言葉にもあるように、人間の感情は身体の外に出ているのが普通だという風に認識すべきことだと思います。



つまり、感情をバランスよく並べて座る…これが『座』という言葉を遣う場合の『座る』ではないでしょうか…



各個人の落ち着いた感情の並びが、しし座なのか、やぎ座なのか、てんびん座なのかが、個人の個性だと思ったりしましたが…これが正しいのかそうでないのか???そんなことを感じてみながら、6月5日の特別講座・天正寺座禅会に臨んでみたいと考えています。



お寺で座禅をじっくり味わうこの機会、とても楽しみにしています。



土曜担当…佐々木秀彦



5月16日(日)
「武士道」   日曜担当…八木正典

だからこそ、改めて、日本の方々にも言いたいのです。
「もっと自信を持って、自らの意思で、決然と立っていてもよいのではないですか?なぜなら、あなたがたこそ、『日本の魂』の真の継承者なのだから。」 (李登輝)



ここ数カ月、いくつか武士道に関する書物を読んでおります。
日本人の根底に流れる文化や共通意識を、武士道を通じて感じてみたいと考えているのです。
これまで食わず嫌いで知識が不十分でよく分かっていなかったためか、いろいろと読み進めるとこれまで気づかなかった新たな世界が広がっております。
山本常朝の葉隠や新渡戸稲造の武士道の中には、自分の持ち場持ち場で役割を最大限に果たしつつ、少しでも前に進もう、更なる高みを目指そうという先人の思想がちりばめられています。
封建主義の時代の感覚がそのまま現代に通じることは無いのでしょうが、先人の苦悩や苦難の歴史や思想を知ることによって、日本に生を受けた自分自身の立ち位置を確認できるのではないかと思っております。
自らの意思で決然と立てる、そんな軸を大事にしていきたいと考えております。

日曜担当…八木正典



5月2日(日)
「潜学講座」   日曜担当…八木正典

第9期の潜学講座がスタートし、第一回目の講座に参加しました。
今回もコロナでの緊急事態宣言下での開催でZOOM開催でした。

第一講は佐々木講師による「大和心を探求した本居宣長①」、第二講は冨樫講師による「修証義から学ぶ仏教」という二本立ての内容です。

第一講の本居宣長は恥ずかしながら昔の歴史の授業で古事記伝と結びつけて覚えた程度の知識しかなかったのですが、その人物について丁寧に教えていただきました。
佐々木講師らしいセンスあふれる古事記和歌の解説からスタート。本居宣長が伊勢出身で水分神社の申し子であるとの話から始まって、その幼少期から青年期までの経歴を学ぶことが出来ました。
幼少期から中国の歴代皇帝の相関図を作成したり、日本六十余州の詳細な地図を作ったり、千二百年分の家系図を遡ってみたり、こだわり出したらとことんまでこだわる人物像が眼に浮かび理解が進みました。次回に続く本居宣長の活躍ぶりを学ぶのが楽しみです。

第二講は曹洞宗の開祖道元の思想をまとめた「修証義」に関して教えていただきました。
その思想の根底に流れる因果応報、原因と結果の法則から始まり、懺悔、菩提心、行持報恩等の考えを易しく解説いただきました。
特に、「悪いことをするな、善いことをせよ、人の役に立つことをせよ」という三聚浄戒や「自分の楽しみや喜びよりも人の楽しみや喜びを優先せよ」という自未得度先他(じみとくどせんた)という考え方を、当たり前に感じること自体、日本人のベースとして幼少からの教えに組み込まれていることに驚き、もう少し学びを深めたいという気持ちでいっぱいです。

どちらの講義も日本の歴史上に足跡を残した偉大な人物の経歴や思想を学ぶことが出来ました。
これまで自分自身、東洋哲学は積極的に学んできましたが、日本の歴史から学ぶという発想が乏しく食わず嫌いでした。
今年に入り、従来からの陽明学の学びと共に武士道や葉隠、太平記などを読み進め、今後や日本の歴史や過去の人物を具体的に学ぶことにより日本人のアイデンティティを探求したいと考えていたところでしたので、非常に興味深い内容でした。
今回の学びを活用しながら更に新たな知識を加えることで、自身の幹をより厚みのあるものにしていきたいと感じております。

日曜担当…八木正典



5月1日(土)
「俯瞰」   土曜担当…佐々木秀彦


本居宣長は全ての物事を俯瞰してみていたような気がします。これは僕ら現代人にとって実は一番必要なモノの見方なのかもしれません。



第9期第1回の潜学講座が無事開催できました。これも皆様のご協力のおかげと深く感謝いたします。今回は4月に大阪の疫病の新規感染者数が1000人を超えたのを見て、大阪倶楽部開催は断念して、オンライン開催に切り替えました。この段階で参加希望申し込みは1名、それも塾生でない一般の方でした。開催を中止にする選択肢も当然にありました。しかし、冨樫さんを始め、皆様のご協力のお陰で、オンラインでも開催できるようになっている状況にもかかわらず、ここで中止にすることは逃げるような気もして、参加希望者1名の中でオンライン開催を決断しました。結果的には講師含めて8名の参加者は少ないと言えば少ないですが、逆にアットホームな潜学講座になったかと思います。



前回のオンライン講座の経験で、リアルで開催する講座と、オンライン講座は、告知の流れ等々何もかもが違うと学びましたが、今回はその教訓を活かせず、募集に関しては反省しか残らない状態でしたが、それでもやって良かったと感じました。オンライン講座でも、参加するからこそ感じることはやっぱりあります。引き続きよろしくお願いいたします。


土曜担当…佐々木秀彦



4月25日(日)
「空っぽ」   日曜担当…八木正典

真の人間になろうとするためには、
着ることより  脱ぐことの方が大事だ
知ることより  忘れることの方が大事だ
取得することより  捨離することの方が大事だ (大事なこと、坂村真民)


最近、自分の思考を空っぽにすることを意識しています。
しかしながら思考というものは恐ろしいもので、意識しても多くの情報が入り乱れ感情や欲望、さまざまな思いがとめどなく流れてきます。
そんな中でも、少しでも静謐な時間と空間が作りたいと考えているのです。

無印良品デザインで有名なデザイナーの原研哉が、「エンプティネス」をコンセプトとして掲げられています。空白や余地があることによって人々の想像力が呼び起こされるというもののようです。
日本の神社の構造は中心が空っぽだからこそ神様が入ってきてくれると考えており、空っぽの器を通すことによって神様とコミュニケーションをとることが出来ると考えられているのだそうです。
「空」、空っぽなものが過去からの日本の美意識につながると言われております。

また、佐藤一斎も「面は冷ならんことを欲し、背は煖ならんことを欲し、胸は虚ならんことを欲し、腹は実ならんことを欲す。」と言志四録で述べております。
あくまで胸は虚なるものとして、すっきりさせておくことを勧めております。

放っておくと直ぐに多くの情報で埋まってしまう情報過多の時代に、いかに自分の中に空間をあけておくのか、新たなものが入ってくるような余地を確保していくのかを自覚するように努めていきたいと考えております。

日曜担当…八木正典



4月10日(土)
「推量」   土曜担当…佐々木秀彦

『古事の記をらよめばいにしへのてぶりことゝひきゝ見るごとし』(本居宣長)


古事記伝を完成させた頃、宣長が詠んだ歌です。『古事記を紐解いて読むと、いにしえの風俗を尋ねて、見たり、聞いたりするように、よくわかる』みたいな歌意だと思います。古事記伝は構想から35年かけての集大成です。宣長の感慨深さは相当なものだったと推測できます。実際すべてが刊行されるのは宣長の没20年後になるわけですから、これは年月だけ見てもモノ凄い大事業だと思います。



本居宣長を追いかけるようになって、僕の中で一番大きく変わったのは、和歌に対する認識だと感じます。正直、今まで和歌の良さを考えたこともないぐらい興味の無いモノでした。古事記を読んでも、和歌の部分は飛ばし読みみたいな雰囲気で、完全に無視しているような感じでした。しかし、これは大きな間違いだったのだと今は思います。2月の潜学講座で池田先生の十牛図の講義をしましたが、僕は宣長から学んだ『和歌』に対しての印象の確認の意味も込めて講座に乗せてみました。これが間違いではなかった大きな手応えがありました。



本居宣長を学ぶことは、日本人の伝統の『和歌』を学ぶとこに繋がると強く思います。文字数という枠があるからこそ、その枠の外側を拡く想像させるという手法。これは凄いことだと感じます。日本文化は『和歌』文化です。大和心は見えている枠の外側まで推し量る、思いやりの心だと思います。昨今、言葉尻をつかまえて、首長や首相を批判する光景が目につきますが、使う言葉ももちろん大切ではありますが、その言葉の背景を推し量る能力を、僕ら日本人はもう一度思い出さなくてはいけない時期にきているような気がします。5月の潜学講座はそういう思いをのせて講義したいと思います。


土曜担当…佐々木秀彦



4月4日(日)
「桜」   日曜担当…八木正典

春雉鳴 高円辺丹 桜花 散流歴 見人毛我母
(きじしなく たかまとのへに さくらばな ちりてながらふ みむひともがも)


4月の潜学講座は湧くわく本心塾・桜花舞の宴で花見の予定でした。
今年も去年に続きコロナの影響で残念ながら中止となり寂しい限りです。

毎年一度、互師互弟で学びを深めているメンバーと一緒に桜の花を愛でる。一緒にそれぞれが準備してきたおいしい料理とお酒を酌み交わして同じ時を過ごす。
先日の佐々木代表幹事のブログにもありましたが、回数を重ねるたびに思い出も積み重なってきます。
春の楽しいひと時を過ごせると思っていただけに残念で仕方ありません。

あまりにも残念だったため昨日は密を避けながら独りで家の近くの桜を眺めておりました。
それぞれの場で命一杯咲いている桜を見ておりました。

また来年、日々一燈照隅を積み重ねた皆様と万全な体制で桜花舞の宴でお会いして親交を深めたいとの思いを新たにしております。

日曜担当…八木正典



 3月28日(日)
「意見」   日曜担当…八木正典

そもそも意見と云ふは、先ずその人の請け容れるるか、請け容れぬかの気をよく見分け、入魂になり、此方の言葉を平素信用せらるる様に仕なし候てより、さて次第に好きの道などより引き入れ、云ひ様
種々に工夫し、時節を考へ、或は文通、或は雑談の末などの折に、我が身の上の悪事を申出し、云はずして思い当る様にか、又は、先ずよき処を褒め立て、気を引き立つ工夫を砕き、渇く時水を飲む様に請合せて、疵を直すが意見なり。(葉隠)


「葉隠」は1716年頃に佐賀鍋島藩士である山本常朝が武士としての心得を口述したものです。
葉隠というと、「武士道というは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬほうに片付くばかりなり。別に子細なし。胸すわって進むなり。」という名言で有名な武士道の神髄を説いた書物と言われており、個人的には少し偏狭の考えが含まれる書物かと思っておりました。
そのためこれまで積極的に読んでみようと思ったことはなかったのですが、縁があってある方に紹介いただき触れることになりました。
いざ読んでみるととても面白いですし、過去の経験知として今の自分の行動に結び付けられるものがちりばめられています。

例えばここ最近、こちらとしては相手のためを思いよかれと思って行ったことや話したことが、相手に真意が伝わらず、かえって反発を受けたり、溝が深まったりすることが起こっておりました。
前述の文章などを読むと、もっときめ細やかに相手の気持ちと置かれている状況を確認し、相手に対する思いを持って丁寧に慎重に意見すべきことを噛んで含めるように説明しております。
その意識で振り返ってみると相手に対する配慮が行き届いていなかったかもしれないと反省することしきりです。

その他にも、酒の飲み方や上司や部下の接し方など今のビジネスでも十分に通用するような考えが多く含まれており、読む前の先入観が完全に打ち砕かれております。

自分が知っている文章だけで書物を判断して、これまで避けてきたことが非常に恥ずかしく思います。
書物とのいい出会いを与えたいただいたことに感謝するとともに、これからも自分の先入観や食わず嫌いで避けてきたものにもしなやかさを持って取り組んでみたいと感じております。




日曜担当…八木正典



 3月27日(土)
「照隅」   土曜担当…佐々木秀彦

『世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし』(在原業平)


この世の中から桜がなくなったら、春はおだやかでのんびりしたものになるだろう…逆に桜があるから、春はワクワクし、トキメキ、元気に満ち溢れるという感じの歌だと思います。



お花見は日本から世界へ伝わった伝統文化の1つです。ワシントンの桜まつりが有名ですが、世界中の人々は、日本でのお花見を体験したいと桜の季節に多くの外国人が日本を訪れます。昨年の緊急事態宣言で日本中が自粛していた中、大阪城には外国人だけがゴザを敷いてお花見をする光景を僕は目撃していました。



僕にとって…いえ日本人はみんなお花見には並々ならぬ思い入れがあります。卒業、入学、新入社…人生の節目には必ず桜が舞っていた人生なのですから、桜が咲けば、多くの思い出が甦ることになります、これは当然と言えば当然です。



『湧くわく本心塾・桜花舞の宴』これは僕の企画で始まりました。何度か回数を重ねると、湧くわく本心塾桜花舞の宴の思い出も積み重なってくるということになります。いつも一緒に学ぶ仲間が、桜の花が舞い散る中だと、またいつもと違う語り合いになったりするのが、人の心の侘び寂びだったりします。1年に1回、数日間だけの特別な時間に、桜が舞うのです。ここは大切に愛でたいのが人情というものです。



今年もこの『湧くわく本心塾・桜花舞の宴』を中止しました。コロナの感染者が増えてきたので自粛を余儀なくされたので、仕方なく中止にしたのは昨年です。しかし今回は『一灯照隅、萬燈照國』と考えて積極的に中止にしました。再びコロナの感染拡大の気配がする現状、政府や自治体が自粛をお願いしても、昨年のように皆の意識は1つにはなりにくい状況です。お花見は屋外で密にならない状況で楽しめることはもうすでにみんなが認識しています。だからと言って皆がお花見を自由に開催すれば、やはり感染源になる可能性は誰も否定はできません。『自粛』は自ら慎んでこそ『自粛』です。僕らがお花見を自粛することが、今の社会情勢の中では『一灯照隅』に値すると感じたので、中止にしました。



湧くわく本心塾は『互師互弟』で学びを深めていこうという仲間です。お花見を開催してこそ得る学びも当然にあると思います。しかし、今、日本がこういう状況だからこそ、お花見を積極的に中止することで学びが深まることもあると信じます。お花見を中止にした『一灯照隅』の意味を皆さんで共有することで、今年の『湧くわく本心塾・桜花舞の宴』が活きてきて、やがて『萬燈照國』に繋がるように願います。


土曜担当…佐々木秀彦



 3月20日(土)
「知識」   土曜担当…佐々木秀彦

『家を売るなら、奥さんを口説け』



『業界のセオリー』という本が図書館に並んでいたので軽い気持ちで読んでみました。

2010年に発行された本だからか…書いてある内容は7割以上が知っている内容でした。不動産業界のセオリーとして取り上げていたのが上記引用文です。



確かに…僕にとってはセオリーです。ここで気がつきます、セオリーは基本。どんな業界の基本でも、50年以上僕も現代を生きているわけですから、一度や二度聞いたことあるのも当然です。どんな業界の方も同じだと思いますが、お客様はあらゆる業界の方がいらっしゃるので、お客様からいろいろな話を聞いてそういう知識は積み重ねているのだろうと思います。



ただ…知識はたしかに56才なりにあるとは思いますが、知識は知識です、実践に活きていなければ意味はありません。はたして僕はその知識を活かせているのか…自問自答しますが、ここはあまり自信が持てていないようです。



もう一つ…世の中には本はたくさん出版されています。いろいろな種類の本が出版されていますが、比較的その内容には高い専門性が要求されるようなイメージでした。しかしこの本は、どちらかというと雑学レベル。それぞれのセオリーも言葉の紹介程度で、深い内容には一切触れていません。ここが一番の気づきだったかもしれません。セオリーはセオリー、実際この作者はセオリーを超えたからこそ、この本を出版したということだと思います。何も専門性がなくて、居酒屋で話す程度の内容でも、しっかり文章に書けば出版できるし、図書館にも並ぶ。セオリーという知識は、超えるべき知識である。20代30代の社会人ならセオリーを学ぶ時期でもあるでしょうが、50代の僕は、セオリーを打ち破って、次のセオリーを創り出すべき年齢なのだろうなと感じました。知識をしっかり活かせるように頑張りたいと思います。


土曜担当…佐々木秀彦


 3月15日(月)
「近況報告」   月曜担当…池田光

みなさま、お元気のことと思います。
はや、3月の半ばになりました。
今年は、桜の開花が早いようで楽しみですね。

さて、ぼくも元気にしているのですが、
1月下旬にちょっとした病に罹りました。
町医者に診てもらったところ、その口ぶりから、
「どうも入院になるような気配だな」と予感していました。

が、紹介された大きな病院に行くと、「一週間、毎日通うことができますか?」と尋ねられ、通院ですむことになりました。

点滴しているあいだは、本を読んでいました。
頭のMRI検査は異常なしでした。別に、MRIで知能や考え方の偏向を診るわけではありませんから、異常がなかったのですね。

主治医の見立てでは、現在80%ほど回復したようで、まだしばらくのあいだは投薬治療を続けることになりそうです。

そんなこともあり、このところ、ずっと小説を読んでいます。

点滴していると、片手で持てる文庫版で、ライトな読み物がぴったりでした。いくつも面白い小説をみつけましたが、なかでも感動した一冊を紹介します。

◎藤岡陽子『手のひらの音符』(新潮文庫)

この小説のことを語り始めると、あれこれと語りたくなります。

実際、この小説を読んでからの数日は、ほかの本を読めませんでした。というのは、ほかの本を読むと、余韻が断ち切れてしまいそうに思えたからです。
それに、ぼくはこの小説のいろんなエピソードを思い出しては意味を考えていたので、ほかの本を読む余裕がなかったから。

涙なくしては読めない一冊でした。

ほかにやっていたのは、整理です。
何年もずっと整理をやり続けていますが、ほぼエンドレスという状態です。
進展しているのですが、整理しても、整理しても、し尽くせないのです。
本を処分すると、奥からすっかり忘れていた本が掘り出されたりします。
「こんな本を持っていたのか」
と、読み物リストに入れることもあります。
数日前には、押し入れに棚を取り付けたり、数か所の照明を付け替えました。新しく購入したものはありません。
写真のキッチンは、年に数回しか使っていない書斎のキッチンですが、ここに吊り下げ照明を付け、壁にガラス扉の棚を設置しました。
吊り下げた照明は、倉庫に投げ入れていた傘のない不用品です。
ガラス扉の棚は、かつてコレクションボックスとして使っていたのですが、使い勝手が悪いので倉庫に放置したままでした。ふと、小皿を入れてみようと壁に取り付けてみました。不格好かもしれませんが、誰も使わないキッチンなので、いいかと……。
小皿は、祖母からもらったものですが、まったく使っていません。
こんなふうに、新しいものを購入せず、不用品を生かすなどして、整理を進めています。



それではみなさま、楽しい日々を満喫してください。
ことを積極的に取り入れていきたいと考えております。


月曜担当…池田光





 3月14日(日)
「習慣」   日曜担当…八木正典

これまで湧くわく本心塾で話に出たことや学んだことはなるべく自分の生活の中に取り入れて試そうとしています。
何でもまずやってみて、しばらくは続けてみて、自分に合わなければその時にやめればいいという緩い気持ちでスタートしています。
聞いただけでそのまま自分の行動に結び付けないという食わず嫌いが一番よくないと思っています。
これまで水垢離や瞑想、毎朝の祓詞・誦句などいろいろな人に教わり、それを日々の習慣として実行し、今では自分の習慣として欠かせなくなっています。

先日の潜学講座で、16時間断食の話を教えていただきました。
恥ずかしながら全くその内容を知らなかったのですが、食事と食事の時間を16時間空けると胃腸が休められ細胞が生まれ変わるオートファジーが活性化するとのことです。
「空腹こそ最強のクスリ」という本がベストセラーになり、多くの方々が実践されているのだそうです。
16時間空ければいいのであれば、12:00~20:00以外は何も食べなければいいので、朝食を抜けば実践できそうだと先週から取り組み続けております。
1週間では少し体が軽くなった気がする程度で体調面での変化はそれほど感じられませんが、もう少し続けてみたいと思っております。

潜学講座を通じて多くの方々から新たな情報を頂けることは有難いことです。これからも教えていただいたことを積極的に取り入れていきたいと考えております。


日曜担当…八木正典



 3月13日(土)
「心得」   土曜担当…佐々木秀彦

3月6日土曜日に第8期の潜学講座が終了しました。今期は疫病騒動で緊急事態宣言が2度発出される中、中止も4回ありましたが、合計8回開催することができました。これも塾生の皆様の向上心の表れだと深く敬意を表したいと思います。



この世の中、厳密に精査しますと、予定通りに進むことというのは、ほとんどないと言って良いと思います。仕事関係でも、日常生活でも、常に細かいハプニングの連続にそれ相応に対処して、結果的には目的を達成しているという感じではないでしょうか。お天気は毎日、いえ一日の中でも時間を追って変わったりします。雨、曇り、晴れ、暑い、寒い、、、そんなことは毎日違って当然です。地球上に生きる人間という動物として、疫病騒動もお天気程度に受け止めるのが正しい受け止め方なのだろうなと感じています。地震・台風もそうですが、快晴もあれば、嵐もあります。大自然の営みは人間の力ではどうすることもできません。ただ、そこに対してどう対処していくかが、萬物の霊長たる人間の価値だと考えます。



第8期最終を飾る潜学講座では川島健講師に『佐藤一斉・重職心得箇条』を解説していただきました。現代は『平等』ばかりが声高に叫ばれ、なんでもかんでも『平等』にするのが先進的な世の中のような解釈ではありますが、これは大きな間違いだと僕は思っています。『平等』を求めるのは『人権』だけの話であって、やはり役割に応じて心の度量は拡げていかなくてはいけないと思います。佐藤一斉の『重職心得』という着眼点が正しい基本だと感じます。現代的な発想では『職に重いも軽いもない、全ての職が必要な職で、全ての職は平等だ!』そんな感じの心得ですから、世の中が停滞するのだと思いました。心の度量はより大きく、さらに大きく拡げていきたいものだと感じました。



さらに小林清二講師には『黒住宗忠』を解説していただきました。『ひのみかげ』人間はそもそも天照大御神の御分霊、すべての人は神となることができる。これも『重職心得』的に紐解けば、他人様はすべて神様の御分霊として、敬うことを基本と考えて接するならば、相手を騙したり、抜け駆けしたり、陥れたりという気持ちが生じてこないと思います。他人に敬意を払う人間は、信頼される人間となります。佐藤一斉は『重職』と表現したところを、黒住宗忠は『神様の御分霊』と表現しました。これも両者の立場の違いで表現は変わりましたが、真意は同じなのかなとも感じます。第8期の卒業にふさわしい、とてもありがたい潜学講座でした。



第9期も社会情勢は日々一刻一刻変化すると予測します。どんな状況でも学ぶことを続けていくというのは、湧くわく本心塾で学んだ先哲達の共通するところです。第9期も皆様と一緒に多くを学んでまいりたいと考えます。どうぞよろしくお願いいたします。

土曜担当…佐々木秀彦




 3月7日(日)
「潜学講座」   日曜担当…八木正典

3月の潜学講座に参加してきました。
今回は、川島講師による「佐藤一斎『重職心得箇条』に学ぶ」と小林講師による「黒住宗忠に迫る」の講義で素晴らしいものでした。

川島講師の重職心得箇条については安岡先生の書籍でこれまで何度か読んだことはあったのですが、川島講師による原文と口語訳を聞いていて理解が深まるのを感じました。
特に、第六条の「凡そ物事の内に入りては、大体の中すみ見えず。姑く引除て活眼にて惣体の対面を視て中を取るべし。」という言葉は、私の好きな山田方谷の「事の外に立ちて、事の内に屈せず。」という言葉と結びついて、佐藤一斎と山田方谷の師弟関係に一人感動をしておりました。
日々の仕事の中で目先の問題にとらわれず大局的な見地を常に持つべく工夫をしていきたいと感じております。

小林講師の黒住宗忠は過去の講義でその人物としての魅力と教えていただいておりますが、その神髄が和歌の中にあるという小林講師の話を聞いて気づくところがありました。前回の講義以降、毎日「大祓詞」と「道の理」を朝の日課として唱えているのですが、それに和歌を付け加えていこうと思っております。

今回は講義の参加者全員で天風章句を読み、大祓の言葉を唱え、場がいい雰囲気に包まれるのを感じました。潜学講座が大阪倶楽部で開催できるのは素晴らしいことだと再認識しました。
コロナ環境下での一年となりましたが、何とか潜学講座を続けることが出来て有難く思います。
これからも互師互弟で多くの方と様々な学びを共有していきたいと考えております。

日曜担当…八木正典



 2月21日(日)
「是と非」   日曜担当…八木正典

十に曰く、忿を絶ちて瞋を棄て、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり、心おのおのの執れることあり。かれ是とすればわれ非とす。われ是とすればかれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。(聖徳太子)

最近、仕事で支障が起こった場合コロナによるコミュニケーション不足が原因としてあげられることが増えております。
確かにテレワークによる即時情報共有の減少やマスク越しで表情がよくわからず言葉の取り違えの発生による障害等はコミュニケーションの不足が一つの要因かもしれません。
しかしすべてをコミュニケーションが充実したら解消されるものなのかというと、そうとも言えない部分があると考えます。
コミュニケーションの量的不足のみが重視され、質的不足に目がいきづらくなっていると思うのです。
相手の知識レベルや歴史、文化の背景までよく知ろうという努力が無ければ、そもそものコミュニケーションがすれ違ってしまい、言葉の理解や浸透度に差が生じてしまいます。
言葉の定義の認識が違っていれば、どうしてもコミュニケーションギャップが発生してしまいます。一方で是のものが、他方では非になることは避けられません。

自分の言葉がどれだけ相手に通じているのか、言葉の定義や理解が相手ときちんと共有できているのかということを注意しながら多面的な判断とコミュニケーションの質量ともの改善を図っていきたいと思っております。


日曜担当…八木正典



 2月13日(土)
「版本」   土曜担当…佐々木秀彦

『皇国の人もみなそのような漢籍に惑溺して、漢籍をひたすらにすばらしいものと思って、かの妙なる理を考えず、万事につけてただ自分のこざかしだけを先立てて、古伝説を信じず、神代の奇異な事柄もすべて道理に合うように曲解して、高天原は帝のいる都のことだとか、天照大御神はこの国にお出でになった神聖だというように、自分の嗜好に合わせて主張したものであるが、古典籍にはそのような説は書かれていないことである』(天祖都城弁弁・本居宣長)



天祖都城弁弁が書かれたのは寛政九年(1797年)10代将軍家治の時期、明治維新の70年ほど前のことです。どうやらこの頃は記紀に関して、書いてある内容を、当時の中国の話に置き換えて解釈することが主流であったようで、そこに対して宣長の痛烈な批判の文面であります。



現代でも全く同じですが、古典に書いてある文言を、現代の状況に都合よく置き換えて、解釈する専門家はとても多いです。上記引用文では『漢籍に惑溺』と表現しておりますが、現代なら『欧米籍に惑溺』という感じだと思います。



本居宣長は『出版』に関して、相当の努力をしました。原稿から、2稿、3稿、校正、版板の確認まで、全部自分で行っていたようです。現代における出版社の役割を本居宣長は自身でやっていたことになります。



日本の木版印刷は764年に現存する世界最古の印刷物が日本に残るくらい早くから伝わっていました。しかし、どうやら江戸時まで、版を作るのは商人の指示で職人が作ったので、商人の都合で、割愛したり、修正したり、別々のものを合わせたり、作家からするとありえない内容の本ばかりが版本として世に出るのが普通だったようです。江戸時代のことなので著作権の意識も無いので、有名作家の版本を好き勝手に商人が制作するのは想像に難くないです。そんな現状を憂いながら、それでも版本の良さを最大限に使おうと、本居宣長は取り組みました。60代になってからの出版物がとても多いのが、宣長が版本を自己の管理の中で刊行できる力がついたからだと推測できます。



現実、古事記伝が現代まで評価されているのは、宣長の管理の下で版本が流通したからこそ、信頼できる内容の版本だったことも大きな要因になっているかと思います。



当時、信頼できるのは写本であるが、写本はなかなか手に入らない。また写本であっても、上記引用文にありますように、漢籍に惑溺された人が写した本は、原典と違う表記になっていたりすることも多々あったようです。そんな時代の状況を鑑みると、本居宣長は、執筆した本の内容とともに、日本の本の在り方そのものに革命を起こした人物とも評価できるように感じます。

土曜担当…佐々木秀彦



 2月7日(日)
「潜学講座」   日曜担当…八木正典

今年最初の潜学講座に参加しました。
今回はZOOMのみでの開催という潜学講座初の試みでしたが、多くの方にご参加をいただき活況な会となりました。

第一講は、佐々木講師の「『中村天風の十牛図』を読む」をテーマに講義をいただきました。
佐々木講師の渋い声で和歌を詠みあげていただき、禅の段階を示したと言われる十牛図の絵とそれに付けられた和歌の音と、目と耳で楽しめるものでした。
特に第七図の亡牛存人で自己完成の後、世のため、人のためという利他の精神で元の世界に戻ってくるということを非常に興味深く聞かせていただきました。
今の自分がどの段階にいるのかを意識して活動していきたいと感じさせられました。

第二講は、冨樫講師の「陽明学入門」でした。
陽明学の真髄を丁寧でわかりやすく解説いただき、改めて陽明学の魅力を感じることが出来ました。
量子力学での、人間が観察している時は物質が現れるが、見ていない時には波動であるという話を、伝習録の「岩中の花」に当てはめての解説は、冨樫さんならではの気づきで素晴らしいものだと思います。

いずれの講義も、自身の修養をいかに社会の役に立つように結び付けるかが重要で、それが求められているとの話であり深く考えさせられました。
今回の講座をいかに実践に結び付けられるか日々工夫していきたいと感じております。

日曜担当…八木正典



 2月6日(土)
「改過」   土曜担当…佐々木秀彦

完全なリモートでの潜学講座を開催しました。「『中村天風の十牛図』を読む」という題で、僕自身も初めてのリモートでの講師を体験しました。今回、リモートだということを有利に考えて、十牛図の和歌をすべて僕が吟じるという講義にしました。



もし大阪倶楽部が会場なら、全員で声をそろえてか、参加者が順番にということになるとは思います。しかしそれでは、肝心の『十牛図』に集中できない可能性が出てきます。和歌は『十牛図』に響かせたい…和歌だけが先走っても本末転倒です。そこで、リモートの画面を『十牛図』にして、音声で和歌を送るという展開を実行しました。



十の図、20の和歌、11の中村天風の言葉、この中で1つでも、2つでも、参加者の心に残っていただければ頑張った甲斐があると僕は思っています。



もう1つの講座は冨樫師長の『陽明学入門』でした。今回初参加の女性が14名いらっしゃいました。そこに配慮して『入門』という題にされた冨樫さんはさすが気配りの方だなと感じました。実際、女性は陽明学には興味が無いイメージだったのですが、そんなことは全くなく、『事情磨鍊』『致良知』『心即理』『知行合一』こういう言葉一つ一つに大きく頷いて、どんどん話へ入っていく様子に、女性が儒学に興味がないのではなく、女性が学ぶ場所が無いだけなのだろうなと感じました。



リモートでの講義に関して、様々なご意見を耳にしたことがありますが、結局リアルで講座を開催するのも、リモートで開催するのも、道具が違うだけで、話すのも聞くのも人間であることは変わらないので、道具の使い方だけマスターすれば、同じ効果が得られるように感じました。世界中どこにいても参加できることと、移動の時間を節約できるメリットはかなり凄いことだと思います。リモートが日常になれば、リアルでの講座の価値も必然的に上がるので、この時代の変化はメリットしかない印象です。



『事情磨鍊』…日々の生活の中で、心を磨いていく。どんどん磨き込んでいくようにします。

土曜担当…佐々木秀彦



 1月31日(日)
「学ぶ」   日曜担当…八木正典

心底生きていると感じ、心の声がこれこそ本当の自分だと告げるような精神的特性を探し出しなさい。そして見つけたなら、それを追いかけなさい。(ウィリアム・ジェイムズ)


「学ぶ」の語源は、「真似る」ことだと言われております。
上手くできる人や先を歩む人の真似をして、真似ることを続けて突き詰めていくうちに、基本の型が出来上がり、そこからの応用で新たなオリジナリティが生まれてくること、それが学びだというのです。

来週2月6日の潜学講座は、佐々木講師の「池田光著「中村天風の十牛図」を読む」と冨樫講師の「陽明学入門」です。
両講義ともこれまで興味をもって接してきたテーマで講義をお聞きするのが非常に楽しみです。
特に「中村天風の十牛図」は、本心塾の池田名誉塾長が十牛図をこれまで多くの実践と研究を重ねてきた天風哲学で読み解いたもので、禅の思想と天風の思想を同時に味わえる贅沢なものとなっています。
今年第一回目の潜学講座で今年の干支にふさわしいテーマを、佐々木代表幹事がいかに読み解いてもらえるのかと考えると、学ぶことや真似たいと思うことが多くあるのだろうと非常にわくわくしております。

自身に取り入れたいと思えることを遠慮なく真似続ける中で、今年も多くのことを学び、身に付けていきたいと考えております。

日曜担当…八木正典



 1月30日(土)
「音韻」   土曜担当…佐々木秀彦

『突如、音が消えます。その瞬間、八面玲瓏の心境に置かれます。八面玲瓏とは、どの方向から見ても透き通っていることです。心に一点の曇りもなく、とらわれやこだわりがないという状態です。この状態が無我無念の境地です。そして天風はこの境地を『霊性境地』と呼んでいます』(池田光・中村天風心が強くなる坐禅法)



池田先生はブザーやお鈴を使った天風式の座禅法をわかり易く説いていらっしゃいます。この『音』に集中するという方法は凄いなと感じます。



僕は高校生の頃、剣道の時間に最初と最後に黙想がったのですが、ここで最初は聞こえなった鳥の声が、黙想をするうちにだんだん聞こえてくるということに気づいていました。役者をしていた頃、このブザーの音は舞台開演前の、1ベル、2ベルの音と同じなので、1ベルで客席の空気が変わり、2ベルでお芝居の舞台の空気に完全に変わることにも気づいていました。



禅僧が深山幽谷で座禅をする時、静寂に包まれるので、無我無念の境地に容易く入れるようになったにもかかわらず、下界へ降りてくれば、無我無念に入れなくなったというような話は、江戸時代の禅に関する本などにも、幾度も書かれている事象です。



『音』ここに注目した中村天風はやっぱり凄いと感じます。この天風式座禅法を知って、人間が癒されるのはもしかして『音』なのかもしれないと僕は思うようになりました。海の波音、滝の音、小川の流れ、等々。生まれる前の赤ん坊はお腹の中で、お母さんの心音を聴いているので、生まれたばかりの赤ちゃんはやっぱりお母さんの心音を聴くことで安心すると育児雑誌には頻繁に書いてあります。この赤ちゃんの話が本当だとすると、人間が『音』に集中する能力は生まれる前から活用していた能力だということになります。



『音』に対しての意識。あらためてそう考えてみますと、『十牛図』に和歌が添えられていることの凄さに繋がります。和歌は吟じるものです、黙って読むものではありません。この『音』と『心』の関係にも、次回の潜学講座ではしっかり迫ってみたいと考えています。

土曜担当…佐々木秀彦




 1月24日(日)
「道と事」   日曜担当…八木正典

道を言いて事を言わざれば、則ち以て世と与に浮沈すること無く、事を言いて道を言わざれば、則ち以て化と游息すること無し。(淮南子)

(道のことだけをいうのでは、世俗とともに生活できない。しかし、また現実のばかりをいうのでは自然の変化と合一して遊び息うことが出来ない。)


今年に入ってから淮南子を読んでおります。

淮南子は前漢の高祖劉邦が紀元前206年に天下統一後、7代皇帝の武帝の頃に淮南を治めていた淮南王の劉安によって編纂されたものです。紀元前132年頃の作と言われております。
董仲舒によって儒学が国教化される時期と重なる時代に集められた賓客による諸子百家の思想がちりばめられた書物になっており読み応えがあります。

今から2000年以上前の人々が考えた思想に触れられるのは非常に有難いことです。
これまで自身の学んできた中国古典の知識や理解を整理するとともに、形而上学的な「道」と形而下の「事」をバランスよく学び身に着けていきたいと感じております。

日曜担当…八木正典



 1月23日(土)
「感覚」   土曜担当…佐々木秀彦

『一体日本人は薬を飲むと云うより寧ろ薬を食べると云う程、多量に飲む悪い習慣がある。世界中で独逸人と日本人が最も多量に薬を服用して居るが、決して薬癖を付けてはならぬ。薬の中効果覿面なものは次の四種類丈である。一、梅毒薬サルバル。二、マラリヤ熱病薬、キンギネ。三、ヂフテリア熱病薬、ワクチン。四、天然痘、リギュートン』(中村天風)



2月の潜学講座で「『中村天風の十牛図』を読む」という題で講師をさせていただくことになりましたので、現在来期の講座で取り上げる『本居宣長』をお休みにして、中村天風のおさらいをしています。



上記引用文は『心身統一哲醫学』記載の文言です。現在、コロナワクチンについて、連日ニュースで騒ぎになっておりますが、今回のコロナワクチンは、あくまで予防接種で、上記『三』の治療薬的なワクチンではないと僕は認識しているのですが、如何なのでしょうか…



僕の世代以降は、学校で打つ、子供の予防接種を『ワクチン』接種と常日頃から遣い馴染んでいる言葉ですが、上記引用文の書かれた大東亜戦争以前はどうやら、治療薬のことを『ワクチン』と呼んでと思われます。



言葉というモノは時代の流れで意味がドンドン変わってくるのは、2020年の歴史を誇る日本人なら誰もが知るところです。日本語でも終戦の75年前から意味が変わってきた言葉は多くあります。ましてや外来語ですから、カタカナになった時の意味が大きく変わっても不思議ではありません。



『ワクチン』=特効治療薬、『ワクチン』=免疫を作る接種用感染予防薬



『ワクチン』にはこの2つの日本語が当てられるかと思いますが、報道ではどちらとも言いません。受け取り手の自由になっている感じです。日本の政治の中枢は高齢者が多いので、特効治療薬というご認識なのかと感じるのは、オリンピックは開催すると断言される政府首脳のお話の内容の雰囲気からです。特効治療薬なら感染しても注射1本で撃退できます、何も怖くありません。しかし予防薬なら、感染後の治療薬はまだ開発されていないようなので、感染を止める役にはたちますが、感染後の治療は現在と同じです。ワクチンがある分、普通のインフルエンザのような、一般的な治療になるから医療崩壊はしないという理屈も確かにあてはまるとは思いますが、それで良いのでしょうか…



それにしても『薬を食べる』という中村天風師の表現!…現代なら納得ですが、戦前からそうだったのかと、少し可笑しくなってきます。日本人の健康に対する意識の高さと、欧米列強先進国の先進科学に対する信頼感を強く感じます。



『十牛図』はおもしろいです。理屈ではなく、感覚に訴えてきます。文字だけで表現する『本』という媒体なのですが、映画のように『映像と音楽』を感じます。今回は室町初期に刊行された版画の十牛図を入手しましたので、それを見ながら、じっくり味わえる講座にしたいと思います、オンラインの潜学講座ですが、ご参加お待ちしております。





土曜担当…佐々木秀彦



 1月16日(土)
「水分」   土曜担当…佐々木秀彦

『みくまりの 神のさきはふ いのちあらば 又かへりみむ よし野の山』(本居宣長)



人間の自分の原点に対する意識は、実は究極なのかもしれません。家柄みたいなものに対する意識は封建時代の日本だけでなく、全世界そういうモノには強い意識が働いていたのは歴史が証明しています。



家柄や出自に対する意識は、身分制度が根底にあるのも要因の一つかもしれませんが、それ以上に『自分は何処からやってきて、何処へ行くのか』という自分の魂への純粋な疑問が一番大きいように僕は思います。



本居宣長は吉野山の『水分(みくまり)の大神様の申し子』と自身のことを認識していたようです。父母が子宝を懇願して、父親が吉野山の水分神社へ子宝祈願して授かった子だと、幼少の頃から聞かされて、自身も13歳の時に水分神社へお礼参りをし、その後も数度、水分神社を訪れています。



江戸時代の水分神社は「みくまり」という発音が「みごもり」と似ているということで「御子守の神様」として有名だったそうです。水分神社の本来のご由緒としては、吉野山の水の神様で、田畑に水を分ける神様だから「水分神社」で、子宝とは全く関係ないことは、古事記伝を著した本居宣長は当然に知っていたはずですが、生涯水分神社に対する思慕は変わらなかったということです。



ここで僕は思うのですが「御子守」ではなく「水分」だからこそ、本居宣長は思慕したのではないでしょうか…人々が生きるのに「水」は何よりも大切です。その「水」を司り、人々に分け与える神様のような意識と、本居宣長の生涯は何か重なるような気がします。



上記引用歌は、宣長69歳の作です。『自分が何処からやってきて、何処へいくのか』を時々は考えながら人生を送るのは、もしかすれば、充実した人生の第一歩くらい重要なことなのかもしれません。




土曜担当…佐々木秀彦



 1月10日(日)
「ANDの才能」   日曜担当…八木正典


本ブログを書かせていただくようになってから、毎年、その年のテーマを決めて自身の進化、向上を目指しております。
今年のテーマは、「ANDの才能の追求」といたします。

年末年始に久々にビジョナリーカンパニーという名著を読んでおりまして、そこには、「ORの抑圧」と「ANDの才能」という二通りの視点が示されております。
ORの抑圧というのは逆説的な考えを受け入れず、一見矛盾する力や考え方は同時に追求できないとする理性的な見方です。一方でANDの才能とはさまざまな側面の両極にあるものを同時に追求する能力であり、AかBのどちらかを選ぶのではなく、AとBの両方を手に入れる方法を見つけ出すことだと述べられております。

米中の対立による世界の二分や民主党と共和党の争いによる米国の分断をはじめとして、身近なところでも対立構造をあおる論調やどちらか一方しかないという論調が増えている気がします。
そんな中、相反する考えに対して安易な中立の立場をとるのではなく、謙虚に、慎重に情報を収集しつついずれのベストも追求する道筋を必死に模索し続けていきたいと思うのです。
多くの方々からアイデアや違った視点をいただきながら、それをしっかりと自分のものとし、その上でより高い視座を得るべく取り組んでいきたいと考えております。

日曜担当…八木正典



 1月9日(土)
「誘引」   土曜担当…佐々木秀彦

『周公旦はいとわろき人にて、おほかたのもろこしの国俗の、さくじりあしくして、うはべをかざり、偽りおほくて、したの心きたなきも、おほくは此の如来の、いざなひなして、いやまさりたる物にして、かの周の代の末のみだれ、秦のからき政なども、その本をよく尋ぬれば、かへりて皆周公旦がさかしき教へより引出つる物ぞかし』(本居宣長・周公旦孔丘孟軻)



世の中に悪口というのは多々ありますが、これほど見事な悪口もなかなか見ることができないくらい見事な悪口だと思います。周公旦は孔子が聖人と崇め敬慕した、儒教の祖とも目される政治家です。孔子が敬慕した聖人をつかまえて、この完膚なきまでの打ちのめし文、本居宣長の本気度が感じ取れます。



現代も中国人に対して、日本では種々様々なことが言われていますが、江戸時代中期の本居宣長がやはり現代とおなじような印象を抱いていたかと思うと、とても微妙な感覚になりますが、そこはさすがに本居宣長、その根源を紀元前1000年頃の周の時代まで遡っているところは凄いと感じます。現代語訳すると『漢国の習俗は、ずる賢くて、表面を取り繕い、虚偽が多くて、下心が汚れている…これは周公旦のこざかしい教えから誘引されてきている』250年ぐらい前の日本人がこの文言を書いているのです。



当時の日本は江戸幕府が『寛政異学の禁』を発して、儒学は『朱子学』だけを認めていました。これは長い歴史の間に儒学の解釈も多種多様になり過ぎて、収拾がつかないくらい解釈が拡がっていたことへの対策だったと思われます。



もう一つ別の話になりますが、宣長は『写本』と『版本』の違いにも言及しています。『写本』は写し間違いがあることが大前提なので、いくつかの『写本』を取り寄せ比較することで、真意が見えてくる。他方『版本』は刷られた文字の間違いを気づくのが難しい。もちろんどちらが良いとか悪いとかを言っている訳では無く、その違いをしっかり認識することが大切と言っています。これも現代で『ネット』か『書籍』とか、『メール』か『電話』とか、新しいツールに取り組んでいるからこその言及だと感じました。当時の『版本』は業者が利益追求のために大幅に落丁させるモノもたくさんあったようです。



現在目の前に現れていることの全ては、その根源に由来した事象が現れているだけのことです。その根源は何か?その根源がどう流れて今になるのか?さらにその流れの先は何処へ向かっているのか???根源をしっかり確認することが、未来を展望する最も大きなヒントになることだけは、間違いのないことのようです。



土曜担当…佐々木秀彦



 1月3日(日)
「震為雷」   日曜担当…八木正典

震は、亨る。震の来るとき虩虩(げきげき)たり。笑言(しょうげん)啞啞(あくあく)たり。
震は百里を驚かせども、匕鬯(ひちょう)を失わず。 (易経)


(震は亨る。雷鳴が鳴ると人々は驚愕してに恐れおののく。しかし雷鳴が止むと人々は楽しんで談笑するのである。震は百里四方を驚かすことがあっても祭主の天子は料理を神にささげるためのさじやお酒を決して落とさない。)


あけましておめでとうございます。
ご縁のある方々、本年も宜しくお願い申し上げます。

昨年は易経に取り組んでおりました。
これまで何度も易経を学ぼうとしてその度に挫折していたのですが、今回はありがたいことに学びが続いております。
その学びの流れで冬至に2021年の世界動向を占って、「震為雷」を得ました。

震は最も活動や変化の激しい時や驚きの時を表します。
それが重なっているわけですから、今年も世間をあっと驚かすような大事変が起こるかもしれません。昨年から引き続くコロナの対応だけでも大変なのに、それに加えて驚くようなことが起こるとなると冷静な気持ちでいられないかもしれません。
しかしながら、いかに大変なことが起ころうとも泰然として対応できるのかというのは、これまで学んできたことの内容や質が問われるタイミングなのだろうと思います。
いつかは世間を騒がせる雷鳴がやみ、多くの方々と談笑できることになる日を信じて、本年も自分を失うことなく慎重な歩を重ねながら進んでいきたいと考えております。

日曜担当…八木正典



 1月2日(土)
「創造」   土曜担当…佐々木秀彦

『そもそも此の大御神はすなはち今日まのあたり天にましまして、四海万国を照らし給ふ日の大御神にましまして、常しへにまします事、弁をまたず、古伝昭々たる物也。然るに近世なまさかしき学者、例のからぶみの小理になづみて、これを信ずることあたはず。』(本居宣長)




皆様あけましておめでとうございます。2021年もよろしくお願いいたします。

さて上記引用文は本居宣長が上田秋成の反論に対しての返答分の一部です。上田秋成はそもそも太陽は燃える炎で天照大御神ではないし、アメノウズメの巫女の舞いは辰韓の伝承からきているというような、日本の神話を科学的に否定する立場の学者です。ご存知のように江戸時代中期は幕府も儒学を奨励していたので、儒学者が現代の専門家会議のような立場で様々な漢意に即した論を展開していたため、日本の古代史を尊重する本居宣長に、反論を展開する学者は数多く存在しました。



これに対し、本居宣長はことごとく論破していくわけですが、そもそも古事記は日本国の正当な国史です。天照大御神もアメノウズメも正当な日本の国史に記載されている昭々たる物なのですが、反論する学者は、口伝や伝承等々、正当性のないただの戯言にすぎない程度の原典での説を振り回しているので、弁ずるまでもないというのが基本です。天照大御神は天にいらっしゃる、この事実に何の異論などありあえない。神様が炎でも、星でも、鏡でも、人でも、日本の場合は特に問題にはなりません。八百萬の神様ですから、全ての目に見えるモノの中に神様がいらっしゃると日本の国史からは読み取れます。



こういうのは現代も往々にしてあります。流行している疫病をアメリカ大統領が中国の発祥だと言えば、中国は国営ニュースで海外から輸入した冷凍食品が原因で中国は被害者だと言い出します。ここで大切なのは、誰が何を根拠に発信しているかということに尽きると思います。新聞もネットも発信の根源は、『専門家』『関係者』等々で誰かわからないうやむやな状態のニュースばかりが目立つのが現代日本です。



古事記では、兄の仁徳天皇と弟の莵道稚郎子がお互いに皇位を譲り合って天皇の空位が3年に及んで、これに弟の莵道稚郎子が自殺をすることで決着をつけるというお話が書いています。まだ日本に漢字は拡まっていない時代ですが、聡明な勉強家の莵道稚郎子は中国の学問にも明るく、年長者が家督を継ぐという中国的な常識でした。対して仁徳天皇は、父親の応神天皇の意思と、当時の日本では若い方に家督を継がせることで、より長く皇位を遂行できるというのが日本の常識でもありました。兄は補佐の役割が正しいと認識していたわけです。



今回の疫病の流行でまたまた常識が大きく変わる部分もあるように感じます。人類の歴史として、常識は所詮一時の流行で、時代とともに変化するモノということは誰もが知るところです。どうせなら、時代の変化に付いて行くのではなく、変化を創っていく気持ちで、未来に臨んでいきたいと考えます。



2021年、皆様の益々のご発展と、ご健康を祈念いたします。ありがとうございます。


土曜担当…佐々木秀彦



 12月27日(日)
「一燈」   日曜担当…八木正典

一燈を掲げて暗夜を行く。暗夜を憂うること勿れ。只一燈を頼め。(言志録)


今年も残り5日となりました。年内最後のブログになります。
今年は、コロナに始まりコロナに終わった一年でした。
本心塾のメンバーともコミュニケーションが難しく、なかなか交流ができない状況でしたが、その中でメンバーがそれぞれ工夫しながら本心塾を続けられたのも大きな収穫だったと感じております。

私の今年のテーマは「異質を選ぶ」でした。
自分が選択をしないといけない場面に立った時に、これまで選んでなかった、異質やリスクを感じる道への選択を増やしていこうというものです。これまでやったことないとか、選んだことないというものを前例踏襲とせず、意識して取り入れて新たな視座を手に入れたいと考えていたのです。
コロナで活動が制限される中で、これまで行ったことの無かったことにじっくりと取り組み、新たな可能性を模索することが出来ました。安岡先生のいう人間学では易経を、時務学ではプログラミングをそれぞれに追求していくこと事により、これまでの判断に新たな視点を取り入れられているような気がしております。
まだまだ大変な環境が続きますが、来年もご縁のある方々と共に自身のベースに少しでもプラスαをすることを意識した上で、一燈を信じ焦らず着実に暗夜を憂うることなく実践を行っていきたいと考えております。

今年一年、多くの方々に大変お世話になり、ありがとうございました。
来年も皆さまにとって素晴らしく輝かしい良い年になりますようお祈りいたします。

日曜担当…八木正典


 12月26日(土)
「歳末」   土曜担当…佐々木秀彦

『物の哀をしる人は世にありとある事を、見るにつけ聞につけふる﹅につけてその事のこ﹅ろを見しりて感ずるが故に、すべて心の内にむすぼる﹅事の多きわざなるを、人にもかたり、又物にもかき顕はせば、しかむすぼる﹅心のなぐさむもの也、かくてそを聞人、よむ人これに感ずればいよいよ心のはる﹅物也』(本居宣長・源氏物語玉の小櫛)



今年は人生初がたくさんあった一年でした。疫病の流行に関しましては、教科書を含めて何度も勉強してきたつもりでしたが、実際に体験するのと学習とは大違いでまだ何かしっくりいってない感じです。江戸期、明治期の疫病流行では多くの死者が街に溢れかえっていて、デマも流れて大騒動でと学びました。しかし、今回日本では死者が溢れかえる状況ではないにもかかわらず、違う意味で大騒動に発展しています。個人がインターネットで情報を取りにいける時代になったことの幸も不幸もあるのかなと感じます。



このような社会情勢の中で『湧くわく本心塾』の2020年は7回開催できまして、さらには新しい試みでZOOM併用にて開催をすることもできました、これもひとえに塾生の皆様のご支援ご協力の賜物と感謝いたしております。



この2020年を『代表幹事』という役で過ごすことができまして、あらためて『湧くわく本心塾』の皆様それぞれが強い意志をもって人生に取り組んでいらっしゃることを感じる機会が多々ありました。池田先生の先見の明と、さらにその判断に基づいた実行の凄さを筆頭に、その時々の流れでそれぞれの皆さんの立ち位置に応じた信念に基づいた行動を明確に示していただけたことが、『湧くわく本心塾』の2020年の大きな進化に繋がったように感じます。



僕個人の2020年といたしましては、せっかくのこういう機会だからこそと、興味はあったものの敷居を高く感じていた『二宮尊徳』と『本居宣長』を勉強する機会にして取り組みました。日本は世界の歴史上稀に見るほどの、素晴らしい偉人・哲人がホントにたくさんいらっしゃいますが、『日本語』と『大和心』に僕は強く興味がありますので、『二宮尊徳』も『本居宣長』はやはり深くておもしろいと感じております。これも『湧くわく本心塾』に入塾してたくさんの講座で、多くの刺激をいただけた積み重ねがあってこそのおもしろさだと感じます。今回『湧くわくブログ』というアイテムを利用して、発信しながら自習している感じですが、やはり読んでいただけているというモチベーションがあるから続けていけると思います。



2020年は間もなく暮れます、そして新しい2021年が始まります。皆様と一緒に新たな希望に向かっていけることの力強さを感じて、しっかり歩んで行こうと思います。末筆になりましたが、皆様のご健康とご多幸を祈念いたしまして、2020年を締めくくりたいかと思います。今年もありがとうございました。

土曜担当…佐々木秀彦



 12月19日(土)
「階梯」   土曜担当…佐々木秀彦

『すべて人は、雅の趣をしらでは有べからず、これをしらざるは、物のあはれをしらず、心なき人なり、かくてそのみやびの趣をしることは、歌をよみ、物語書などをよく見るにあり、然して古人のみやびたる情をしり、すべての古の雅たる世の有さまを、よくしるは、これ古の道をしるべき階梯也(本居宣長・宇比山踏)


『物のあはれ』を『雅の趣き』と明快に書いている一文です。『物のあはれ』を知ることは、『古の道をしるべき階梯』だと書いています。



本居宣長が『物のあはれ』について書いたのは『源氏物語玉の小櫛』『紫文要領』『石上私淑言』この3つで、他の書物には『物のあはれ』についての言及はほとんど無いということです。つまり『源氏物語』に関しての書物でのみ使った、年齢でいうと34才の時に書いた著書でのみの言及であるということです。例外的に上記『宇比山踏』にあるのが上記引用文です。



僕達が過去の偉人の語録を学ぶ場合、その偉人の人生をしばしば無視してしまう場合があります。西郷隆盛は『敬天愛人』を生涯大切にしていたようなイメージですが、これも生涯だったのか、人生のある年齢の時だけだったのかは僕にはわかっていません。



『物のあはれ』がはたして本居宣長の究極の一言だったのか、34歳の頃にはそう思っていただけなのかを知ることはかないませんが、少なくても本居宣長が生涯大切にした言葉でないことだけは事実だろうと感じます。



『古の道を知る階梯』という表現が全てを語っているような気がします。日本語で和歌を詠む時、日本の詞を唱える時、そして日本語を遣う時、『古人のみやびたる情をしり、すべての古の雅たる世の有りさま』を勉強することが『しかるべき階梯』ということです。



日本語は漢字を遣うことで、日本語に漢字そのもの意味(カラゴコロ)が入って乱れてきたと本居宣長は嘆きました。学者は儒学を勉強し、益々大和心とはかけ離れた解釈を平気で言うようになったままではいけないということで、『源氏物語』『古事記』の解釈と講義に精力的に挑みました。この講義で『物のあはれ』を熱く語ったことは『源氏物語』の解釈の究極の到達点ではなく、あくまで日本語を学ぶ上での『階梯』でしかなかったのだと理解しておくことが大切なような気がします。僕が20代で『排蘆小船』で『風雅』と表現していた気持ちの終着点が『物のあはれ』だと考えたのはどうやら早とちりだったように今は感じています。

土曜担当…佐々木秀彦



 12月13日(日)
「一次情報」   日曜担当…八木正典

松下政経塾に携わり、松下幸之助の謦咳を直接触れた上甲晃氏は「一次情報」の重要性を説かれています。
一次情報とは、自分で経験、体感してみることによる自分しか持っていない情報をいいます。
インターネットやSNSの膨大な中から探し出す情報も大事ではあるけれども、一次情報を得るために現場で現物に向かってみることが必要だというのです。

上甲氏はある松下政経塾の役員会の為にお弁当を準備しようとした時に、弁当屋からの情報のみで相談したところ松下幸之助からこういわれたそうです。
「何で大事なお客さまに弁当をだすのに自分で食べてへんのや。実際に自分で食べてみてこれだったら喜んでもらえると思って出す弁当は弁当とともに君の心が伝わるんや。君、それが魂の入った仕事やで。君の仕事には魂が入っていない。」

多くの情報が氾濫する状況に加え、コロナで行動制限が加わり一次情報の取得が難しくなっている環境が続いておりますが、いつでも現場の情報を収集し続けようという感覚を持ち続け、得た情報を周囲の人としっかりと共有していきたいと感じております。

日曜担当…八木正典



 12月6日(日)
「事実」   日曜担当…八木正典

コロナ第三波によって、GOTOの見直しや企業の対応策の強化が進んでおります。感染増の流れは勢いを増しており早期のワクチン開発が望まれるところです。

そんな中あるオンラインセミナーを拝聴していたところ、次のような話がありました。
日本のメディアは、コロナによる歴史の断絶を強調し、コロナ前とコロナ後というコロナでいかに世間が変わったかを訴え続ける。そして疫病が世界を変えてきた的な論調が多く報じられている。
一方で、西洋のメディアは、コロナの克服に力点を置き、しばらくはコロナ環境下で、コロナと並走することになるが、いずれは無視できる存在になるという論調が中心となっている。
比較してみると日本のメディアは、コロナを過大視して極端にコロナを恐れ過ぎているのではないかとの話でした。

ワクチンが完成していない以上、細心の注意を払い、行動制限をしつつ感染リスクを減らしていく努力は必要ですが、感染者数のみの拡大で怖れるのではなく、しっかりとしたデータに基づき、楽観視も悲観視もしすぎないよう最善と思われる判断を下していきたいと考えております。

日曜担当…八木正典



 12月5日(土)
「和歌」   土曜担当…佐々木秀彦

『猶かなしさの忍びがたくたへがたきときとは。おぼえずしらず。声をさ﹅げてあらかなしやなふ、かなしなやなふと長くよば﹅りて。むねにせまるかなしさをはらす』(石上私淑言・本居宣長)



和歌は『心をはらす』ためにあると本居宣長は言っています。これは『もののあはれを知る』という源氏物語に対する本居宣長の受け止め方がさらに進化した表現だという説もあります。この『もののあわれを知る』に関してはまた別の機会に書きますが、僕はこの上記引用文を知って、大東亜戦争の終戦の詔勅を思い出しました。



『…朕は時運の赴く所 堪え難きを堪へ 忍び難きを忍び 以って万世の為に太平を開かんと欲す…』



忍び難く、耐え難い時、とても悲しい悲しいと声を捧げて長くよばわりて、胸に迫る悲しさをはらす!…これが和歌の心だと知っていれば、昭和天皇の詔勅のこの文言の意味がより深く、鮮明になります。



戦時中の日本国民にどの程度、和歌の嗜みがあったのでしょうか…おそらく国民の大多数が和歌を詠む嗜みがあっただろうと推測できます。詔勅の原文を書いた安岡正篤師も、発した昭和天皇も本居宣長の石上私淑言は当然にご存知だったと思われますし、もしかしたら本居宣長以上に和歌に関して造詣が深かった可能性もあります。



詔勅の『万世の為に太平を開かんと欲す』に、『心をはらす』という真意が隠れていることが、大和心の侘び寂びであり、当然に誰にでも伝わっているからこそ、昭和天皇の詔勅が日本国民の心にしっかり響いたと今回初めて気がつきました。



こうなると、安岡正篤師が、『時運の赴く所』と当時の閣僚が閣議で変更した、この文言が生涯許せなかったことがしっかり伝わってきます。安岡師は『義命の存する所』と書きました。『義命』があるから戦争を止めて『心をはらす』なら強い意思を感じます、和歌の世界の詞の繋がりが活き活きしてきます。風の吹き流しのように『時運』なんかに任せて戦争を止めても『心をはらす』という詞には繋がりません。ここはかなり悔しかったご様子で、終戦の詔勅を安岡正篤が作ったと言われたくないとまで頑なに言い張ったことが、ここで初めて理解できたような気がしました。

土曜担当…佐々木秀彦



 11月28日(土)
注釈」   土曜担当…佐々木秀彦

『なつかしみ 又も来てみむ つみのこす 春野のすみれけふ暮むとも』(本居宣長・源氏物語玉の小櫛)


本居宣長の源氏物語の研究に関する主なものは『紫文要領』『源氏物語年紀考』『源氏物語玉の小櫛』『手枕』を上げることができるそうです。本居宣長は16歳から22歳まで家業である商人としての生活をしますが、商人にはまったく不向きだったとが、母の日記等にも記述もあり、宣長本人の日記からは、商人生活のことが全く記述が無いということでもよくわかるということです。

 

商人としての生活する現実から、宣長は空想の世界へ逃避するかのように『源氏物語』の世界へ入り込んでしまっていたという説もあります。『源氏物語玉の小櫛』は生涯約40年を費やして成稿した源氏物語の注釈書で、上記引用の和歌はその最末尾にあります。

 

歌の解釈は皆様にお任せしますが、内容としては、『懐かしい、何度も来ても積み残す、春の野原のすみれ、今日もまた日が暮れてしまった』みたいな感じです。僕的には、『源氏物語は懐かしいほど昔から近くにあるが、読んでも読んでも、新しい香りと艶やかな花びらが新たに咲いていて、今日もやっぱり日が暮れて、積み残こしてしまった』みたいな気持ちを詠んだのではないかと感じます。

 

現代にまで名を残す、歴史上屈指の偉人本居宣長でさえも、『源氏物語』に関しては生涯かかってもまだ研究が足りないと感じているわけですから『源氏物語』の奥深さはどれほどのものなのか、全く計り知れない感じですよね。

 

『源氏物語』に関してもう1つ僕が注目したのは、宣長が京都から松坂に戻った27歳から自宅で源氏物語の講義を始めました。これは源氏物語の講義を聞きに来る門徒がいたということになります。江戸中期9代将軍徳川家重の宝暦年間が『源氏物語』に興味を抱く人々が多くいた時代だったこともおもしろいと思います。宣長が現実逃避の手段として平安朝の世界に憧れたように、この時代の人々の現実逃避の手段として、平安朝に憧れが起こっていたという時代背景があるとしたなら、本居宣長の源氏物語の注釈の中に、今の現実に対する批判的な要素まで入っていたかもしれないことは、あらかじめ考慮しておくべきことかもしれません。




土曜担当…佐々木秀彦



 11月22日(日)
「観見」   日曜担当…八木正典

武士は兵法の道を慥に覚え、其外武芸を能くつとめ、武士のおこなふ道、少しもくらからず、心のまよふ所なく、朝々時々におこたらず、心意二つの心みがき、観見二つの眼をとぎ、少しもくもりなく、まよいの雲の晴れたる所こそ、実の空としるべき也。(五輪書)


ある実験で、被験者に新聞を与えその新聞の中に写真が何枚あるかを数えてもらいました。
すると2~3分かかる人もいれば、たった数秒で写真の枚数を答えられる人もいます。
なぜ数秒間で写真の数が分かる人がいるのかというと、新聞の2ページ目に「数えるのをやめましょう、この新聞には43枚の写真があります。」というメッセージがあり、それに気づいたのです。
しかしながら、多くの人は写真の枚数を数えるのに夢中で、大きく書かれたメッセージを見逃がしてしまうのです。
目先の問題にしがみつくのではなく、ゆったりと大きな視点をもっていると目の前に現れるチャンスを逃すことが無いのだと思います。すぐに視野が狭くなりがちな自身の活動を日々反省し、目で見る見と心で見る観の両面を磨いていきたいと感じております。

日曜担当…八木正典



 11月21日(土)
「趣意」   土曜担当…佐々木秀彦

『かたへに長くも短くも、筋を引たるは、歌にはなき詞なるを、そへていへる所のしるしなり。そもそもさしも多く詞をそへたるゆゑは、すべて歌は五もじ七もじ、みそひともじと、かぎりのあれば、今も昔も、思ふにはまかせず、いふべき詞の、心にのこれるもおほければ、そをさぐりえて、おぎなふべく、又さらにそへて、たすけもすべく、又うひまなびのともがらなどのために、そのおもむきを、たしかにもせむとて也』(本居宣長・古今集遠鏡「例言」)



僕は「古事記」を少し詳しく勉強したくて、「本居宣長」にたどり着きました。「本居宣長」はこのブログで5つ目の記事ですが、まだ和歌の部分を追いかけています。

宣長は和歌の注釈書をいくつも出しています。上記引用文は「古今集」を和歌初学者のために現代語訳(江戸時代中期時点の現代語訳)した『古今集遠鏡』の凡例みたいな段に書かれた文言です。初学者へ対して、自書の用例を解説している内容で、補足した詞には傍線を引いている意味を記載しています。



宣長は作者の「趣意」をとことん大切にしました。「趣意」を五七五七七で表現する技法として「詞」の織り成しがある、「趣意」を表現するために、作者は「粉骨」して「詞」を織り成しているのだから、補足した「詞」と作者の「詞」を明快にわかるように現代語訳をしたというのが上記引用の要旨です。



僕は正直「和歌」にはそれほど興味を持っていませんでした。古事記にも多くの「歌」が出てはきますが、男が女を口説くのにそういう作法があった時代程度の解釈で、出てくる和歌を読み込む気もなく、サラッと流し読む程度の感覚でした。それが今、少しだけ変わってきています。歌の「趣意」が理解できるようになることが、文章を読む近道ではないかとさえ感じています。「和歌」を理解することで、平安時代や鎌倉時代を生きた日本人の魂を感じることができる、またそのために「万葉集」等々、歴代の為政者は勅撰和歌集を遺しているのではないかと感じるようになりました。文学というよりも「魂の伝承」のような感じではありますが、上手く表現する言葉がみつかりません。



「和歌」に込めた宣長の情熱に触れることで、僕の「大和詞」に関しての意識が少し変わってきたので、この後、「源氏物語」に入っていこうかと思っています。「古事記」にはいつたどり着けるかわかりませんが、こういう作業ができるのも「湧くわく本心塾」の魅力なのだと感謝しております。



土曜担当…佐々木秀彦



 11月15日(日)
「奇正」   日曜担当…八木正典

戦勢は寄正に過ぎざるも、奇正の変は勝げて窮む可からざるなり。寄正の環(めぐ)りて相い生ずるは、環の端毋きが如し。孰か能く之れを窮めんや。(孫子)

(戦闘の勢いの形態は奇法と正法の二つだけだが、奇法と正法の組み合わせによる変化は無限であって、すべてを窮めつくすことはできない。正から奇、奇から正とめぐって、円環のように終わりのないようなものである。したがって誰がすべての変化を知りつくすことができようか。)


孫子は戦争で勝利を収めるためには正と奇とを組み合わせた無限の選択肢があると言います。
選択肢は無限にあると考えながら常に一つでも多くの選択肢を得られるような意識を持ちながら事にあたって対応していくことが必要なのです。
コロナの感染者数の拡大しており、コロナ第三波の流れとなってきておりますが、予測される事態を幅広くとらえ、自身の選択肢の幅を狭めることなく創造力を働かせつづけたいと考えております。



日曜担当…八木正典



 11月14日(土)
「至極」   土曜担当…佐々木秀彦

『新古今が此道の至極頂上にして、歌の風体の全備したるところ処なれば、後世の歌の善悪勝劣をみるに、新古今を的にして、此集の風に似たるほどほどがよき歌也』(本居宣長・排蘆小舟)



三重県松坂で生まれた本居宣長は11歳で父を亡くし、16歳で江戸の叔父の家に寄宿し、18歳で宇治山田の他家へ養子に入り、20歳で離縁して再び松坂へ戻っています。この松坂にいる時期に和歌を始めて、22歳から27歳まで京都で医学、儒学、漢学、国学、そして和歌を本格的に勉強しました。



宣長が京都に暮らした宝暦年間は、幕府は田沼意次が台頭し始めた頃、財政も政治も少し荒れていました。京都でも公家同士の衝突もあり「宝暦事件」というのもありました。公家の中に山崎闇斎の垂加神道で神道に儒学や易学を融合するみたいな説を朝廷に説く一派が現れて、倒幕を進言したりしていました。



徳川吉宗がキリスト教以外の蘭学を事実上解禁した後の時期ということもあって、医学を学んだ宣長には当然に蘭学の知識も入ってきていたはずです。儒学に関しては荻生徂徠の朱子学否定でさらに古来中国の古典を勉強する考え方には強く影響を受けたように感じます。



上記引用文は、京都にいた頃の宣長の処女作とされる「排蘆小舟」に明確に書かれた、和歌に関する考え方です。「新古今和歌集」を「至極頂上」と断言しています。新古今和歌集に入っている多くの歌を「排蘆小舟」では注釈をしています。ここで宣長が大切にしていたのが「詞が整っている」ことだと感じます。和歌という五七五七七の31文字に遣う詞がどれだけ洗練されていて、詞のリズムが良く、遣う詞同士が互いに縁を結んでいるかという部分。宣長の生きた時代は、和歌の世界も新進気鋭がどんどん出てきて、新しい流派が次々と台頭してきた時期でもあります。その時代背景の中で、宣長が最も魅力的だと感じたのが鎌倉時代初期の「新古今和歌集」ということだったのでしょう。



「新古今和歌集」は「人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思う身は」と百人一首にある後鳥羽院が勅撰したということですが、「新古今和歌集」の名称通り、万葉集の選に漏れた古代の歌と、鎌倉幕府が成立した新しい時代の歌の両方が入っているというお話です。



現代も同様ですが、次代の流れの中で、最先端に興味を持つ人もいれば、古来の手法を守ろうとする人もいらっしゃいます。本居宣長は古来の規律を守ったまま最先端を表現したいと考えていたように僕は感じます。先人達が試行錯誤を繰り返して成立した形を崩すのは浅はかな行為である。しかしながら心にある今の気持ちを詠んでこその歌である。この青年の主張のような真っ直ぐな葛藤と追及がずっと続いた、純粋に至極を追いかけた生涯だったように感じています。


土曜担当…佐々木秀彦



 11月8日(日)
「遠足」   日曜担当…八木正典

11月の潜学講座は恒例となっている秋のオトナの遠足です。
遠足は今年で3年目。今回はコロナの状況を鑑み現地集合、現地解散の京都御所巡りでした。

まずは京都迎賓館に訪問。これが本当に素晴らしい。
京都観光の中で個人的にはなかなか選ばないだろうと思うのですが、参加させて頂いてその施設の格調の高さとそれを支える職人の思いやこだわりに感動です。
海外の来賓を歓迎するために作られただけあって、「和」の最高の職人技が間近で見ることが出来ます。
藤の間の伝統技能「截金」は、「響流光韻」という作品で、人間国宝の江里佐代子さんが作られたものです。金箔と銀色のプラチナ箔を使用しています。金と銀というそれだけで美しいものをそれぞれの長所を引き立てまとめ上げることで、より見ごたえのあるものに仕上がっております。
また、夕映えの間に飾られる壁面装飾は絵と見間違うような織物で、比叡山を月が照らす様子と愛宕山に夕日が沈む様子が織られております。これも月と太陽の対比が素晴らしく、交互にいつまでも見ていたくなります。
最近勉強している易経では陰と陽の偏らないバランスを重視しておりますが、日本の伝統技能でも物の良さを細部にこだわって徹底的に突き詰めていくと中庸につながっていくのではないかと感じさせられました。

次に、京都御所です。
昔は中に入ることも難しかったらしいのですが、今は無料で一般公開されています。
五箇条のご誓文が示され、明治・大正・昭和の3天皇の即位礼が行われた紫宸殿や王政復古の大号令が行われた小御所など日本の歴史を体感することが出来ました。

その後は、京都御所周辺にあるいのししの護王神社と菅原院天満宮神社を参拝。
最後に佐々木代表幹事のつてで京都で400年の歴史をもつ真宗大谷派の浄慶寺の境内にあるバー「バール蔵」に特別に入れていただきました。住職の中島さんはバーテンダーの経験があり(でもお酒は飲めない体質だそうです)、数年前に「蛤御門の変」でも焼失を逃れた蔵を改装してバーを始めたのだそうです。
おいしいカクテルを頂きながら、住職の話題豊富な会話を楽しませてもらいました。仏教の話も住職が話すとス―と分かりやすく落ちてくる。時がたつのを忘れるあっという間のひと時でした。

コロナが終息を見せない状況下での密を避けながらの遠足でしたが、充実した時間を過ごすことが出来ました。新たな出会いと体験、そして人とのご縁に感謝です。




日曜担当…八木正典



 11月7日(土)
「風雅」   土曜担当…佐々木秀彦

『よき歌をよまむとおもはば、第一に詞をえらび、優美の辞を以って、うるはしくつづけなすべし。これ詠歌の第一義也。そのゆへは、和歌は言辞の道也。心におもふ事を、ほどよくいひつづくる道也。心におもふ事を、ありのままにおもふとをりにいへば、歌をなさず、歌をなすといへども、とるにたらざるあしき歌也。さればずいぶん辞をととのふべき也。ことばさへうるはしければ、意はさのみふかからねども、自然とことばの美しきにしたがふて、意も深くなる也。ふかき情もことばあしければ、反て浅くきこゆる也。』(本居宣長・排蘆小舟)



排蘆小舟(あしわけおぶね)は本居宣長の処女作とも言われる20代に書いた本です。内容は和歌に関して青年の主張のように、真っ直ぐ本筋を語っている感じです。



本居宣長は古来からの歌と、最近の歌を比較して、苦悩とも読みとれるぐらい、しっかり考え吟味しています。おそらく江戸中期の和歌の世界は古典歌人と、新鋭歌人がぶつかっていて、いろいろな流儀の歌がたくさん出てきていたのではないかと推測します。つまり、現代同様に、古典を大切にする流派もあれば、ニューミュージックやラップやアニメソングみたいな感じで、もしかすれば現代以上に多種多様だったのかもしれません。



本居宣長は、上記引用のように、古典の風雅な詞を大切に考えているようでした。しかし同時に心のおもふことをありのままに歌をなすことを、大きく肯定し、ありのままと、優美の詞の両方をなんとか一つにできないかと常に模索していたように僕には思えます。



現代の学者さんの世界で、和歌に関しての本居宣長はあまり評価は芳しくないようです。しかし、10代から多くの歌を作り続けて、実に多くの歌を残していることは紛れもない事実です。歌に対しての想いの深さは並々ならぬものだったのでしょう。



・新玉の春きにけりな今朝よりも霞ぞそむる久方の月

・つれづれと詠めさびしき五月雨に梢につたふ軒の玉水

・さかりよりなほしほらしし時過ぎて枝もまばらに咲る撫子



本居宣長の10代の頃の歌です。真っ直ぐな好青年という印象をうけます。

排蘆小舟ではまだ「もののあはれ」という言葉こそ出てきませんが、「風雅」という言葉を後世の「もののあはれ」と同じ意味で遣っています。考え方としては、20代の頃と何も変わっていなかったのではないか、いや逆に、勉強して知識を深めれば深めただけ、「風雅」が最も重要だと確信を深めていったのではないかと推測します。本居宣長のようになどと畏れ多いことは夢にも思いませんが、僕も日本人です。僕ももう少しキチンと、日本語についてしっかり確認して、もっともっと考えて、日本語を遣ってみたくなっているところです。




土曜担当…佐々木秀彦



 11月2日(月)
「近況報告」   月曜担当…池田光

今年は処女出版から30年。中村天風の本を書いてから25年となります。

これを記念してというわけではありませんが、2冊を同時刊行します。



■『中村天風の十牛図』





サブタイトルは、「天風哲学を悟る十のステップ」。

64ページの小さな本です。

本書の十牛図を石彫家の川井信一さんに描いていただきました。

この本は、湧くわく本心塾のみなさまの刺激がなければ、世に出すことはできなかったでしょう。

大げさに聞こえるかもしれませんが、この本を読んで天風哲学を学んだ人と、この本を読まないで天風哲学を学んだ人との間には、大きな差が出ることになると信じています。

天風哲学を正しく学びたい方への「道しるべに」との思いから、世に送り出します。



ところで、ぼくの「天風ノート」にはいろんなアイデアが書き留められています。

そのなかから、どうしても書きたい2テーマについて、出版していくつもりです。

その一つめが、上記の『天風の十牛図』です。天風哲学での悟りのステップを十牛図を使って描き、ここに「理入」と「行入」を組み入れました。

二つめについては、いつか、なるべく早いうちに実現したいものだと考えています。



■『渋沢栄一 運命を切り拓く言葉』




来年のNHK大河ドラマは、渋沢栄一が主人公です。

この本では、成功哲学の観点から渋沢栄一の言葉をまとめました。

渋沢栄一の教えは、期せずしてコロナ後のあり方を暗示するものになっていると思います。

読んでいただきたい一冊になりました。



話は変わりますが、ぼくは菅首相の「自助、共助、公助」というスローガンをとても気に入っています。

生命の基本は「自助」です。この基本を「共助、公助」で支えるから盤石なのです。

渋沢栄一はあの時代に誰よりも「共助、公助」を重視した人でした。ぼくは今回の本で、このことを強調したつもりです。

しかし、渋沢がベースに据えたのは「自助」でした。

だからこそ、渋沢栄一の思想は健全なのです。この健全性が、日本資本主義の原点であり、これからの日本に必要なことだと思います。

菅首相のスローガンには、渋沢栄一に通じる健全性があると思うのです。



気がつくと、原稿執筆と校正に時間をとられ、ここ2か月ほど本を読んでいませんでした。

そして、はや11月。

「楽しむ読書をしよう」と、澁澤龍彦の伝記である、磯崎純一著『龍彦親王航海記』を読み終えたところです。この分厚い伝記は昨年出版されたものですが、よく売れているようです。ぼくが求めたのは、6刷でした。澁澤龍彦ファンのぼくには、この伝記がとても楽しいものでした。

続けて、二番目の奥様が書いた『澁澤栄一との日々』を半日ほどで読みました。

この調子で、年末まで楽しむ読書を続けていきます。



では、みなさま、お元気で。

月曜担当…池田光



 10月31日(土)
「投票」   土曜担当…佐々木秀彦

11月1日の日曜日は『大阪市廃止・特別区設置住民投票』の投票日です。僕は前日に期日前投票を済ませました。

先日岡山県津山市の顧客に面談に行くと『都構想はどんな感じなのですか?』と興味津々で尋ねられました。コロナの新規感染者が大阪で前週より倍増しているにもかかわらず、コロナより『都構想』に興味があることに若干驚きつつも、注目されるのはありがたいことだとも思いました。

尋ねられて少し困りました…確かに反対、反対と大きな声で行ってらっしゃる方は街中にたくさんいらっしゃいます。それに比べて賛成、賛成と街中で叫んでいらっしゃるのは、たまたまに見かける大阪維新の会の議員さん本人ぐらいで…どちらかというと盛り上がっていない印象だったからです。

都構想可決するでしょ…たぶん圧倒的多数で…これが僕の正直な印象です

そう思うのは反対派の叫んでいる内容があまりにも稚拙な反対論だからです。大阪市が無くなるのは嫌だ、二度と大阪市に戻れない、大阪府は都にならない、大阪府に税金が吸い上げられる、住民サービスが低下する等々…百歩譲ってご意見は良しとはしますが、水道料金が上がる、区役所が遠くなる、地下鉄の敬老パスが廃止になる等々…あまりにも視野の狭いデマがたくさん飛び交っていますし、またそのデマを本気にしている人もけっこう多い…ここは如何なものなのでしょうか???ネットニュースはある意味そういうモノだとしても、新聞、テレビもデマを増長させるような報道を展開しています。こういうなりふり構わない状況を見る度に、反対派は一発逆転だけしか狙っていない印象を受けるわけです。もし本当に僅差の争いなら、正々堂々の政論で勝負するだろうと思います。

東京都がなぜ東京都になったのか確認しました。明治維新以後、東京府・京都府・大阪府でした。これが昭和18年東京府と東京市を廃止し、東京府が東京都に変わり、東京市が無くなり区が誕生しました。大東亜戦争の最中のことで、目的は「帝都たる東京に真の国家的性格に適応する体制を整備確立すること」、「帝都に於ける従来の府市併存の弊を解消し、帝都一般行政の、一元的にして強力な遂行を期すること」、「帝都行政の根本的刷新と高度の効率化を図ること」です。

『府市併存の弊を解消し』の文言が戦時中でもあったわけですね。終戦後東京都も特別な都ではなく府県同様と法的には改正されましたが、府と市に戻すという運動は特になかったようです。今マスコミが都構想に嫌悪感があるような印象なのは、都構想で戦時中を彷彿してしまっているのではないかと感じます。

僕は現在の日本の政治システムは時代に取り残されて老朽化が進み過ぎているので、早急に改善しなければならないという考えを持っています。そのキッカケの一つとして、大阪のシステムを変えてみることには大いに賛成です。大阪府に4区が誕生したら、何か劇的に大阪が良くなるなんてことは思いませんが、他の地方も刺激されて違う新しいシステムを構築したり、真似したりで、さらに国も刺激をうけて旧態依然のシステムから脱却しようとするキッカケぐらいにはなるような気がします。それが100年後の日本に必ずプラスになるような気はしますが、ここで大阪市をそのまま存続させてしまっては、日本の政治システムが現状維持のまま壊滅していくような危機感を抱きます。

明治維新だって江戸時代のままがよかった庶民は大多数だったと思います。終戦後もGHQ草案の新憲法なんて絶対嫌だった庶民が圧倒的大多数だったことでしょう。

平成時代に市町村の大合併がたくさんありました。郡が合併して新しい市がいくつもいくつも誕生しました。これと大阪都構想と全く同じだと思います。違うのはすでに政令指定都市という現代一番上位クラスの地方自治体の大阪市がそれをやるということだけです。10年前の大阪市は財政破綻寸前でした、その危機的状況を何とかしようと市民が危機感を感じたから大阪維新の会に任せてみた。途方もない大赤字が少しづつですが改善が見え始めてきたのが今の状況です。5年前に都構想が実現できていれば、今頃、他の地方でも動きが始まっていたかと思います。

投票ですから結果は開票するまでわかりません。前回もしっかり廃案になってしまいました。僕は大阪維新の会の支持者でも、公明党の支持者でもありませんが、未来へ向かっての第一歩かどうかを、選挙の時は基準にしています。有力候補でも5年後にはもう引退されるような方には絶対に投票しません。もちろん若ければ良いとも思っていませんが、未来への僕なりの期待値で議員さんを選んでいます。

本当は本居宣長のことを書きたかったのですが、ここは投票権を持っている大阪市民なので、せっかくの投票なので、当事者の一人として真っ直ぐな想いを書いてみました。


土曜担当…佐々木秀彦



 10月25日(日)
「カルティベーション」   日曜担当…八木正典

三菱ケミカルHDの会長である小林善光さんの講演を聞かせていただきました。

「日本は新しいことにトライせず、殻に閉じこもっていないか。デジタル、個、グローバリゼーションという世界の大きな3つの潮流に乗り遅れている。」という話でした。

その話の中で、若者の満足度が高いのは、難しいことにトライしてフラストレーションを感じることが無いからではないかとの問題意識を提するとともに、自分自身への戦い、自分自身のカルティベーション(育成、修練)に対してエネルギーを持つことが必要だと訴えられていました。

松下幸之助さんも、
「今が最善だと思っても、それは今日の最善であり、明日の最善ではない。物事は日々進歩している」と言われております。

現状維持は後退であると意識し、より良いものに向かって、より良いものを求めて、日々に新たな気持ちを持ち続けていきたいと感じております。


日曜担当…八木正典


 10月24日(土)
「本意」   土曜担当…佐々木秀彦

『もとより歌は、思う心を言ひ述べて、人に聞かれて、聞く人のあはれと感ずるによりて、わが思う心は、こよなくはるくることなれば、人の聞くところを思ふも、歌の本意也』(本居宣長・初山踏)


「もののあはれ」という大和心こそ日本文学の本意だと考えた本居宣長の「歌の本意也」と喝破した文章です。

本居宣長は師と仰ぐ賀茂真淵の勧めで、万葉集を勉強しました。そこで万葉集の歌を形態によって独自にいくつかに分類し、解釈するという、理数系的な発想で万葉集を解釈していきました。日本の歴史上屈指の国文学者として名高い本居宣長は、紀伊藩にも求められて仕官したほどの医師でもありました。現代日本では、文科系と理数系とに学生時代から区分して、教育する風潮ですが、もしかしたら国文学や歴史学というものは、理数系の発想こそが相応しいのかもしれません。

万葉集はもちろん、古事記、日本書記にも多くの歌が残されています。大和文化の源泉とも言える「日本の歌」を研究して、「歌は聞く人があはれと思ふことが本意也」と結論付けていることはおもしろいと思います。

現代の芸術を眺めると、自分の心には忠実でも、それを見る人の気持ちを忘れていらっしゃるような作品も散見されます。しかしそれは違うと、本居宣長はしっかり言っているわけです。

「歌」の場合は人前で詠んで披露することが前提なのだと思います。声に出して詠んで、聞いている人の心に響いたかどうかは、直接感じることができるわけです。人の心に響くことで、我が心ははればれするのだからこそ、作る段階でしっかり、聞く人の気持ちに即して作れよという感じです。現代的にわかりやすく言うと、完全なプロ志向ですね。

「和を以って尊きとなす」の大和文化としても、個人的に勝手な歌を詠むのは理に反します。常に他者があっての自分だとすると、現代のプロ志向的な考え方は、大和文化では至極当然な立ち居振る舞いということになるのではないでしょうか…

おもてなし、おもいやり、空気を読む、気配りする、、、現代でも続く大和文化は古代からの「歌」を見るだけでも十二分に表れているように感じました。

土曜担当…佐々木秀彦



 10月18日(日)
「自修」   日曜担当…八木正典

毀謗は外より来る的(もの)なり。聖人と雖も如何ぞ免れん。人は只だ自修を貴ぶ。(伝習録)


コロナの環境下において、仕事で対面でのコミュニケーション不足から思わぬ誤解が生じたり、社内メンバーの理解レベルのずれから顧客に迷惑をかける可能性があった事象が起こったりしております。
これまでなら起こり得ないようなことがいくつか発生しており、早急な対策が求められています。

そのような状況だからこそ、これまで自分が行ってきた対応のレベルを一段と引き上げ、共感性を高めた活動を意識していくことが必要です。
配慮しすぎてもしすぎることはないとの考えを以て、短期、中期、長期の観点で打てる手をすべて打っていきたいと考えております

以前当塾で教えていただいた言葉で、顧客に対する「最大のサービスは、君の人格を上げることだ」といものがあります。
問題の解消に全力を挙げるとともに、ベースの力を底上げするための自修を意識して倦まず弛まぬ努力を続けていきたいものです。


日曜担当…八木正典



 10月17日(土)
「天地」   土曜担当…佐々木秀彦

『初学者は、まずこの漢意をきれいに除き去って、大和魂を堅固にすべきことは、たとえば武士が戦場に赴くのに、まず武装を厳しく整えて、身を固めて出陣するようなものである。もし身の固めをよくしないで神典を読む時は、鎧かぶともつけずに素肌にて戦い、たちまち敵のために傷つけられるように、必ず漢意に陥るであろう』(本居宣長)

この『漢意』という表現がおもしろいと思います。上記引用は本居宣長が古事記を理解するための初学者に対しての言葉なのですが、古事記は古代大和言葉での伝承を、太安万侶が漢字で書き起こした文献なのですが、この漢字で書き起こしたというところに、本居宣長は大きなポイントとして着目していました。

大和言葉を漢字に翻訳する時ことで『漢意』が入る、本来の古代大和言葉での意味に、漢語の意味がどうしても挿入されてしまうと解いた訳です。その『漢意』が入った状態で、いくら頑張って忠実に意味を理解しようとしても埒が明かない、漢語に翻訳される前の大和言葉を推測することで初めて、古事記の内容を理解できるという意味です。

これは現代の様々なことに当てはめられると感じます。グローバルスタンダードという言葉で世界共通の基準があるように日本の法制、慣習、会社システムを変革しようという動きが主流になっていますが、グローバルスタンダードなどという言葉をしっかり日本語に落とし込んで、各会社、各法制、各慣習に意味付けしないまま適応しようと安易に考えるから、様々な弊害が起こってしますということだと感じます。

池田名誉塾長がよく『僕は原典主義だから』と仰います。誰かが翻訳した文章には、良くも悪くも、その翻訳者の解釈が反映されます。ここに英語なら英語の常識、漢語なら漢語の常識がさらに加味されてしまうことに、江戸時代中期の本居宣長はしっかり気づいていたことが凄いなと感じます。

天地…アメツチとなっています。
本居宣長は『天』の対義語は『国』と考えました。天津神に対して国津神です。天に対してですから『アメクニ』と詠むべきだろうと考えたわけです。
この意見に賀茂真淵は、『国』というと狭い枠に囲まれた意味もあるので、ここは海を含めた、国よりももっと大きな世界を指すはずなので、『クニ』は適切ではないという意見を出し、それはたしかにと納得し『アメツチ』としたという経緯です。天地創造は西洋の宗教でも語られますが、神道の場合は単なる宇宙や地球を神様が作って与えたというのではなく、天地開闢で発した、開けたという真意の違いがありますが、ここは実はとてもとても大切なことだと気がつきます。

本居宣長の考え方は、すごくシンプルです。これからしばらく本居宣長を追いかけていこうと思っています。
す。

土曜担当…佐々木秀彦



 10月10日(土)
「遠隔」   土曜担当…佐々木秀彦

潜学講座にオンライン会議のツールZOOMを導入して2回開催しました。
2回連続で宮田さんがご参加いただいているの含めて、概ね好評をいただいております。

ZOOMを導入することに懸念がなかったわけではありません。互師互弟の志を共にする仲間が、同じ場所に集まって切磋琢磨する湧くわく本心塾の最も大切にしている趣旨から外れてしまうのではないか…何度も自問自答を繰り返しました。

今回の疫病騒動でテレワークが社会全体に一気に浸透し、佐々木奘堂顧問がいち早く座禅会にZOOMを導入されいらっしゃって、それを特別講座で湧くわく本心塾でも体験でき、さらに大阪倶楽部さんに、wifi環境を整えていただいて、外的環境に関してはしっかり階段を踏んでZOOM開催が叶った印象です。

実際開催してみて、大阪倶楽部参加者とZOOM参加者の温度差のようなものを心配しましたが、それも特に問題になるようなモノではありませんでした。今期から導入した『温習会』がZOOM開催を併用した場合、とても良い時間になることはやってみて初めて気がついたことです。

『素読』に関しては、ZOOM参加者と会場参加者と一緒に声を揃えることは物理的にまだ不可能ですが、これはこれで些細なことと感じています。

『講義』に関して、講師の立場からは、資料の事前配布が必須になります。しかしこれも、当日急に1枚、2枚資料が増えても、写メに撮って送信するという対応もできますので、大きな問題ではないかと感じております。
現場では、画面が増えただけで、特に何か変わるようなことは感じませんでした。違いは資料の何処を開くとか、そういうことを、少しだけ丁寧に提示することぐらいかなと思います。受講する立場からは一切何も変わらないと思います。

運営という部分では、ZOOMの出入室状況を常に把握しておく必要と、ZOOM参加者のハプニング(電波の障害や、急な回線ダウン)に対応する準備だけはしておく必要があることが、大きく変わります。ここは誰か1名そこを担当する必要があります。

ザクっと説明しましたが、社会の流れから、テレワークは今後益々ポピュラーになっていくでしょうし、勉強をする塾という組織としては、対応しないほうがレアになってくるかと感じます。この機会に新しい取り組みに進んでいけたことは、良いタイミングだったと感じます。事情磨煉、何事も実践して勉強を実生活に活かすことは、天風哲学でも最も大切にしているところでもあります。引き続き新しいこと、初めてのことにたくさんチャレンジして、皆様と一緒にその体験を共有していきたいと考えています。今、世界中どこからでも湧くわく本心塾の潜学講座に参加できるようになりました。10月の講座には横浜からの参加者がありました。次回は何処からの参加者があるのかも、ちょっと楽しく期待したいかと思います。
す。

土曜担当…佐々木秀彦



 10月4日(日)
「潜学講座」   日曜担当…八木正典

わが道は至誠と実行のみ。(二宮尊徳)

10月の潜学講座に参加してきました。

今回は佐々木先生による二宮尊徳の講義でした。先月の講義に引き続き非常に奥深い刺激を受ける講義でした。
二宮尊徳は小学校の銅像にあるような勤勉なイメージしかなかったのですが、事業家としての卓越した手腕に驚きました。
その一つに相馬藩の復興があるのですが、分度(予算)を立てる、過去180年の財政状況を調べ藩の再建計画を立てる、平均収入の範囲内でやりくりをするというように、中長期的な視野に立って計画立案して、実行を徹底することで復興をさせています。
その信念の前提は、「人として一日も推譲なければ人倫の道立たず。推譲は人の道なり。争奪は禽獣の行いなり。(推譲:慈悲の心、利他の心を以て人の為、世の為、国の為に自己を捧げる心または行為)」という高貴な精神です。二宮尊徳の思想と実践主義をもっと研究してみたい気がしております。

また、講義の中で二宮尊徳の考えた太極の図や太極の解(説明)を教えていただいたのですが、これがまた面白いです。
宇宙万物の生成発展に関して天地人の考え方や儒教の考え方が含まれていながら、儒教の太極の考えとも微妙に違っている尊徳のオリジナリティあふれる考えに引き込まれました。講義の中だけでは消化できなかったのでじっくりと振り返ってみたいと思います。

そして今回の講義に加えて、久々にご参加された若宮先生の詩経「桃夭」のミニ講義。50年以上詩経を研究され、教えられている若宮先生と一緒に詩経を読めるだけで感動しっぱなしでした。

10月の潜学講座でも新たな学びを頂くことが出来ました。自分の勉強不足を感じさせてくれる非常に有難い講義でした。更なる学びとともにその実践を意識していきたいと思います。

日曜担当…八木正典



 10月3日(土)
「積極」   土曜担当…佐々木秀彦

『われ若年はじめて家を持ちし時、一枚の鍬損じたり、隣家に行きて鍬を借しくれよという。隣爺曰く、今この畑を耕し菜を蒔かんとする所なり。蒔き終わらざれば貸し難しといへり。我が家に帰るも別になすべき業なし。予この畑耕して進ずべしとひいて耕し、菜の種を出されよ、序に蒔きて進ぜんといひて、耕し且つ蒔きて後に鍬をかりし事あり。隣爺曰く、鍬に限らず何にても差支の事あらば遠慮なく申されよ。必ず用達すべしといへることありき。かくの如くすれば万事差支なきものなり』(二宮尊徳)

二宮尊徳は積極的な生き方をせよと語っております。質素な服を着て、質素な食事をしてお金は極力節約するのですが、それは貯金のためではなく、活きたお金の使い方をするためにやっていると言います。お金をしっかり増やす自信があるから、こんな食事も衣服でも気にならないからできるのだと言っています。

『貯蓄は死蔵に陥り易い』弟子が仕法で浮いたお金を貯蓄するために蔵を建てようとしたのを尊徳は嗜めています。そのお金を動かすことでさらに増える。貧乏な人に無利子で貸し付けて、収穫をあげれば、2倍にも3倍にも増やすことができる。貯蓄をするために貯蓄しても意味はないということです。

上記引用文ですが、鍬を貸せない理由をしっかり確認して、隣爺が種蒔に使うと知ると、代わりに耕し、種蒔を終わらせてから、鍬を借りる。これなら貸せない理由はなくなります。これが積極的な生き方のわかり易いお手本です。尊徳は一事が万事、すべての自分の希望に対してこういう態度で叶えていきます。素晴らしいなと感じます。さらには鍬を快く貸してくれるだけでなく、他にも何かあれば必ず用達すべしと言わせています。ここが凄い、信頼を得るお手本でもあります。

二宮尊徳の理想は『願わくば天下に餞民無からしめん』この理想が天命でその業に努めるのだとよく言っていたというお話です。尊徳は儒者が嫌いだったということです。議論が達者で人を言い負かすことばかりにいい気になっていては敵を作っているようなモノだと、本を読んでもおこなわなければ読まないのと同じだとも言っています。儒者が面談や弟子入りを願い出ても一切合わず、断り続けていたのは、勉強は実践だと、実践から学ばなければ意味がないと達観していたからだと思われます。

僕の場合は…積極的な生き方をもう一度しっかり考え直す必要がありそうです。


土曜担当…佐々木秀彦



 9月27日(日)
「謙」   日曜担当…八木正典

体充問うて曰く、諸侯・卿大夫の守りおこないてよき事はいかが。
師の曰く、謙の一字なり。我くらいたかきにおごり自慢する魔心の根をたちすて、義理の本心をあきらかにし、かりそめにも人をあなどりかろしめず、慈悲ふかく万民をあわれみ、諸士に無礼をなさず、家老・出頭のいさめをよく聞き入れ、わが知恵をさきだてず、善をこのむ事は好色をこのむごとく、悪をにくむことは悪臭をにくむごとくなるを謙と云うなり。(翁問答)

先日から引き続き易経の学びを深めております。
やればやるほど易経に対する理解が不足していることを感じるのですが、慌てず焦らず着実に学びを深めていきたいと考えております。
日本陽明学の祖といわれる中江藤樹ですが、易経に始まり五経についても非常に深い理解を持ち、その上で陽明学に出会っております。
33歳の時に記された翁問答でも、易経に関する記載が多く見られており、その知識の幅広さや造詣の深さは驚くばかりです。
尊敬する先人が学んだ道を多くの書籍を読みながら少しでもたどりたく、少しでも実践したく謙虚に活動していきたいと思います。

日曜担当…八木正典



 9月26日(土)
「徳化」   土曜担当…佐々木秀彦

『恵に恩沢を以ってし、凡そ廃れたるを挙げ、絶えたるを継ぎ、禍を福に転じ、貧弱を振起して富強とし、民の疾苦する所を除きその安息するところを与え、惰風を改め汚風を去り、教うるに人道を以ってし、導くに勧農をもってし、奢侈を戒め、節倹を示し、五倫の道を正しくして君恩の無量なることを知らしめ、永く貧困離散の憂無からしむ』(二宮尊徳・報徳記)

二宮尊徳は大政奉還の12年前、1856年に70才で没しています。しかし仕分け等の仕事は息子、娘、幾人かの弟子によってしっかり1867年の大政奉還以降までも引き継がれています。僕は記録にそって勉強していて、僕の中の思わぬイメージに執着していたことに気がつきました。

大政奉還以前の記録を見る時、江戸時代のことなので、様々な勘案をすべきと思い込んでいました、これはこれで間違いだとは思いません。ところが、明治時代に変わって、旧藩士が知事として関わったことや、県の職員が旧藩士達の処遇に関して相談する記録を見る時、僕は現代のことのようにその文言を素直に読んでいることに気づきました。時代考証の勘案が明治時代になったとたん、極端に薄くなっているのです。僕は自分が思う以上に先入観に縛られているタイプなのかもしれません。

尊徳が生きていたのは江戸時代末期です。妻や子供は当然に明治維新を体験し、激動の時代などに惑わされず、尊徳の思想をしっかり引き継いています。報徳記を始め、多くの書物が伝えるのは厳密に言えば江戸時代の記録なのですが、もうほとんど明治時代なので、そこは明治時代の書物と同じくらい正確な記録だと考えるべきだと改めて思いなおしました。

明治維新後、藩士の生活がどうにもならないと悩んでいた旧藩主の知事は、領内の農地では足りないので、武士達に荒地を開墾させてその土地を与えようと考えました。そこに尊徳の弟子が一人『開墾するのは出来上がった農地を耕すことの何十倍も大変な作業です。農業の知識のない武士にはとても耐えきれるものではありません』この藩はこの意見を聞き入れ、武士に荒地の開墾などという話にはなりませんでしたが、日本全国多数の藩で武士に荒地を与えてニッチもサッチもいかない事態になった例は多々あります。

二宮尊徳の勉強をしていると、現代にこそ尊徳の仕法が必要なのだと強く感じます。これは江戸から明治の強烈に価値観が変わった時期でもしっかり通用した実績でも明らかです。現代も江戸末期と同様に社会システムが老朽化してしまっている閉塞感があります。今どうするのか???二宮尊徳には多くのヒントがあります。二宮尊徳というお手本を今こそ、活用すべき時期だと強く感じます。

土曜担当…佐々木秀彦



 9月19日(土)
「唱歌」   土曜担当…佐々木秀彦

『柴刈り縄ない 草鞋をつくり 親の手を助け 弟を世話し 兄弟仲良く 孝行つくす 手本は二宮金次郎』(小学校唱歌)

僕らが二宮尊徳という名前は知っていても、何をした人かあまり知らないのは、明治時代の小学校の教科書で、孝行・勤勉の二宮金次郎に重きをおいて『…のちに偉い人になりました』と締め括っていたからだと推測します。つまり二宮尊徳の功績に関してはまったく触れないままで話は完結していたわけです。

これに対して、内村鑑三は『どうも二宮金次郎先生には私は現に負う所が実に多い…この人の生涯が私を益し、それから今日日本の多くの人を益する訳は何であるかというと、何でもない。この人は事業の賜物に非ずして生涯の賜物を遺した』(後世への最大の遺物)と修身の教科書に二宮金次郎が登場する10年前に、キリスト教徒として、世界に二宮金次郎をこう紹介しています。つまり海外には勤勉・孝行の二宮金次郎ではなく、尊徳の生涯の功績を紹介していたため、二宮尊徳の評価は世界的に評価されているのもかかわらず、日本人は名前ぐらいしか知らないという奇妙な現象が起こっているわけです。超有名な偉人でありながら、少年時代の孝行・勤勉だけのイメージというのも実に日本人らしくて、おもしろいと思います。

それでは、そんな二宮尊徳の女性感を垣間見る言葉が残っているので、紹介します。『女の美しさは男が知るものである。男が評価してはじめてそれがわかるのであって、白い花は自分の白さを知らず、赤い花は自分の赤さを知らないのと同じである。自分自身美しいと思うのは誤りで、男を知るのは女であって、女を知るのは男である』江戸時代末期、文明開化以前の日本男児としては、たしかに平等思想だと感じます。それと同時に、財政に関して卓越した実績を積んだ尊徳らしく、価値や評価は自己満足ではなく、他者からの評価が全てと潔いストレートな意見です。今と時代と価値観が全く違うので、当時の女性はこんな尊徳をどのように評価していたのかは、もはや永遠に知ることはできませんが、家庭を顧みず仕事に没頭していたため、奥様がご苦労されたということだけは、残された資料から間違いなかったと推測できます。

現代の全世界における日本人のイメージと評価の根源が二宮尊徳であり、明治期、戦前、戦後の日本人がそのイメージ通りに素晴らしい精神と行動で世界を魅了し、さらには最近でも、ワールドカップのサッカー場の清掃等々、日本人が日本人らしく立ち居振る舞うことで世界から絶賛されているという現実を、僕たちはしっかり認識し、未来へしっかり引き継ぐ責務を負っているとも言えます。その為にも、今こそ二宮尊徳をしっかり学習することは、大きな大きな意義があると考えます。

土曜担当…佐々木秀彦



 9月13日(日)
「第一義」   日曜担当…八木正典

精神は独りで立つことが、それ自身の光であることが出来なければなりません。人は独りで立っていなければならない。(クリシュナムルティ)


少し時間がありましたので、昨年8月に潜学講座で行われた吉田公平先生の陽明学特別講座を聞き直しておりました。その時の先生のお人柄溢れる素晴らしい講義の雰囲気がよみがえってきて改めて感動しっぱなしです。

性善説からつながる朱子学の考え、それについての疑問を深く考え続けた王陽明は、「わが性、自ずから足れり」と気づきます。自力主義の再確認です
吉田先生の説明では、「私という人間の本質は、生身の人間である私の持ち合わせている本質というのはそれ自体で実は満ち足りているのだ。私が自ずから信じて生きていけばいいのだ。現象として、生身の姿としては足りないところがいくらあったとしても、私は私らしさという意味では完全なのだ。だからこそ私が私らしくあるための第一義が大切なのだ。」とおっしゃられております。

吉田先生は講義の中で情報化社会が進むにつれて倫理の崩壊が急速に進行するだろうとの予想をされていましたが、コロナ環境下での情報化の進展は大きく加速しております。このような状況だからこそ、自分らしくあるための第一義をしっかりと持ちながら人間の本質に目を向け続けていきたいと感じております。



日曜担当…八木正典



 9月12日(土)
「報徳」   土曜担当…佐々木秀彦

『人間界の父母の根源は、天地が命ずるところにもとづいている。自分の存在のすべては、父母の養育にもとづいている。子孫がよく似るのは、夫婦の結合にもとづいている。家運の繁栄は、祖先の勤勉の功にもとづいている。自分の身の富貴は、父母のかくれた善行にもとづいている。子供の豊穣は、自分の勤労にもとづいている。身体の長命は、衣・食・住の三つにもとづいている。衣・食・住の三つは、田畑・果樹の栽培にもとづいている。田畑・果樹の栽培は、人々の努力にもとづいている。今年の衣食は、昨年の生産にもとづいている。来年の衣食は、今年の艱難辛苦にもとづいている。だから年々歳々、決して報徳を忘れてはならない。』(三才報徳金毛録・報徳訓・二宮尊徳)

天保5年秋に尊徳によって書かれた報徳訓です。報徳訓と呼ばれるものは他にもいくつかあるようですが、これが最もポピュラーなものです。天保年代に入り、日本国中で「おかげまいり」と呼ばれる伊勢参拝が爆発的に大ブームになりました。大塩平八郎の乱が天保8年。ちょうどその時期に尊徳は処女作と言われる『三才報徳金毛録』を著していることになります。

この本は凄いです。天地開闢以前の宇宙の状態から、図式を用いて統計だてて解説しています。天地開闢以前の宇宙は、まん丸の円だけの図で『太極』と名付け、『いまだ天と地がわかれず、陰と陽の対立がなかった、混沌とした状態』と記しています。そこから、一元、一源体、一元気、五行分配、陰陽が分かち、気体が先後を分かつ、それぞれの過程を図式で示して、やっと天地開闢になります。僕は天地開闢以前の状態をここまで統計だてて、しっかり解説したモノを初めて見ました。これが二宮尊徳なのですね。

四書五経を幼少から愛読したのですから、易経にも陰陽道にも当然に明るい尊徳だと推測できます。藩や村の仕分けを見事にいくつも成し遂げて、結果を出し続けた尊徳の理論の根底には、宇宙の成り立ちからをしっかり認識していたという深さがあったのは、僕にとっては衝撃に近い感動でした。それと同時に、やはりそこまで深いからこそ現代にまで語り継がれる偉人なのだと感じました。
10月の潜学講座ではこの部分もゆっくり参加者の皆様と味わってみたいと思っています。

土曜担当…佐々木秀彦



 9月7日(月)
「近況報告」   月曜担当…池田光

はや、9月。
時の経つのが早く感じられます。

■今、やっていること。
石彫家の川井信一さんと共同で、一冊の本を作っています。
10年前にぼくが企画していたものです。
川井さんに企画を話したのは、5年ほど前です。
昨年、難波駅で川井さんと会って企画を具体化させ、この8月から着手しています。
64ページの小さな本です。
今年の終わり頃か、来年初めには刊行しようと思います。
この時期に打ち込めるものがあるのは、ありがたいことです。

■お籠り期間に執筆した本が、2か月後に出版。
今年2月から7月初旬まで執筆した本が、ようやく発売されます。
・渋沢栄一、池田光〔解説〕『渋沢栄一 運命を切り拓く言葉』(清談社Publico)
・240ページ、ソフトカバー。
・定価1210円(本体1100円+税)
・Amazonなどのネット書店では「予約ページ」開設。
・11月7日、発売予定です。

ちなみに、9月後半から10月初旬までは、校正が予定されています。
これを乗り越えたら、ぼくの作業は終了です。

■涼しい風が吹いたら。
涼しくなったら、したいことが二つあります。
一つめは、暑くてできなかった散歩。
二つめは、整理を加速すること。
夏にもずっと整理していましたが、暑くてスローペースになっていました。

整理を本格化したのは、還暦を迎えてからでした。
その甲斐があって、「床が見えてきた」と家内は喜んでくれますが、床の見えない部屋は、あと二部屋。
なんとか今年中に一部屋を片づけて、この空いたスペースで万年筆関連の整理をしたいと思います。
40代から50代にかけて趣味で集めた万年筆を押し入れに収納したままです。また、関連するグッズや万年筆の書籍なども多くて、スペースがないと整理できません。
整理していると、思わぬ発見などがあり、楽しいものです。

では、みなさま、お元気で。


月曜担当…池田光



 9月6日(日)
「潜学講座」   日曜担当…八木正典

9月の潜学講座に参加してきました。密を避けつつZOOM併用でコロナ対策をとりつつの開催です。
コロナ前は毎月の潜学講座が生活の一部となり、当たり前のように講義を受けさせて頂いていましたが、コロナで半年以上も参加できておりませんでした。
今回、本心塾のメンバーと久々に交流深めることが出来て、また教えを受けることが出来て非常にうれしく、ありがたく感じております。

今回は、第一講で易経講座の講師をさせていただきました。
四書五経の一つである易経。占いの書としての性質と儒教の経書としての性質を併せ持つ易の魅力をお伝えしたいと思いながらお話させていただきました。恥ずかしながら易の世界の奥深さに対して自身の学びの足りなさや理解の不十分さに気づかされました。更なる研鑽を行いまた改めてお話したいと感じております。

第二講は佐々木代表幹事の二宮尊徳です。
二宮尊徳に関してそれほど予備知識も持たずお聞きしたのですが、その人物に圧倒されました。
強烈な向上心、向学心に裏付けられた自主独立の精神と報恩感謝の心から生じる利他の心。若い時からもつその意識の高さに驚かされます。
艱難辛苦を乗り越えて、「小を積んで大を為す」精神で着実に歩を進めるすごい日本人です。
多くの復興事業を成し遂げていく中で、人々の心を変えることが根本として、「人心の教化と経済の再建は不可分一体」という考えは現代にも通ずるものであり、二宮尊徳の人物像や思想をもっと深く学びたいと感じております。
今回は前半部分で来月後半部分を講義予定とのことで、次回の講義も非常に楽しみです。

潜学講座に参加することにより、知らず知らずに狭くなりがちな視野を広げるような刺激を頂けて感謝です。引き続き新たな視点での見方や思考スタイルを学び、自分の糧にしていきたいと感じています。

日曜担当…八木正典



 8月29日(土)
「応変」   土曜担当…佐々木秀彦

『凡そ小を積みて大を致すは自然の理なり』
二宮尊徳はすべてを財政と捉えていたのではないかと推測します。上記文言で日々少しづつ積み立てていけば、やがて大きな成果となるという発想ではなく、大きな成果を得ようと思ったら、細かい工夫をとことんまでやり遂げなさいという風に解釈していたように思います。

尊徳は少年時代に四書五経を読みながら日々の農作業に精進しました。僕は思います、農作業だけしかやっていなければ、農作業で頭がいっぱいになって、俯瞰して自分をみつめることができなくなるのではないかと…。尊徳が他人と違って常に冷静に自分を俯瞰できたのは、四書五経のことを考えながら農作業をやったからだと感じます。

仕事に集中、物事に夢中というのは、言葉にすればカッコイイ状態ですが、集中だけしていても進化はしないのではないかと思います。尊徳は俯瞰して農作業をみていました。そこで江戸時代の税法をしっかりみることができて、税の負担の無い状態のところで頑張りました。新規に開拓した田んぼや、あぜ道に作物をつくれば租税がかからないシステムだったことに早々に気づきました。気づくとすぐにそうするのが尊徳でもあります。農作業で余った種をあぜ道に蒔いて収穫して自分の財産にしていきました。四公六民、五公五民だった完成した田んぼは他人へ貸して、自分は荒れ地の開拓ばかりして財を蓄えました。

もちろん開拓するのは大変です。出来上がった田んぼに種を蒔く方がはるかに楽です。しかし、収穫したモノの半分しか自分のモノではありません。開拓した農地は全て自分のモノです。はたしてどちらが自分に残るのかを常に計算して動いていたように感じます。

少年時代に、夜、書物を読もうとすると、勉強なんていらないと伯父さんに叱られました。僕ら普通の感覚なら、伯父さんに反発心は抱いても結局は我慢して言うことをききます。尊徳は油を自分で調達するよう努力して、本を読み続けました。反発にエネルギーを使うなら、菜種を集めて油を作ることにエネルギーを使ったわけです。

コロナ騒動で殆どの人は思うように仕事ができていないのが現状だと思います。ここで現状を嘆いたり、心配するのにエネルギーを使っていても何の解決にはなりません。それではどう動くのか…皆さんの立場によって当然動きは変わってくるでしょうが、見る方向性は尊徳の方向性だと思います。書物を勉強するのは、その書いてある内容を知る事よりも、勉強をする時間をどう作りだすかを工夫することが、実は一番得ることの多い部分なのかもしれません。

土曜担当…佐々木秀彦



 8月22日(土)
「地固」   土曜担当…佐々木秀彦

農作物を育てる時に、まず種を蒔くというのはやっぱり素人なのだと思います。

農作業をする人は必ずまず土を整えます。場合によっては水路を造るかもしれませんし、土地を肥沃にするために本来植えたい種類ではない作物をまず育てて1年後2年後に目的の作物の種をやっと蒔くのかもしれません。家を建てる時も基礎工事を始める前に地固めを行うのは常識です。

二宮尊徳は農民ですから、やはりすべてにおいて種を蒔く前の作業を重視していたように思われます。有名になり、名家の家の財政立て直しの依頼がきても、すぐにはなかなか動かないのが尊徳でした。これは依頼者が本当に全ての権限を尊徳に任すことを確認する時間でした。

僕ら現代人はtime is moneyを勘違いしているのかもしれません。すぐに行動するという行動は歩みだすことではなく、計画を遂行するということであり、環境を整えるという作業はどうしても時間が必要であり、そのために費やす時間は行動していると認識すべき時間だと尊徳の行動を学んで気づきます。

種を蒔くところからが行動のように思いがちで、また種を蒔くことでやっている充実感もありますが…物事はそんなことでは成果に繋がりません。

二宮尊徳は『五常講』を発案していますが、これはその家に奉公する使用人の信用組合の元祖のようなシステムです。農地を耕作すると表現しますが、実は苗のひとつひとつを育てているように、奉公人ひとりひとりをしっかり育てることに尊徳は手間を惜しみませんでした。家の経済再興にはここが何よりも大切なことを尊徳は熟知し実践しました。

二宮尊徳を学ぶということは難しい印象もありますが、農作物を栽培することを、そのまま経済へ置き換えて実践していたと理解しますと、尊徳の哲学という難解な印象が、身近で当たり前の発想で、実践であると気づき、自身の人生への応用も的確になってくるような気がします。

土曜担当…佐々木秀彦


 8月23日(日)
「山川異域」   日曜担当…八木正典

山川異域  風月同天 (長屋王)
山河は異なろうとも同じ風が吹き、同じ月を見ている仲ではありませんか。


この言葉は、コロナ発生のタイミングで日本から中国武漢への支援物資の箱に書かれていたものとして取り上げられご存知の方も多いと思います。
元々は唐の時代に天武天皇の孫である長屋王が、唐の高僧への贈り物である袈裟に刺繍されていた言葉だそうです。この言葉に感銘を受けた鑑真は日本へ渡海するきっかけとなったのだとか。

コロナのワクチン開発は進んでいるとの報道はあるものの、コロナの感染は終息に向かう気配はなく、経済活動に甚大な影響を与え続けていますし、個人の生活もまだまだ制限が続いていくことかと思います。
そのような中で、生活の情味をいかに味わっていくのか、人とのつながりをどのように深めていくのかは知恵と工夫の積み重ねが必要だと思います。
多くの人と「同じ風を感じ、同じ月を見ている」ことに喜びを感じながら、前向きな努力でこの危機を乗り越えていきたいと感じております。

日曜担当…八木正典



 8月16日(日)
「瞑想」   日曜担当…八木正典

2016年にお世話になっていた方から瞑想のことを教わりスタートして今週で4年が経ちます。

毎日朝晩でそれぞれ10分程度座っているのですが、自分と向き合うことが出来る時間は貴重であり有難いことです。
日によってはその日に起こった感情的な出来事が頭の中に蘇ってきて、怒りや後悔の念がとめどなくあふれてきて、心が落ち着かないこともあります。
最初は感情を殺したり、振り払おうとしたりしようとしていたのですが、最近はただその感情を流れてくるままに、そのままに受け止めようとしています。敢えて何かを加えることがないようにして割り切って感情をとらえるようにしています。
瞑想を行うことで心が落ち着いて、新たな活動の意欲が湧いてきます。

王陽明は、弟子が静座を進めていたが、静を喜び、動を厭う姿を見て、良知を説いて次のように述べております。

良知は明白にして、你の去(ゆ)いて静処に体悟するに随うも也(また)好く、你の去いて事上に磨錬するに随うも也好し。良知の本体は原(もと)是れ動無く静無きものなり。此はすなわち是れ学問の頭脳なり。

(良知は本来極めて明白なものであるから、静かなところで体認するのもよく、日常の事物の上でも鍛錬するのもよいもので、随所で修行できるのである。良知の本体は元来、静も動もないものである。これこそ学問の根本にほかならない。)

これからも瞑想を続けながら、実際の活動の中でも生かせるよう工夫していきたいと考えています。


日曜担当…八木正典



 8月15日(土)
「分度」   土曜担当…佐々木秀彦


『凡人の見は千里に及ばず』(報徳記・巻の六)
千里眼という言葉があります。仏教では広目天がこの能力があったとされていて、鬼や天…人間技ではない透視能力のことです。千里は4000㎞、地球一周が40,000㎞ですからその1/10。あえて日本近郊で言うと択捉島から香港ぐらい。冷静に考えれば凡人というより人間には及ばない見識です。これは凡人は視野が狭いという意味ではなく、人の上に立つ者は尋常ではないくらい強烈に広い見識を持つよう努力しつづけなさいという意味と考えて良いと感じました。

二宮尊徳は藩主に抜擢されて、何度も地域の復興の全権を任されたりもしますが、その度に他の役人や、元々実権を握っていた人々に相当の反発も受けてきました。その反発に丁寧に、時間をかけて、じっくり真正面から対峙したところが尊徳の凄さだと感じます。

地域の復興に尊徳はまず『分度』を明確にしました。地域のあらゆる条件・特性を調べ上げて、データを明示し、年間の目標収穫高を設定し、その目標を10年、20年の計画に則って達成させます。この『分度』を決めることが一番重要だと機会のあるごとに尊徳は話しています。

これは人間に置き換えて、自分自身に設定することはとても大切だと感じます。まず『自分』という日本語が示すように、『分度』を含んで『自分』なのです。二宮尊徳はいわゆる『身分制度』は100%否定していました。武士が偉く、農民がその下なんてそんなモノなんてありゃあしない。『職分』が違うだけのことで、そのどんな職分にも貴賤は無いという考えでした。

僕はあらためてこの個人が『分度』をしっかり自覚することは大切だと感じます。学生、新入社員、ベテラン社員、課長、会社役員、代表、それぞれの立場で当然目線は変わってきます。この目線が違うことをしっかり理解できているから、上の役職を任せられているということだと思います。『凡人では千里の見に及ばず』年齢が少しでも上であれば、若い子より少しでも遠くが見える見識であろうと努力しつづけることが人間として最も大切なのかなと戒められているように感じました。

親という職分にあって、子供の質問に対して上から抑え込むような話の打ち切り方や、買い物やなんかの日常生活で店員さんの態度や言葉遣いにイライラするというのは、最も恥ずべき行動だと…まずはそういう日常から『分度』をしっかりして生活を実践することからすべては始まると、1つ1つの当たり前を再度考え直すよう取り組んでいます。






土曜担当…佐々木秀彦



 8月8日(土)
「天命」   土曜担当…佐々木秀彦

『止まるを知りて后定まるあり。定まりて后能く静かなり。静かにして后能く安し。安くして后能く慮る。慮りて后能く得』(大学)

二宮尊徳はこの『止まる(とどまる)』を自己の『分度』と解釈していたようです。「日本は日本の人が止まるところ。その村の人はその村が止まるところ」ここまでは普通ですが、ここからが二宮尊徳です、「百石の村で十戸あれば、一戸は十石。これが天命でまさに止まるところだ!」尊徳は利を争って他人の利益を貪るような考えをとことん否定しました。

冒頭に抜粋した大学の文言。止まるを知りて…最後は…能く得。争い、奪い合うところには結果的には何も得ずということでしょう。「海辺に生まれて、山林を羨み、山林に生まれて漁業を羨むのはもっとも愚かなこと」とも言っています。

このお話の原典は「報徳記」著者は尊徳の最も優秀な弟子でもあり、娘婿でもあった富田高慶が二宮尊徳の教えを忠実に、詳細に思い出して記述したものです。ここがとても重要で、弟子たちに何かを問われて「翁はこう言われた」という感じですべてが書かれている本になります。つまり、あくまで尊徳が弟子に話した文言。尊徳ほどの人物が口を開いて何かを話す時には、当然深い示唆が含まれていると考えるべきだと思います。

弟子には何か困ったことがあった…それに対して尊徳は何かすごく遠くからヒントを与えている。困ったことに対する対処法など自分でとことん考えろという性格だったことは間違いありません。親切丁寧に手取り足取り教えるなんてことは一切ないのは二宮尊徳らしいところと言えるかと思います。論語も伝習録も弟子が聞いたことを書き記したもので、この「報徳記」も全く同じ形態です。この「報徳記巻の三、八〇止まる処を知る」に関しては、「大学」の「慮りて后能く得」が言いたいのではないかと感じました。

「自分が絶頂にあって、なお下を見ないで上ばかり見るのはあぶない」尊徳は富を手にしてさらなる富を求めて際限なく頑張ることを戒めて、こう表現し、天命に安んじろというお話で最後を〆られていらっしゃいました。

文章だけを素直に読めば、間違いなく「止まる処を知る」の教えでもあります。「大学」には「鳥でも止まるところを知るのだから、人間は当然わきまえておくべきだ」という文言もあります。常にトコトン現場で実践の二宮尊徳です。学者のような教え方とは全く違うはずだと思いながら、日々学習をすすめています。



土曜担当…佐々木秀彦



 8月3日(月)
「近況報告」   月曜担当…池田光

8月に入りました。
ぼくのお籠りも6か月めに入りました。

◎まずショックだったことから……。
三浦春馬氏が亡くなられたこと。
享年30歳。報道を知ってからずっと、心のどこかで残念な思いが続いています。この残念な思いは、29歳で逝った吉田松陰を惜しむ気持ちと同じものです。
ぼくは三浦氏のファンではありませんが、その持って生まれた品性と才能は特異なものだと思っていました。
「30歳前後で亡くなった才能」(吉田松陰や三浦春馬だけでなく、多くの人々がいる)に対して、老年となったぼくは心から惜しみます。

◎コロナについては、着実に増えているようです。
今のところは、感染者の増え方も、政府のあり方も、ぼくにとっては予想通りです。中国や韓国とは違って強制力を発揮しない日本のやり方では、この前の緊急事態宣言が明けてからが感染の本番を迎えるだろうと考えていました。東京では感染者がゼロになった日が一日もなく火種が残ったままでしたから、燃え出すのは当然ですよね。(中国でも韓国でもゼロになるまで抑え込み、ゼロが何日も続くまで強制し続けていました。それでも感染者が発生し、そのたびに強制的に抑え込んでいます。ちなみに、ぼくはこのやり方に賛成しているわけではありません。)
また、マスコミや野党に圧されて国は対策費の多くをすでに使い果たし、自治体も対策費を使い果たして、現在はなけなしの予算で最小限の対策をしています。感染しにくい夏でこの様相ですから、感染期の冬はどう推移するのでしょうか。これから1、2か月のうちに、いろんなことが見えてくると思います。
おそらく、現在のような状況が最低でもあと一年は続くと思います。それと、今回のようなトラベルのキャンペーンという施策からは多くのことが学べそうです。このような従来型のキャンペーンは、afterコロナ発想ですよね。族議員の視点からでは、withコロナ発想は生まれないでしょう。
このキャンペーンに限らず、口ではwithコロナと言いながら、多くが無意識にafterコロナ発想しているように見えます。
今後の推移を見つめていきたいと思います。

蛇足ながら、ぼくはこんなふうに考えています。
感染者を積み上げていくボトムアップの視点からは、感染者数はたいへんな数字に見えます。また、医療の観点からも、大変な数字です。ですが、鳥瞰的に見ると、今の状況は「序の口」だろうと思うのです。
仮に、世界人口の10%がコロナに感染するとしましょう。すると感染者数は、世界人口77億人×10%=7億7千万人。
他方で、一日に50万人が感染していくとすると、一年で1億8千万人ほど。
この条件下で、感染者10%に達するまでに何年かかるかというと、7億7千万人÷1億8千万人=4年強となります。
つまり、世界人口の10%が感染するのに4年かかります。(参考までに、スペイン風邪の場合は、世界人口の25~30%が感染したそうです。)
現在の感染者は2千万人に届いていない状況ですから、この状況は「序の口」だと思っているわけです。
変数はワクチンです。効果があるワクチンが実現すると、感染増加にブレーキがかかるでしょう。ワクチンや治療薬に期待して、短くてあと1年。長くて3年くらい後には終息(収束)してほしいと思います。

◎ここ一週間ほどのうちに、パソコンが壊れ、マンションのエアコンが壊れました。
パソコンを2台使っていまして、そのうち一台が壊れたので、すぐに買い足しました。念を入れて、家内のパソコンでも弊社サイトやぼくのメールを管理してもらっています。また、大事なデータは外付けハードディスク数台にバックアップをとっていますので、ダメージはありません。
エアコンについては、明日、取り付け予定です。

◎お籠りして、もうすぐ半年になります。
これからのお籠りは、AとBの繰り返しパターンで進めていきたいと思います。

A……マンションで一人暮らし。一週間のうち、4泊5日(または3泊4日)。
読書中心に、気ままに暮らします。
朝でも昼でも眠くなったら寝ます。

B……自宅暮らし。一週間のうち、3泊4日(または4泊5日)。
この期間に雑務をまとめてやります。
ほかに、家内とのコミュニケーション。

これらA+Bで一週間を構成し、このパターンを繰り返していきます。

◎最近読んでいるのは、幕末維新を「開国」という観点から学べる本。
ある人が、こんなことを書いていました。
ペリー来航の年(1853年)に、幕末維新の人物が何歳だったか、すでに自分の思想を形成している年齢か、それとも人格形成時かで、その人物の見方が変わると。
ぼくも幕末維新の人物年表を作っていますが、ペリー来航の年に横軸を引いていましたので、我が意を得た記述でした。
佐久間象山あたりから読み進めて、雑多に、いい加減な読書をしています。

そろそろ、何かを書きたいと思います。
2017年に出版した『天風哲学で読み解く中村春二の「心の力」』がまだ売れ続けています。この本は48ページの小さな本です。
この続編のような、48~64ページくらいの小さな本を書きたいと思います。
まあ、実現するかどうかは別にして、着手してみようと思います。書くことは楽しいですから。

では、みなさま、お元気で。
いつの日か、お会いできることを楽しみにしています。


月曜担当…池田光



 8月2日(日)
「あるがままに」   日曜担当…八木正典

しっかり向き合うということは、物事を何も変えようとせず、あるがままに見ることです。そのときに感じていることを否定したり、感情を遮断したりしないでください。(タラ・ベネット・ゴールマン)

先月から仕事で組織間の問題が発生し、その対立構造の中で事実確認を含めてかなりの時間を費やしております。これまでの感情的なしこりも相まって事態は複雑化してしまっております。
どちらが言うことも心情的にはわかるけれども、どちらも一部は勝手な言い分であり、その中で納得性のある方向性を見出していかなくてはなりません。
そんな時はいかに先入観を排除してそれぞれの話を真摯に、公平に聞けるのかがポイントになってくるのだと思います。こ
すぐに感情的になりがちな自分の習性を認識し、いかにあるがままのものを感情的にならず受け入れられるのか工夫をして、解決していきたいと考えています。


私たちは善と悪があると言います。(中略)なぜ私たちは、これは良くてあれは悪いと言うことによって人生を区別し、そうすることで相反するもの同士の対立を生み出すのでしょうか?(中略)実際にはただ一つのもの、すなわち、不注意な精神があるだけなのではありませんか?全き注意がある時、つまり精神がすっかり目覚めていて、機敏で、注意深くしている時には、悪とか善とかいうものは全く存在しません。(クリシュナムルティ)

日曜担当…八木正典


 8月1日(土)
「貧富」   土曜担当…佐々木秀彦

富と貧とはただ少しの隔たりだと二宮尊徳は言っていました。

貧者は昨日の為に今日勤め、昨年の為に今年勤める。富者は明日の為に今日勤め、来年の為に今年勤める。

他に言葉が見つからないくらい真理をついた言葉だと思います。現代はクレジットカードが普及していて、今日の支払いが翌月だったりします。特に延滞等がなくても、先月使ったお金を今月支払うことに慣れきってしまうことは、二宮尊徳的には貧者ということになるでしょう。
翌月の支払いを今月中には銀行へ入金しておけば昨日の為に勤める必要はなくなります。そのお金に対する行動の仕方が貧富の差を分けるのかもしれません。

僕は9月の潜学講座で二宮尊徳を取り上げる予定です。今、人生で初めて二宮尊徳を学んでいますが、日本全国津々浦々の小学校に二宮金次郎像がある意味がやっとわかったような気がします。二宮尊徳は何より人間としてのバランスを重視した方だと感じます。偉人賢人によくありがちな誰も真似できない超人的なことが特にない。組織の人間関係には人並み以上に苦労されていらっしゃることも日本人的にとても参考になります。

二宮尊徳の考え方の根源は四書五経です。『大学』と限定してもよいくらいかと感じます。とにかく実践、そこは学者ではなく、首尾一貫、徹底して自分の仕事をとことんやり抜く。この徹底してやり抜くことが素晴らしい。

二宮尊徳は人の心を何より重要視しました。結局は村民がその気になって実行しなければ村の発展など為せないことを若い時からよく知っていました。ここが『大学』から学んだところだと感じます。

僕は四書五経を学んで、自己の貧富に繋がるような読み解き方をできていなかったことを今、猛烈に反省しているところです。いつの間にか、学問は学問とどこかで線を引いていた僕に気がつきました。

年度初めの予定では本日、潜学講座が開催される予定でしたが、中止にしました。4月と5月と8月のこの3回の中止は、湧くわく本心塾が来年の為に今年潜学講座を開催するといったような信念のような自覚を僕が抱くために神様が与えてくださったきっかけなのかもしれません。


土曜担当…佐々木秀彦




 7月27日(日)
「シンプルに」   日曜担当…八木正典

今人(こんじん)率(おおむ)ね口に多忙を説く。その為す所を視るに、実事を整頓するもの十に一二。閑事を料理するもの十に八九、又閑事を認めて以て実事と為す。宜なり其の多忙なるや。志有る者誤って此窠(か)を踏むこと勿れ。(言志録第三十一条)

いまどきの人は忙しいと口々に言う。実際に行っていることを見ると本当に必要なことをしているのは十の中の一か二に過ぎず、やらなくていい仕事が八か九である。やらなくていい仕事を本当に必要な仕事を思っているのだから忙しいのも当然である。志のある人はそのような考えに陥ってはならない。


コロナで外出を自粛し、日頃の行動を規制して過ごしていると、今までいかにやる必要のないことを自分の生活を維持するための大事なこととして行っていたのかがよく分かります。
日々の生活の中にあまりにも多くの活動を取り入れようとして忙しくなりすぎていても、それが当然のものとして、また必要なものとして考えてきたのです。
あれもこれもと手を出すうちに本当に必要なことに力が集中することが出来ていなかったことに今更ながら気づかされたのです。
何かを増やすことも大切ですが、それが本当に自分にとって大切なものなのかをしっかりと吟味し、必要に応じて絞り込み、自身の活動をシンプルにしていくことを意識したいと考えております。

日曜担当…八木正典



 7月19日(日)
「月下美人」   日曜担当…八木正典

マンションのベランダに4年前に実家からもらってきた月下美人があります。

これまで一度も咲くことがありませんでした。
一昨年はつぼみが出来るところまでは行ったのですが、うまく成長せず花は落ちてしまいました。
昨年はマンションの大規模修繕により、日当たりが悪いためどんどん弱っていく一方で、そのまま枯れてしまってもう元気に成長することは無いのかと思うほどの状態でした。
春先に少し手をかけて元気になってきていたのですが、それが先々週からつぼみが大きくなっていき、先週初めて花が咲いたのです。
夜のみ、しかも一晩限りの花の美しさと香り、そして自然の生成化育の姿に感動しておりました。

佐藤一斎先生は、言志録の中で次のように記されています。

静に造花の跡を観るに、皆な其の事無き所に行わる。(言志録17条)
(心を静かにして、自然が生み出す草花の様子を見ていると、少しの無理もなく、強いてやってやろうという気構えがまったくない。)

コロナが再度流行の兆しを見せております。その中で、必要となる情報は確りと収集しながらも、自然の生成化育の素晴らしさを信じ、淡々と自身の為すべきことを行っていきたいと思います。

日曜担当…八木正典



 7月11日(土)
「養生」   日曜担当…佐々木秀彦

『禅堂や道場等ではつとめて拭き掃除をさせた。毎朝、朝から晩まで学問・修養では神経衰弱になって、胃腸障害を起こしがちであります。そこで清潔・清掃といって拭き掃除をさせる。したがってこれは労働ではなく、本当は養生であり、療養であったわけであります』(安岡正篤運命を思い通りに変える言葉・池田光)

前回の潜学講座で「鍵山掃除道」の講座がありましたが、安岡正篤師も掃除の効果に関して具体的にお話されていらっしゃるようです。

人間の二足歩行は引力に反するので、人間の健康上の弊害を引き起こしている大きな要因ということです。そこで四つんばいで動物的な動きで数十分歩き回ってみるだけで、胃腸病や神経衰弱も治るらしいというお話です。
拭き掃除と言うのはまさしくその実践で、学問や修養と合わせてプログラミングされた理のある養生であると、池田先生の本には記載されています。

トイレ掃除をすることで、それを知る人々から信頼をえることができる、そしてその信頼はやがて仕事に繋がり、収益につながっていくことは理解しておりますが、身体の健康にも大きなプラス要素であることは知りませんでした。本には2つの効果が謳われています。神経の活性化、内臓細胞の活性化。この2つはとても大切なモノですよね。床の拭き掃除同様に、トイレ掃除も立ってすることはできません。しゃがんで…動物のような動きとなるので、やはり神経的にも内臓的にも効果は期待できそうです。

四つん這いで歩き回ること…現代日本の生活では皆無ですよね。役者をやっていた頃は舞台裏を四つん這いで移動するということもありました。船乗りも船の中では四つん這い移動もありそうです。ロッククライミングが最近凄く人気なのは、動物的な動きで身心に好影響があることを、そしかしたら実践者が実感していることも大きな要因かもしれません。

そういうことも考えると、床を四つん這いで拭き掃除をすることは本当に大きな意義がありそうに感じます。

土曜担当…佐々木秀彦




 7月6日(月)
「近況報告」   日曜担当…池田光

お籠り生活も5カ月目に入りました。
毎日、元気に籠っております。

先日、お籠りして初めて三宮に出かけるという遠出をしました。
税理士さんから、年度決算のために、どうしても来てほしいとの連絡を受けたからです。
(月々の経理処理はメールと電話と郵便でやりとりしています。)
家内の車で直行直帰しました。
車窓から見る街は普通でした。

執筆については、ようやく終了しました。
お籠りしているので、早々に仕上がるだろうと思っていたのですが、まったく予想が外れました。
読んで難しいと思える文章は、簡単に読めるまで書き直しました。
原稿用紙1枚半くらいの文章を、何日もかかって書き直したものもあります。
難しい文章を書くと賢そうに見えるのですが、そんな文章こそ排除しています。
ややこしい言い回しになった時点で、バッサリ切り捨てています。
そして、「こんな本、誰だって書けるぞ。バカな著者だ」と言われるくらいにまで簡単にしたいと思っています。

コロナについては、東京で連日100人を越えるようになりました。
ぼく個人の感想としては、非常事態宣言が解除された後の感染カーブは、もっと早い段階で上昇すると思っていましたので、100人超えまで時間を稼げたと思っています。
感染が広がっているのは、「マスクを外して、歌ったり、会食している状況」のようです。
逆に言えば、「飛沫感染(飛沫を原因とする接触感染を含む)」を避ければ、ある程度防げそうです。
まず、パチンコ店は大丈夫なようです。
密な空間でありながら、黙々とゲーム機に向かって遊んでいるだけですから、マスクをしていればあまり問題はないのかもしれません。
危ない場所は、カラオケ、会食施設、次に職場、家庭といったところでしょうか。
・マスクを外したら、人前で喋らない。喋るならマスクをする。
・こまめに手洗いする。(外なら消毒液を持参してこまめに使う)
・会食しているときは、喋らない。食事が終わったあとで、マスクをしてから喋る。(どうしても会食時に喋りたいなら、オンライン会食にする)
こういったことを徹底すると、感染コントロールできるように思いました。ただし、コロナが変異して、さらに感染力が増せば、話は別ですが。

また、やっかいに思うのは、諸外国とある程度自由に移動できるようになることです。
特にオリンピックについては、都も国も意思決定を誤ってほしくないと思います。膨大なお金がからむと、意思決定は狂いやすいですから。
世界の状勢を見ると絶望的だと思いますが、やってやれないことはないでしょう。
ただオリンピックに対応できない国々が多いでしょうから、参加しない国や、参加できない選手が続出するような気がします。

さて、ぼくのお籠りは「第二ステージ」に入ります。
執筆を終了しましたので、新しいお籠り生活を工夫したいと思います。
今回の原稿を書いていて、安倍首相のお祖父さんにあたる岸信介の『論語と渋沢翁と私』という書物をかいつまんで読みました。
岸信介(1896~1987)は戦後、A級戦犯の容疑を受けて巣鴨拘置所に収監されました。三年間の拘置所生活のなかで、岸を慰めたのは、渋沢栄一の『處世の大道』だったそうです。岸の実弟の佐藤栄作が差し入れしたもので、7回繰り返して読んだそうです。
この本の序文に、拘置所生活というのは、経験した人でないとわからないくらい苦しいものだということが書かれていました。しかし、本を読むには最適の空間だとも書かれていました。

これに比べると、ぼくのお籠りなどはお遊びです。極楽です。しかし、読書や勉強には適した空間でしょうから、ちょっと自分を鍛えてみたいと思います。
前のブログに、マンションに読みたい本を搬入していると書きましたが、その後も『芥川龍之介全集』などを運び入れたりしています。初期の短編をいくつか読んでみましたが、この筆力は何だろうと驚いております。圧倒的な実在感なのです。

ところで、お籠りを支えるぼくの信条は、「重症化しやすい老人は、コロナに罹らないよう自分を隔離して、社会の迷惑になるな」です。
ただでさえ、老人になると社会のお荷物になるのに、こんな非常時に社会に迷惑をかけてはならない、と自戒しております。
少なくとも来年の春までは、数キロ圏内から一歩も出ないつもりで、何か勉強したいと思います。
とはいえ、万が一、コロナにかかってしまったらお許しください。

では、第二ステージも「社会に迷惑をかけるな」を信条にして、今後ともお籠りを続けてまいります。
では、みなさま、お元気で。

月曜担当…池田光



 7月5日(日)
「君子占わず」   日曜担当…八木正典

引き続き易経を学んでおります。
六十四卦三百八十四爻あるのでなかなか読み進んでいかないのですが、ぼつぼつと理解を進めております。
学んでおりますと今までは全く分からなかったものが、思わぬところでつながったり、理解が一気に進んだりと驚きに満ちた楽しさがあります。

万物流転、全ての存在は進化、向上、発展のために変わり続けます。
過去から多様な人類の経験の中で、まぎれもない事実として人間の本質を見据えたすぐれた叡智が受け続けられてきております。
今から六千年以上前に伏羲が卦をおこし、三千年以上前に文王が彖を作り、周公が爻を作り、二千五百年以上前に孔子が十翼を著したと言われている易の考えを、時代を超えて学べるというのは非常に恵まれた有難いことだと感じております。

「君子占わず」、「よく易を修める者は占わず」という言葉がありますが、よく学んだ人は易で占わなくても未来が分かるのだそうです。
その境地ははるか遠いですが、一歩一歩着実に学びを深めていき、易の楽しさを感じ続けられたらいいと思っております。

日曜担当…八木正典



 7月4日(土)
「掃除」   土曜担当…佐々木秀彦

新型コロナでの緊急事態宣言後、初めての潜学講座が開催されました。
第8期は先月の天正寺座禅会に続き2回目ですが、大阪倶楽部での潜学講座は3月7日以来、実に4カ月ぶりの開催でした。

第1講は井ノ上博文講師の初講座『鍵山掃除道』
「良樹細根」良い樹は根が細かいというお話は、「良気細根」と置き換えても正しいのかなと感じました。井ノ上講師は鍵山掃除道を実践する2年で、人生に対する考え方が一変したと力強く語っていただけました。「誰でもできる簡単なことで、人に差をつける」人生に劇的なチャンスなんてない、人間そんなに才能に差があるわけでもない、だからこそ、誰にでもできる簡単なことを、徹底的にやり続けることで、人様と大きな差をつけることができる。これが最も肝要なことなのだと心に染み入るように感じました。
日本の場合、新入社員で入社するとまず雑巾がけから始まります。スポーツも同じ、料理人等の職人さんもまず最初は雑巾がけからはじまります。この習慣があるからこそ、明治維新も高度経済成長も見事に成し遂げたのではないかと思いました。現代日本社会の閉塞感は雑巾がけの習慣を疎かにしていることの表れなのかもしれないとも感じました。

第2講は冨樫功講師の『日本人のルーツ』
神社仏閣への造詣の深い冨樫講師なので、神話の中から興味深いお話があるのかと期待しておりましたが、良い意味で見事に裏切られました。DNAの研究が目まぐるしく進化している現代らしく、解明されている遺伝子を追いかけることで、ホモサピエンスが誕生した約20万年前まで遡って、現代日本人に到達する流れを確認しながらのお話でした。
僕達が学校で習った40年前の教科書に書いてあったことが、科学の進歩によって違うことがいくつもいくつも確認されています。たかだか学校で習った程度の知識であっても、アップデートしなければ役に立たない知識になります。日常生活の知識も、道具も、常識も、常にアップデートする、つまり進化させていくことが大切なのだと強く感じました。

井ノ上講師の『実直』という感じの爽やかさと、冨樫講師の『柔らかな風』という感じの爽やかさ、まったく違う雰囲気のお二人の爽やかさで『日本人の優れた感性の根幹部分』に深く切り込まれた講座は、疫病で多くの常識を変えていく必要のある未来への道標になるべきお話だったように感じました。湧くわく本心塾に深く感謝いたします、ありがとうざいます。

土曜担当…佐々木秀彦



 6月28日(日)
「時の勢い」   日曜担当…八木正典

時の勢いを得ることが、成功や成長への近道となります。
そんな中で勢いを止めてしまう可能性があり、気を付けるべきことにつき書かれている言葉がありましたのでご紹介します。
安岡先生が解説されておられますが、中国の兵法書である六韜にある文章です。

義を見て而も怠り、時至りて而も疑い、非を知って而も処る。この三者は道を止む所なり。

いいと思うことを見ても自分では実行することなくさぼってしまう。
チャンスが来た時に迅速に判断せず、疑い石橋をたたきすぎてタイミングを逃す。
間違ったことを行っていると知りながら改めようとしない。

仕事でもプライベートでもありがちなことばかりです。少し考えただけでも、いくつも恥ずべき自身の行動や思考が思い当たります。
普段の活動の中で、三つのことに当てはまってしまっていないかを日々反省し、時の勢いを生かせるように改善を図っていきたいと思います。

日曜担当…八木正典



 6月21日(日)
「メンタルの強さ」   日曜担当…八木正典

メンタルの強さとは何か?
メンタルの強さは「何をするか」ではなく、「何をしないか」に表れる。

ある本にそんな言葉が紹介されていました。
「何をしないか」に表れると言われても、私はこれまで自分を成長させるために新たな良いことを見つけ出し、新たな習慣として取り入れることを続けてきたのです。
簡単に受け入れられるものではありません。

ただ、冷静になって考えてみたら、「やりたいこと」は無限、「やれること」は有限です。
限られた「やれること」をやるためには、選択と集中が必要なのです。
自分のとって不必要と思われる「やらないこと」を徹底してやらないことで、今後享受できるものの質の差に繋がっていくのだと思います。

自分にとっての重要事項を決めその重要事項に注力するために重要性の低いと思われることにかける時間を極力減らしていく。そういう日々を心がけていきたいと考えております。

日曜担当…八木正典



 6月7日(日)
「ZOOM座禅会」   日曜担当…八木正典

本日は、本心塾主催のZOOM座禅会の日でした。
佐々木奘堂先生からオンラインで座禅の極意の講義を受ける、こんな贅沢で有難いことがよくできたものだと感じながら受講させていただきました。

你、信不及なるが為に、所以に、今日、葛藤す。(臨済禅師)
君が今、葛藤しているのは、「信」が足りないからだ。

最も大事なのは「信」だとの話から始まり、吉田松陰、臨済禅師、白隠禅師、聖徳太子の言葉を教わりながら、座禅に必要な心構えを教えていただきました。

そして、自分の足で立つという座禅の実践。
ZOOMで座禅の臨場感までは伝わらないのではと思っていたのが完全にいい意味で裏切られ、丁寧に誰にでもわかるように具体的に示していただき、奘堂先生の熱意をしっかりと感じることが出来ました。

学ばせていただいた自分の足で立つことの重要性とすべてを放って起き上がるという禅の極意を、少しでも日々の生活に活かしていきたいと感じております。

日曜担当…八木正典



 6月1日(月)
「近況報告」   月曜担当…池田光

宣言が解除されましたが、ぼくは元気にお籠りしています。
街が少し賑やかになってきたのをテレビで拝見しました。ここ数か月の知見が盛り込まれたガイドラインにそっての活動でしょうから、どれだけ感染予防をしながら活動再開ができるか、今後1か月くらいの動向に注目したいと思います。

また、お洒落なマスクや夏向けのマスクが販売されたり、テレワーク支援システムやグッズができたり、新しい飲食形態が工夫されたり、一番困っているエンタメが大きく進化しつつあり、そんな前向きな知恵を見ていると嬉しくなります。
ハンコ文化の意識が変わってきたのも嬉しい限りです。実印は別として、三文判を押さないと承認されないことがずっと不思議でした。会社の角印も同様です。実印以外は、いくらでも作れて、何の保証にもならないと思うのですが。

今後とも、テレワークやオンライン授業を徹底的に押し進めて行ってほしいと思います。
嬉しく思ったのは、在宅勤務になって自死する人が減ったというデータです。上司を選べませんからね。そんな上司がテレワークになって、日ごろは隠れていた無能さが露見するなども良い傾向だと思います。歳を取っても人は成長し続けないといけません。危機感は最高の動機づけですから、その本人にとっても、職場にとっても良いことです。
テレビでは小学生が学校に行けることを喜んだりしていますが、そんな子供たちばかりでしょうか。学校嫌いの子供が相当数いて、この状況を密かに喜んでいると思うのですが。
コロナはいろんなものを炙り出してくれようとしています。世界同時危機ですから、地球規模で変化が起こりつつあるようです。有事には国家間の関係も大きく変わってくるようです。数年後はどんな日本になっているのか、興味深いことです。

ところで、ぼくのコロナへのイメージが変わりました。肺炎だと思っていたのですが、血管に入って血栓をつくるのですね。中症患者や重症患者に、退院後も血栓の後遺症が残るのではないでしょうか。もしかしたら、無症状や軽症患者にも血管へのダメージがあるとしたら、恐いことです。
今は原則として、PCR検査をして陰性なら治ったことになりますが、治っても血栓という時限爆弾を抱えることになりはしないか、このことについての研究はこれからでしょうから予断を許しません。
もし血栓などの後遺症が残るなら、60~70%が抗体を持てば終息するので定量ずつ感染しよう、という認識は、別の問題を含みますね。やはりワクチンができることを期待します。

では、近況報告いたします。
◎ぼくのお籠りも、4か月めに入りました。
運が良ければ、あと1年。おそらく数年のお籠りをしなければならないと、考えを改めています。
(2月の時点で1年か1年半を想定していましたので、3か月以上が経過した現時点では、9か月か1年3か月ということになりますが、この期間中にはどうも有効な対策はできないでしょう。ところで、ぼくのお籠りは個人的なもので、社会は対策をしてどんどん動けばいいと思います。
ついでながら、オリンピックの1年延長は大きな問題を抱え込んでしまったと感じています。オリンピックを開催することは、世界中から日本にやってくるということで、どんなにコロナが発生している国があっても、オリンピックの建前きからすべての入国を認めないといけないでしょう。コロナが終息していない限り、火種を抱え込んだ形です。個人的には、延長に伴う追加予算を支出する前に、コロナの状況を踏まえて、開催の再決定をすることが望ましいと思っております。)

◎数年のお籠りを想定し、これだけの時間があればまとまった勉強や読書ができると受けとめ、お籠りしているマンションに、『吉川幸次郎全集』27巻、『荷風全集』20巻、『森鷗外全集』9巻、『図説中国文明史』10巻、『中国詩人選集』7巻、『渋沢栄一全集』6巻などの全集ものや、勉強したい本をいろいろ運び入れました。
気軽に読める『日本の名随筆』も何冊か棚に並べました。このシリーズは、正編100巻、別巻として100巻があり、全200巻の浩瀚なものですが、ぼくが持っているのは10巻ほどです。
「外には出かけない」と決めたので、書物と向き合う気持ちが湧いています。

◎上記の『荷風全集』20巻は、ちょっと楽しみにしています。ぼくは永井荷風が好きで、学生時代にズボンの後ろポケットに文庫本を差し込み、よく読んでいました。
いつか全集を読み尽くしたいと思っていましたが、読み尽くすまではいかなくても、三分の一ほどは読みたいと思います。

◎最近読み終えた本は、吉川幸次郎の追悼集です。桑原武夫・富士正晴・興膳宏編『吉川幸次郎』筑摩書房で、昭和57年に発行されたもの。とても刺激を受けました。
ぼくに漢文を教えてくれた先生方は、吉川幸次郎の孫弟子に当たり、弟子→孫弟子へと受け継がれてきた漢文の読み方があり、都度そんなことを話してくれましたが、これを思い出しておりました。

◎一日に飲むコーヒーや紅茶の量が増えました。紅茶は5種類くらいのものを、その時の気分によって使っています。
しかしお籠りしていると、運動量と食事量のバランスがくずれることがあり、油断するとすぐに1、2キログラムほど太ってしまいます。このあたりが課題です。

◎お籠りしている間に散歩をしたのは、3回。1か月に1回のペースです。4か月めに入りましたので、そろそろ散歩したいと思います。人がいないところを狙いたいと検討中です。2時間弱ほど一人で歩くだけですから、たいそうなことはないものの、意識しないとどうも外に出かけません。

◎呑気なことばかりも言っておれません。コロナによって主力のビジネスが90%減になっており、40代のころから有事対策(固定費ゼロに近づける、数種のビジネスを組み合わせるなど)をしながらやってきたものの、ぼくのビジネス全体でかなりの減収になりそうです。お籠りして、人と会わずにできるビジネスを拡大していこうと思います。老後もがんばって働き続けないとダメなようです。
(基本的に、国には最低限のことはやってもらわないと困るけれども、それ以上を期待するのは、子供や孫の世代にツケを回すことになると危惧しています。2次補正予算も加えると、他国以上に手厚く財政支出をしようとしていますので、一部では隠れたコロナバブルが発生しているのではないでしょうか。ぼくはお金の使い方に疑問を持っています。米百俵の百俵を飢えているところに直接ばらばらまいている感じがして、これでは一時的な飢えを緩和するだけで、次の波が想定以上のものだと飢えを緩和することもできず、賢い使い方ではないように思います。実際は、飢えていないところにも、ばらまくという結果になっているのではないでしょうか。支持率が低くなってきて、野党やマスコミの声を丸のみして2次補正予算を作ってしまった感じで、左寄りの野党やマスコミなどに踊らされると亡国につながると思います。)

◎あいかわらず整理を続けています。5年後にこのマンションを売却するなどして、整理を完了させる予定です。蔵書とは別に商品在庫が数万冊ほどあり、今年に入って不良在庫をかなり処分しましたが、まったく減った感じがしません。焦らず、着実に、整理していきたいと思います。

では、みなさま、お元気で。

月曜担当…池田光



 5月31日(日)
「続くことは有難い」   日曜担当…八木正典

おかげさまで、今月で2014年から続けている水垢離が7年目に入りました。2200日を超えました。

考えてみれば、当時本心塾の今西会長や坂本さんから水垢離の話を聞いて、その時はやるぞ、自分の弱い心に打ち克つんだ、続けるぞという並々ならぬ気持ちを持ってスタートしたのです。

それが気付いてみれば6年間続いていて、最初は物珍し気に見ていた家族も、今では「あぁ水垢離ね」と普通の何ともない反応となり、今はもう当たり前すぎて日常生活の一部になりすぎて、特に特別なことを意識するとこもなく、気合を入れることもなく、毎日淡々と行っているのです。

習慣とは恐ろしいものですね。
もう生活から切っても切れなくなっており、止めようとも止めたいとも思わないです。
というよりも水垢離を行わない一日が考えられません。

こうして毎日毎日感謝行をしながら、水を浴び続けられていることが、自分も家族も健康な証であり、平和が続いていることでもあり、有難く感じられております。
続くことは有難い。これからも、3000日に向けて一日一日を積み重ねていきたいと思っております。

日曜担当…八木正典



 5月24日(日)
「三悪」   日曜担当…八木正典

善を見て而も怠り、時至りて而も疑い、非を知って而も処る。この三者は道を止む所なり。(安岡正篤)


引き続き易経をぼつぼつと学んでおります。
先日の本心塾ZOOM情報交換会で、冨樫さんから国立国会図書館のデジタルコレクションに易経の名著があると教えていただき、目を通しながら学びを深めております。

易経の言葉に、「時中」というものがあります。
「時中」とは時にあたることです。それを為すべきタイミングに為すべきことを適切に為すのが、時中なのです。最良のタイミングを逃してはいけません。
安岡先生も、三悪の記載の中で、「時期、時というものはのべつ幕なしにあるわけではない。必ず機というものがある。」と述べられています。

自分の行動を振り返ると、後から考えていかに時中を逃して後悔していることが多いことかわかりません。周囲で起こる兆候や兆しをしっかりととらえながら、実生活に結び付けていきたいと考えております。

日曜担当…八木正典



 5月17日(日)
「中」   日曜担当…八木正典

全国39県で緊急事態宣言の解除が行われ、ウィズコロナ下での社会生活や経済の正常化の動きが進みつつあります。
何事も厳しい規制が緩まると、緩みが想定以上に逆に触れる可能性があるので注意したいものです。早めの終息を望みながら、自分の出来ることを行っていきたいと思います。

コロナ拡散とその長期化は、これまでの人々のマインドセットが大きく変容する、そのきっかけになるものだと感じております。
これまで作り上げてきたグローバルな分業体制や主要都市への集中など効率性の観点で構築されてきた社会の見直しにつながるものですし、人とのコミュニケーションスタイルやリレーション構築の在り方なども大きく変化していくのだろうと思います

最近、何度目かのトライで易経を理解しようとしています。
易の三つの義は易簡、変易、不易です。
易簡とは、様々な事象や事変を少しも難しくなく、無理なく、平易に簡明に解き明かしているということです。変易とは、天地間の神羅万象はただ一つの例外もなく変化しないものはないということ、不易は天地の法則は変わらないということです。
その三つの義を内包しながら、易は及ぶこともなく、過ぎることもない「中」を尊ぶのです。

大きな変動や変容が発生していく中で、変わるものと変わらないもの、変えるべきものと変えざるべきものをしっかりと見つめながら、真の中道にかなうものは何なのかを自分なりに判断していきたいと感じております。





日曜担当…八木正典



 5月3日(日)
「風が吹けば」   日曜担当…八木正典

風が吹けば波が立つ。波が立てば船も揺れる。揺れるよりも揺れないほうがよいけれど、風が強く波が大きければ、何万トンの船でも、ちょっと揺れないわけにはゆくまい。(中略)
大切なことは、うろたえないことである。あわてないことである。うろたえては、かえって針路を誤る。そして、沈めなくてもよい船でも沈めてしまう結果になりかねない。すべての人が冷静に、そして忠実にそれぞれの職務を果たせばよい。ここに全員の力強い協力が生まれてくるのである。
嵐のときほど、協力が尊ばれることはない。うろたえては、この協力がこわされる。だから、揺れることを恐れるよりも、協力がこわされることを恐れたほうがいい。(松下幸之助)



ステイホーム週間としてゴールデンウィークを楽しく家で過ごしております。
少し時間もあるので読みたい本を読み返しております。司馬遼太郎先生の「竜馬がゆく」を久々に読み終えた後、「坂の上の雲」に移っております。
学生時代や新入社員のころから何度か読ませていただいておりますが、アフターコロナ後の大きな社会変動が予想される中で、初心に返る気持ちで読み進めております。
前回読み終えてから年数もたっておりますので、これまでと違った新たな気づきが得られたらうれしいと思います。

池田先生がブログの中で、今はお籠りすることが社会貢献だと述べられております。
外出自粛の中で、今自分が協力できることは何かを考えながら、新たなエネルギーと情熱を蓄えていきたいと考えております。



日曜担当…八木正典




 4月27日(月)
「近況報告」   月曜担当…池田光

過ごしやすい季節になりました。
みなさま、お元気のことと思います。

ぼくは、相変わらず、元気に執筆しています。
2週間ほど前から書くのが楽しくなり、毎日8時間くらい頑張っていました。おかげで、スイスイはかどり、ひと通り書きあげました。
これから推敲の段階に入ります。とりあえず、粗くですが1冊書きあげたので、石彫家の川井信一さんから頂いた、ほうらいせん(関谷醸造)の「空」か「吟」のどちらかを開けて、祝いたいと思います。

3、4日前に友人から珍しく電話がありました。新鮮でした。30分ほど話しました。友と話すと、元気が出ますね。
その友が、最近、うどんを作っていると教えてくれました。これに触発されて、ぼくもうどん作りに挑戦したいと思います。
別に、うどんが好きというわけではありません。
うどんを作るには、生地を踏みますよね。この踏む作業が運動になると思いました。どうせ、室内で運動するなら、うどんでも作るかと。

先週の金曜日に、一人で散歩しました。須磨から、須磨寺、月見山のあたりをぐるぐる廻りました。お籠りをして以来、はじめての散歩でした。歩いている人の姿をみていて、25年前の阪神淡路大震災の頃を思いだしました。あの頃と、人々の雰囲気が似ていたのです。

昨年からハードダーツを始めましたが、コロナの影響で、会場にしていたお店が閉店したと連絡がきました。ハードダーツは、自分で暗算して点数をつけるので、認知症予防になります。なにより、ゲームを始める前に、仲間とビールを飲むのがスポーツらしくなくて気に入っていたのですが……。
ほかにソフトダーツの店はあるようですが、ハードダーツの店は珍しいので、この遊びもできなくなりそうです。

一海知義著『論語語論』(藤原書店)を、いま読んでいるのですが、お勧めです。
ゴロンと寝ころんで読んでほしいと、題して「ロンゴ・ゴロン」だそうです。とにかく、面白くて、教養を身につけたくなくても、身についてしまいます。

今は、お籠りすることが社会貢献です。
お籠りは、蝶になる前の繭に似ていると感じます。繭は手も足もなくて、不自由です。ですが、エネルギーが内向化され、新たな可能性が育まれることでしょう。
すでに繭から発信されて、みんなを元気づける文化が育っていきつつあるのではないでしょうか。この繭から、どんな鮮やかな蝶が誕生するのか楽しみなことです。
25年前、阪神淡路大震災で被災したぼくは、10か月ほどお籠りしました。老年になって、再びのお籠りです。何かまとまった勉強をしようと思います。

本心塾の執行部が、ZOOM講座を模索してくれているようで、嬉しく思っています。この8期はオンライン講座の可能性を追求してほしいですね。
では、みなさま、お元気で。
お会いできる日を楽しみにしております。

月曜担当…池田光



 4月26日(日)
「大海の一滴」   日曜担当…八木正典

わたしたちのしていることは、大海の一滴に過ぎません。
ですが、もしこれをするのをやめれば、大海は一滴分小さくなるでしょう。(マザーテレサ)

お互いがこうして生きている。考えてみれば、これくらい不思議なことはない。この悠久なる時間と、この茫漠たる空間の中にあって、たまたま時と所を一にしてこうしているという、こんな不思議なことはないということがわかれば、この現実、この刹那、この寸陰、この場、この身というものが、何よりも大事なのである。無限に愛惜すべきものになる。これを「但惜身命」という。(安岡正篤)

ウイルスと人類との闘争が一日でも早く終息することを祈りながら、気分を落ち着けて読書を続けております。
尊敬する偉人の書物の中に、普段であれば気づかないような言葉の強さやエネルギーを感じて、前向きな気分を高めてもらっております。
制限されている日々の中で情味を見出しながら、大海の一滴でありながら大海につながっていることを感じていきたいと思っております。



日曜担当…八木正典



 4月19日(日)
「雑用」   日曜担当…八木正典

ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さんの話に次のようなものがあります。

夕食の配膳で、百枚以上の皿やフォークなどを置く作業をしていた時に、先輩シスターから「あなたはなにを考えてしていますか」と質問されました。
「別に何も考えておりません」と答えたものの、心の中では「つまらない仕事を早く終わらせよう」と思いながらしていたのです。
するとその方は、「同じ並べるのなら、やがて食卓につく一人ひとりのために、お幸せになりますようにと祈りながらしたらどうですか」とおっしゃったのです。
そのことがあってから、仕事に対して不平不満を抱くことがあった私が、与えられた仕事を一つひとつ意味あるものとして、ていねいに向き合うようになっていきました。
世の中に雑用はありません。雑用は用を雑にした時に生まれるのです。

緊急事態宣言後、自身の行動半径が非常に縮んでおり、在宅勤務の増加とともに、外出する機会が一気に減っております。現在の環境を考えれば当然なのですが、人との会話や出会いも最小限の生活となっております。
そんな中であるからこそ、自身が行う一つ一つに行動に意味づけしていくことも必要なのではないかと思っております。すべての機会で自分の行動が雑用にならないように、何かしらの社会にプラスの影響を与えられるよう日々工夫をしていきたいと考えております。





日曜担当…八木正典



 4月13日(月)
「近況報告」   月曜担当…池田光

みなさま、お元気のことと思います。
ぼくの「お籠り生活」も2か月近く経ちました。
2月から事務所兼倉庫にしているマンションに一人で籠っているわけですが、慣れないせいか長く感じます。ようやく2か月間か……という感じです。
コロナが落ち着くまでは籠り続けたいと思いますので、あと1年から1年半ほどのお籠りを想定しています。それまでに何らかの解決が見えるといいのですが……。
さて、近況報告の前に、コロナのことを書かせてください。

緊急事態宣言がようやく出されました。ぼくには、政府が2度タイミングを逸したように見えます。
1度目のタイミングは、1月中下旬でした。春節祭前に、武漢からの渡航者を封鎖すべきであったのに遅れました。
2度目のタイミングは、3月下旬でした。緩みが出たときに、緊急事態宣言を出すべきであったのに遅れました。
どちらも「経済」が主な理由でしょう。それはそれとして……。次の対応策ができればいいと思うのです。

【ぼくが思う基本対応策】
①「医療崩壊」「経済崩壊」「学習崩壊」の三つの崩壊をさせないように、
②感染者数コントロールをしながら、
③IT技術をフル活用して、1~2年はコロナと共生し、
④収束条件である特効薬やワクチンの普及を待つこと。

政府は「経済」に軸足を置くため、感染者数コントロールの上限値を狙っているようで、極めて危ない綱渡りをしているように見えます。
人と人のつながりを8割減らしてくださいと言いながら、本気が見えません。おそらく本音の数値は、6割程度なのでしょう。未知のウイルスを相手に、とても危険なコントロールだと思います。しくじれば、取り返しがつきません。
しかし日を追うごとに感染者数が伸びつつあり、他方で6割にも達することが困難で、政府もだんだん本気にならざるを得なくなるでしょう。

この新型コロナについては、人口の60~70%が感染するまで続くようです。それまでは、感染を封じ込めることはできないと推測されています。
封じ込めるには、人口の60~70%が抗体を持たないと無理ですが、そのためにはワクチンが必要です。ワクチンができ、これが普及するには一年では足りないでしょう。いや、ワクチンの効果も疑問視されています。
やはり特効薬でしょう。それも重症患者用の。それまでは医療崩壊させないよう、感染者数をコントロールしなければなりません。
それに、この伝染病(感染症)の致死率は、インフルエンザの50倍以上と高いですね。(日本では致死率は抑えられていますが。)
1月から2月のあたりは、「風邪に毛が生えた程度だ」「インフルエンザとさほど変わらない」などと報道番組で言われ、「正しく恐がりましょう」と甘いことを訴えていたのが、昔日のようです。
志村けんさんは急激に悪化してお亡くなりになられたようですが、免疫暴走(サイトカインストーム)という症状が出て、あれよあれよという間に、数時間ほどで死亡に至ったようです。免疫暴走のメカニズムを解明し、この治療薬がないと家に籠るしかありません。

さて、医療崩壊させない最大のポイントは、重症化し致死率が圧倒的に高い高齢者と乳幼児が、コロナに罹らないことです。加えて、たばこを吸っている人や、基礎疾患がある人が罹らないことです。
コロナは誰にも感染しますが、症状の出方は年代によって違います。お椀型のようになっていて、乳幼児と高齢者が重い症状になるようですので、この層の隔離がポイントです。
この層が感染すると重症用のベッドを専有してしまい、大幅に足りなくなれば、あっという間に医療崩壊します。これを避けるには、この層が感染しないよう隔離することがポイントです。
とにかく、罹患者が多い若い人たちと、高齢者層が接触しないことです。(無症状の人が多い若者の感染者は市中に蔓延し、高齢者の感染者の100倍くらいではないかと想像しています。)
現在、老人ホームでは入居者の外出や、面会をお断りしているようですが、そういうことが「隔離」です。ふだんは憩いの場になっている病院のロビーにも、老人の姿は消えたようです。老人となったぼくは、マンションに籠って自分を隔離しています。

また、働き世代や、学び世代は、IT技術を活用して、どんどんテレワークとか、オンライン学習すればいいと思います。
先日、テレビを見ていたら、中年の会社員が「明日から在宅勤務になったのですが、これまで営業で外を回っていたので、明日から何をしたらいいのか分かりません」と情けないことを言っていました。
営業が仕事なら、これまでに訪問したお客様に、まずメールしたらいいでしょう。
「コロナで、在宅勤務させていただくことになりました」という挨拶とともに、それぞれのお客様の個別事情に合ったことを丁寧に書いたらいいのです。
そして、上司や同僚に「こんな挨拶文を書いたけど、どうだろう」と意見をもらえば、テレ会議になります。さらに、会社の仲間から、次の一手のアイデアを募ったらいいのではないでしょうか。
ガラ携しか持っていない老人のぼくでも、これくらいのことは思い浮かびます。自分の仕事は、自分が専門家ですから、もっと良い案が浮ぶはずです。
失礼ながら、この会社員の情けない愚痴は、コロナのせいというより、これまで知恵を発揮してこなかったことが原因ではないでしょうか。自分の仕事に情熱と知恵を込めなかった人は、コロナがなくても、リストラが待っています。コロナはきっかけで、本質は別のところにあると思います。

居酒屋やバーだって、たとえばネット宴会を主宰して「宴会セット」(お一人3000円~5000円程度)をテイクアウトしたり、デリバリーとか宅配して、オンライン乾杯してワイワイ騒いだらいいじゃないですか。
とにかく、IT技術を活用して、「こんなことまでやる!?」ということを試してみたらいいと思うのですが。テレビを見ていたら、ズムキャバというのを始めたキャバクラがあるそうで、キャバ嬢を指名してズームで接客してもらうというシステムですが、こういう発想は面白いですね。
夜の街の楽しみを、ネットで盛り上がるようシステムエンジニアが知恵を発揮してくれたら、なお良いと思います。(そしたら、まったく縁がなかったぼくも、ちょっと楽しませていただくかもしれません。その前に、このマンションの部屋にネット環境が必要ですが……。)

ぼくはこう思います。
コロナで「家にいる」ことが多くなっても、人間には「つながり」が必要です。人は「つながる」ということがないと、つまり互いのやりとりがないと、心が痩せていきます。
ところが、コロナとの戦いは長期戦です。相手が相手ですから、これはどうしようもありません。すると、コロナと「どう共生するか」という知恵が求められます。
ぼくは、良い時代に伝染病が発生したと思います。IT技術と宅配があれば、「家にいる」ことの苦痛が、大きく軽減されます。
あとは、コロナと共生する(=コロナ感染者数をコントロールし続ける)と覚悟を決め、IT技術と宅配技術を用いて「つながり」への知恵を発揮することです。そして、「お籠り社会」に適応したビジネス転換や、学習転換を模索することです。
この状況で、何ができるかを模索しつつ、プラスに受けとめることが必要でしょう。いろいろ諸問題が発生しますが、乗り越えたいものです。
本心塾だって、新しいやり方を試してみればいいと思います。

中村天風は、手カセや足カセをはめられて牢獄に入れられたとき、「生れながらこんな姿だと思えば、なんでもねえじゃねえか」と言いました。
同様に、「家にいなさい」というカセをはめられても、最初からこんな状態だと思えば、なんでもないはずです。これくらいの精神力を持ち、この状態で何ができるか、可能性を追求したらいいと思います。

一番大事なことは、5月6日に緊急事態が明けても、ホッとして自分を解放してしまわないことです。みんなが自分を解放してしまったら、また、3月中旬の状態が再現するだけです。そうしたら、感染者コントロールするために、再度の緊急事態宣言が必要でしょう。
ポイントは緊急事態宣言明けの行動であり、ここが肝心だと思います。

そのためには、一人ひとりが自分なりに、お籠りストレスを低減させる工夫をして、「緊急事態が明けたけど、もっと家にいたい」「家にいる楽しみに目覚めた」という人が増えることです。さらに、「家にいたほうが、勉強がはかどる」「家にいても仕事にさしつかえない」という人が多くなると、感染者数を低減させ、かなり封じ込めることができると思います。

要するに、「家にいる」ことを当たり前にすることです。「家にいる」ことを我慢と言っているうちは、再度の緊急事態宣言が発動されると思います。
ぼく個人は、緊急事態が明けようと続こうと、変わりなくお籠り生活を続けます。あと1年~1年半のお籠りを覚悟し、お籠りの可能性を見つけて行きたいと思います。
なお、「緊急事態が明ける」ということについては、上田秋成の『雨月物語』に良い教訓がありますが、それはいずれ、また……。

ほかにもコロナについて思っていることがあります。
●「自粛要請と補償金をセットにする」ということについては反対ではありません。というか、必要だと思います。
しかし、テレビでコメンテーターが、「今の現金の支給が必要だ」「国が補償しろ」とがんがん騒いでいるのを聞くと、耳にたこができそうで、ほかのことを言ってほしいと思います。国はどこからそのお金を調達するのでしょうか。国に予算があるのでしょうか。国民へのツケ=税金になるとしたら、重税国家ですね。国債を発行するとしたら利子と元金で、益々の借金生活ですね。
提案ですが、コメンテーターは、「現金給付しろ」「国が補償しろ」と1回言うたびに、10万円寄付してくれないでしょうか。身銭を切りながら、このような発言をしていただき、その寄付を、現金給付が必要な三密のライブ会場や飲食店などの補償に充てるなら、大いに騒いでいただいていいし、社会貢献になると思います。
発想を変えないと、国も国民ももたないと思います。たとえば、「お籠り社会」に適応したビジネス転換が一つの方向だと思います。インターネットのセキュリティの問題を含め、課題は多いですが、この機会にぜひ転換をしてください、と思います。

●もう一つ、テレビではよく「家にいてください」と言っていますが、それなら、すべてのコメンテーターをスタジオに呼ばず、自宅から出演させたらいいでしょう。キャスターが1人か2人でやれば、国民の実感が湧くと思います。
追記。ある報道番組を見ていたら、実際にすべてのコメンテーターをリモート出演させていました。キャスターは1人だけ。見識を感じました。

●小さな矛盾ですが、人と人の接触を8割減らすために、「買い物を一週間に1、2回にしてください」とある報道番組で提案していました。これは「買いだめしてください」ということになります。
同時に、パニックにならないよう「買いだめしないでください」と報道されており、矛盾しています。どちらも一面の真理だけで、全体的な視野がありません。
有事には、こういう矛盾が発生するものです。われわれはある程度の矛盾を甘受して、目くじらを立てることなく、自分の頭で考えて行動することです。ポイントは、人と人のつながりを8割減らすことです。外出したら、手洗いするまで顔にふれないようにして、間接的な接触を減少させたいものです。
安岡正篤は『人物を修める』という本のなかで、「ものの見方」についてこう教えています。
「ものを考える上に大切な三つの原則を述べておきたいと存じます。
第一は、目先にとらわれず、長い目で見る。
第二は、物事の一面だけを見ないで、できるだけ多面的・全面的に観察する。
第三は、物事の枝葉末節にこだわることなく、根本的に考察する。」
整理すると、①長期的、②多面的・全面的、③根本的、ということです。これをやる一つの方法は、「想像」してみることです。
コロナという有事を、発端から終息までを想像してみてください。コロナはどんな性質か、われわれにどんな医療資源があるのか、現在の法律でどう「人命」を守れるのか、一人ひとりはどう行動すべきか、といった角度から、いろいろ想像するのです。
コロナの性質についてはだいぶ分かってきましたが、まだ未知の部分が多いです。初期にインフルエンザ並みだと認識した欧米は、医療崩壊を起こしました。相手を見誤ったのだと思います。
われわれは、「人命」を守るという大前提のもとに、「医療崩壊」「経済崩壊」「学習崩壊」の三つの崩壊をさせてはならないと思います。
ぼくなりに想像した答えが、冒頭の「ぼくが思う基本対応策」です。

●愛知県は大変ですね。有事にはリーダーの質がもろに現われます。ああいう県知事を選んでしまった県民の責任とはいえ、お気の毒なことです。他人事ではなく、兵庫県知事も危機感が欠如しており、まわりがどれだけサポートするかだと思います。
大阪府民も、今はリーダーに恵まれて都構想の思いが低下しているように見えますが、これだけリーダーに恵まれている時期は珍しいと思います。今のうちに都構想を進めて、リーダーに頼らなくても、都市システムが府政をカバーできるようにしていただきたいものです。後で後悔しても遅いです。大阪府民には未来を見据えていただきたいものです。
実際、未来を考えることが、防災にもつながります。
防災ということについては、ぼくは臆病です。火事、水害、地震、台風、疫病、恐慌、戦争、盗難……。亡父は地方自治体の職員でした。ぼくが幼い頃は防災課にいたので、台風が来ると市民のために必ず出勤して帰ってこないことが多く、ぼくは台風に怯えておりました。そんなこともあり、なるべく備えをするため、どんな事態が発生するかを想像しています。
疫病については、SARSウイルスの頃にこんな想像をしておりました。
疫病対策に失敗すると医療崩壊が始まり、そのときに起こる地獄絵のような混乱ぶりや、人間の尊厳もなく葬られる犠牲者の姿を思い浮かべたものです。(これを実際にテレビで見る日がくるとは……。)
コロナについては、武漢とクルーズ船の報道をつぶさに見ていて、コロナの感染戦略の巧みさに驚きました。その頃は報道番組でもワイドショーでも迷走していました。そんななかで、木村太郎氏は見識があると思いました。その頃(1月末から2月初旬あたりに)、ぼくはどんな想像をしていたかというと、3月から4月あたりには全世界に広がり、多くの犠牲者が出続けるのではないだろうかと思いました。ただ、大きく外れたのは、米国です。米国は早々と中国からの渡航を封鎖しましたし、水際対策ができているだろうと思っていたので意外でした。さて、前のブログにも書いたように、疫病の備えとしてぼくは、SARSウイルスの頃から、N95マスク、使い捨て防護服、ゴーグル、消毒液、使い捨てプラスチック手袋の5点を備蓄しています。それでも、家内との感染リスクに備えて、ぼくは2月20日の夜からネット環境がない不便なマンションで暮し、すべての予定をキャンセルして現在に至っています。例外は虫歯の治療で、3月初旬までかかりました。歯科医に急いでもらい、最後の点検をなくしてもらい、人との接触を最低限にしました。
日本はまだ、ぎりぎり医療崩壊に至っていません。が、崩壊寸前であり、院内感染が多発しつつあり、一部では崩壊しています。「家にいること」は絶対に必要です。特に老人は、社会的にも、個人的にも隔離することが必要でしょう。これが、今の状況下での老人の責務です。(老人ホームや介護施設で集団感染が発生するたびに、胸が痛みます。)

●この時期の社会貢献とは「家にいること」です。家にいることを徹底的に守って、自分が感染しないことと、誰かに感染させないことです。とにかく、医療の足を引っ張らないことです。医療崩壊させないことです。
◎老人は「ウロウロしないこと(感染しないよう自分を隔離すること)」です。ぼくをはじめとして、もはや社会のお役に立っていない人がウロウロ出歩いて、医療の足を引っ張ることがあってはなりません。加えて、「この一年は病気にならないよう養生すること」です。そして、お金を持っている老人は、子育て世代の息子さんや娘さんに、「共働きしなくていいように支援してやること」です。
◎富裕層は「寄付すること」です。有事には、税金だけでは足りません。三木谷さんをはじめ、心ある富裕層はえらいなあと、心から感謝します。
◎余裕がある企業も「必要な医療用品を生産すること」と「寄付すること」です。命にかかわるものを輸入に頼ったツケが回ってしまいました。
◎IT業界は、問題解決するシステムを作って「知恵で貢献すること」です。ネットで食事チケットを販売するシステムを作って、先に現金、後で食事、という時間差のシステムで貢献しているのを見ましたが、いいですね。
◎家主さんは「家賃を負けてやること」です。休業しなければならないのに、家賃だけはきっちり取るというのでは、気の毒です。全体の経済が低下するなかで、「痛み分け」の精神がないと、どこかに大きなしわ寄せが行きます。
◎地方自治体は、「あらゆる市民、村民などに、かゆいところに手が届くような配慮をすること」です。マンパワーが必要です。民間の知恵や力を募って、いっしょになってやるべきでしょう。各所に問題が発生してくると思いますが、これを拾い上げていくという、きめ細かな対応が必要です。何でも国のせいにしないで、自治体でできることは、頑張ってやることです。
◎リーダーは、「国民の命、都民・道民・府民・県民の命を守ること」と「新たな社会システムの方向を示すこと」です。
ぼくが期待する新たなシステムは、IT技術を活用したものです。そのためには、国家レベルでセキュリティに取り組まなければなりません。さらには、有事に強い社会システムです。これまでは、過度に経済にウエイトを置いていたのではないでしょうか。そんななかで生まれたのが、世界に広がるサプライチェーンシステムです。人はあまりにも物質的豊かさを求めて、それが「経済」への期待となっています。
また、現在の法律は、有事には弱いということが分かりました。平時に通用するのが日本国憲法です。有事の観点から見直すことが大切でしょう。今回のコロナでは、法制上の多くの弱点が見えてきました。これらを含めて、新たな社会システムをリーダーたちは描くべきでしょう。粗くてもいいので、今、この有事にあるときから描いていただきたいと思います。ふつうは、有事が終わってから検討しようとなるかもしれませんが、描くのを同時並行でやると、今の一手が打てます。疫病は、ほぼ定期的に発生します。これからも、同様の危機が起こることでしょう。

そう考えると、リーダーは本来、とても忙しいと思います。そんなときに、じゃまなのは、国に「現金給付しろ」くらいしか言えないコメンテーターです。それを言う前に、あなたが寄付しろといつも思ってしまいます。
加えて、朝日や毎日の左寄り人権派コメンテーターの重箱の隅をつつくような、揚げ足取りにはうんざりします。必要に応じて国に提言することは大切ですし、また正しく要求することも必要です(たとえば頑なに消費税低減を避けようとする財務省などへの提言は必要だと思います)が、過度に、揚げ足を取るような政府批判をしているのを見ると、げんなりします。
◎揚げ足取りの一例
MBSのニュースを見ていたら、「安倍首相の肝入りの政策であるマスク2枚の配布」という報道をしていました。「肝入り」と形容して皮肉っているわけですが、この対策が「肝入り」でないことは誰にでも分かります。つまらない揚げ足取りはやめていただきたい。
マスク配布の直前までは、「マスクがないのに、小学校にどうやって登校させるのか」と同じ番組でコメントしていたではないですか。反安倍の放送局は、政権にいちゃもんをつけたいだけでしょう。
また、費用はマスク代に200億とか言ってましたので、送料などを含めると、もっと高くなるのは当然でしょう。なのに、400億にアップしたと、鬼の首を取ったように騒いでました。どこまで経費に含めるかで違います。分かっているくせに、政府がウソをついていたように報道するわけです。
マスクの梱包にアルバイトを使えば、雇用創出にもなるでしょう。マスクレベルのことは、厚労省が発表すればよかったのですが、安倍さんが発表したので、揚げ足を取られてしまいました。それに、費用は国内に留まるので、また税金で返してもらえばいいではないですか。ちょっと的外れな対策をしても、また費用対効果が悪くても、政府と一丸となってコロナに立ち向かうべきだと思います。
ちなみに、ぼくは、マスク2枚よりも、免疫崩壊を起させない重症患者への治療薬開発に投資してほしかったと思いますが、このレベルのことで大々的に政権批判するのはいただけません。

また、人権派コメンテーターは、「人権」よりも大きな「人命」についても、「人権」の観点から制限を加えようとして、おかしな発言を連発しています。彼らも、じゃまに思えます。
前のブログにも書きましたが、3月中下旬の羽鳥モーニングショーで、青木理氏は「緊急事態宣言の特措法は必要ない。そんなことを国会で議論するより、ほかにするべきことがあるだろう」と主張していました。
こんな暴論(ぼくには暴論と思えます)を言われたのは、緊急事態宣言が「人権」を冒すからです。つまり、緊急事態宣言が発令されると、夜の街に休業してくださいとか、この建物に感染者を入れるので貸しなさいというように、一時的に私権を侵害することができるからです。これは「人命」を守るための処置ですが、青木氏は緊急事態宣言よりも「人権」が大切だと主張したのです。
(青木理氏のこの発言は、公の放送で軽々しく発言できないことだと思うのですが、もし発言するならご自身の発言に責任を持つべきでしょう。しかし今は忘れたように、そのことには触れず平然と朝日系や毎日系の報道番組に出演しているのが不思議です。)
こんなふうに、彼らは自分の信条のためにおかしなロジックになり、現在では、安倍政権の揚げ足取りか、人権の観点から「コロナによる差別」の問題を取り上げることか、各国と比べて「給付が少ない」と言うことくらいです。また、後追いでまともなことを発言することもありますが、初期に政府の足を引っ張ったのは、彼らです。

さて、実際に、緊急事態宣言が発令されると、あんなに「人権を侵害する」と騒いでいたのに、今では「なんだ、この緩い法律は。もっと欧米並みに封鎖しないと、感染が収まらない」という声の多いこと。結局、国民は、これまで人権派に煽動されていたのです。9条だって、そうです。もう騙されないようにしたいものです。

ほかにも、じゃまなのは、維新以外の野党です。彼らは、1月から2月上旬にかけて、桜と森友一色で、コロナについてはまったく触れず、危機感がなかったのです。
さらに、共産党に至っては、人権への配慮がないとして、緊急事態宣言の法制化に反対していましたが、要は「人命」よりも「人権」が大切という立場です。中国や韓国がやっているようなITを活用した感染者管理みたいなことは、人権上、反対でしょう。
もちろん、「人権」については近代社会が勝ち得た最も大切なもので、その大切さを分かり過ぎるくらいに承知していますが、有事にあっては「人命」のために期間限定で一歩引き下がっているのです。そして、一歩引き下がった分を国家に預け、これで国民全体の命を救ってくださいと国家に権限を付与しているのです。
ですが、コロナという伝染病の有事にあっても、共産党だけは教条的に「人権」擁護を続けているのは、おそらく戦争とダブっているのでしょう。戦争という人類の愚かさが冒した有事には、確かに共産党のような姿勢が必要でしょうが、今回の伝染病に適用するのは誤りでしょう。中庸を欠き、教条的に過ぎるのです。

……これくらいにして、近況報告します。
◎相変わらず、土鍋で御飯を炊いています。だいぶ上達してきました。

◎豆乳鍋で一杯やっています。土鍋に、豆腐と豆乳を入れて熱するだけです。食べる前に、パラパラと塩を、数10粒ほどふりかけています。混ぜてしまうと、まったく塩の味はなくなりますので、食べる直前に小さじ100分の1ほどふりかけるだけ。塩分を摂りすぎないよう、なるべく醤油は使いません。塩は1粒でもけっこう味わえるものです。

◎朝食はパン。ちょっと美味しいパンを十種類ほど冷凍しています。毎朝、その日の気分で、どのパンを食べるか、楽しんでいます。ただ、パンというのは、塩分がたくさん入っていますね。

◎執筆は、毎日、2時間程度おこなっています。乗ってくると、楽しい時間になり、4時間くらいやっています。

◎運動は、その場ジョギングを1000回、踵上げ100回、腕立て伏せ10回、肩柔軟40秒。これだけですが、しないよりましです。

◎庭の木の剪定をしました。このマンションの部屋は、一階なので小さな庭があるのです。枝を数本活けてみました。

◎ぼくの名前が「光」というせいもあり、蝋燭などの灯りが好きで、いくつかある燭台に灯りを燈して楽しんでおります。

◎よく音楽を聞いています。最近は、二十歳の前後によく聞いた、中山ラビとか。
数日前から、柴咲コウのCDを取出して聞くと心に沁みて、CDとDVDがセットになった『シングルベスト』や、柴咲コウがカバーしている『こううたう』『続こううたう』の二枚を聞いたりしています。
よく聞くのは、中島みゆきと、今井美樹と、ジャズ。
それと、『美しい夕べ』というチェロ小品集は素晴らしいですね。1920年代の雰囲気がいい。ぼくは、弦楽器ではチェロとバイオリンの音に惹かれます。

◎読書では、老化したためか、簡単に読める本を選ぶようになりました。
今読んでいるのは岩波ジュニア新書で、中高生向けに書かれた、一海知義著『漢語の知識』です。これがとても面白い。
ぼくは、『一海知義著作集』(全11巻、別巻は未刊)を7冊持っているのですが、次に読む候補として、11巻目の『漢語散策』を取出しております。この本には、上記の『漢語の知識』が収録されているのですが、これを飛ばしても300ページ以上あります。
あと、簡単に読める本として、斯文会が発行しているジュニア向けの『MY古典』(明徳出版社が発売)のシリーズがあります。ぼくは13冊ほど持っているのですが、このうち『論語のことば』など数冊を読んでおりますが、これなどもすいすい読めて、面白いので、老人にはぴったりです。

◎これまで使っていなかったもの(どこかに収納していたもの)を取出して、何か使えないかと、新しい活用法を見出そうとしています。壊れたものや、捨てようとしていたものに手を加え、意外な使い方を発見して、げらげら笑ってしまうことがあります。

◎出かけないと消費しないものです。新しい服も必要ありません。これでは経済は縮むと思いつつも、社会で痛み分けして、バランスを取りながら少しみんなで縮んだらいいと思います。お金を使わない生活が当たり前になり、これまで持っていたもので楽しむというベクトルに変わりました。

◎あと、よく寝ています。ぼくは寝るのが得意で、何時間でも寝ていられます。基本的にナマケモノなのでしょう。

近況を書いていて、とりたてて書くことがないことに気づきました。
毎日がとても単純な生活です。
では、みなさま、お元気で。
こんな時期ですから、たまにブログを書きたいと思います。
いずれ、お会いできるのを楽しみにしています。

月曜担当…池田光




 4月5日(日)
「アースデー」   日曜担当…八木正典

ナショナルジオグラフィックの4月号を読んでおりました。
1970年にスタートした地球環境について考える日であるアースデーですが、スタートした時にアメリカのニュース番組「トゥデイ」のヒュー・ダウンズ氏は刻々と悪化していく外部環境を踏まえて次のように話したそうです。

今の暮らしを根底から変える覚悟がありますか。なぜならそれ以外に対処できる方法がないからです。それとも、私たちは、ペストや飢餓で息絶える日が来るまで、エネルギーだけでなく、全てにおいて今よりも多くのものを求めながら子孫を増やし続けますか。破綻する日は、来世紀中、いや数十年以内に来るかもしれないのに。

そこから、50年経った現在、より多くのものを求め続けて、コロナウイルスで大打撃を受けて、結果として生産活動や消費活動の多くが制限されている現状を何となく予見しているような不思議な気分です。そうしてその中で生きている自分の行動を批評されているような気がして恥ずかしい気分です。

マザーテレサはこう言っています。
自分のことへの思い煩いでいっぱいだと、他人のことを考える暇がなくなってしまいます。

自分の思いや行動のどれだけの部分が自分以外に向けられているのか、周りの人や地球全体のためになっているのか、静かに反省をして、明日の活動に活かしていきたいと考えております。



日曜担当…八木正典



 3月29日(日)
「正気」   日曜担当…八木正典

現在、コロナウイルスの蔓延により、パンデミックの様相を呈しております。
日本でも、患者が少しずつ増加していく中でぎりぎりで持ちこたえている状況で、対応策をめぐって過激な論調やデマに近いような情報も増えてきております。
そんな中で次の言葉に出会いました。

国難襲来す。国家の大事といえども深慮するに足らず、深慮すべきは人心の正気に足らざるにあり。
(藤田東湖)

江戸時代末期の水戸学の大家である藤田東湖が、吉田松陰に贈った言葉とされています。
黒船が来たことで混乱の中で人々が浮足だっている中で、深く考えないといけないことは、人々が正気を失っていることだと明言しているのです。

正確な情報を多方面から収集するとともに、自分として今なせることは何なのかを冷静に心を落ち着けて判断していきたいと思います。


日曜担当…八木正典



 3月23日(月)
「近況報告」   月曜担当…池田光

みなさま、お元気のことと思います。
久しぶりに、近況報告をさせていただきます。

この記事を、ぼくは自宅ではないところで、3月21日に書いております。
この場所にはネット環境がなく、本心塾事務局にお送りするのは後日になり、3月23日の月曜日に間に合わないでしょうけど……。

さて、ぼくは2月21日から、事務所兼倉庫にしているマンションに一人で暮しております。というか、籠っております。
籠っている理由は、原稿執筆のためと、新型コロナウイルス対策のためです。
正確には、2月20日の夜から、マンションに泊っております。

まず、原稿執筆ですが、テーマは渋沢栄一です。
9年前にも、このマンションに泊まり込んで執筆したことがありますが、そのときもテーマは渋沢栄一でした。
あの頃は、書き始めたときに東日本大震災があり、非常時におけるリーダーたちの不甲斐なさに義憤を覚え、本心塾を発足させる動機となりました。

そして現在、コロナによる非常時です。
ぼくはかつて、経営コンサルタントだった頃、SARSウイルス(2004年)のときに、「企業の危機管理として、どう伝染病に対応するか」というレポートをまとめたことがあります。あわせて、「対策マニュアル」を指導先に提供しました。
ちなみに、レポート提供先の企業は、SARSウイルスを恐がることなく、中国出張に出かける人が多かったのを見て、蛮勇だなと思ったものです。
しかし、このとき、ぼくは伝染病の恐さを知りました。

個人でも、家族が伝染病に罹ったときを想定して、次の品を備蓄しています。
①ゴーグル(眼の粘膜からの感染を防ぐ)、
②使い捨て防護服、
③使い捨てプラスチック手袋、
④マスク(ウイルスを通さないN95タイプを中心に)、
⑤消毒液
ダンボール箱にして、3箱分ほどあります。
罹患したら病院に行けばいいと思われるかもしれませんが、伝染病対策に失敗すると医療崩壊が起こり、満足な医療ができなくなります。
こんなときに、家族の誰かが看病できるように、家族全員が共倒れしないようにとの思いから、上記の備品を備えております。

今回のコロナは、今のところ日本では、なんとかギリギリうまく行っていると思います。
ぼくは武漢での医療崩壊を見ながら、今回のコロナは、まるで風林火山の旗をかざした武田軍のようだと感じました。
風のごとく、音もなく、コロナは敵に忍び寄り(つまり、市中に蔓延し)、火のように一気に医療崩壊させる。
そして、動かざること山のごとく、コロナは症状を発症させないで動かず、静かにしている。
なんと、巧みな戦略を持ったウイルスであることか。
武漢は、この伝染病の戦略にみごとにやられたのでしょう。
甘く見ると、各国がこの戦略にやられると危機感を抱いたのが、1月下旬です。

しかも症状は、人によって違っています。
最初はまったく症状がなく、1週間後くらいして微熱が出始めると、3日ほどで急転直下に重体となり、死に至るということもあるようです。まるで、肉体崩壊(医療崩壊の個人版)です。
また、完治したかと思うと、2、3週間後にぶりかえす。ぼくにも経験があります。膵炎になったときですが、入院前までに、通院で1か月。治ったと思ったらぶりかえして、即刻入院となり、2週間ほどで完治したと思ったら、またぶりかえして、手術。結局1か月間の入院となりましたが、「ぶりかえし」は恐い体験でした。

失礼ながら、「親北、従中」の方針を堅持する文大統領の対応を見ていると、韓国はコロナにやられると思いました。
また、中国が浸透しているイタリアやアフリカ各国も大変なことになるだろうと見ておりました。

日本でも、政府の初期対応が意外にも遅いので、どうなることかと1月末あたりはやきもきしていました。このようにわが国で初期対応が遅かったのは、経済的な面で中国が深く浸透しているからだと思うと、恐ろしくなりました。

当初は、ワイドショーなどで、「新型コロナウイルスは、風邪に毛が生えた程度です」などと呑気なことを言っているのに呆れました。しかも、言っていたのは医者です。
ぼくは、クルーズ船での発生状況を見て、「感染力の強さと症状発生の低さに驚いた」というメールを2月12日に佐々木さん宛てにお送りしたのを覚えています。
ワイドショーでの医者は、一人の患者だけの症状だけを見て「毛が生えた程度だ」と軽々しく口にしたのでしょう。
伝染病の恐さは、伝染するところにあり、巧みな戦略を持ったコロナは、風林火山のごとく忍び寄り、一気に医療崩壊さらせ、致死率を一挙に高めます。
また当初、マスコミは「正しく恐れましょう」「過度に恐がらないでください」などと言っていましたが、最初の「正しく」が現実の甘い認識を「正しく」であるかのように言っていましたから、マスコミが「甘く見る」ことを助長したようなものです。
治療薬もなく、本当に恐いウイルスだというのが、ぼくの1月下旬から2月初旬の感想です。そして、2月15日頃から、マンションにて一人で暮すべく準備を開始しました。
家内と離れて暮らすようにしたのは、共倒れにならないように、リスク分散するためでもあります。

なにより残念だったのは、1月に国会が開かれていたのに、1月末になっても、野党がまったくコロナに対する政府の対応を批判しなかったことです。
野党の中でも、日本新党、国民民主は、まだコロナに対する質問がありました。
立憲民主はほぼありませんし、共産党に至ってはゼロでした。

それどころか、日本共産党は、チャーター機で武漢から帰国した日本人を、2週間留め置くのは人権侵害だと反対し、すぐに帰宅させよと騒いでいました。
不思議に思うのは、もっとも人権を無視した中国と、最も人権を守ろうとする日本共産党が、ともに共産主義だということです。
共産主義というのは、両極端なのかもしれません。中庸を欠いている政治思想は、とても恐いです。

2月に入ると、ぼくは3月中旬あたりに、わが国のどこかで第二の武漢が発生するかもしれない、と思うようになっていました。
そんなときに安倍首相が、大規模イベントの自粛要請、学校の休校要請などを出されました。
ほっとしました。
ところが、左寄りのコメンテーターが多い朝日系、毎日系の報道番組は、批判的でした。
青木某氏は「非常事態宣言の特措法は必要ない。そんなことを国会で議論するより、ほかにするべきことがあるだろう」などと暴論を吐いていました。
また、朝日の報道ステーションでは、後藤某氏がイタリアの高校の校長の医学的におかしい手紙を紹介して、日本の首相を批判したり。マスクは病人がするものとか、若者は恐がらないで、みたいな論調でした。現在のイタリアの惨状を見れば、この手紙のおかしさは分かるはずです。なのに、こんな手紙に感動している人の多かったこと。
彼らのようなおかしな発言や、共同通信系のコメンテーターの政権批判がからんだ発言は、その後の欧米のコロナの広がりあたりから、だんだん影をひそめました。ここから分かるのは、彼らはコロナに対して、当初は政治的発言をしていたということです。

ぼくは兵庫県に住んでいますが、井戸知事の危機感の無さには呆れました。
2月10日に、井戸知事は、兵庫県に備蓄していた120万枚余りのマスクのうち、100万枚を北京に寄付します。
かつて、北京から20万枚のマスクを送られたお返しですが、大盤振る舞いしました。その頃、すでに兵庫県内では、病院がマスク不足に悲鳴を上げ始めていました。
ぼくは、マスクを製造する能力が高い中国には20万枚のお返しが妥当で、すぐにも県内の医療関係などを中心に100万枚を配布することが必要だろうと思いました。
このときに分かったのは、「井戸知事は、コロナを対岸の火事だと思っているのだろう」ということでした。
その頃は、兵庫県の感染者はゼロでした。が、その後、医療施設からクラスタ―が発生しており、いちばん悪い形になっています。にもかかわらず、井戸知事から県民に向けての情報発信は聞こえてきません。

3月20日に、吉村知事からの「大阪・兵庫間の往来自粛」の発表を受けて、井戸知事は「お互い様や」「大阪は大げさや」と不快感を示しましたが、兵庫県民として情けなく思います。
吉村知事、松井市長をリーダーとする大阪は幸せです。ぼくが理想とするリーダー像は、彼らのような方々です。
リーダーの質は、有事に歴然とします。
有事の際は、トップダウン式のリーダーシップが求められます。トップダウンでやるとは、すべての責任を一身に背負うということです。この覚悟がないと、トップダウンはできません。
有事にボトムアップをやっているリーダーは、重責を負う覚悟がないわけで、それだけでリーダー失格です。
井戸知事は、阪神淡路大震災のときの村山首相のような感じです。
どうか、吉村知事からの「大阪・兵庫間の往来自粛」に刺激を受けて、兵庫県においても本気の対応をしていただきたいと思います。

それと、マスコミは迷走していたと言えるでしょう。
「検査、検査、検査」を主張する(韓国の対応を肯定する)テレビ局(羽鳥モーニングショー)と、検査を絞ったほうがいいとする(日本の対応を肯定する)テレビ局が、一時対立していたようでした。
羽鳥モーニングショーの玉川某氏はロジカル思考の人でしょうが、一面的なロジックに走り、小さな結論を導き出すのが得意なようです。しかし、現実は多面的です。そこで、たいてい現実との乖離が起っています。なのに、自分の論理を信じていて、他局を批判していました。

現実は、「検査」という一部分だけを取り上げても、解決しません。
ポイントは、医療のトータル性です。
◎トリアージなどの体制ができていない環境では、検査は絞るほうが良いのです。良いというのは、医療崩壊を起こさないということです。

◎トリアージなどの体制が整い、感染者数が多すぎないときには、検査をどんどんやるのが良いでしょう。良いというのは、感染者を発見し治療が行き届くということです。

◎いくらトリアージなどの体制が整っていても、感染者数が爆発的に多い場合は、検査はある程度絞ったほうが無難でしょう。病床数と、専門医の人数は限られています。ここから逆算すると、どういう検査体制が現実的か、おのずから導き出されます。

医療体制は、平時を前提につくられているので、有事にはトリアージという厳しい体制が必要ですし、それを越えると対応しきれません。
対応できないときに、検査によってどんどん患者認定すると医療崩壊し、医療崩壊すると医者が疲弊し、さらには医者の罹患者が増えて一気に制御不能になります。
社会はすべてトータル性で動いています。一部分だけを突出させると、そこから崩壊します。そんなことは当たり前で、迷走した報道番組は視聴者を振り回すと思いました。

さて、今回のコロナから学ぶことは、とても多いと思います。
◎わが国の危機管理が低いこと。
特に、兆しを読むとか、先を読むという想像力に欠けているリーダーたちが多いと思いました。野党は当初、わずかな危機感すら持っていませんでした。この機会に、目覚めてほしいものです。

◎わが国には、有事に対する法律が完備していないこと。これはコロナだけでなく、ほかの領域についても言えます。

◎個と全体とのバランスが、個に偏った体制になっていること。
個(人権)を重視する欧米ですら、有事には全体最適化にシフトすることができるのに、日本ではシフトできない法制上の障害がある。
これは、戦争に対する反省と、権力への牽制と、全体主義化しやすい体質への危機感があるのでしょう。さらに背景には、中国や北朝鮮などのチェチュ思想信奉者や共産主義勢力の工作があるのかもしれません。
マスコミも野党も左寄りの方々は、非常事態宣言を大変なことのように騒いでいますが、これくらいの措置は、世界の民主主義国のなかで最も軽い対応で、まったく騒ぐほどのことではありません。
有事に、国民の生命を守るということが、民主主義や共産主義に関係なく、国家の最大任務です。

◎IT技術を用いた学び方、働き方が遅れていること。
これについては、今回のコロナを契機に進化することを願います。コロナが黒船になることを祈ります。そうしたら、少しはプラス面も生まれてきます。

◎甘く見ていた人や国は、後悔するということ。
たとえば、イギリスでは当初、国民が免疫をつくるために、コロナに罹ることを肯定していました。国民の60~70%がコロナに罹れば終息する。コロナなんて風邪に毛が生えた程度だ、と甘くみていたのです。が、今では、方針転換しています。ようやくこの感染病の恐さが分かったのでしょう。コロナでは一定程度の重症患者が発生し、あっという間に医療崩壊に至るという恐さです。
橋本さんもイギリスと同じ考えで、欧米に広がる前はさかんに「罹患して免疫をつくればいい」などと言っていましたが、相手(コロナ)の正体も分からないうちに、「それは暴論だろう」とぼくはマンションに籠りながら聞いておりました。
また、少し重症化すると、ふつうの肺病とちがって、両肺が一度に冒されますので、窒息死するような苦しさだそうです。水に溺れているようだそうです。酸素呼吸器は必須ですが、数に限りがあります。「うつるときは、うつる」という人がいますが、この論理は、うつる確率を高めています。その結果、「うつらなくてもいいのに、うつる」という事態を多発させるだけです。
未知のものを甘く見ないことだと思います。

もう少し書きます。
◎米中の防疫戦争。この焦点は新型コロナウイルスの発生源に関してですが、発端は中国側にあります。米軍が持ち込んだというのですが、あるときは日本が発生源だとか、中国は発生源を他国になすりつけようとしていました。WHOの命名は中立性のようでありながら中国配慮がみられ、トランプ氏がチャイナウイルスと命名したのも戦略上の合理性があります。
また、中国は汚名を返上しようとしています。それどころか救世者となって、医療崩壊した各国への援助をしようという戦略を展開しつつあります。このため、武漢の現実はどうであれ、威信をかけて罹患者ゼロを続けるでしょう。

◎オリンピック問題。これは世界的問題で、どうも水面下に駆け引きがありそうで、意思決定後に深層の動きを明かしていただきたいものです。
ちなみに、ぼくはスポーツには関心がありません。個人的には、中止でも延期でもかまいません。ただ、7月の実施は、あってはならないと常識的に思っております。
また、IOCに有利な契約されていようと、世界の声を無視して独断することはできません。トランプ氏の発言は相当重いように思います。今後の流れをつくったと言えるかもしれません。

まあ、このへんにしておきます。
ちなみに、ぼくは右寄りではありません。
中庸を信条としており、自分の頭で考え、人がどう言ようが、自分が理性的に考えて正しいと思った道を歩もうとする良識人でありたいと思っております。

冒頭に、近況報告と言いながら、ついコロナのことを書き過ぎました。
一人でのマンション住まいも、楽しみは多いです。
では、近況報告に戻ります。

◎子供たちはすでに巣立って、家内との二人暮らしをしておりますが、ともに高齢者となり、いずれ、どちらかがこの世に取り残されます。
今回、別々に暮らすことによって、図らずも一人暮らしのシミュレーションをすることになりました。なかなか新鮮で面白いです。

◎土鍋で米を炊くのが、目下のぼくの楽しみになっています。火加減や水加減を微調整しながら、おこげを作ったりして楽しんでいます。
白御飯だけでなく、パック入りのいろんな豆や、根菜などを入れて炊くと、出来上がりにわくわくします。
また、レストランが休業したり、来店客が減ったりしているおかげで、スーパーなどに高級食材が安価に提供されています。大トロや中トロの刺身を買って、昼間から一杯やったりしています。

◎ネット環境がないので、過ごし方が変わりました。ぼくの携帯はガラ携ですし、家内と通信する以外は、誰ともコミュニケーションはありません。ネットサーフィンもできず、昔に戻った感じです。

◎数日前にはペンキを購入して、一日中マンションの部屋を補修しました。また、最初の一週間は整理、整理の毎日でした。ちなみに、ぼくは整理の名人です。

◎当初は、3月末でマンションを引き上げようと思っていましたが、まだまだコロナは続くようです。長期戦になりそうなので、ぼくのマンション一人暮らしも、まだ続けるつもりでいます。
一人でいるのは、あまり苦痛ではありません。幼児期から家で工作ばかりしていましたし、小学生から高校生にかけても部屋に籠っていました。大学時代は夏休みの2か月くらいをずっと自分の部屋にいて、本を読んだり、文章修業をしていました。
そんな感じでしたから、籠るのは自分に合っている感じです。二日に一度、買い物に出かける以外は、ずっと部屋にいます。
家内もどうやら一人暮らしを楽しんでいるようです。

老人で基礎疾患があるぼくは、これからも一人暮らしを継続し、誰とも会うことなくマンションに籠り続けたいと思います。
学び世代や、働き世代は、そんなわけにはいかないでしょうが、どうぞ、気をつけてお過ごしください。

本心塾の皆さま、とてもお会いしたく思いますが、いずれコロナが終息しましたら、楽しくお会いさせていただきたく思います。
その日が一日でも早く来ることを願っております。

■追記①(3月23日)
IOCのオリンピック延期検討が報道されました。
延期を検討すると発表した時点で、内定ですね。追加費用は膨大なものになるでしょう。どれくらいでしょうか、20%アップくらいになるのか、それ以上かもしれません。誰が払うのでしょうか。高くつくイベントになりそうです。
1年先か、2年先の延長になるでしょうから、もう関係者たちに任せて、いったんオリンピックのことを忘れたらいいと思います。そして、目下の問題である、コロナのことに集中したいものです。
それはそうと、これまでの動きをふり返ると、なんとなく水面下の動きが見えてきます。トランプ氏の一言と、安倍首相がうまくG7で合意を取ったことが効いていますね。トランプ氏の発言あたりが軸となるでしょうね。
何より大事なポイントは、オリンピックの意義が変わったことです。当初は「復興五輪」というのが意義でしたが、延期することで「コロナに打ち勝った証」という意義に代わっています。

また、昨日は埼玉県でK-1というイベントが実行されたようですが、蛮勇でしょう。もし感染が発生したり、これがきっかけでオーバーシュートすれば、取り返しがつかず、主宰者は責任を取ることはできないでしょう。また、社会的メッセージとしても良くありません。
中村天風は、勇気を説きますが、蛮勇は強く否定しています。
この場合は、中止するのが、勇気です。
ぼくが思うには、今回のK-1のイベントについては、一つには埼玉県知事のリーダーシップの問題だと思います。知事が自粛を働きかけるなら、言葉のうえだけの責任逃れ的な自粛要請ではなく、埼玉県が会場使用料を免除して、本気で自粛要請を迫ればいいのです。リーダーには結果責任があります。主催者との会合をもって、感染病の専門家を入れ、徹底的に議論するなどしないと。言葉のうえで無責任に自粛を要請するだけではダメです。(お役所は、会場費を免除したら、事例を作ってしまってほかにも免除しなくてはならなくなるなどと言うでしょうが、大義名分をつくってでもやり抜くのがリーダーです。)吉村知事なら、どうしたでしょう。リーダーは肚をくくらないと存在価値はありません。
ちなみに、ぼくは、若い頃の蛮勇はあっていいと思っています。めちゃくちゃすることは、人類にも、個人にも必要です。ただ、大人になると見識ある行動が求められますし、自分の行動には責任を取る覚悟がなくてはなりません。
しかし、今回ばかりは有事ですから、若い世代にも蛮勇は控えていただきたいものです。

では、みなさま、お元気で。

■追記②(3月24日)
商品券を配布するという案が検討されていると報道されていました。
この案は、コロナという状況下で、「生活保障(行動自粛への補償)」と「消費促進」が混在し、矛盾したものになっています。

◎コロナ感染を防ぐために「行動を控えよ」と言いながら、他方で商品券を配布して「外食や旅行の促進を図ろう」とするのは、明らかに矛盾しています。
「行動を控えよ」と言うなら、生活保障のための政策が必要でしょう。思い切った額を現金給付すればいいのです。そして、その間は、食品と医療だけの消費に限ればいいでしょう。

◎逆に、消費を促進するなら、消費税減税が一番いいのですが、減税するまでに「買い控えが発生する」などと変なことを言っています。コロナ感染を防ぐには、買い控えこそが最適なのではないでしょうか。
買い控えさせるためにも消費税減税を導入し、その間は現金給付して生活保障をする、というのが整合性が合っています。

◎具体的には、スケジュール的に、4月は行動を控える期間として、一人当たり10万円の現金給付をする。そして、国民には、消費を控えていただき、なるべく動かないよう行動制限する。
この10万円は、消費にまわしても、貯金にまわしても、生活保障ですから自由です。その代わりに、行動制限を行って、コロナを封じ込める方向に行くことです。

ところが、5月からは一転して、消費を促進する。そのために、消費税を5%~0%に減税する。
4月を消費税減税のための準備期間に充てることができます。と同時に、買い控えをさせて、コロナ感染を低下させることができるのです。
財務省は消費税の減税には反対ですから、1か月では準備は無理だと、できない理由を言うでしょう。そんなことを折り込み済みで、有事だから粗く1か月で準備すればいいのです。

このようにすれば、つじつまが合うのではないでしょうか。
一方で「行動を控えよ」と制限し、他方で「消費を促進させよう」と行動を促すことは、同時にできません。なぜ、マスコミは、この矛盾を突かないのでしょうか。矛盾した要請を、中途半端にだらだらやっていると、コロナを縮小できません。現状を踏まえて、問題をスケジュール化し、最少コストになるよう、トータル(医療と経済との全体的整合性)に検討することが必要でしょう。

◎一人10万円生活保障&行動制限(地域的にはロックダウン)によるコロナ感染者の低下(4月のみ)。
消費税減税による消費促進(5月初から翌年4月末)。
大きなコストに見えるかもしれませんが、効果は大きいと思います。コスパは高いはずです。だらだらと矛盾した対策を取れば、コロナ感染は増え続けていき、結果として莫大なコストを払うことになるでしょう。もちろん、ロックダウンに近いことをすれば、事業者への補償も必要でしょう。が、その補償も1か月分だけです。
感染源が特定できない事例が増えつつあります。今が、政治的に思い切った対策をする好機だと思うのですが。

ところで、みなさま、本日もぼくはマンションに籠っております。3月23日のブログなのに、まだ本心塾事務局にお送りすることができません。
また、ブログの内容についてですが、ぼくはこれまで政治的発言をしない方針でいましたが、今回は有事なので解禁しております。

一昨日の夜に、ちょっと調子が悪くなって、体温を測ったら37.2度ありました。買い物に出かける以外は外出しておらず、また誰にも会っていないので、コロナではないはずです。しかし、念には念を入れて、自宅に帰るのを控えておりました。
そして、翌日計ったら、平熱でした。本日も平熱で、安心しました。

ブログを書いていて、言葉がなかなか思い出せず、もどかしく思っています。
何年か前から人と会う機会が減り、コミュニケーションを取ることがなくなったせいかもしれません。記憶力が著しく衰え、思い出せない言葉が多くなりました。
一人で暮すと、老化が進みますね。
今ぼくが暮しているマンションを解放して、勉強会を開いてみようかと、ふと思いました。とにかく人と話さないと、老化がオーバーシュートするかもしれません。

さて、明日くらいには、いったん自宅に帰り、このブログを事務局にメール送信させていただきたいと思っております。

では、みなさま、お元気で。

■追記③(3月25日)
オリンピックが一年延期でほぼ決まろうとしています。
トランプ氏の支援発言のもと、安倍首相のリーダーシップの成果でしょう。
中止という選択肢がありえたなかで、絶妙のタイミングでやったと思います。
また、後藤某氏が、意思決定が遅いなどと批判していましたが、この方は意思決定が一国の首相だけでできると思っているのでしょうか。
リーダーは結果責任が伴います。この状況下で、安倍さんのリーダーシップは冴えています。

志村けんさんがコロナで重体だと報道がありました。
芸能関係にもコロナが広がっていくでしょう。
また、国会もIT技術を活用できないでしょうか。要人たちがコロナにかかると、大変なことになると思います。隗より始めよ、です。

学校が再開されようとしていますが、登校するだけでなく、スカイプで自宅から授業に参加する方法も取り入れたらいいと思うのですが。どうも、一律すぎます。

いつ、オーバーシュートしてもおかしくない状況です。
なのに、気が緩んでいるように見えます。緩めば罹患確率は高まりますので、ぼくはいっそう籠ることに専念したいと思います。
気を緩めず、しかも新たな秩序づくりを模索してこそ、IT技術を用いることが本格化し、革新が起こることでしょう。

さて、本日の体調は良く、これから自宅に帰る予定です。
帰ったら、佐々木さん宛てに、このブログをメール送信したいと思います。
では、みなさま、お元気で。
お会いできる日を楽しみにしています。




月曜担当…池田光


 3月22日(日)
「変革」   日曜担当…八木正典

20世紀最高の経営者と称されるGEのジャック・ウェルチ元会長は、変革することについて次のように語っております。

これから先はまったく新しいゲームが始まる。変革を起こそう。いままで経験がないのだから、やはり経験したことのないスピードで変化を起こそう。変化を楽しむ人にとってはとんでもない面白さだ。変化をつかもうとしない人にとってはとんでもない恐ろしさになる。

コロナ・ウィルスによって世界に大きな影響が発生している状況のなかで、新たなモデルを作ることが求められているのかもしれません。
グローバルの流れ一辺倒から、世界の分断がより加速している環境に適応する社会のありように変わっていく必要性があるのかもしれません。

これまでに体験したことのない世界に突入しているのかもしれないという不安や恐怖はあります。
そんな中だからこそ、今自分に出来ることを大切に行いながら、新たな変化の方向を見定めるとともに、変革を楽しめる意識を育てたいと思っております。


日曜担当…八木正典



 3月15日(日)
「力の結晶」   日曜担当…八木正典

たとえ人生にどんなことがあっても、自分は力の結晶だ、という正しい悟りで
健康上の問題や運命上の問題を乗り越えていかなければならない。
(中村天風 折れない心をつくる言葉)

コロナショックによって、生活に大きな影響が出てきております。世界が分断され、金融市場の混乱が依然続いている状況です。実体経済の悪化につながってきており、景気後退の準備をしっかりと進める必要がありそうです。
コロナウイルスが終息するにはワクチンの開発を待つしかないのでしょうが、それまでの間最大限の注意を払いながら、自分の心を強く持つことが必要かと。
中村天風先生の考えを多くの方から長らく教わってきましたが、その教えを実践できているかの真価が問われる時期かもしれません。
今だからこそ自分の考えが本心良心に悖るものでないのかを振り返りつつ、泰然自若、虚心平気の絶対積極の心を失わないようにしたいと思います。

日曜担当…八木正典



 3月1日(日)
三つの要素」   日曜担当…八木正典

先日の潜学講座で、小林先生から教えていただいた坐禅和讃を毎日声に出して読んでおります。

声を出して読むのは気持ちいいものです。
そのものが本来持っているリズムや音が体の中にスーッと入ってしみこんでくるようです。
初めに言葉ありき、朝一番の時間が清々しいものとなっておりありがたいです。

ところで坐禅和讃は白隠禅師の作ですが、
その白隠禅師は禅を突き詰めるのに三つの要素が必要だと言われています。
それは「大信根」、「大憤志」、「大疑団」です。
「大信根」は徹底的に自己を信じ、どんなに劣勢に置かれてもひたすらに自己を信じぬくこと、「大憤志」はどんなことがあってもやり遂げるという強い意志、「大疑団」は本当の信を根底にもちながら、根本的なものまで大いに疑ってかかることです。

考えてみるとこの三つの要素は禅だけに限ったものではありません。
世の中が人間の処理能力を超えるような膨大な情報に溢れ、フェイクニュースも増えていると言われる中で、健全な自分を維持するためにも必要なものだと思います。
日々の活動を通じて三つの要素をしっかりと育み意識していきたいと考えております。

日曜担当…八木正典



 2月23日(日)
自反」   日曜担当…八木正典

孟子は“自反”を説く。自ら反ることは人間哲学の厳粛な根本理法の一つだ。
自ら反らざれば、それは自ら反(そむ)くことになる。
(中略)いかなる時も人間としての正しい考え方は、
自分の内部に第一原因を発見することでなければならない。 
(安岡正篤 運命を思い通りに変える言葉)


最近仕事をしていて、全体論としては個人や組織の多様性を認めてその良さを十分に発揮していこうとの話が出てくる一方で、個別具体的な話が進んでいくと、「カルチャーや思考スタイルが違うから理解されるわけがない」との論調がでて話が堂々巡りになってしまうことが起こっています。

何が原因なのか悩んでいたところ、冒頭の言葉に出会いました。

たしかに議論が尽くされたのかというと、立場を理解し合えるだけの十分な話し合いがなされたわけではなく、これまでの自分の思考スタイルや先入観に引きずられて、自身の判断や意見を見直しすることなく、他人の責任にしてしまっていたのかもしれません
これまでの自分が築きあげてきた内部の原因をしっかりと振り返り、「相互理解をするために考え方をきちんと口に出そう」という行動を一つずつ積み重ねていきたいと思います。

日曜担当…八木正典



 2月9日(日)
盲点」   日曜担当…八木正典

自分がもっている思考の前提や経験によって「盲点」が生まれると言われます。
前提としているものから外れたものを認識できずに死角となってしまうのです。
だからこそ自分の視野をいかに広げるのかが需要。

そうしたところ、「鳥の目 虫の目 魚の目 蝙蝠の目」の考え方に出会いました。
鳥の目:空から全体を見る目、俯瞰してみる目
虫の目:物事を小さく細分化し、細かいところを掘り下げて見る目
魚の目:流れを見る目
蝙蝠の目:逆の立場で見て、発想を変える目
それぞれの目線を使いこなすことによって、思考の偏りがなくなり、視野のバランスが取れるのです。
狭い視野では見えなかったものが現れてくるのです。

キリストも次のように言っています。
なぜ、兄弟の目にある塵を見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目にある梁は見ないでいて、どうして兄弟に向かって、兄弟よ、あなたの目にある塵を取らせてください、と言えようか。偽善者よ、先ず自分の目から梁を取り除けるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にある塵を取り除ける事ができるだろう。

様々な角度からの視点で物事に接し、発生している事象の明るい光の面を見られるように、先ず自分の梁を取り除く努力を意識していきたいと考えております。


日曜担当…八木正典


 2月2日(日)
潜学講座」   日曜担当…八木正典

駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠


2月の潜学講座に参加してきました。
今回は、若宮先生の「詩経」と小林先生の「白隠禅師」の講座で、本心塾を通じて新たな世界に触れることが出来ました。

若宮先生の「詩経」は、「揚之水」を教えていただきました。
当時の周の人が、民のことをいつくしまない平王を誹った歌だそうです。詩経について数十年学ばれている若宮先生のお読みになる声が何ともいえず魅力的で、一緒に詩を読める喜びを感じました。

小林先生からは「白隠禅師」について教えていただきました。
白隠禅師は、臨済宗中興の祖と言われ、500年に一人と言われるほどの高僧です。そのご経歴や白隠宗大本山の松陰寺について、その書や画の魅力を多くの資料で教えていただきました。
特にジョン・レノンが白隠の教えの影響を受けているという話や「南地獄大菩薩」の書の魅力や背景等について楽しく学ばせていただきました。

小林先生は、毎日白隠禅師の坐禅和讃を唱えられているそうです。
小林先生の前回の講義では黒住宗忠の「道の理」を教えていただき、私も毎日読むようにしているのですが、今回の坐禅和讃も自身の生活の中に取り入れたいと思います。

新しいものに出会えるのは有難いことです。引き続き本心塾のメンバーとともに今後も学びを深めていきたいと感じております。


日曜担当…八木正典



 1月25日(日)
「本体を見る」   日曜担当…八木正典

人間は特に目が大切であります。
即ち物が見えなければなりません。
それも単なる肉眼では目先しか見えません。
それではすこぶる危険であります。
我々は外と同時に内を見、
現在と同時に過去も未来も見、
また現象の奥に本体を見なければなりません。(安岡正篤 運命を思い通りに変える言葉 67)


年始から仕事で思わぬ事態が生じており、対応する必要が出てきております。
根本的な問題に目を向けていこうと考えながらも、目先の対症療法的な対応で何とかもがきながら、しのいでいるのが実情です。
ただ、目先は目先で対応するとしても、今後のことをにらみ、次なる問題発生の芽を摘み取るべく、何とか仕組みや体制でカバーできるようにしたいと考えております。
安岡先生の言葉にある「現象の奥に本体を見る」を意識して実践に結び付けられるように、徹底的に事実を観察し、工夫していきたいと思います。

日曜担当…八木正典



 1月12日(日)
「異質を選ぶ」   日曜担当…八木正典

ぼくはいつでも、あれかこれかという場合、これは自分にとってマイナスだな、危険だなと思う方を選ぶことにしている。誰だって人間は弱いし、自分が大事だから、逃げたがる。頭で考えて、いい方を選ぼうなんて思ったら、何とかかんとか理屈をつけて安全な方に行ってしまうものなのだ。
かまわないから、こっちに行ったら駄目だ、と思う方に賭ける。(岡本太郎)



本ブログを書かせていただくようになってから、毎年、その年のテーマを決めて自身の進化、向上を目指しております。

今年のテーマは、「異質を選ぶ」にしております。

自分が選択をしないといけない場面に立った時に、これまで選んでなかった、異質やリスクを感じる道への選択を増やしていこうと思います。
これまでやったことないとか、選んだことないというものを前例踏襲とせず、意識して取り入れていきたいのです。

ダスキン創業者の鈴木清一氏はその経営理念の中で「自分に対して損と得あらば、損の道をゆくこと」と述べておられます。
また、「人の行く裏に道あり花の山」という言葉があります。
相場の格言ですが、他人と逆の行動を素早くとることが大事であることを表現しており、逆張り的な発想を意識させるものです。

この一年、岐路に立ったとき、異質を選びこれまで自分が選ばなかったであろう選択をすることによって、どのように自分を変えていけるのか、新たな視座を手に入れることが出来るのか今から楽しみにしております。


日曜担当…八木正典



 1月5日(日)
「新春初詣」   日曜担当…八木正典

明けましておめでとうございます。
ご縁のある方々、今年もよろしくお願い申し上げます。


湧くわく本心塾主催の新春初詣&新年会に参加してまいりました。
新春初詣は、とてもご利益があると評判のサムハラ神社での正式参拝でした。
多くの方とともに、社業発展、安全祈願、心願成就をお祈りいただき、新年早々厳かながらすがすがしい時間を過ごすことができました。玉串奉納もさせていただき有難いことです。

ちょうど参加させていただく前に、目を通していた本の中に次の言葉がありました。

「自己の願いを 神に対して囁きかけることを 畏れてはならない」(魂に響く108の言葉より)

「言葉は波動であり、言霊です。願いを口に出せば、この波動に感応して、願いを叶えるのに必要なものを共振させることができます。そして、そこから力を呼び起こし、自分への引きつけて願いを実現させてしますのです。」と述べられております。

自分の理想や希望をしっかりと口にすることで、ご縁をいただいた方々とともに、令和の時代を明るく前向きな充実したものにしていきたいと感じております。



日曜担当…八木正典



1月4日(土)
意気 」   土曜担当…佐々木秀彦

『年頭自警
一、 年頭まず自ら意気を新たにすべし
一、 年頭古き悔恨を棄つべし
一、 年頭決然滞事を一掃すべし
一、 年頭新たに一善事を発願すべし
一、 年頭新たに一佳書を読む始むべし』


初春のお慶びを申し上げます。
上記は毎年、新年最初の潜学講座で僕が読むのが恒例になっております、年頭自警です。
本年はサムハラ神社の初詣ですので、あえてブログに書いてみました。もう読み初めて何年にもなりますが、今更ながら端的で明瞭な言葉だと感じます。安岡正篤師の言葉だろうと決めつけておりますが、実はそこは、はっきり確認しておりません。

最初の『まず自ら意気を新たにすべし』が今年は特に凄いなと感じています。意気は息とも繋がります。意気は止まれば死ぬのです。意気を自ら新たにすべし…これは大切な、最も大切なことだとホントに感じます。

悔恨を棄て、滞事を一掃、一善事を決意、佳書を読む…なんとシンプルなのでしょうか!

今年は私自身の事業の土台をしっかり固めなくてはいけません。今まで流れでなんとなくやっていたことを、しっかり取捨選択して、思い切って棄てるところを、しっかり棄てていかなくては新たなモノは手に入らないと感じております。流れはしっかりきているように感じます。ここに乗るために頑張るだけです。

湧くわく本心塾に関しては、僕自身の講義の質をもっと深めていかなくてはいけません。講義をするための到達点みたいなものをしっかり設定して、臨んでいくべきだと強く感じています。

意気を新たに…これは吐く息を全く違うものに変えてやる気持ちで丁度良いのだと感じます。吐く息が変わると、吸う空気も必然的に変わります。しっかりと息を吐く。つまり生きるとは、そういうことなのかなと、年頭自警で感じました。

今年一年の、皆様のご健康と、ご多幸を祈念いたします。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。


土曜担当…佐々木秀彦




 12月29日(日)
「斯の人の徒と与にする」   日曜担当…八木正典

鳥獣は与(とも)に群れを同じくすべからず。吾れ斯の人の徒と与にするに非ずして誰と与にかせん。天下道あらば、丘は与に易えざるなり。(論語、微子第十八)


今年も残り3日となりました。年内最後のブログとなります。

私の今年一年のテーマは、「原点回帰」でした。
自分の軸となっている基本に立ち返って、陽明学や四書を再度学び直したいと考えたのでした。

振り返ってみると、当初の想いはかなり実現できたのではないかと思っております。
8月には関西師友協会のお力添えもいただき、本心塾で陽明学研究の第一人者である吉田公平先生にお越しいただき特別講座を開催することが出来ました。
吉田先生は何とかお会いして陽明学について教えをいただきたいと思っていた方です。
特別講演にて長年研究での理解された陽明学の真髄や実践生活への生かし方を教えていただくことにより、陽明学に関する新たな視点に気づけました。
その翌月には特別講演を受けての池田塾長による切れ味鋭い振返りの講義により、陽明学に対する思考が更に整理されました。

また潜学講座で佐藤先生の大塩平八郎や冨樫先生の孟子の講義を通じて、その人物像や思想を教えていただきました。私自身12月に2年ぶりとなる陽明学の講義を行わせていただき、その準備を通じて伝習録や王陽明の文献にどっぷりとつかり、改めて陽明学の魅力に触れることが出来ました。本当に有難いことです。
来年も引き続き縁のある皆様と共に学びを深め、常に基本に立ち返りながら、少しでも実践に結び付けたいと考えております。

本年も本心塾を通じて多くの方々に大変お世話になりました。ありがとうございました。
来年も皆さまにとって素晴らしく輝かしい良い年になりますようお祈りいたします。


日曜担当…八木正典



 12月22日(日)
「物に定まれる性なし」   日曜担当…八木正典

物に定まれる性なし  人、何ぞ常に悪ならん(秘蔵宝鑰第二)
(ものに決まった性質はない。どうして人は常に悪人であることがあろうか。)



12/21の土曜日に東寺に行ってきました。
先週のブログでも書きましたが、空海、弘法大師に関する講演と本でご縁をいただいたので、京都に行く用事の途中に東寺に立ち寄ろうと思い立ったのでした。
全く何の調べもしていなかったのですが、偶然にも21日は弘法大師の月命日で、ちょうど「終い弘法」の日でした。
正月用品や食品、衣服、骨董にいたるまでの多くの露店と人また人。京都の師走の風物詩(と後で知ったのですが)を体感することが出来ました。
年内最後の「弘法さん」に呼ばれたような気がして有難い気持ちです。

最初に記載したお大師さまのおことばはお参りの際に12月の言葉として紹介されていたものですが、
「縁に遇うときは則ち、庸愚も大道を庶幾(こいねが)い、教えに順ずるときは則ち、凡夫も賢聖(げんじょう)に斉(ひと)しからんと思う。」とつながります。
縁に恵まれれば、平凡な人でも愚かな人でも人間の大道を願うようになるし、立派な教えに従い努力するときは普通の人でも聖賢への道が開かれていくという意味です。

本心塾で多くの方から自分の知らない新たな気づきを受けたり、また参加者と楽しくそして深く交流出来たりすることに感謝しながら、更に自身の努力を続けていきたいと感じております。

日曜担当…八木正典



 12月15日(日)
「空海」   日曜担当…八木正典

虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、わが願いも尽きなん

先日いつもお世話になっている方から本をいただきました。有難い話です。
東寺の僧侶である山田忍良さんの法話集で「人間は何度でも立ち上がる」という本です。
東寺と言えば平安京の遺構であり、弘法大師空海の興した真言宗の総本山です。1994年には世界遺産にも登録されています

先日の潜学講座で赤堀先生から「空海に学ぶⅡ」で、空海伝説や三教指帰についての講演をいただき学ばせてもらったことを考えると、なんだか不思議な縁を感じながら読んでおります。

その本の中で、弘法大師の求められた宗教とは「すべての人の救い」(仏教語で大慈悲心)だといいます。「我の心も、仏の心も、衆生の心も平等である」と三心平等の確信の中で、全ての人を包み続けていかれたのです。
また、弘法大師の教えの特徴は、「即身成仏」にあります。現世のこの生きた身のままで、たちまちに成仏できるというのです。これは我を取り除いた完全無執着の状態のことだと述べられております。

私が大好きな陽明学も「致良知」が根本思想で表現されております。
致良知は功利の念に打ち克ち良知を発現できれば聖人になることが出来るという思想で、私利私欲なく良知が発現すれば、渾一的な万物一体の意識となるというものです。
究極の教えは、一つの処にたどり着くのかもしれないと思います。
自分の思考が「我」にとらわれていないかを見つめながら、更に学びを深めたい、そしてそれを一つでも実践につなげて周囲にお返ししていきたいという気持ちでいっぱいです。

日曜担当…八木正典



12月14日(土)
「庚子」   土曜担当…佐々木秀彦

『令和二年の干支は庚子(かのえね)であります。俗にいう子年です。庚(かのえ・金の兄)には3つの意味があると言われ、第一に、つなぐ、継続、継承ということ。第二に、償う、責任を果たすということ。第三に、あらためる、更改・更新するということ。ただ更新・改新といっても、急激な改革的行動をするのではなく、段階的な順序を踏んで、維新的に物事を進化・発展させる方向に持っていくことが肝要です。』(安岡正篤・関西師友協会編)


12月の潜学講座で毎年恒例になっております、今西最高顧問より「新年の干支に思う」をいただきましてその文章からの抜粋です。

『還暦という言葉の通り、60年前と同じようなことが起こるから暦はおもしろいです、60年前に何があったか皆さんも確認してみてください』というお言葉が添えられましたので、60年前を確認してみました。

1960年は、インスタントコーヒー、缶ビール、ハイライト、キャベジンが新発売されています。生活必需品ではなく、趣向品に需要が出てきた頃なのかと推測しました。1964年に開催される東京オリンピック、1970年の万博、そして高度経済成長へ向かう着実な地固めのような印象を受けました。そして同時に、1960年は日米安全保障条約の改正がおこなわれました。60年安保闘争という言葉にも残っていますが、敗戦国の保護的安保から、ソ連に対する同盟国としての戦力としての示唆を含んだ安保改正に、戦争に対する憎悪しかない日本国民の大きな反発がありました。国際的には欧米列強の植民地だったアフリカの国々が続々と独立を成し遂げた年です。

大東亜戦争で世界に起こった激震から、徐々に芽生えた新しいモノが開花しはじめた年だったのかなという印象を持ちました。現代も何やら世界中が歪みのようなものに支配されている感があります、その歪みの中から芽生えた新しい蕾が来年は開花する年になるような気がします。

バブル崩壊以降、長く低迷していた経済は、あと数年で上を向きそうですね。そのための地固めをしっかりしなければいけないのが来年なのだと感じました。受け止め方は人それぞれだとは思います。皆様それぞれの受け止め方をまたご教示いただければ嬉しく思います。

土曜担当…佐々木秀彦




 12月13日(金)
「与えること」   金曜担当…佐藤成亮

自分の出来ることから人に与え尽くそう。

無限の力が湧きのぼって、生かされている生命が、
偉大なるものを創るのだ。道は無限に広がりを見せる。

実りある人生を創るのである。

自分の人生、生命のすべてをかけて
人に与え尽くそうではないか。

与え尽くす人生こそ、
生命あふれる生かされた豊かな人生なのである。
       
今西恭晟最高顧問 『魂に響く108の言葉』より

与え尽くすことによって、生命力というのは、減っていくというよりも逆に高まっていくようです。

最近、私の中でよく耳に引き寄せられてくる言葉が

二宮尊徳翁の有名な教えの「たらいの水の話」です。

水を自分の方に引き寄せようとすると向こうへ逃げてしまいますが、相手にあげようと水を押してやれば自分のほうに戻ってくる。
だから人に譲ることがいかに大事かというお話です。

与えることができたことが、自分の生きてきた証を残せることだとも思います。

残せることが良いか悪いかは別として、おかげさまでこの世に生を頂いているので、自分の天命に気付き、いろんな方々に少しづつでも与え、返していくことを念頭において日々、丁寧に生きて参りたいと思います。


金曜担当…佐藤成亮



 12月8日(日)
「潜学講座」   日曜担当…八木正典

気付いたおかげより気付かぬおかげの方がはるかに大きい。(立花大敬)


年内最後の潜学講座に参加しました。

今回は講師をさせていただくことになっており、2年ぶりに陽明学に関する講義を行いました。
陽明学の魅力から始まって、人物としての王陽明と哲学としての陽明学、そして致良知と万物一体論に関する説明や思いを伝えさせていただきました。

人前で話すのは事前の準備が必要であり、また当日は緊張もしてしまって大変です。
ただ、塾生の前で自分が学んできたことを話すことは、本当にいい刺激になりますし、有難い機会を与えていただいていると感謝の気持ちでいっぱいです。
8月の吉田公平先生の講演内容を振り返ったり、それに対する池田塾長のコメントを確認させていただいたり、伝習録や岡田武彦先生の本を読み返したりと自分なりに理解を進めているつもりなのですが、人に話すことを意識することによって学び方が間違えていないのか、自身の理解の仕方があっているのかなどと考え、独善的な部分がそぎ落とされる感じがします。

一番教えていただいているのは自分であり、教うるは学ぶの半ばというのは本当だと改めて感じさせられます。
本心塾での多くの学びの機会を得られている幸せを感じるとともに、今回の講義での気づきをあらゆる実践の機会で活かせるように努めていきたいと思います。

日曜担当…八木正典



12月7日(土)
「文字」   土曜担当…佐々木秀彦

江戸時代の日本人の識字率は70%~80%と言われます。統計が採られていないので確かな数字はなく推測の範疇でしょうが、少なくても武士階級は100%に近い数字だったでしょう。

日本に文字が伝わったのは5~6世紀頃、漢字が伝わって初めて文字を使うようになったようなことを、教科書で習ったと思います。それまでは文字がなかった。小学生の僕は教科書に書いてあるので正しいと思い込んでおりました。

しかし今、そんな馬鹿な話を信じることはできなくなっています。漢字に関してはおそらくその通りなのでしょう。それ以前、漢字ではない文字がもしなかったら、大和朝廷ははたして成立したでしょうか?成立はできても存続できたでしょうか?

古代文字・神代文字と表現される日本の文字はざっと30種類程度はあるそうです。いくつかは江戸期やそれ以降に誰かがでっち上げたものも含まれるでしょうが、すべてがニセモノとも思えません。

古事記によりますと、初代神武天皇は東征をおこなって、日本を統一したように書かれております。東征をしたということは、天皇の支配できていない、いくつもの国があったということです。宇佐、出雲、熱田、熊襲、、、ヤマトタケルのお話も含めて、日本には多くの国が存在しました。それぞれに文字や言葉が独立して存在していたと考えるほうが自然ではないでしょうか。神代文字が30ほど残っている数と数字的にも合います。

古事記、日本書記の編纂で、稗田阿礼が記憶した内容を太安万侶が文字にしたというのは無理がありますが、稗田阿礼が収集した各地の物語を、太安万侶が1つの話にまとめあげたのなら、かなり信ぴょう性がでてきます。

大和朝廷には大和朝廷独自の文字があったのではないかと僕は推測します。しかし、東征して統一したものの、けっして武力のみの征服という手段を行使しなかった手前、文化の部分で大和朝廷の文字を押し付けることはしなかった。そこで隣国の漢字という文字があったのでこれを利用して、漢字に統一することで、国内勢力の不満が出ないように企てたのではないかと推測しています。

百済王が論語を天皇に献上したのが、日本人の文字との初めての出会いなんて突拍子もないお話がまかり通っているようなので、あえて私見を書いてみました。

土曜担当…佐々木秀彦




 12月1日(日)
「事上磨錬」   日曜担当…八木正典

人は須く事上に在って磨くべく、方(まさ)に立ち住(とどま)らん。方に能く静にも亦(また)定(さだま)り、動にも亦定まらん。(伝習録)

(人間はいたずらに事のないことを求めるべきでなく、事に対している状態で自己を磨くべきである。そうすれば自然に心は確立し、平穏時にも心は安定し、繁忙の時にも心は安定する。)


師走になりました。一年、本当に早いものです。
今年中にあれもやりたい、これもやりたいとやりたいことが次々とあり気が急いて、自分で自分を慌ただしくしてしまっております。
じっくりと取り組んでいるつもりですが、どこからか自分の時間を無駄に使っているような気がわいてきて心が落ち着きません。
こんな時こそ、自分の活動に対する意義をしっかりと見つめて、活動が表面的なものにならないように冷静に振り返りながら自身の工夫を進めていきたいと思います。

日曜担当…八木正典



 11月17日(日)
「全体最適」   日曜担当…八木正典

最近仕事をしていて、立場が変わると意見が変わるという出来事によく遭遇します。
それぞれの立場で見ると、主張している意見がそれぞれ最善と思われるのですが、それを一緒にしようとすると組織として何の問題解決にもつながらないことになるのです。

また、どちらか一つの立場を貫こうとすると別の方から不平不満が起こり行き詰まることになります。部分最適が全体最適にならなくて全く前進感のない結論になってしまうのです。

結局のところ、お互いの立場を尊重しつつ双方向のコミュニケーションを強化することにより、目指す方向を一致させたうえで結論を出していくというのが必要なのだと気づきます。お互いの見方を少しずつ変えていくしかないかと思います。

松下幸之助さんも、「我々はもっと自在でありたい。自在にものの見方を変える心の広さを持ちたい。何ごとも一つに執すれば言行公正を欠く。深刻な顔をする前に、ちょっと視野を変えてみるがよい。それで悪ければ、また見方を変えればよい。そのうちに、本当に正しい道が分かってくる。」と言われております。

見方を変えることによって道はいくつでもあると考え、最適に近づくことが出来ると信じ努力していきたいと思っております。


日曜担当…八木正典




11月16日(土)
「衆知」   土曜担当…佐々木秀彦

『衆知を集めるには、衆知を集められるように考えなければなりませんし、またみんなが知恵を出さねばなりません。そしてみんなの知恵でやる「三人寄れば文殊の知恵」と昔の人も言っているのですが。十人寄れば、知恵が余って困る。ところが、十人寄っても知恵がないというのであれば、みんな惜しんで出さないからだと思います。これではいけません。』(松下幸之助・社員稼業)

仕事で気分が行詰ることは多々あることだと思います。そこでの対処方法は人それぞれ、100人いれば100通りくらいあるのかと思います。僕の場合『本を読む』という方法にしています。気分転換にはなるべく尊敬できる偉人の本がやっぱり有効だと最近特に思います。松下幸之助さんは本をたくさん出されていて、かつ読み易いので、あっという間に濁った気分を落ち着けていただけます。

隣国が理解に苦しむ態度で日本国に接している国際情勢、国内の景気の低迷、学校の教育現場の状況、福祉の問題、等々、国会では議論すべき問題は山積しているはずなのに、お花見が適切か不適切かなどということで時間を費やしていらっしゃる様子です。選挙制度が間違っているのだろうと感じます、国会は議論する環境が整っているようには見えません。

「三人寄れば文殊の知恵、十人寄れば知恵が余って困る」この表現で、僕の行詰った気分がすーっと楽になった気がしました。「知恵を惜しんで出さない」状況を、僕は独りで作り出していたのだと教えていただいたような気がします。

知恵をだす環境を会社では社長が作り上げていくものでしょう。個人として考えた場合も同様で、知恵を出せる環境を常に整えていくのは、自分自身の心の置き方なのだろうなと感じました。心には感情があります。この感情を整えておかなければ、出るはずの知恵も出てきようがないので、結果的には知恵がない自分になってしまうのではないでしょうか。人間は万物の霊長です、知恵は必ずあります。でも出せない環境というのもあるような気がしました。心の環境をキチンと整える。これがまず第一歩。そうすれば知恵が出てきて困るという方向でその知恵を検討するようにもっていけるのかなと感じました。




土曜担当…佐々木秀彦




 11月15日(金)
「足るを知る」   金曜担当…佐藤成亮


『人生は不足がちのものである。満足ということはむしろ
あり得べからざるものであると、分を知り足るに安んずれば、
別に苦情も起らず下らぬ心配もない』』渋沢栄一 逆境を生き抜く言葉より


これは一言で言えば、『足るを知る』と言うことだと思います。

渋沢栄一は91歳まで生き、健康上で気を付けていたことで
二つのことを挙げていたそうです。


それは、①物事に屈託(くったく)しないこと
→屈託(くったく)するというのは、ある一つのことばかりが気
にかかって他のことが手につかないこと。くよくよすること。
健康のためには、心配しすぎないことが精神的にも
大切なことで、取り越し苦労が禁物です。

②気を転じること
→解決しない問題は、一旦は棚上げしてしまうこと。そのために、
気持ちを切り替えてしまうことが一番です。

①と②において、大事なことは『心を煩(わずら)わ
さないこと』

煩(わずら)わすとは、精神的な苦しみとなるようにする。
思い悩ませるということです。

よって、心を煩わさないというのは、こころに精神的な苦しみを
与えないこと、思い悩ませない、ということです。

確かに、心を煩わせていたところで、物事が好転していくかと
言えばそうではなく、どんどんと底なし沼にはまっていくような
ものだと思います。

そこで渋沢栄一は、『人の世は不足しがちのものだという前提に
立ち、与えられたものに安んじればいい』
と言いました。

よって、今を満ち足りたものとして、現状に満足し、安んじる
ことができれば、心をわずらわされることもなく穏やかに
過ごせるということだと思います。

『足るを知る』という言葉を元に、心を煩わせずに
充足感をもち、一日一日を過ごして参りたいと思います。


金曜担当…佐藤成亮



 11月10日(日)
「水垢離」   日曜担当…八木正典

先月で水垢離が2000日を超えました。
2014年5月からスタートして5年以上毎朝冷水を浴びているとは自分でも驚きです。

きっかけは、本心塾の坂本さんから水垢離のすばらしさを聞いたことでした。
本塾では最高顧問である今西会長は3000日の水垢離を達成されていますし、冨樫師長や佐々木代表幹事も現在水垢離を続けられています。一緒に水垢離を行う仲間がいることは励みになるし、本当に有難いことです。

最初は、自分の気力が充実すればという水垢離の効用を考えた邪な思いもありましたが、習慣というのは恐ろしいものです。
寒い日も暑い日も毎日続けていると、日々の活動のスタートとして行うのが当たり前となり、感謝の言葉を述べながら淡々と続けるようになっています。

5年にわたり体も心も元気でありえたこと、本塾での仲間と一緒に続けられている事実に感謝しつつ、一日一日を大事に積み重ねていきたいと思っております。


日曜担当…八木正典




11月9日(土)
「家族」   土曜担当…佐々木秀彦

『鳥も樹も動物も人間もみんな地球の家族です』(八千草薫)


湧くわく本心塾秋の遠足で多賀大社を訪れました。凛とした御神気に抱かれている気がしました。お酒が美味しいと思うのも、食事が美味しいと感じるのも、神社の御神気を感じるのも、実はみんな同じで、誰と一緒にその時間を過ごしたかに尽きるのかもしれないと感じました。金咲稲荷に今西最高顧問と、西端顧問のお名前の入った幟を冨樫さんが見つけました。湧くわく本心塾はやはりみんなが繋がっているような気がしました。

上記引用文は多賀大社の奥書院廊下に飾られていた奉納絵馬に八千草薫さんが書いていらっしゃった言葉です。本当に数えきれないくらい沢山の著名人の奉納絵馬が飾られていましたが、帰霊されて9日目という時期だったのも重なって、僕の心には響きました。

お星さまという視点で言うと地球は生まれて45億年ぐらいと言われているそうです。太陽のような恒星の寿命は100億年ぐらいらしいです。ちなみに太陽も現在45億歳程度らしいです。地球と太陽はだいたい同じような年齢なのですね。ただし惑星である地球には基本的に太陽のように寿命は無いとのことです。太陽は燃えているのでやがていつかは消え去る運命に対して、地球はそもそもエネルギーを発していないため、消え去ることも無いという理屈です。僕は太陽の引力で宇宙のガスや塵が集合してできたのが惑星なのだから、太陽の引力が緩くなったある時期に、結合していたガスや塵が再びガスや塵に戻るような気がします。太陽系の今の奇跡的なバランスの一瞬に地球が誕生して、さらに地球という星の奇跡的なバランスの一瞬に生物が存在し、さらにさらに生物が存在する奇跡的なバランスの一瞬に人間が存在できているのだろうと考えています。

地球の寿命は数十億年単位、対して鳥や樹や動物や人間の寿命とは次元が違うのではありますが、僕は八千草さんは地球も生物の仲間と考えて、ここに記したように感じました。生物である以上、生命の維持は環境との深い関わりがあります。

その環境との深いかかわりをミクロ単位に細かくしたのが、誰と一緒にご飯を食べるか、誰と一緒に酒を飲むか、誰と一緒に時間を過ごすか、、、こういう単位だと思えます。春夏秋冬という季節や、昼夜という環境は個人の力ではどうしようのないですが、誰と一緒にという環境は個人の意思でどうにでも変えていける環境だと思うのです。湧くわく本心塾の仲間と一緒に過ごすことのできる有難い環境に深く感謝いたします。

文字に並べると頗る解り難いですね。誰もが肌で感じるものを敢えて文字にすると解り難いものですが、八千草薫さんは、多賀大社の中で感じた宇宙をとても真っ直ぐ文字にされていらっしゃると感激してしまいました。合掌。


土曜担当…佐々木秀彦



 11月8日(金)
「大局的に見る」   金曜担当…佐藤成亮


『人間が世に立つには志を一つにしなければならぬのに、現代青年の多くは、目前の小利に囚われて、これを二つにも三つにもして平然としている。』渋沢栄一 逆境を生き抜く言葉より


この現代というのは、令和の現在ではなく、
渋沢栄一が文章を書いた大正の時代の話になります。

単に文章を読んでいるだけでは、話としては、
今現在にも通じる内容だと思います。


大局的に見ることで、視点が大きく変わります。

以下①~③のポイントがあります。

①長期的な時間軸で考え出す
→長期的に物事を考えることで、今現在の縛りや制約から離れて
ものを見られるようになります。
何でも両極端に過ぎることは良いとはいえません。
『今を生きる』と言うことも同じように大事なこと
だと思います。要はバランスだと思います。
ただやみくもに何もないまま今を生きるというのではなく、長期的な時間軸でもって、今を生きていくと、
進む先の足元にちょっとした明かりキラキラをおいて
歩いていけるような感じで迷うことも少なくなると思います。


②全体的に考え、部分と部分を有機的につないで新たな発想を始める
→長期的な時間軸で考え出すことにもつながりますが、
長期的に考えることで、全体像をつかもうと言う考えにシフトしていきます。
そして、転がっている点と点をつなぎ合わせたらどのような結果
につながるだろうか、と発想が柔軟になりいろいろと物事をためそうと考えるようになります。


③これまでは見過ごしていたような有益な情報が入ってくる
→長期的、全体的に考えることで流れがつかめるようになり、.
その流れの中に自分のアンテナを立てることで、
有益な情報が目の前にあったことに気付くようになります。
魚が泳いでいない場所ずっと魚釣りをしていても魚はつれません。
やはり、どこに魚が泳いでいるのかなど、一歩引いて俯瞰して全体をみることで、
泳いでいる場所も少しづつつかめてくると思います。


また上記、①~③とは逆に考えて、視野を狭めていくと、
小利や私利にとらわれはじめ、短期的で、自分を最適化するようになり情報が制約されます。

以上の点を踏まえて、渋沢栄一は視野が狭くなってくることに警笛を鳴らしています。


今一度、自分のものの見方をふりかえって行動していきたいと思います。

金曜担当…佐藤成亮




 11月3日(日)
「洗心」   日曜担当…八木正典

昨日は、本心塾の秋の遠足でした。
滋賀県の多賀大社と伊藤忠兵衛記念館、建部大社を回るという行程でした。

特に多賀大社は「お多賀さん」の名で親しまれる滋賀県第一の大社ですが非常によかったです。
はじめての昇殿参拝での本殿祈祷で何かすがすがしいものを感じるなと感じていたら、一緒に参加されている方もいい気が満ちているという話をされていて、まさに同じような気分を感じておられました。なかなかできない経験と合わせて雰囲気のいい同じ場を、本心塾の方々と一緒に共有しできたことは有難いことです。

続いて奥書院庭園を見学させていただきましたが、とても美しく素晴らしい庭園です。
喧噪にまみれる普段の生活から一歩離れ、凛として静かに流れる時間を体感することが出来ました。
また、奥書院にはその廊下に、多くの著名人の書が飾られております。
その中でも気になったのが、将棋の大山康晴十五世名人の書かれている「洗心」でした。
「洗心」は過去自分のテーマにしていたのですが、まさに参拝して心が洗われる経験の中で、自分の意識を正し、いい気をまとうことの重要性を思い返すことが出来ました。

新たな体験と自分の過去の想いを振り返るいい機会を得ることが出来ました。参加メンバーの方々と心を洗う充実した一日を過ごさせていただきうれしく感じております。


日曜担当…八木正典



11月2日(土)
「神社」   土曜担当…佐々木秀彦
僕は冨樫さんの主宰されているオンラインサロン『エンジョブ』で100日ブログの会というのに入っていて、ここでブログを書き始めて今日で連続141日書いています。参加者には特に制限は無いのですが、比較的スピリチュアルの業界の方が多く参加されていらっしゃいます。参加に迷ったりもしたのですが、神社は好きだし、古事記も好きだし、水垢離もしているし、子供の頃星座のお話も好きだったので、まぁ大丈夫だろうと参加したのですが、蓋を開けてみると、会の中でも神社好きの人と皆さんから認識されているようです。

不動産という土地を売買する仕事をしていますので、物件地元の神社にご挨拶に行ったり、その土地の歴史を調べるのに神社のご由緒書きを参考にしたりは常日頃からやっていましたが、その神社参拝で写真を撮るようなことはありませんでした。でもブログを始めたおかげで、神社の画像も撮ることで、参拝が丁寧になり、結果より多くの情報を神社から感じることができるようになりました。

市役所や区役所へ行くと、明治期以降の歴史は確認できます。ただ、それ以上昔は意図的に情報を無くしています。図書館に行けば、様々な本がありますが、特別の場合を除いてそこまで深くは調べません。そこへいくと神社のご由緒書きは端的にまとめられていて、便利です。お稲荷さんの雰囲気で商売されている方が多い地域かどうかだいたいわかります。創建時を確認すると、その場所が街になった年代を推測しやすかったり、江戸期の水害や開発時期、村の統廃合なんかも明確に書かれていたりする場合もあります。かなり有効に活用しています。

今月の湧くわく本心塾では秋の遠足で多賀大社、建部大社へ参拝します。近江商人と言えば商売上手という印象です、伊藤忠記念館も工程に入っています。お金儲けが上手というのは、人の期待に応えるのが上手ということだと思います。人の期待に応えられる近江の礎をしっかり感じてこようと湧くわくしております。


土曜担当…佐々木秀彦



 11月1日(金)
「小事が大事」   金曜担当…佐藤成亮

『小事を粗末にするような粗大な人では、
所詮大事を成功させることはできない。』
 「渋沢栄一 逆境を生き抜く言葉」より


と渋沢栄一の言葉ですが、なぜ、成功者ほど小さなことを大事にするのか?

与えられた仕事に、どれだけ一生懸命になれるかがポイント
となり、豊臣秀吉においては、主君の草履を懐で温めるという、
小さな仕事でも工夫を重ね、与えられた仕事に打ち込むことで、
将来が違う結果となっていきました。

また、イチロ―においては、
『小さなことを積み重ねるのが、とんでもないところへ
行くただひとつの道だと思う』という言葉があります。

イチローの偉業にしても、コツコツと小事というのでしょうか、
ヒットを積み重ねて行った結果がとんでもない結果につながったと思います。

この二つの例から、全体を俯瞰してみることと、
徹底的に細部にこだわることは非常に大事だと思います。

日々、ていねいに生きる上では、『今という時間』を大事に
過ごすことが大事ですが、さらに、全体を見据えて、
細部にこだわるとも大事だと思います。そして、ひとつひとつの
行動に感謝の気持ちを添えて、くじけそうになる自分の気持ちを
フォローしつつ、前を向いて少しづつ歩いて行きたいと思います

金曜担当…佐藤成亮



 10月28日(月)
「心の友」   月曜担当…池田光

■“みち”
ぼくの恩人の詩をひとつ紹介したいと思います。
その恩人は、大正8年(1919年)10月30日に神戸市で生まれました。
明後日の10月30日には、生誕100年を迎えられます。

その恩人というのは、ぼくがサラリーマンになったときの社長でした。
彼から、「天風先生が創案した訓練法を、君が人間教育として導入しなさい」と命が下ったのは、ぼくの25歳のことでした。
このとき、恩人は61歳(正確にはまだ60歳)で、ぼくより36歳年長でした。

恩人のことについては、さまざまな思い出がありますが、彼の詩をひとつ掲げたいと思います。
その詩は、彼が39歳のときに作ったもので、ぼくはまだ3歳でした。
“みち”という詩です。

“みち”
山は人が歩んで道がつく。
まよい引きかえし、さぐりさぐり道がつく。
その道をまた人が歩んで道がつく。
いつか誰かが歩んだその道なのだ。
山は険しく苦しくとも、人が歩んだ道なれば自分も歩めぬはずはない。
    *
なぜ山に登るのか。
その山の上にみんなの幸福があるからだ。
みんな山に気をゆるすまい。
谷に恐れを抱くなよ。
峻険を恐れ緩道に心をゆるせば、この道は長く歩めまい。
遠く高くみつめて道の高低に一喜一憂していれば道を誤り目標を見失う。
    *
私は道であり、真理であり、生命である。(ヨハネ伝第十四章第六節)
    *
この道は、私にあたえられた、ただ一つの道。
この道を一人ただ歩く。
この道がどこまで続いているのか。
この道が私の道なのか。
ときどき、不安にまどうとき私は考える。
何のために、人は生かされているのか。
何をなさねばならないのか。
それを知ることと、そのようなことを味わうために、この道を歩いているのだ。
ただ歩むのだ。
歩んでおれば、行きつく処に行く。
それが私の行く先。
考えることはやめよう。
歩くことが私にあたえられたすべての、私の生命。
どこへ行くのか、どうなるのか、そんなことは私は知らない。
一切は自然におまかせしました。
よろしくたのみます。
私はただ歩いておればよいのだ。
とどまることができない努力と精進の道が人間の道のようだ。
あせらずに、ゆっくりと歩一歩。

■“心の友”のこと
この秋、素晴らしい人物と出会い、尊敬すべき心の友ができました。
山田晶(あきら)氏です。
ぼくより33歳年上です。
生きておられたら、97歳です。

書棚には、以前から山田晶著『アウグスティヌス講話』(新地書房)という本がありましたが、二十年間ほど目を通さずにいました。
ふと、問題意識があった第四話「創造と悪」を読んだところ、深い感動を得ました。
そして、改めて第一話から順に読み進めました。

興味深かったのは、一話「アウグスティヌスと女性」、三話「ベルソナとペルソナ性」、四話「創造と悪」、六話「神の憩い」です。
不覚にも、一話を読んだときは、涙腺が緩みました。
三話を読んで、神学というものに興味を持ちました。
四話では、恐るべき高みに超越させられました。
六話には、盲点を突かれました。

ネットで調べると、『アウグスティヌス講話』は大仏次郎賞を授賞したそうで、現在は講談社学術文庫の一冊として収められています。
プロテスタントであるぼくの奥さんに、一晩に一話ずつ読んで聞かせたところ、コンパクトな講談社学術文庫版を座右に置きたいと言われ、「プレゼントするよ」と約束しました。

こうして、この秋、山田晶氏はぼくの“心の友”となりました。
さっそく友の書である『トマス・アクィナスのキリスト論』(創文社)を注文し、一昨日、この本が届いたところです。

また、書庫には、ぼくが学生時代に購入していた『世界の名著』があります。
そのうち、14巻『アウグスティヌス』と、続5巻『トマス・アクィナス』の2冊は、山田晶氏が翻訳されています。
この2冊を取り出して。山田晶氏による解説を読みましたが、解説なのにまるで文学を読んでいるようで、じわじわと言い知れぬ感動が押し寄せてきました。
どちらの本にも月報が付いているのですが、そこに顔写真が載っています。
山田晶氏はジャニーズ系のような美少年が大人になったような感じでした。
特に『トマス・アクィナス』の月報の写真が気に入りました。

ぼくには、何人かの“心の友”がいます。
本当は“心の友”ではなく、“心の師”と呼ぶべきなのですが、「師」と呼ぶと彼らの書物に「ツッコミ」を入れにくく、密かに“心の友”と呼んでいます。
ぼくにとって、孔子は心の友です。(後継者に連なる孟子も尊敬していますが、心の友ではありません)
中村天風は、心の友です。(が、ぼくの師である杉山彦一先生は心の友ではありません)
渋沢栄一は、心の友です。(ですが、いろいろ教えられた安岡正篤は、心の友ではありません)

孔子も、中村天風も、渋沢栄一も、なんか近しく感じるのです。
だから、尊敬からくる「よそよそしさ」の皮をはいで、“心の友”と呼ばせていただき、心的世界において友だちづきあいをさせていただいております。
ほかにも“心の友”がいますが、じつは上述の“みち”の詩の恩人も、ぼくには“心の友”なのです。
彼には、
「今なら、あなたが生前、口ぐせのようにおっしゃっていた“生かされて生きる”の意味がわかります」
と話しかけております。

こんなふうに“心の友”がいるので、ぼくは人にお会いすることが少ない生活をしていますが、そんな淋しさを紛らすことができております。

■11月2日の秋の遠足(バス旅行)のご案内
湧くわく本心塾の秋の遠足が、まもなく開催されます。

【日時】
11月2日(土曜日)
8:40に、大阪倶楽部前に集合。
18:30に、大阪倶楽部前にて解散。

【行程表】
8:45 大阪倶楽部前
11:00 多賀大社
(近隣に全員で移動して昼食:各自)
16:30 建部大社
18:30 大阪倶楽部前で解散
※全行程貸し切りマイクロバスでの移動となります。

【会費】
参加費6000円(塾生・一般共通)
参加定員は20名(先着順)
※昼食費別途で自己負担
※多賀大社ご祈祷玉串料1000円自己負担・希望者のみ

【その他】
※バスは定刻で出発します(遅刻厳禁)
※バス内飲食可です(持ち込み自由)
※多賀大社で正式参拝に参加されます方は、参拝に相応しい服装をお願いいたします。

もしかしたら、定員に達しているかもしれませんが、希望者はメールにてお知らせください。
残暑の厳しさから一転して、寒ささえ感じられるようになってまいりました。
みなさま、楽しい秋を過ごしてまいりましょう。

月曜担当…池田光



 10月27日(日)
「耐」   日曜担当…八木正典

語に云う、「山に登りては側路に耐え、雪を踏んでは危橋に耐う」と。一の耐の字、極めて意味あり。傾険の人情、坎珂の世道の如き、若し一の耐の字を得て撑持し過ぎ去らざれば、幾何か榛莽坑塹に堕入さざらんや。(菜根譚)

語に「山に登るのなら険しい坂道でも辛抱して耐えて進み、雪を踏んで行ったならば危い橋でも辛抱して耐えて進む。」とあります。この「耐」の一字は極めて大切です。世の中の厳しい人との交わりや行き悩む不遇な境遇で、この耐の字を持ち続けることが出来なければ、藪や穴の中に落ち込んでしまうのです。


仕事で想定をしているように事が運ばず、予期しない問題が発生するような事態が起こっております。前倒しでしっかりとした準備をし、起こる可能性のあるリスクを想定しながら進めているつもりなのですが、想定に見積もりの甘さがあったのだと思います。
こんな時は努めて前向きな姿勢を貫きながら、収拾に向けて地道な働きを行っていくしかないありません。

松下幸之助さんもその著「道をひらく」で、忍耐の重要性を述べておられます。
商売で物が売れなければ、まず自ら反省し、じっと辛抱してさらに精進努力をつづけ、人々に喜んで買っていただけるだけの実力を養わなければならないというのです。辛抱づよい働きを続けていくことが大事だと、そう説かれております。

「耐」の一字を胸に置きながら、粘り強く総力戦で問題解決に努めていきたいと考えております。

日曜担当…八木正典



10月26日(土)
「酔仙」   土曜担当…佐々木秀彦
『製造するための設備、販売するための在庫、全てを失った私たちですが、先ずは県内の同業者である岩手銘醸様の蔵を借り受け、醸造を開始しました。本来ならライバルであった岩手銘醸様をはじめ、義援金や物資など沢山の方々のご支援により震災後わずか半年で新しいお酒の醸造を開始する事が出来ました。
周囲の方に「なぜそんなに頑張れるのか?」と聞かれる事がありましたが、理由は単純です。「震災前にあった日常を出来ることから取り戻す。」これが復興であって、酔仙の復興への取り組みはこの中の一部です。
日常を取り戻したい。歴史は繋ぎたいのです。
翌年、3月には岩手県大船渡市に新工場の建設を開始しました。国の復興事業補助金が決まり、異例の早さでの新工場建設でした。完成までわずか5ヶ月。ゼロの状態から仕込みを開始できるまで半年間。その中で全ての準備をしなければならないため困難な道のりでしたが同8月、新工場にて仕込みを開始するに至りました。
私たちは震災により、7名の大切な従業員を失いました。また、建物や設備など形ある物も全て失いました。しかし失わなかったものもあります。それは、歴史です。取り戻しつつある日常と、それらを残したい、繋ぎたいと思う意志が今の私たちを支えています。』(酔仙酒造HP)

僕は東北の震災直前の夏と震災直後の夏に陸前高田を訪れています。友人が住んでいるので普通に遊びに行ったのが直前の夏。そして震災が起こってお見舞い気分で震災半年後の陸前高田を訪れてその光景に愕然としました。半年経っているのにまるで昨日津波が襲ったかのような街並みでした。お陰様で友人家族は家はすべて流されましたが、無事でしたが、お見舞い気分の軽率な認識を力一杯恥ました。この友人が先日お酒を贈ってくれました。『多賀多』という銘柄。米から全部地元産という拘りで出来上がったお酒です。凄い!感動しました!震災の破壊力を肌で感じているので、8年でよくぞここまでと感無量です。

上記引用文は酔仙酒造HPからそのまま抜粋しました。できればHP(https://suisenshuzo.jp/)も見ていただけましたら、酔仙酒造さんの気持ちは十分伝わるかと思います。

昨年は大阪北部に台風と地震がありました。今年も千葉をはじめ台風の大きな被害がありました。被害があってしばらくは報道もされますが、すぐに忘れてしますのが良くも悪くも現代です。東北の震災もまだ被災者には現実です。阪神淡路大震災も今まだその被害と戦っている方はたくさんいらっしゃると推測します。それに対する受け止め方は人それぞれで良いと思います。ただ、僕はこのお酒をここでご紹介することが、僕の役割なのかなと感じました。

酔仙酒造の造った『多賀多』、そして酔仙酒造をぜひよろしくお願いいたします。

土曜担当…佐々木秀彦



 10月25日(金)
「心記」   金曜担当…佐藤成亮

『読んで心に残らぬようなことなら、
万巻の書を読破した者でも、
なおよく一冊を記憶する者に及ばぬわけである。
ゆえに読書の要は「心気」にあるに相違いない。』
       「渋沢栄一 逆境を生き抜く言葉」より

渋沢栄一は、「読書の要は『心記』にある」と言っております。

心記とは、王安石の勧学文の「好書は心記に在り」から採ったものだということです。

良い本は、心に残る本であり、心に残らなければ、読む価値は低いということ。また、良書にあえば一節でも記憶して自分の中の一部として取り入れることが大事であるという事です。

わたしは、1日15分でも、少しでも読書をしようと常に本を読める環境づくりをしております。

読書において、文字を追いかけ読むだけでは、その場は内容を理解できたとしても後々、どんな本でした?と聞かれても内容の説明ができないのです。

心に残すには、ただ読めば心に残るわけではなく、自分自身の中でアンテナを立て、問を持ち、本の著者と対話するように真摯に本と向かい合うことが大事だと思います。

アンテナを立てる、問を持つということは、自分自身の中で、受け入れる体制をつくると言う事でもあると思います。

さらに、受け入れたものは、自分の口から自然と発せられてこそ、実践とはいかないまでも、内容を体現するという意味では、近づいていけているのではと思います。

自分の向かう方向へ良い舵を切っていけるように、書と真摯に対峙して、自身に取り入れて実践して参りたいと思います。



あらためて、今回の部分の、『心記』と言う部分が心に残りました。まさにこれが、『心記』なのかもしれません。

私は、速読も大事だとは思いますが、速読はあくまでも情報を手繰り寄せる読み方であり、速読によって多読して人生が大きく変わるというメソッドが流行ったりしておりますが、そうは思いません。

やはり、適宜立ち止まって、これはどういうことなのか、という前後関係や、作者の意図、背景などを突っ込んで読んで行くことで、理解できていくものごとがあると思います。そういう意味では、最近は、味読という読み方が非常に大切だという思いに至っております。


金曜担当…佐藤成亮



 10月20日(日)
「幸福」   日曜担当…八木正典

探求するためには、一日は関心をもってもあとは忘れているというのではなく、全面的に関心を持たなくてはなりません。来る日も来る日も、毎月毎月、毎年毎年、生涯にわたって関心を持つのです。
なぜならこれはみなさんの生なのですから。(クリシュナムルティ)

何かの本で読んだのですが、幸福について次のように書かれていました。
人間は、「今」幸福の想いを起こしておれば、「今」その人は幸福なのです。人間の一生は「今」の連続なのですから、「今」さえ幸福との想いを常に持ち続けられたら永遠に幸福なのです。

過去や未来にとらわれていると、不安感が増大し、今を生きる感覚が鈍ってきてしまいます。
そうすると、生老病死や愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦の四苦八苦は逃れられないものかもしれません。
仏教哲学者で高名な鈴木大拙先生は、「即今ただ今だけが事実で本当だ。そして、今日限り、これ限り、今かぎりという自覚というか直覚、そういうものがあるところに本当の安心がある」と言っておられます。
今の瞬間をいかに大事にして楽しみと喜びを見出していくのか、そしてその状態を継続させていくのか、加えていかにまわりの人とその幸福を分かち合っていくのか、そんなことを常に意識しながら活動していきたいと感じております。

日曜担当…八木正典



10月19日(土)
「収穫」   土曜担当…佐々木秀彦
『遠きをはかる者は富み、近くをはかる者は貧す。それ遠きをはかる者は百年のために杉苗を植う。まして春まきて秋実る物においておや。故に富有なり。近くをはかる者は春植えて、秋実る物を尚遠しとして植えず。唯眼前の利に迷うてまかずして取り、植えずして刈り取る事のみ眼につく。故に貧窮す。』(二宮尊徳)


最近この言葉はすべてを言い表しているなとやっとわかってきたような気がします。宅建業の場合、土地建物を取引するのですが、ここにあまりに視野の狭い要望が多いことが気になります。宅建業の場合、動くお金が大きいので、銀行の融資を利用する方がほとんどなのですが、この銀行融資には基準があり、その銀行規定の基準に合わせて物件を探す方が多いのはあたりまえなのではありますが、銀行基準がそのままその方の基準になっていて、踊らされているように見える方が増えてきたように思えてなりません。

人によって価値基準は当然に違うから、大成功する人、成功する人、着実に伸ばしていく人、等々、様々な事業形態が存在するから面白いと僕は常々思っていますが…銀行規定基準を真っ直ぐに追いかけている人があまりに多いのが現実です。またそのほうが失敗のリスクが減るというのも現代にはあてはまる構図です。

たしかに、今日の生活は大切です。今日を生き延びなければ明日も明後日もなく、ましてや杉苗が成長するまでなんてどうなるかわからないです、自分の事だけを考えている人ならば。

例えて表現したい話は多々ありますが、今、僕は、種を蒔いているかということだけに拘りたいと思っています。自分が蒔いた種でもない果実を食べるのは究極、盗人みたいなもので、自分は盗人にはなりたくないと強い意志をもって、種を蒔き続けることが、僕の今やらねばならないことなのだという感じです。上手く表現できませんが、何か伝わればと思いブログネタにしました。収穫したいから、種を蒔き続けます。


土曜担当…佐々木秀彦



 10月18日(金)
「曾子の三省」   金曜担当…佐藤成亮

『記憶を強くするには、
複雑した記憶法を研究するなどよりも、
曾子のいわゆる三省を実行するのが何よりである。』
       「渋沢栄一 逆境を生き抜く言葉」より

渋沢栄一は、毎晩、曾子の三省に習い、一日を振り返っていたそうです。

その三省とは、
①相手のためを考えて十分に誠意を尽くしたか
②相手に対して言葉と行動が違っていなかったか
③相手に対して理解が浅いことを教えなかったか

を振り返ったとのことです。

ふりかえることにより、その日の出来事が整理され、強い印象となって記憶に残るということです。

記憶は、反復が大事ともいわれるので、その日の出来事をふりかえることは、もう一度、自身の体験を追体験ができるので一番良い学びとなると思います。

今回の失敗は、今度はこのように活かそう。ここは、このようにすればもっとうまくいくなど、体験の記憶は身をもって覚えていることなので、振り返ることで、より研ぎ澄まされて、整理されてくると思います。

毎日をないがしろに過ごすのではなく、一日一日を大事にして生きていくためにも、曾子の三省に習ったふりかえりを毎日行い、昨日よりも今日、今日よりも明日と歩みはすこしでも、自己の成長につなげていきたいと思いました。



金曜担当…佐藤成亮



 10月11日(金)
「蚊」   金曜担当…佐藤成亮

『 蚊のたかってくるように、
用のたかってくる人にならなければいかんよ。
役に立つものは用に追いかけられるが、
役に立たん者は用のほうで逃げてゆく。』
 「渋沢栄一 逆境を生き抜く言葉」より)

「蚊がたかるように用のたかる人になれ」
というのは、渋沢栄一の口ぐせで、
やがてその口ぐせと共に、自らを世の中の役に立てようとします。

『はた』(傍)を『らく』(楽)にさせる。それが働くということ。

働くからには、やはり人の役に立つことをしていかねばと思います。

独りよがりで働いて、後で振り返って、何が楽しいのだろうかと。

人の役に立てるようになり、相手との信頼関係を築け「頼まれごと」が多くなる働き方をする。

そして、その循環で、頼まれたからには、また自分も頑張ろうというプラスの成長のサイクルができる。

そう考えると、改めて、人と人との間である、人間として、多くの人に役に立って行かねばと思いました。

「蚊がたかるように用のたかる人になれ」
を合言葉に、

『力と勇気と信念をもって』過ごしてまいりたいと思います。


金曜担当…佐藤成亮



 10月6日(日)
「百聞」   日曜担当…八木正典

百聞は一見に如かず  (いくら聞いても自分で見ることには及ばない)
百見は一考に如かず  (いくら自分でたくさん見ても考えることには及ばない)
百考は一行に如かず  (いくらたくさん考えても、それを実行に移すことには及ばない)
百行は一果に如かず  (いくら実行に移しても成果をあげることには及ばない)
百果は一幸に如かず  (いくら成果を上げても幸せであることには及ばない)
百幸は一皇に如かず  (いくら個人が幸せでも、みんなが幸せであることには及ばない)


百聞は一見に如かずといいますが、続きがあるのを知りました。
後半は後世に付け加えられたものらしいですが、なるほどと思わせる内容になっています。
人から聞いたり、実際に見たりすると、それだけで自分でも知っている気持になったり、できるような気持になったりすることが起こります。
また、いいアイデアを考え付くと人に話してそれだけで満足してしまい、その先への本当に大事な「行動」に移っていかないことも多くあります。
孔子も、「始め吾れ人に於けるや、其の言を聴きてその行を信ず。今吾れ人に於けるやその言を聴きてその行を観る。予に於いてか是れを改む。」と言っております。
日々あふれかえる膨大な情報を取捨選択する中で、いかに行動に、そして成果に、そして多くの人の幸せに結び付けていけるのか工夫をしていきたいと思います。

日曜担当…八木正典



10月5日(土)
「一癖」   土曜担当…佐々木秀彦
『「人は、必ず一癖あるものの中に撰ぶべし…(今の世は)十人好きの人は用に立つものにあらず」「上・下ともに一癖あるものこそ用立つ者多し、頭立つ人はその心得あるべし」』(島津斉彬)

明治維新の直前の頃の島津藩当主島津斉彬。彼の功績は凄いものがあります、日本の明治維新は島津斉彬が成し遂げたと言っても過言でないくらい、重要な人物だと思います。

本日開催の第4回潜学講座では『薩摩藩郷中制度』を取り上げますが、薩摩藩は陽明学を郷中制度で教えておりました。いえこれは僕の飛躍した表現ですが、島津斉彬の時代には山崎闇斎、荻生徂徠の流れの人物が教育現場に携わっております。特に水戸学に関しては大日本史を皆が読み込むぐらい、大切に学習していたようでした。
島津氏は源頼朝の実子の島津忠久が薩摩の島津荘の下司に任命されて島津家の祖となりました。徳川将軍家にも綱吉、家斉の正室は島津氏の姫を出しております。

島津斉彬は日本国家より先に、薩摩藩が開国し、実績を作ることで、やがて日本国が開国できるよう先鞭になろうと考えていたように思われます。アヘン戦争で清が攻略されたことで、危機感が強まり、鉄砲や戦艦、大砲の製造はすぐに取り組んでおります。薩英戦争で世界最強レベルのイギリス艦隊を叩きのめしたのには、それ相応の欧米列強と戦う準備をしていたからです。フランスもイギリスも琉球に黒船で入り込み開国を迫りました、ペリー来航以前の話です。島津斉彬は話の運び方によっては武力攻撃になることをしっかり認識しながら、武力行使させずに断固拒否の交渉を成し得て引き上げさせました。

薩摩はそんな素晴らしい人物が、歴代当主に幾人も名を連ねています。島津中興の祖と評される戦国時代の島津忠良もとても素晴らしい人物でした。その忠良が織田信長が世に出ようとする時期に、藩の繁栄のためには何よりも人材の育成と考え、子供の教育用に作ったのが『いろは歌』です。徳川300年の歴史と同じだけ、薩摩郷中制度の歴史はあります。

いろは歌の「い」…
『いにしえの 道を聞きても 唱えても わが行いに せずばかひなし』

平成の時代はなんでも無難にこなし、誰からも嫌われないような人が出世しました。そういう時代もあって良いと思います。ただ令和でこの閉塞感を打ち破るためには、一灯照隅・萬燈照國の精神なら、僕たちからまず、一癖ある人物と大切に、しっかり、お付き合いしていくべきかと考えます。


土曜担当…佐々木秀彦



 10月4日(金)
「孝行」   金曜担当…佐藤成亮
子が考をするのではなく、親が子に考をさせるのである。 (「渋沢栄一 逆境を生き抜く言葉」 より)

親が「こどものため」と思って行うことも、本当に「こどものため」というよりも、実は、言っている親の自己満足であったりすることがあります。

親が何でも代わりにやってあげようと、こどもを小さい枠の中にとどめようとすることは、逆に親元から飛び出さざるを得ない状況になり、親不孝にしてしまうとのことです。

逆に言えば、親不孝でなく親孝行の子にするには、とどめるのではなく、こどもの意志と人格を尊重して親が折れるしかないということになります。

仕事でもそうですが、何でも相手に任せておけないからと自分ばかりで仕事をやっている人がいます。そうすると、仕事を任せようとする相手も考えることをやめ、成長する機会を奪ってしまうことになります。

そして、仕事の最盛期になると相手が十分成長できておらず、自身の負担が極端に増えてしまう、という負のスパイラルになりかねません。『なんでこんなに仕事できないの?』と思ったとしても、いやいや自分で芽をつぶしていた結果であるのです。

家族も仕事もそれぞれ場を共有している上では、チームであり仲間であるので、お互いが成長をしていける配慮ができるようになっていきたいと思います。

渋沢栄一を少しづつ読んでおりますが、実践的な内容なので、ふと、立ち止まって自身の身の回りに置き換えてながら読むと非常に面白いです。

金曜担当…佐藤成亮



 9月30日(月)
「近況報告」   月曜担当…池田光

かつて消費税が導入されたとき、「5%→8%→10%」と段階をふんでアップするだろうという予測が語られたものですが、ついに10%時代に突入しますね。
ヨーロッパの国々では、消費税20%を超えているところも多いですが、それはそれ。
マスコミはすぐに各国と比較して、消費税の感覚を麻痺させますが、わが国はわが国です。
わが国では10%をマックスにしないと、いろんなところに歪みが発生してくるように感じます。
さて、少し近況を話そうと思います。

■新聞をやめたこと
7月末で新聞をやめました。
生れてからずっと新聞が配達される生活をしていたのですが、ある新聞社の姿勢に疑問を感じて購読をやめました。
別の新聞を購読しようと検討を始めたものの、今では「新聞をとらないほうがいいのではないか」と思うようになりました。

新聞をやめてから、ネットで新聞を読み始めました。海外の新聞の日本語版もあって、広い観点から読めるようになりました。
比較してみると、これまで信頼していた新聞記事の取り上げ方が、かなり偏ったものであること、フェイクニュースすら含まれていることが分かってきました。
ネットには、一つのテーマを二時間、三時間かけて深堀している番組があることを知りました。
中東情勢、東アジア情勢などに関心をもっています。

■読書
ここ半年ほど読み続けているのは、仏教学や日本宗教史がご専門の末木文美士(すえきふみひこ)氏の本です。
以前から『碧巌録』の現代語訳や解説書に興味をもっていたのですが、集中的に読んでみようと、新たに十冊ほど買い求めました。
最初に読んだのは、『思想としての仏教入門』ですが、これが刺激的で、次に『仏典を読む』へと進み、ゆっくりながら次々に読み進めています。
考えさせてくれる本ばかりです。
良い本に巡り合いました。

■嬉しかったこと
7月末に、健康診断の結果が届きました。
見ると、腫瘍マーカーの値が異常値でした。
さっそく調べてみると、「70~80%くらいの確率で癌だ」ということでした。
そこで覚悟を決めて身の回りの整理をしつつ、再検査に臨みました。
医者からも、癌についての説明がありました。
が、9月上旬に、癌ではないことが判明しました。
今後は経過をみていくことになり、四半期ごとに診断します。

さて、嬉しかったことというのは、7月末に悪い健康診断が届いた日の夜に、ぐっすり眠れたことです。
翌日からも、いらぬ心配をすることなく、平常心で暮すことができました。
ぼくは、天風哲学を学ぶことによって平常心を身につけたいと願っていました。何かあっても、なくても、安定した心理状態で暮すことを目標にしていました。
今回、それが証明できました。
このことがとても嬉しかったのです。
これで、心の安定について語ることができる。自信をもって、天風哲学を語ることができると思いました。

■年金生活について
まもなく年金生活者になろうとしています。
もらう側になって思うのは、「現役世代に迷惑をかけないようにしよう」ということ。
ぼくの場合、現役世代に迷惑をかけないというのは、身近では息子や娘に迷惑をかけないことでもあります。
ぼくは国民年金なので、社会的には年金弱者です。
年金だけではまったく生活できません。
そこで、数年前から具体的に準備しつつあります。

ぼくの考えを一般化するとこうです。
年金生活世代は、現役世代の年収の70%以下の生活にする。
つまり、30%以上のダウンサイジングを図る。
そして、現役世代に迷惑をかけないよう、年金で現役世代の年収の45%を保証。
足りない25%は、働いて稼ぎ続ける。
しかし25%を稼ぎ続けるというのは、大変です。
そこで施策として、第一に「稼ぐスキルを現役時代から身につける」こと、第二に「定年退職後の労働環境をつくる」こと。
現在は、国が上記の「第二の施策」を企業に押しつけています。ある程度は、退職後の労働環境づくりを企業の責任においてやることは必要でしょう。
しかし、過度に押しつけるとコスト高となって、企業は競争力を失います。
年金者になっても、基本は自力でなんとかするという「第一の施策」を組み込むことが必要だと思います。

しかし、25%を稼ぎ出せない人もいます。
そんな人は、みんなで集まって畑をつくるなどして、自給自足の工夫をし、若い世代になるべく迷惑をかけないで生きていくべきです。
最初に「現役世代の年収の70%以下の生活にする」と言いましたが、稼げない人は自給自足度を高めて、「60%以下の生活」さらには「50%以下の生活にする」ことが大切なのではないでしょうか。
これが第三で、「ダウンサイジングのスキルを身につける」こと。
あるいは、「ダウンサイジングのインフラをつくる」こと。
ダウンサイジングしたらしたで、新しい楽しみを発見できます。

ただし、深刻な病気などになると、稼ぐことはできません。肉体的にどうしようもない方には、逆に年金支給を増やしていただきたいと思います。
こう考えると、第四として、「健康年齢を高め、病気などの期間を短くする」ことが大切です。
さらに付け加えると、「現役時代に貯蓄しておく」こと。

まとめると、
1.稼ぐスキルを現役時代から身につける。
2.定年退職後の労働環境をつくる。
3.ダウンサイジングのスキルを身につけるとともに、インフラを整備する。
4.健康年齢を高め、病気などの期間を短くする。
5.現役時代に貯蓄しておく。
となります。

年金者の基本は、「現役世代に迷惑をかけない」という一点に尽きます。
そうでなくても、国の借金は多くて現役世代に頼る(次世代にツケを回す)という社会構造になっているのですから。
ぼくは、上記の5を怠っていたので大変です。
ですが、エゴを捨て、現役世代に迷惑をかけないことを念頭にやっていきたいと思います。

■秋は動きます
暑い日々も終わろうとしています。
夏は家にこもっていたので、すっかり体力が落ちてしまいました。
10月からは外にどんどん出かける予定です。
美術館や文学館めぐりをはじめ、「庖丁を研ぐ講座」「車イス体験講座」「ダーツなどを体験する講座」「絵本を読み聞かせる講座」など、体を動かすものを選んで申込みました。

季節は秋になりますが、ぼくの人生においては壮年期の夏を過ぎ、実りの秋も終わりか、初冬を迎えようとしています。
秋や冬には、壮年期とは違った「味わい」を見つけることができるものではないでしょうか。
童謡にも「小さい秋見つけた」というのがありますが、小さい秋=味わいと見立てて、世の中を楽しみたいと思います。

さて、湧くわく本心塾の潜学講座も、これから秋の講座、冬の講座へと入っていきます。
ぜひ、10月の講座にもお出かけください。
また、11月には「秋の研修遠足」が用意されています。
楽しみですね。
みなさま、盛り上がっていきましょう。

月曜担当…池田光



 9月29日(日)
「三国志」   日曜担当…八木正典

身を屈して、分を守り、天の時を待つ。蛟龍の淵に潜むは昇らんがためである。

久々に空いた時間を利用して吉川英治さんの三国志を読んでおります。
前回読んだのはもう10年以上も前なのですが、読み直していると新たな気づきがあって面白いです。
前回の時は気づかなかったであろう論語を始めとする四書五経や孫子等の中国古典の引用等が多くちりばめられており、原典のイメージを持ちながら読み進めていくと深い理解に結びついていくように思われます。
上記の文章も、本心塾で冨樫さんの易経講座で学ばせていただき少し原典をかじっていたおかげでこんなところに易経が書かれていると主人公の思いにより深く気づき、嬉しく感じております。

また、多くの人間模様やいろいろな立場の登場人物の行動と決断に人間の本質が表れており、今の自分の置かれている立場や環境に照らし合わせてすぐに手本にしたいような判断が多くあります。
まだまだ序盤でこれから多くの出来事が起こっていきますが、読み進む中で、新たな視点に気付くともに今の実生活の中で一つでも実践に応用できるものを得ることが出来きれば有難いと思っております。


日曜担当…八木正典



 9月28日(土)
「国軸」   土曜担当…佐々木秀彦
『吉野山から大峯山山上ケ岳にかけての一帯は古くは金峯山(きんぷせん)と称し、古代より世に広く知られた聖域でした。この金峯山に役行者神変大菩薩が白鳳年間(7世紀後半)に修行に入り、修験道独特の本尊・金剛蔵王大権現を感得されます。金峯山寺は、山号は国軸山、宇宙の中心の山という意味を号しています』(奈良県吉野・金峯山寺HPより抜粋)

桜で有名な吉野に行って来ました。修験僧の修行する聖域だけあって、舗装されている現代の道だけしか通ってはいませんが、険しい山岳だったであろうことは山の雰囲気からヒシヒシと伝わってきます。

吉野の大峯山は金が採掘されていたという説があります。金が吉野の山から採掘されていたとすれば、金峯山寺の名称、金剛蔵王大権現の感得というのも辻褄が合います。
役行者は僧坊を建立して、修験道者の入山を許可制にしました、飛鳥時代のことです。そして江戸時代までその許可制度は続いています。他の修験道者の山も入山許可証が必要という話はあるのでしょうか???

『国軸山』上記引用の金峯山HPには『宇宙の中心』という意味と記載されています。役行者が吉野に僧坊を建立した白鳳年間は伝来した仏教を聖徳太子が保護して、法隆寺、東大寺等々白鳳文化と呼ばれる素晴らしい建築物が建立された時期と重なります。日本地図を広げて日本列島の中心だから国軸なんて解釈は幼稚すぎだと思います。国軸が経済的な意味であるほうがより納得できませんか???吉野は豊臣秀吉も息子の秀次を連れて陣を張って逗留しています。金の権利を握ったから天下統一を成し得たのならこれもすんなり辻褄が合います。

上記内容はすべて妄想に近い僕の空論です。金峯山の名称・国軸・白鳳時代の役行者の僧坊建立と入山許可制・吉野のこの僧坊を実際に訪れた偉人の数々…この4つの情報を、吉野の山の風に吹かれながら繋ぎ合わせて楽しんでいた完全なるフィクションです。白鳳浪漫はまだまだ拡げて楽しめそうです。


土曜担当…佐々木秀彦



 9月27日(金)
「進歩」   金曜担当…佐藤成亮
「私は青年時代において攘夷を唱えたのであったが、後にこれを改めて通商貿易論者となった。これなども止まるに非ずしてやはり進歩である。」 (渋沢栄一 逆境を生き抜く言葉より)


渋沢栄一は、もともとは攘夷派の考えでしたが、外国に留学して視野が広がり通商貿易を支持するようになったとのことです。情報を貪欲に吸収でき、その情報から最良の選択するという進歩論者でもあったとのことです。

人として、人本来の習性は、変化を好まず、決まりきった考えの中で物事を見る傾向にあると思います。それはそれで、自己防衛本能とでもいうのでしょうか、自分自身を守る上では、間違いはないことだと思います。

ただ、常に決まった考えで物事を見るのではなくて、時として、意識して、いろいろな角度から物事をみることをクセづけることにより、判断する情報量が増え最良の選択ができるようになっていくと思います。

自分自身の行動のクセを少しづつでもよい方向へ変えて行けるように、意志力に頼り切るのではなく、付き合う人や環境など外面からの刺激を変化させて成長していきたいと思います。

金曜担当…佐藤成亮



 9月22日(日)
「カルティベーション」   日曜担当…八木正典

三菱ケミカルHDの会長である小林善光さんの講演を聞かせていただきました。

日本は新しいことにトライせず、殻に閉じこもっていないか。デジタル、個、グローバリゼーションという世界の大きな3つの潮流に乗り遅れている。」という話でした。

その話の中で、若者の満足度が高いのは、難しいことにトライしてフラストレーションを感じることが無いからではないかとの問題意識を提するとともに、自分自身への戦い、自分自身のカルティベーション(育成、修練)に対してエネルギーを持つことが必要だと訴えられていました。

松下幸之助さんも、
今が最善だと思っても、それは今日の最善であり、明日の最善ではない。物事は日々進歩している」と言われております。

現状維持は後退であると意識し、より良いものに向かって、より良いものを求めて、日々に新たな気持ちを持ち続けていきたいと感じております。



日曜担当…八木正典



 9月20日(金)
「空理空論」   金曜担当…佐藤成亮
「私は決して空理空論をお話は致しはせぬ。すべて実地に行ってきて、処世上に益を得た点のみにつき申し述べるのである。」 (渋沢栄一 逆境を生き抜く言葉より)

今年は、論語と大学を中心として古典を読んでおり、合わせて古典の理解がより進む副読本を探し、並行して読んでおります。

論語読みの論語知らずにならないように、より実践的な論語を、と思い手に取った本が、渋沢栄一の「論語と算盤」でした。

そして、そこから渋沢栄一についてもう少し知りたくなり、書店にて「この本読みやすい!」と偶然、手にとりましたの本がなんと、名誉塾長のご著書(渋沢栄一 逆境を生き抜く言葉)でした。

本の構成は、見開き1ページの右側に渋沢栄一の言葉が書かれており、左側に言葉の解説が非常にわかりやすく整理され、まとめて書かれているので内容がスッと頭に入ってきます。

学びは、自己の本性に気づくことと、活学であることが大事であり、自己の本性に気づく本の読み方は、自分に問いかけるように、真摯に本と向かい合って、著者との対話を行っていくと良いと、以前、読んだ本の中で学びました。

真摯に向かい合うには、可能であれば瞑想をして気持ちを落ち着けてから本を読むと良いと思います。

瞑想してから本を読むのは毎度毎度は、難しいかもしれませんが、そういった心を落ち着ける時間を日々の生活の中で持つことを習慣化していくことは大事なことだと思うので、習慣化していきたいです。

学びが趣味にならぬよう、「仕事と人生」につながる実践的に生きた学びにしていかねばと改めて思いました。

金曜担当…佐藤成亮



 9月15日(日)
「見」   日曜担当…八木正典
尊敬する先輩と話をしていたところ、次のような話になりました。

人間の本質は「見」だ。
だから、見ているだけで行動をしたがらない。
慣れた環境の不変を求めるものであり、それを変えようと思うと本当に多大な労力がいる。

確かに現状維持はそれ自体が快適であり、未経験のことに一歩踏み出すのは、何であってもストレスフルで思い切りと覚悟が必要となります。
稲盛和夫さんはその書籍の中で、安逸を求める心との葛藤に打ち勝つ克己心こそが人をして並を超えさせていくのだといいます。

自ら反みて縮からずんば、褐寛博と雖も吾惴れざらんや。自ら反りみて縮くんば、千万人と雖も吾往かん。

自らを振り返りながら強い気持ちを持って心の葛藤を超えて行動に変えていく努力とそれを全体の勢いにつなげていく工夫を行っていきたいと思います。



日曜担当…八木正典



 9月14日(土)
「一灯」   土曜担当…佐々木秀彦
『いかに自分たちがもろい基盤の上に暮らしていたかを思い知らされました。危険はほんの紙一枚隔てたようなところで、身を隠していただけなのです』(林修)

「いつやるか?今でしょ!」CMでのこの言葉が流行語になり、この本のタイトルにもなりました。後書きで語ってらっしゃるのが、東日本大震災を東京で体験されて、この本が出来上った心の経緯です。上記引用文の後ポールシーラーの「幸せを増やす唯一の方法は、それを分け与えること」という言葉を引用して、「一燈照隅・萬燈照國」の精神とまったく同じ意味のことを、林修氏は語っていらっしゃいます。

東日本大震災の丁度一年後にこの本は出版されています。予備校の先生という職業柄、常に10代の子供達に接している中で、元気が無くなった若者を『「自分だけが幸せであることの不幸」の悲しみがわかっているのです』と表現されていらっしゃいます。震災から一年しか経っていない教育現場での、「一灯照隅・萬燈照國」を実践されたのがこの「いつやるか?今でしょ!」の出版だっということです。

池田光先生が「湧くわく本心塾」を立ち上げたのも、東日本大震災がきっかけだったとお話されていらっしゃったことと、この林修さんの後書きに通じるものを感じました。
人間は自然の威力を知っているからこそ、現代の発展を手に入れました。自然の猛威に勝てないまでも、押し潰されないように知恵を重ね、実行してきたからこそ、現代があるのです。

「いつやるの?今でしょ!」は簡易な表現で読み易い本でした。ただ書いてあることは、完全に天風哲学と全く同じ内容です。林修さんが中村天風をご存知かどうかは知りませんが、予備校の先生の表現する天風哲学に似たお話は、10代の若者に十分に理解できるよう噛み砕いた表現なので余計に面白いと思いました。



土曜担当…佐々木秀彦



 9月13日(金)
「第7期 第3回 潜学講座を終えて」   金曜担当…佐藤成亮
先日の本心塾では、佐々木講師の古事記をはじめ、富樫講師の孟子の講座、池田名誉塾長の陽明学のまとめの講座、そして今西会長の元気なお姿を見ることができ、とても嬉しく有意義な時間を過ごすことができました。

古事記では、佐々木講師の愛がある広義の解釈で古事記の面白さを教えていただきました。天地初発の話に始まり、黄泉の国は、一般的には、出雲説だが、佐々木講師は、滋賀説ではないかと言っておられ、ユニークな切り口が面白かったです。なかでも、古事記は日本最古のエロ本であると言っておられたのがなぜか印象に残りました。

富樫講師は、孟子についての講座で、孟子の書物は話が長いというのを非常にコンパクトにまとめておられ、浩然の気や性善説など、孟子の教えをわかりやすく解説頂けました。天風哲学にもつながる部分も垣間見え非常に興味深かったです。

程子曰く「孟子の性善と養氣の論はすべての聖人もまだ言語化できていなかったことだ」
とあるように、孟子は言語化できていなかったことを言語化するにあたっての、気づきや悟ったことは奥が深いと思うので、これからの学ぶテーマとしては面白いと思いました。

最後に池田名誉塾長の講座がありました。先日の陽明学の特別講座について体系立てて分かりやすくまとめて頂き、特別講座の話が立体的に理解できました。

中でも、伝習録の和訳に関して、いろんな先生方が出されておられるが、先生方によって訳し方が端的なものと、より攻めた訳し方になっている違いを比較して紹介して頂き、こうも訳し方が違うのでは、大意はつかめたとしても、原文から大きくかい離してしまうのではないかと思いました。

そこで、池田名誉塾長が常々おっしゃっている原点主義を大事にして、徐々に力をつけて、原文から自身で読み解いていくようにしていきたいと思いました。

また、王陽明の基本思想にある、自己の本性が本来的に完全である。発揮する力自体も本来的に完備している。というところは、孟子とはまた切り口を変えた形で天風哲学に通ずるものがあると思いました。

悟った方々の登った山の景色は皆同じように見えているのかが非常に気になるところです。自分自身の中で気づき、悟っていけるように、自己の本性は本来的に完全であると自信をもち、腰を据えて艱難辛苦嘗め尽くしていきたいと思います。

金曜担当…佐藤成亮



 9月7日(土)
「分福」   土曜担当…佐々木秀彦
『恵まれた福を分かつことは、春風の和らぎ、春の日の暖かみのようなものである。と露伴はいう。春風はものを長ずる力である。暖かさでは夏の風にかなわないが、冬を和らげ、みんなを懐かしい気持ちに誘う。それと同じように、福を分かつ心を抱いていると、それが小さなものであっても受けた者はいい感情を抱くものである』(今西恭晟・ネクストチャンス)

幸田露伴の「惜福・分福・植福」のお話は八木さんが8月18日のブログで紹介されていらっしゃいました。おそらくこのお話は、3つ全部を同時にやっていくべきで、3つをバランスよく遂行するからこそ幸福を得る人になるという教えかと思います。そこは理解した上で、僕は今日その中の「分福」に絞って書いてみたいと思います。「分福」が特に重要だと思っているわけではありません。上記引用文があまりに素敵な文章なので、この文章を紹介したかっただけというのが真意です。

『「しあわせ」は目的地ではなく、その道のり…』
全然別のところから、この言葉に先日出会い、目から鱗が落ちた気がしたばかりです。僕はいつの間にか「しあわせ」は点のイメージに囚われていました…。幸福と思った瞬間に、その幸福は頂点から下り坂に下りだすような気がして、自分の幸福から目を逸らす癖がいつの間にか身についていたようです。

自分の幸福を認めないと、「惜福・分福・植福」は絶対にできません。幸福から目を逸らすということは、結果的に「福を使い尽くし、取り尽くす」ことになってしまって、次の幸運が逃げてしまう人ということです。

上記引用文…春風の和らぎ…この「分福」から始めようと強く思います。「分福」をするためには、「しあわせ」をしっかり掴まなくてはいけません。この「しあわせ」が「道のり」なら、「しあわせ」を掴まえたまま歩いていけるわけです。「道のり」に一緒に歩く仲間がいたら、仲間みんなで「しあわせ」を掴まえたまま、益々楽しい「道のり」になるわけです。「春風の和らぎ」というのはそういう雰囲気なのですね…今西会長、いつもありがとうございます。そして一緒に「道のり」を歩いていただいている、湧くわく本心塾の皆様、いつもありがとうございます!

土曜担当…佐々木秀彦



 9月6日(金)
「不惑」   金曜担当…佐藤成亮
四十にして惑わず

「論語・為政第二」より

「あれこれ迷うことがなくなった」という意味。
これは「何が起きても動じることなく、それを受け入れる自由さを持ちなさい」ということ。


先日はおかげさまで無事に2回目の成人式である不惑を迎えました。

ふり返ってみると、いつの間にか実家で過ごした時間よりも京都で過ごした時間の方が多くなりました。

何が起きても動じることなく、それを受け入れる
自由さをもつ。多様性を受け入れるということでしょうか。

自分の中にしか答えがないのに、相手に依存して相手の中に自分の答えを見つけようとすることは
本当の答えにはたどりつけないと思います。

もの、ひと、ことに依存するのではなく、自立して多様性を受け入れ成長の糧として生かしていきたいと思います。

ひとの役に立つ役年から、さらにもう一歩進んで飛躍の躍年にして参りたいと思います。

さて、40代を『正直、親切、愉快に』スタートさせて頂きたいと思います。



金曜担当…佐藤成亮


 9月1日(日)
「与えれば」   日曜担当…八木正典
手で自分の方へかき寄せれば、湯はこっちの方へ来るようだけれども、みんな向こうの方へ流れ帰ってしまう。(二宮尊徳、魂に響く108の言葉より)


1991年にラグビーの平尾誠二さんと将棋の羽生善治さんが初めて会った時、ラグビー日本代表のチームにそのころ圧倒的な強さを誇った所属する社会人チームの戦術やノウハウを投入すべきか悩んでいた平尾さんに対して羽生さんは「与えれば、与えられるんです。」と話したそうです。

実際に羽生さんはその当時、「島研」という研究会に参加し、手の内を惜しみなく公開することにより全体で前に進んだほうがいいと考えていたのだそうです。
その後、羽生さんは将棋界で史上初の七冠王を達成し、平尾さんも日本選手権7連覇を達成させています。

論語にも、「仁者は、己(おのれ)立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す」とあります。
全体のレベルアップ、ステージアップのために、人に与えるべく主体的に発信をして、人と共有する。
自分の意識の置き場を変えて、少しでもそんなことが出来れば有難いと考えております。

日曜担当…八木正典



 8月31日(土)
「行間」   土曜担当…佐々木秀彦
『八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を』(古事記・須佐之男命)

この歌が古事記に登場する最初の歌です。古今和歌集の序章で、紀貫之が「日本最初の和歌」と述べているということです。古事記を少し勉強して強く感じるのが、僕の時空レベルの要領がかなり拡がったということです。

つい昨日までは、54歳という年齢分ぐらいしかリアリティがありませんでした。湧くわく本心塾でここ数年、明治維新期の人物を取り上げたので、明治維新以降はなんとなくボヤけながらも見えるようになっていたかとは思います。それが、古事記を学習することで、神世の時代がまだまだボヤけてはいますが、なんとなくわかるようになってくると…不思議なことに勉強していない、鎌倉時代、室町時代あたりも同じようにボヤけたままですがわかってきたような気がします。

空に虹が架かることがあります。「虹」という文字は漢字です。虹は蛇が大きく大きくなった蛇の仲間だからという発想なので、蛇と同じ虫へんの漢字なのだということでした。それで龍は蛇の仲間ではないのだと気づきます…。昨日までは、「空中に描くのは虫が工作したということ…」程度にしか発想がなかったのが、若干変化してきたのかなと感じます。

将棋の世界では「定石」があるそうです。「定石」をある程度頭に入れているから、応用ができるようになるのは理解できます。古事記というのは人生の「定石」が書いてあるのではないでしょうか…。日本人は言霊文化とよく言われます。相手の気持ちを察するというのは、文章の行間を読む作業と似ています。和歌の31文字で自分の心を詠む訓練、和歌の31文字で作者の意図を読み取る訓練。これは人間の日常生活で、相手の心を推し量る訓練でもあるのではないかとやっと今感じることができるようになりました。

もし、僕が初めて湧くわく本心塾に参加した頃、古事記に出会っていたなら、おそらく何も興味が湧かなかっただろうなと推測できます。でも今だから、古事記が面白くて面白くてという状態です。そんな気持ちを真っ直ぐ講座に乗せてみようかなと、今、考えております。来週よろしくお願いいたします。


土曜担当…佐々木秀彦



 8月25日(日)
「順逆」   日曜担当…八木正典
余意う、「天下の事もと順逆無く、我が心に順逆有り」と。我が順とする所を以て之れを視れば、逆も皆順なり。我が逆とする所を以て之れを視れば、順も皆逆なり。果して一定有らんや。達者に在りては、一理を以て権衡と為し。以て其の軽重を定むるのみ。(言志耋録)



ハーバードビジネスレビューの9月号に、「幸福感を高める週末の過ごし方」が載っておりました。
それは、なんと「週末を休暇とみなす。」ことだそうです。
単なる週末と考えるのではなく、休暇が取れたのだとみなすと、目の前の出来事に対する集中度が変わり、月曜日の幸福度が高まるそうなのです。
休暇として考えることで、少しゆったりして目の前のことに注意を向けもっと積極的に楽しむことが出来るそうなのです
ただ、それをルーティン化してしまうと効果が薄れるらしいので要注意です。

ちょっと見方を変えるだけで、幸福感が変わるのなんて不思議な話です。
道元禅師の言葉で「眼横鼻直」(目は横に、鼻は縦にある)とありますが、自分はこれまでの経験によって、是非善悪で多くの偏った見方をしていると思います。
心の傾向が定まり、ありのまま、順逆をつけない見方が難しくなっているのではないかと感じます。
ため込んできた経験に起因する自分の視点を是正してみるいい機会だと思い、少し自分の意識や物の見方を変える努力をしてみたいと思っております。

日曜担当…八木正典



 8月24日(土)
「真実」   土曜担当…佐々木秀彦
『神武天皇が実在したかどうか、ということについて戦後多くの議論がありました。私はこれについては、“真実”と“事実”の違いだと思っています。神話の価値は“事実”であるかどうかにっかっているのではない。神話にはすべて“真実”が書かれているのだということです。』(竹田恒泰・古事記完全講義)

真実と事実の違いは、今僕たちが一番気にしなくてはいけないことだと強く感じます。僕はあまりテレビを見る方ではありませんが、テレビの報道は事実だけを追いかけて、真実には全く興味が無いような印象を受けます。ネットニュースはもはや論外で、事実を曲げたフィクションをニュースのように発信しているのも多々ある状況です。

上記引用文は、戦後の日本国憲法の記述がちょっと違えば、天皇後継者第何位かに序列されるであろう、竹田恒泰さんの、古事記に関してのお考えです。

中国4000年の歴史と言いますが、中華自民共和国は戦後にできた国ですから、70年位でしょ!…竹田さんはいつもそう仰います。国の侵略・滅亡・成立等々を無視するのなら、地球上すべての地域が、人類誕生の時期から同じ年月の歴史が存在します。もし中国が4000年の歴史というなら、イギリスもアメリカも日本もみんな4000年の歴史です。人が暮らしていたわけです。真実はおそらくこちらでしょう。事実は中国70数年の歴史です。

日本は皇紀2679年です…これは事実です。今後天皇家の後継者がいなくなるかもしれません…これは予測です。昭和天皇が太平洋戦争を始めました…最高責任者という立場上は事実です、しかし真実ではないでしょう。

次回の潜学講座で『古事記』の講義を担当しますが、『古事記』を読むと、現代が見えてくるような気がします。四書五経のように具体的に何かを啓示している文章ではないのですが、神話の中に、人々が気づくようなことが織り込まれているような気がします。先月位までは、話すことはほぼ決まっていたのですが、今また、あれもこれもと、おかしくなってきている自分を、可笑しく思います。

古事記は神話にカテゴリーされます。約3000年前の事実より、今につながる真実の部分をお伝え出来ますように、頑張ってみたいと思います。




土曜担当…佐々木秀彦



 8月23日(金)
「手を動かして学ぶ」   金曜担当…佐藤成亮
『ただ聴いているだけでは、何事もおぼえられるものではなく、
どんなことでも自分自身でやろうと努力しないなら、
物事は表面的に、半分ほどもわからない』
(ゲーテとの対話 中巻303ページ)

先日から、『ゲーテとの対話』という本と水木しげる氏のゲーテに対する想いをつづった本をすこしづつ読んでおります。書き方は平易ではありますが、内容に関しては考えるところがあります。

『ただ聴いているだけ』というのは、人ごとのように、自分には関係ないというような感じでの聴き方だと思います。自分に関係ないというとらえ方になると、関心が薄れ、まず覚えようとはしなくなると思います。

さらに、自分自身でやろうと行動に起こさなければ、結局のところ何事も変わっていかないと思います。

臨済宗の開祖の言葉で「随処に主となれば立処(りっしょ)皆真なり」とあります。いつどこにあっても、何ものにも束縛されず、主体性をもって行動することで、いつ如何なるところにおいても、外界の渦に巻き込まれるようなことは無い。とあります。

やはり、ただ聴くのではなく、自分自身でやることを前提に主体性をもって聴いて、そして行動することではじめて理解が深まっていくと思います。

何事にも周りの事象に振り回されないように興味を持ち主体性をもって取り組んで参りたいと思います。


金曜担当…佐藤成亮



 8月18日(日)
「幸福三説」   日曜担当…八木正典

世に福を有せんことを希う人は甚だ多い。しかし福を有する人は少ない。福を得て福を惜しむことを知る人は少ない。福を惜しむことを知っても福を分つ人は少ない。福を分つことを知っても福を植うることを知る人は少ない。けだし、稲を得んとすれば稲を植うるに若くはない。葡萄を得んとすれば葡萄を植うるに若くはない。この道理を以て福を得んとすれば福を植うるに若くはない。しかるに人多くは福を植うるを以て迂闊の事として顧みない傾きがあるのは甚だ遺憾のことである。(努力論)

先日、当塾の冨樫さんから今西会長の書籍、「ネクスト・チャンス」をお借りしたのですが、そこで幸田露伴の努力論の中の幸福三説が紹介されていました。
そこで努力論を読み始めたのですが、視点が新鮮で面白いですね。

どうしたら幸福を招き寄せることが出来るのか、露伴はそれを惜福、分福、植福の3つだといいます。
惜福というのは、幸運なことがあってもそれを全部享受したり取りつくしたりせず、少し残しておくというものです。
次に、分福ですが、いいことがあったら自分だけのものにしないで、他人とその幸運を分かち合うというものです。
そして、植福ですが、自分の持つ力や能力を、社会の進化向上につながるものに注ぐことにより、将来的に社会に役立つものを作り出すことに寄与するというものです。
そして今これほど社会が豊かになっているのは、過去の先人が植福の工夫をし続けたためだというのです。

ある本に書かれていたのですが、リスは手に入れたドングリを将来の自分の食料として地中深くに埋めるが、すぐにどこに埋めたか忘れてしまう。でもそのドングリが芽を出して成長することにより結果として森が広がり、多くの動物のためになっているというのです。

植福をしようと意識して活動することは難しい気がしますが、今の置かれている状況に感謝をしつつ、自分として良かれと思う行動を一つでも増やし、結果として社会にとっていいことにつながるのを祈りながら進みたいと思います。

日曜担当…八木正典



 8月17日(土)
「原典」   土曜担当…佐々木秀彦
古事記は原典がありません。湧くわく本心塾で学ばせていただいたことの中に「原典を確認する」ということがあります。池田先生はこの原典確認のために漢文を深く学習されたお話も伺いました。実際に中村天風の「影印版心身統一哲医学~人生を甦らせる方法~」を読んで、当時のままの文体に触れて、衝撃的に躍動感があったことは記憶に新たらしい出来事です。

9月の潜学講座で「古事記」を取り上げる予定ですが、僕はこの「原典」のない「古事記」だからこそ「自由」なんだと思い、今年の講座に選びました。

「小野篁」という百人一首に選ばれている平安時代の歌人がいます。彼には夜は閻魔大王の横で書記官をしながら、昼間は朝廷の官僚をしていたという伝説があります。すごく興味をもって、小野篁について調べてみた時期がありました。小野篁について書かれた本が3冊程度あるそうですが、どれも不完全なものということでした、その不完全な部分はどうしているのかというと、結果「推測」しているということでした。「空想」している、もしくは「創作」しているという方が正しいかもしれません。

つまり…平安時代のお話のほとんどは、作者の原典から、時代時代で「空想」「創作」を繰り返して現在に伝わっているのが基本だということに気づきました。当時は印刷というと写本です。この段階で写し間違いは頻繁に起こります。まず写し間違いがあることが前提となります。さらに誰かが自分の解釈を入れた本を書きます。これが写本と伝わっている場合も否定できません…

小野篁を勉強して、古典に関しては、「どれだけ自由に読み解くかを楽しむもの」と認識ができました。どれが正しいかなどと言っていることほど野暮な話はありません。そもそも作者直筆の原典が完ぺきな形で残っているなんてことは無いから古典なのです。「原典」が無いのなら、正解はありません。正解がないのなら、確認できる内容から、どれだけ自由に羽を広げられるか…大きく羽を広げれば、広げるほど、高く速く飛翔できるというものです!

古事記に関しましては、江戸時代の国学者「本居宣長」の解釈が「現代古事記」の原典なので、この原典が有難くもあり、逆に羽を広げにくいことにもなっています。当然ながら今回は本居宣長の解釈を原典として講義に臨みますが、その先には太安万侶の「原典古事記」があるので、間違っても「古事記はこうです!」なんて決めつけた話だけはしないようにしたいと思います。



土曜担当…佐々木秀彦



 8月16日(金)
「げげげっ!?」   金曜担当…佐藤成亮
『大事な事は、すぐれた意思を持っているかどうか、そしてそれを成就するだけの技能と忍耐力をもってるかどうかだよ。』
[成功について]ゲーテとの対話 下巻386ページ

エッケルマンという著者が『ゲーテとの対話』という本を書き、日本では和訳された本が岩波文庫から上中下巻と3冊の本が出ています。

その本の中から、ドイツの文豪ゲーテを敬愛する水木しげる氏が珠玉の格言93選を選び解説を加えた本に『ゲゲゲのゲーテ』という本があります。

水木氏によれば、世の中には、運ばかりを期待して、本当の努力をしないで幸せにありつこうという人間が意外と多いと。漫画で言えば、たくさん描くことが大事で、才能と収入はまた別の話。とにかく、絵を描くことを面白がり、熱烈に絵を描くことが好きだったから、貧乏も苦しい生活も我慢できたんじゃないかと。運はかなり努力せにゃ、やってこない。いいことは、向こうからやってくるわけではない、と。


よって、運ばかりを期待せず、本当の努力をして、幸せになること。量をこなせばある一定量から質に変わる、量質転換ではないが、数こなすことは非常に成功へ向けて大事なことだと思います。

自分で努力と言っているうちは本当の努力ではなく、人からがんばってるなと見られて初めて努力してたんだなと気付くのがホンモノだと思います。(幸せはなるものではなく気づくもの、というように努力もするものではなくしてたんだなと振り返って気づくものが努力なのかなと思います。)

自分で、オレがんばってんねんと自分自身をほめて自己肯定感を上げることは良いと思うが、オレがんばってんねんと人にアピールすることはただの頑張り自慢に過ぎないと思う。頑張り自慢は目指すゴールではない。かまってほしい人であれば話しは別だが。

努力を努力と思わずにやれるというものは、好きだけではなく、好きな上で面白がって打ち込める物事だと思う。やっているうち、続けているうちにそれが好きになり、面白くなり、続けていくものが見つかったら最高である。仕事しかり、趣味しかり。

いいことは、向こうからやってくるわけではないので、『見つかる』に『いつか』を基準にしていたら『いつか』という日はおそらく来ない。自分を軸として『見つけていく』姿勢でなければ見つからないと思う。

またいつかのいつかは五日後ではなく、うやむやにした様な言い方にも見える。よって、『いつかという日はなく、今しかないと。』明日という日は、来てしまえば、今日であり、また生きているのは今日の中でもとりわけ今である。明日と言いう日もあるようにみえておそらく来ない。ずっと明日のままである。

本当の努力は、どんな努力なのか。

自分の中では、今のところ、自分自身の中で、がんばってると力が入ったものではなく(力みのない自然体)、好きで面白く取り組んでいけ、気づけば相当な量をこなしていても苦痛ではなく、それなりに結果を残せていけるものであり、あとで気づけば努力していたんだなと気づくものだと思います。

そんなものが自分の中のどれにあたるのか、どれを育てて行けばいいのか、今一度、自分の胸に問いかけてみたいと思います。

金曜担当…佐藤成亮



 8月10日(土)
孝経」   土曜担当…佐々木秀彦
『造化の発展は同時に本源に返ることでなければならぬ。本に返ることを知らぬ発展は散漫である。破滅である。手近な我々の生活を考へてみると、三本がある。天地である、父母である、良心である、我々は始終此れに返ってこそ能く健やかに生長することができる。父母は我々にとって直接の造化である。天地である。我々は本原に返るところに感謝報謝の心が湧く…』(安岡正篤・孝経入門)

性善説を説いた、孟子によりますと、『本心』というのは、「心に本づく」「天に本づく」という意味であり、人格や体力などすべてを含めた「本当の私」という意味だそうです。その「本心」を中心に「湧くわく」と「塾」とを合わせたネーミングを、吉田公平氏は絶賛されていらっしゃいました。ありがたいことだと思います。

吉田浩平氏の陽明学講座に参加して一番感じたことが、「学び」ということに視野が狭くなっていたことです。何かを深く追求するのは素晴らしいことです。しかし深く追求すれば追及するほど、視野がミクロになる危険性はあらかじめ気をつけておきべきことです。僕はそんなに深く追求する方ではないと思ってはいましたが、やはりミクロな視野になっていたなとご教示いただいたような気がしました。

上記は、安岡正篤師の孝経入門の序文の抜粋です。上記本文の「造化の発展」は花をイメージするのがわかり易いです。最後は種に戻らない花なんて、「散漫」「破滅」。日本人は初詣等で神社へ行く機会も多いので、基本的に天地には感謝する習慣が身についています。しかし昨今のご時世で、父母への感謝は昭和期より薄くなっているような気もします。『直接の造化』という表現は、とても斬新に感じてしまう僕自身は父母に感謝報謝が薄いことを実感しない訳にはいきません。

陽明学をしっかり自分のものにするためには、孝経、大学、論語等々、もう一度読み直すことが近道のような気がしまして、今、少し読んでみたりしています。まだ手を出してない『孟子』はこの後、じっくり読んでみたいと思います。


土曜担当…佐々木秀彦



 8月9日(金)
「熱冷めやらぬ。」   金曜担当…佐藤成亮
先日の本心塾主催の吉田公平先生の特別講演におきましては、陽明学を中心に据えた内容で、中国古典や根本的な学びについての話をお聞きでき、自分自身にとても刺激となり気づきを多く頂けました。

気づいたことや気になった面を振り返りますと、

・もともとは人は満ち足りている状態で生まれてきた。

・私にとって私の人生が大事である。

・自分で自分を見限らない。

・土曜日に新聞を買うのがオススメ
(書評欄があるから)

情報はあくまでも情報だけ。生かすのは人間。生かす人間が『考えて求め』なければ情報自体は
何も教えてくれない。


・ただ学ぶだけではなく、『学んで問う』ことが大事。学んで決断をするのではなく、一旦、ペンディング
状態において、本当にこれでいいのかと問い直し決断をする。

・人生老いてこそ楽しい。年をとっていく自分に寄り添うこと(アンチエイジングどころではない)若いというのは未熟であり、年をとるということは成熟して豊かになることである。

生涯とは生の崖っぷちのこと。生きているのは今。
生の果て。今がまさに生涯である。

『よく生きる』違う考えの人の話をきく。お互いの自由を尊重する。学びながらともに生きることが楽しいんだ(刺激しあえる仲間をみつけること。)

講義中の吉田先生は、終始穏やかであり、優しい語りで、学ぶということの楽しさがひしひしと伝わってきました。

「学び」は、よりよく生きる、より心豊かに生きていくために必要であり、この世に頂いた生を楽しむ上で、生涯求め続けていくものなのだなと思いました。

また、本心塾という学びの場で同志と学びを深め、交游を慎む機会を頂け、非常にありがたいことであるとあらためて思いました。

引き続き、学び成長して参りたいと思います。

金曜担当…佐藤成亮



 8月5日(月)
「陽明学講座」に参加して   月曜担当…池田光

久しぶりにブログをアップします。
8月3日に開催された、「吉田公平先生 特別講演「陽明学講義」に参加しました。
この講義は、八木さんをはじめとする新執行部の尽力によって実現したもので、
私にとってはまたとない機会となりました。
執行部のみなさまに、深く感謝申し上げます。

以前、私は、吉田先生の『伝習録』(たちばな文庫)を読んだとき、解説の次の言葉に驚いたことがあります。

「『伝習録』を平心に読むかぎり、そこで王陽明が、伝統的な術語・構造を用いながら、くりかえしのべているのは、ただ一つのことである。
性善説、つまり人間の本質は本来完全であるから根源的に悪からすでに救われているという確信に根ざした、自力による自己実現・自己救済にほかならない」(吉田公平『伝習録』たちばな文庫の解説より)

この言葉は、私の心に刺さりました。
・平心に読むということ。
・性善説=人間の本質は本来完全であるから根源的に悪からすでに救われているという確信。
・王陽明が述べたことは、性善説という確信に根差した、自力による自己実現・自己救済にほかならない。

今回の講義でも吉田先生は、自身の『洗心洞剳記』にふれて、「平心に読めば……」という言い方をされました。
「平心に読む」というのが、先生の読み方の核心なのでしょう。

「王陽明が述べたことは、性善説という確信に根差した、自力による自己実現・自己救済にほかならない」
という言葉は、中村天風に通じます。

「中村天風が述べたことは、性善説という確信に根差した、自力による自己実現・自己救済にほかならない」
と置き換えても、おおきな間違いはありません。

また、今回の講座で、「第一義」という言葉が出てきました。
この用語は、中村天風がよく用いたものでもあります。

……講義では、じつに多くのことを感じました。が、それは、個人的に深めていく素材にしたいと思います。

ところで、8月4日夕刻に宮城県などに地震が発生しました。
吉田先生は宮城県にお住まいで、震度を調べましたら、先生が住んでおられる市では震度4ということでした。
お見舞い申し上げます。

私の近況については、いずれブログにあげさせていただきたく思います。

月曜担当…池田光



 8月4日(日)
「陽明学特別講演」   日曜担当…八木正典

昨日本心塾主催の吉田公平先生特別講演に参加してきました。
日本の陽明学研究に関する第一人者でもある吉田先生にお会いして直接教えを請いたいと考えて失礼を承知で手紙を書かせていただいてから2年超、また今年の初詣で代表幹事の佐々木さんに先生の特別講演を行いたいと相談して8カ月。願っていた吉田先生の講演を実現することが出来ました。

講演の内容はとても素晴らしいものでした。
陽明学の中心思想である心即理や知行合一、致良知の解説はすっと頭の中に入ってきて、これまでの自身の理解がいかに誤っているのかに気づきました。早速伝習録を読み直してみたいと思います
また、王陽明の悟りである「吾が性、自ら足れり」については、人間は本来完全で、私は私のままでいいのだという、自ら信じ自力主義で生きることの重要性を語っていただき、その思想の熱量の高さを感じることが出来ました。

本心塾執行部の皆様や関西師友協会の方々に多大なご協力をいただくことにより、希望していた本講演を開催することが出来て感謝の気持ちでいっぱいです。
ご協力いただいた皆さま、本当にありがとうございました。

また、講演を行わせていただくにあたり、多くの方とご縁をいただけたことは非常に有難いです。
吉田先生の話でもありましたがあらゆる場面が自分の成長につながると考えて仲間との学びを大切にしつつ、陽明学への理解を深めるとともに自身を高めていきたいと感じております。


日曜担当…八木正典



 8月3日(土)
玄徳」   土曜担当…佐々木秀彦
『われわれの徳には種々の相があるが、その一つに意識というものがある。われわれの意識される分野は極く少しで、例えば光といっても赤・橙・黄・緑・青・藍・紫の七閾しか受け取れない。然し光そのものは無限である。われわれのこの意識の世界が所詮明徳でありますが、その根底には自覚されない無限の分野がある。老子はこれを玄徳といっている。』(安岡正篤・政教の原理・大学新講)

人間には必ず親が2人います。これは育ての親を含めない、純粋に生物としての父母という意味です。2代遡って祖父祖母は4人、これが20代遡ると100万人を超えて、30代遡ると10億人を超えるそうです。30代、各世代を仮に20年として600年、25年だとしても750年。もし鎌倉時代のある日にポンといければ、その世界には約1万人のご先祖様が暮らしていらっしゃるということです。

たかが30代遡っただけでも、10億人分の遺伝子情報がわれわれの身体には活きているといことです。光に例えて虹の七色しか受け取れないというのは、さすが安岡正篤師、素敵な表現ですが、受け取れない無限の光と同じくらい、受け取れない無限の遺伝子情報がわれわれの中に眠っているというのは凄い話ですが、かなり納得できる話でもあります。

通常使う「無意識」という意味の「無」の世界、儒教では「無・虚」を使うと違う意味と誤解をまねきやすいので、道家では「玄」という字を遣うそうです。

僕らが「明徳」と呼んでいるのは所詮この虹の七色のような、意識できる世界の話です。そして、意識できない「玄」を含むんで「明明徳」ということになるというお話です。

無意識・幻想・妄想・幻影・直感・閃き…こういうのは10億人分(しつこいですが30台限定で本当は無限大のご先祖様の数)の遺伝子情報の導きだとすると、「なんとなく」という根拠には深い深い意味が隠れていると考えるべきことなのだと、あらためて思います。

玄徳を含んだ『明明徳』。陽明学はやはり凄いです。


土曜担当…佐々木秀彦



 7月28日(日)
良知」   日曜担当…八木正典

先生曰く、人孰(たれ)か根なからん。良知は即ち是れ天の植えたる霊なる根にして、自ら生生して息まず。但だ私の累(わずら)いに着了して、この根を把りて戕賊蔽塞(しょうぞくへいそく)せば、発生するを得ざるのみと。(伝習録 下)


「良知」という言葉は、孟子の尽心章句上にある「人の学ばずして能くする所の者は、其の良能なり。慮らずして知る所の者は其の良知なり。」から出てきているものだと言われます。
王陽明は、良知は人間が誰でも持って生まれたものであり、「私欲」に隠されている良知を発現することが出来れば聖人になることが出来ると説いています。
良知を発揮すること即ち「致良知」が陽明学の中心思想となのです。

日本精神に脈々と流れる思想の一つに中国明時代に王陽明が唱えたこの陽明学があると考えられています。中江藤樹を祖とし、熊沢蕃山、佐藤一斎、山田方谷、西郷隆盛、そして安岡正篤といった陽明学者を通じ多くの日本人に影響を与え続けてきたのです。

もっと陽明学を学びたいと感じていたところ多くの方のお力添えやご縁をいただいて、現在の陽明学の第一者である吉田公平先生に本塾主催の特別講演として講演をいただけることになりました。
吉田先生がこれまでの陽明学研究の中でどのように陽明学の思想をとらえ、それを実践生活の中に取り入れ活用してきたのかを学ぶことで、自身の今後の学びの目標とするものを見つけ出せれば有難いと感じております



日曜担当…八木正典


 7月27日(土)
期待」   土曜担当…佐々木秀彦
『自分が居るその場を照らす。これは絶対に必要なことで、また出来ることだ。真実なことだ。片隅を照らす!この一燈が萬燈になると「萬燈遍照」になる。こういう同士が、十万、百万となれば、優に日本の環境もかわりましょう』(安岡正篤)

「一燈照隅・萬燈照國」は湧くわく本心塾の指針でもあります。元々は最澄の「山家学生式」に出てくる言葉ということです。

一隅を照らす人は国の宝だと、中国古典にはあるそうですが、現代中国にそういう考え方は継承されているようには思えません。また韓国も日本と同様で儒教に強い影響を受けた国家としてカテゴリーされますが、僕が学んでいる大きな意味の儒教とは全く違うもののように最近は感じます。

「陽明学」と小さな括りにすると難しくなりますが、日本の道徳は、四書五経であり、仏教であり、儒教であり、神道であり、、、さらには、キリスト教も秀吉がわざわざ禁止する必要があったくらいは、当時すでに入ってきていたと解釈しても良いかと思います。

何でも、どんなことでも、受け入れて、自分のものとして消化・吸収する能力は、日本人の最大の優良な感性だと僕は思います。

学校の勉強がそうであったように…いくら勉強しても、覚えられないことは覚えられません。人間というものは、嫌いなことを自分自身に取り入れるなんてことは、本能的に出来ないようになっているのだと思います。だから、なんでも安心してかじってみて、美味しいなら食べれば良いし、苦ければ吐き出せばよいのでしょう…

僕は武士道の原点は陽明学だと思っていますが、これも来年は違うことを言っているのかもしれません。今現在は、水戸学が現代にも伝わる武士道の源流のように感じていますが、ここは興味のある部分なので、これから勉強をすすめていくと、全く違うことを発見する可能性は多分にあります。そういう意味でも、来週の陽明学講座で、吉田先生がどんなお話をされるのか…興味津々です。


土曜担当…佐々木秀彦



 7月26日(金)
「伝習録」   金曜担当…佐藤成亮
 
【伝習録』は中国の明時代の学術思想界に新風を巻き起こした王陽明の語録であり、王陽明の思想を最も鮮明に伝える書物である。体験から生まれた「知行合一」「致良知」「心即理」など大いなる道が生き生きと語られ、陽明の息吹と魅力に満ち溢れ、現代に活きる珠玉の古典であります。】

8/3(土)の夏期特別講座である陽明学講義を間近に控え、自身の中でも吉田先生の著書にふれさせて頂いた上で、参加させて頂きたいと思っております。

そんな折に、吉田先生の著書である、タチバナ教養文庫「伝習録」を手に入れることができ、読み進めさせて頂いております。

明治維新においても根幹となった思想であり、日本人の行動哲学ともなっている考え方で、取り入れ方によっては毒にも薬にもなる思想であると思っております。

どういった取り入れ方をしていくのが一番よいのかとても気になるところです。

常日頃の学びを実践し、活学していくために、陽明学を契機として、学び深めて参りたいと思います。


金曜担当…佐藤成亮



 7月21日(日)
徳を積む」   日曜担当…八木正典

百日の稽古を鍛と云い
万日の稽古を錬と云う
我れ事において後悔せず(宮本武蔵)



先日の潜学講座の際に、本塾の今西会長が書かれた「ネクストチャンス」をお借りしました。
今西会長がご自身の生き様や思想をわかりやすく語っておられます。
自分にロマンと志を掲げ、いかに人との出会いと縁を大事にして、徳を積むことに心を配ってきたかがよく分かります。

その中で、徳について次のように説明されています。

徳というのは、オブラートみたいなものである。
なめればすぐ溶けてしまい、吹けば飛ぶようなものである。
だが三枚ぐらい重ねれば、簡単には溶けないし、それが十枚、二十枚と重ねると、相当に丈夫になる。このように、徳を積むとは、薄いものを何枚も重ねて少しずつ丈夫に強くしていくような行為ではないかと思う。

今西会長のにじみ出る雰囲気は、徳を積むことを日々続けられたことから出てきているのでしょう。
本に記されている多くのヒントを自分自身の行動の中に取り入れて続けていきたいと思っております。


日曜担当…八木正典



 7月20日(土)
愛敬」   土曜担当…佐々木秀彦
  五事を正す
・貌…顔つき
 愛敬の心をこめてやさしく和かな顔つきで人と接しましょう
・言…言葉遣い
 相手に気持ちよく受け入れられるような話し方をしましょう
・視…まなざし
 愛敬の心をこめて暖かく人を見、物を見るようにしましょう
・聴…よく聞く
 話す人の気持ちに立って
(近江聖人中江藤樹の教え)


日本の陽明学の祖と呼ばれる中江藤樹の五事を正すです。
他者と接する時の心構えを、端的に、しかも全てを網羅した見事な言葉です。

人は第一印象で、その人の判断を決めてしまうという話もあります。第一に自身の容貌それも表情をしっかり意識してから人に会うのは、わかっていてもついつい自分の感情が勝ってしまうことは往々にあります、気をつけたいものです。

人の喧嘩は、言った、言わないの行き違いがそもそもの発端の場合が多いです。「言った」と「伝えた」とは違います、さらに正しく伝わったかどうかは、伝言ゲームという遊びがありますが、10人ぐらいいれば、最初の言葉と全然違う言葉になっているのは常です。相手が気持ちよく受け入れるように話すことは、現代人が最も気をつけなければいけないことかもしれません。

眼は口ほどにモノを言うという格言もあります。「まなざし」に「愛敬の心」を込める。これも強く意識しなければできないことです。

話を聞くのは、相手の気持ちに立って聞く。ここが最も大切なことだと感じます。

愛敬の心で相手を理解する。この理解ができれば、どんなことも一緒に話し合って、解決に進むことができるでしょう。

機会あるごとに何度も目にする言葉ですが、改めて確認する度に、また新たな発見があるのが、先哲の教えの素晴らしいところです。この「五事を正す」を「事上磨煉」することで、「心太虚に帰す」境地が見えてくるのかもしれません。これをあえて一言に要約すると「敬天愛人」に行着くように今は思っています。


土曜担当…佐々木秀彦



 7月19日(金)
「すいみん」   金曜担当…佐藤成亮
 
人間は寝ることによって かなりの病が治る。
私は”睡眠力”によって 傷とか病気をひそかに治し
今日まで”無病”である。私は”睡眠力”は
”幸福力”ではないか、と思っている。
水木しげる


1886年のシカゴのメーデーでは、約35万人が「8時間労働」を要求してストライキに突入。1日14時間労働が
当たり前の時代に、「第1の8時間は仕事のために、第2の8時間は休息のために、そして残りの8時間は、
自分たちの好きなことのために」を目標に行われた。

その名残で生産性の高い8時間労働制が今に至ると思われます。

8時間仕事して、あれやって、これやってと好きなことのために時間を使っていたら、気づいたらもう寝る時間となっている毎日。もう少し、好きなことやって、とないがしろに削られがちなのが睡眠だと思います。

人生をマラソンとして、短距離走ではないので、健康であってこそ、仕事も学びもいきてくると思います。
そのためにはしっかりと健康に気遣っておかねばならないと思います。病気になってから病院に行って治すのではなくて、病気にならない体づくりを意識してつくっていくことが大事だと思います。

人生のマラソンも自身の健康に気遣って走っていたら、いつのまにか一緒に走っていた仲間が健康を崩して途中棄権していくケースを今までに何度か見てきました。出世競争よりも、自身の健康管理を意識した自身との競争だと思います。修身競争とでもいうのか。

睡眠時間は、余暇の娯楽の種類の多さや情報化社会の影響で気づいて律していかねば、惰性ではどんどん振り回され、どんどん削られて、翌日意識が不明瞭な事態にもなりかねません。不明瞭な状態で、思考能力が低下
している状態では、考えることもままならないので余計に振り回されかねません。

今一度、身体が資本といわれるように健康を維持、向上していくべく、睡眠時間を振り返り確保していきたいと思います。


金曜担当…佐藤成亮



 7月14日(日)
消化」   日曜担当…八木正典

凡そ飲食は、只是れ我が身を養うことを要す。食べ了(お)われば、消化せんことを要す。若し徒らに蓄積して肚裏に在れば、便ち痞(ひ)を成せり。如何ぞ肌膚を長じ得ん。後世の学者は、博聞多識、胸中に留滞す。皆食を傷なうの病なり。(伝習録)


王陽明の言葉です。
飲食は体を養うためにあるのだから、食べたらそれを消化する必要がある。消化できないほど食べることは、体を壊すもととなる。博聞多識も同じで、知識をため込むことだけに意識が行きそれが目的となってしまうと、せっかくの知識が実践に活かされず、かえって消化不良をおこしてしまうことになるというのです。

先日池田名誉塾長から教えていただいた渋沢栄一も、道理に関して、「道理とは人間の踏み行うべき筋道」と説明し、道理を識別する際には、平素の心掛けを善良にし、博く学んで事の是非を知り、七情の発動に対して一方に偏せぬように努めることが一番大切であろうといわれております。
そして「智情意」の三者のバランスをとることが大事であり、智の力が勝ちすぎることについて注意をするよう述べておられます。

多くの人に教えていただいたことや過去の聖典から学んだことが学んだだけになっていないか、単なる知の蓄積のみになっていないか、きちんと消化できているのかを振り返りながら、実践を意識して前進していきたいと思っております。


日曜担当…八木正典



 7月13日(土)
時間」   土曜担当…佐々木秀彦
  『気づく』『気づき』というような言葉は、勉強会で頻繁に用いられますが、けっこう都合よく遣われているような気がします。しかし、第2回の潜学講座はそういう意味で凄かったと感じます。

廣瀬先生の講座で「楽しむ」時間の遣い方を体験しました。たかがお茶です。されどお茶なのです。茶葉を栽培する歴史、発見、開発、そして実際に栽培する環境を意識にしっかり捉えて、茶器、お湯の温度、お茶を味わう空間を計算し、香りを味わう…『香り』は匂いです、つまり空間を味わう、これは中村天風師の言葉を借りると、『宇宙霊』つまり神を感じる作業だと思いました。千利休が『茶道』として今に伝えておりますが、潜学講座で『茶道』というものの片鱗を体感させていただいたことは凄いと思いました。それも『茶道』というキーワードが一切無く、原点を真っ直ぐ伝えることで、僕達にそう感じさせる見事な計算された空間を創造された、廣瀬先生には感謝いたします。

次に池田名誉塾長は渋沢栄一の掛け軸をかけられました。『人を助けることも読書も、時間が出来てからなんて言っている人は結局できない』物事を何かする前に、「時間」なんて概念は不要である、とっととやれ!…ということでしょう。

僕の最大の弱点なのかもしれません、時間に関する考え方。多くの人も同様で、僕もいつの間にか影響されていただけなのかもしれませんが、とにかく、この「時間」に関しての僕の概念だけは、今すぐぶっ潰さないといけないと強く感じました。池田先生には常に「絶対積極」という言葉を僕らに提示していただいております。

時間の概念をしっかりもたなければいけません。出会ったこと、すべてに歴史、状況、多くの人の開発、叡智が組み込まれて、今僕らの前に現れます。僕らはその上にどう積み重ねるかの作業です。今日の24時間は、宇宙開闢以来積み上げてきた時間のさらなる上の24時間なのです、僕だけの24時間と考えると経過するだけの24時間ですが、それは絶対に違うのです。そこをしっかり意識して、僕も人類の責務として積み上げていく24時間を過ごす意識だけは持たなきゃいけないかと思います。

今、僕は時間の概念、仕事の概念を、矯正すべき時期なのだと強く思いました。これを「気づき」と表現するのかどうかは知りませんが、時間の概念に関しては、すぐに色々始めてみています。湧くわく本心塾にはいつも感謝の気持ちでいっぱいです。


土曜担当…佐々木秀彦


 7月12日(金)
「立ち止まる」   金曜担当…佐藤成亮
 
たとえ、世界が全体として、いくら進歩したところで、若者は、やはりいつの時代にも
、最初の地点から出発し、個人として世界文化の進化の過程を順を追って経験していく以外にないのだ「ゲーテとの対話」


世界がいくら進歩したところで、個人としては、最初の地点からスタートするわけであって、世界がどう進化してきたか古典に触れて過去を振り返り世界を再解釈するところから始めないと未来はないと。

いかに情報化社会と言えども、スピードに振り回されるのではなく、立ち止まること。
立ち止まって、答えを出すのではなく考え続けること。

日々学び、知識だけの頭でっかちにはならずに、立ち止まって考え、思考を整理し
実践に基づいた学びや考えを行ってまいりたいと思います。

金曜担当…佐藤成亮



 7月7日(日)
潜学講座」   日曜担当…八木正典

7月の潜学講座に参加してきました。
今回は、廣瀬先生の「台湾烏龍茶を楽しむ」と池田名誉塾長の「『渋沢栄一』閑話」の豪華2本立ての講義でした。

まず、廣瀬先生の台湾烏龍茶の講義ですが、茶葉や茶器の特徴を説明いただきながら、茶葉の香りを楽しんだ上で、実際にお茶を味わうという、五感をフル活用して烏龍茶を堪能できる講義でした。
爽やかな白毫銀針(はくごうぎんしん)からスタートして、甘くやさしい味わいの阿里山金萱茶(ありさんきんせんちゃ)、そして貴重な茶葉を用いて作られたうまみの深い香檳烏龍茶(しゃんぴんうーろんちゃ)と3種類のお茶をいただきます。
茶器もそれぞれの特性に合わせた蓋碗や紫砂の茶器を準備してもらい、歴史ある大阪倶楽部で非常に贅沢な時間を体感することが出来ました。

池田名誉塾長は、3ヵ月ぶりの講義で、渋沢栄一についてお話をいただきました。
相変わらずの切れ味抜群の切り口で、渋沢栄一の人となりや活躍ぶりが非常によくわかるように解説いただきました。
渋沢栄一の指導精神を①道徳経済合一(道義に合致した企業経営)、②合本主義(株式会社制度)、③官尊民卑の打破(民主主義)と分析したり、偉い人の見るポイントを高さ(偉業軸)、深さ(超越軸)、広さ(志向軸)で整理づけたりすることは池田名誉塾長ならではの切り口で、すっと理解できるような見方を与えていただきました。
渋沢栄一について更に学びを深めたいと感じさせられる講義でした。


潜学講座の講義で自分では気づきえないヒントを多く与えていただけるのは本当に有難いことです。
また、池田名誉塾長が本心塾の強みは互師互弟の精神だと話されていましたが、主体的に講座に関与することによりこれまで全く知識のない多くのことが学べるのは素晴らしいことです。
引き続きご縁を大事にしながら新たな学びを深めていきたいと思っています。



日曜担当…八木正典



 7月6日(土)
論語」   土曜担当…佐々木秀彦
 
『子曰はく、学びて時に之を習ふ、亦た説ばしからずや。朋有り、遠方より来たる、亦楽しからずや。人知らずして慍らず、亦君子ならずや。』(論語・学而第一)

論語は孔子が書いたものではなく、孔子の没後に弟子たちが書いたものです。この「弟子達」が寄ってたかって書いたので論語には間違いが少ないのではないと平澤興さんは書いてらっしゃいます。上記引用は有名な論語の冒頭の一文です。これが冒頭に書かれていることには意味があるということです。

学びて時に之を習う…
基本は自習なのでしょう、「学ぶ」は座学で本を読んだりするだけの意味とは思えません。当然日常の人との関わり、森羅万象、日常業務、あらゆることから「学ぶ」のであろうと思います。そして「時に之を習う」。やはり師に解説や受け止め方を教示いただくことで、自身だけではどうしても狭くなる視野を拡げることこそ大切です。

朋有り遠方より来たる…
この部分は今でもよくこのまま慣用句のように用いられることが多い言葉です。遠方に住んでいるということは、自身の生活環境と全く違う暮らしをしてる友ということだと思います。異業種交流会という名目の勉強会や懇親会によくお誘いいただくことがある現況を踏まえると、孔子は紀元前500年ぐらいの人なので、異業種交流会は紀元前500年ぐらいの頃から流行っていたのかもしれません。

人知らずして慍らず…
人が自分の存在を認めていなくても、怨むことなく自ら為すべきことを努めてやまない人。
ここにいきなりこの文言が来てることに深さを感じます。「説しい、楽しい、君子」の並び…論語らしいと言えばそこで完結しますが、個人の嬉しい感情2つの後、急に達人の域です、それも冒頭からです、ここは完全に哲学ですね…

最近やっと、日常様々な場面で「学び」の意識を持ちながら、取り組める場面も出て来ました。だからこそ余計に、月一回の湧くわく本心塾の講座が「習う」希少な機会で、生活のリズムにもなっていることに気づきます。

「学んで習ってがんばって、異業種の仲間とも交流して志をドンドン高めていることを、人に気づかれないように、寡黙にコツコツやりつづける…ここが大事なんだよ!」
そんな感じに今は解釈しております。

土曜担当…佐々木秀彦


 7月5日(金)
「論語と算盤」   金曜担当…佐藤成亮
 
先週に続き、論語と算盤を味読しておりまして、
気付きや学びがいろいろとある本だと思いました。

効果があるという人格を養成するにあたって、
「仁」という物事を健やかにはぐくむ最高の道徳を身につけるためには、

①「忠」良心的であること
②「信」信頼されること
③「孝弟」親、年長者を敬うこと

が大事であると、孔子は常に言ってこられました。

人格とは、
①独立した個人としてのその人の人間性。その人固有の、人間としてのありかた。
②すぐれた人間性。また、人間性がすぐれていること。

人間性とは、
人間特有の本性。人間として生まれつきそなえている性質。人間らしさ。
とあります。

現代の社会は、利益重視の物事で考え自分が自分がと
考えの中心が自分中心で盲目的になりがちだと思います。
見方を変えたら利益重視ということに振り回されていると思います。
常に心ここにあらずと言った感じでしょうか。

人格を養成する→すぐれた人間性を養成する→すぐれた人間として生まれつき
備えている性質を養成する。

よって、最高の道徳を身につけるためには、生まれつき持っている性質を
養成していくことだと思います。そうするためにはどうするか?といった場合に、
「仁」という最高の道徳を身につけるべく忠、信、孝弟に基づいた行動
をとっていくことだと思います。

心ここにあらずの状態であれば、養成していくというよりも、生まれつき持っている性質
にあらためて気づいて行動していくことなのかとも思いました。

この孔子が常に言ってこられたことを頭において、日常生活の中でテーマとして行動に取り入れて
いきたいと思います。


金曜担当…佐藤成亮



 6月30日(日)
」   日曜担当…八木正典

JR九州の会長であり、JR九州の経営悪化を立て直した唐池氏は、その書籍の中で「氣」の大事さを述べておられます。

「氣」に満ちあふれた人は、勝利を手にすることができる。
「氣」に満ちあふれた職場は、元気になる。
「氣」に満ちあふれたお店は、繁盛する。
「氣」に満ちあふれた組織は、組織の中に活力がみなぎる。

ここで、気ではなく、氣であることが大事で、「米」の部分は八方に広がることを示していると述べておられます。

興味深い話だと思いながら気に留めていたところ、本心塾の小林代表幹事から以前いただいた神拜詞の大祓詞を唱えておりましたらこの中にもありました。
大祓詞の後半に氣吹度主という神が出てくるのです。
祓戸4神の一つで、強い風(氣吹き・いぶき)を起こして罪穢れを根の國底の國という暗闇の世界に吹き放ち罪穢れを払ってくれる神なのです。

日本人の根底に流れる「氣」の考えに触れたような有難い気分です。
普段の活動や朋友の交わりの中で、少しでも「氣」の広がりをイメージしていきたいと感じております。

日曜担当…八木正典



 6月29日(土)
個性」   土曜担当…佐々木秀彦
 
『日本民族の特性の良いところは、何といっても「純」であること。言い換えれば「生」であることである。だから、日本民族は生を尊ぶ。それゆえに、光明・清潔・靜謐・明るさ、清さ、静けさを重んじる。これが神道の大眼目であり、日本民族の本質・個性をなしている』(安岡正篤・三国志と人間学)

G20で大規模な規制が敷かれている大阪市内です。お蔭で僕の家にも静かな環境となって、普段どれだけ喧噪の中で暮らしているのかを身に染みて理解したという良い事がありました。

安岡正篤師も日本人の特性として、「静謐」を重んじると説いていらっしゃいます。今回のG20開催で、僕は警察官の気概というものを強く感じております。まさに光明・清潔・静謐の立ち居振る舞いで、警備という任務を黙々と遂行している多くの警察官の方々を、街中いたるところで目の当たりにしまして、日本の凄さを感じております。

車は規制されている道路で、歩行者は通行できました。要人の車列が入ってくるということで、横断を規制されて待ちました。しばらく待っても車列が来る気配がないので、横断を一時解除してくれました。その時、メガホンで「ご協力ありがとうございました」「お急ぎのところ申し訳ありませんでした」という言葉が複数の警察官から幾度か発せられました。毅然と任務を遂行されている姿はやはり凛々しく映りました。

最近、「我がままな立ち居振る舞い」を「個性」と表現する風潮になっているように感じます。各個人々々の個性を大切にしなければいけないと僕も当然そう思います。それでは大切な「個性」とは何ぞやというと、各個人々々の「美しい特性」みたいなモノを指して遣う言葉なのではないかと、安岡正篤師の文章で、初めて気づいたしだいです。

G20は僕にとっても、有意義で成果のあったイベントになったようです。


土曜担当…佐々木秀彦



 6月28日(金)
「論語と算盤」   金曜担当…佐藤成亮
 
今年は、四書五経のひとつである論語を中心に中国古典を読み進めております。そして、論語をテーマとした渋沢栄一氏の『論語と算盤』の守屋淳氏の現代語訳版を読み進めておりますが、論語の背景を少し学んだうえで読むと、こんなにも面白く気づきの多い読みものであったと気づかされました。

その本の「争いはよいのか、悪いのか」という見出しの中に孟子の「敵国や外患がないと、国は必ず滅んでしまう」とあり、健全な発達を遂げていくためにはこれに勝っていく意気込みや気概がなくては成長も進歩もないとありました。

ここで、自身を成長させていくためには、適度な緊張感、ストレスをもち打ち勝とうとする姿勢を持つことが大事だと改めて思いました。

日頃のストレスも自身を成長させていくための自動的にお尻を叩いてくれる装置だと前向きにとらえて打ち勝って参りたいと思います。

金曜担当…佐藤成亮



 6月23日(日)
世界平和」   日曜担当…八木正典

「世界平和のために私たちはどんなことをしたらよいですか?」
「家に帰って家族を大切にしてあげてください。」

1979年にノーベル平和賞受賞後のインタビューで質問を受けた時に、マザーテレサはそのように答えました。

家に帰って家族を大切にする。
これは何か同じようなものがあったなと思っていたら、「大学」でした。

古えの明徳を天下に明らかにせんと欲するものは先ずその国を治む。
その国を治めんと欲するものは先ずその家を斉う。
その家を斉えんと欲するものは先ずその身を修む。

聖人が自分の理想を突き詰めた結果、見える世界は同じなのかもしれません。
高い理想の実現に悩むのなら、まずはおろそかにしがちな足元の、最も身近なところを大事にすることを意識してみたいと感じた瞬間でした。

日曜担当…八木正典



 6月22日(土)
継続」   土曜担当…佐々木秀彦
 
『心に力ありといへども、養はざれば日に滅ぶ。心に靈ありといへども、磨かざれば日に昏む』(中村春二・心力歌)

冨樫師長がオンラインサロンを主宰されています。さらにその中で「100日ブログの会」という会を発足されて、僕も運良くそのメンバー171人の中の1人として参加することができました。(新規メンバーの受付はすでに終了しています)ブログを書きたくても続かないという人が続けられるように、みんなでがんばろうというコンセプトです。初心者またはそれに近い方が対象に結成された会です。

とにかく100日やってみる…この言葉は今西最高顧問から水垢離を勧められた時に言われた言葉です。おそらく僕と同様に冨樫さんも今西最高顧問の100日という言葉でその気になって水垢離を始められたのではないかなと推測します。水垢離を30日くらい継続した頃、今西最高顧問は100日という約束を、しれっと1000日と言い換えました。まるで最初から1000日を僕が約束したかのように、とりあえず1000日頑張ったら何かを掴めると、約束は100日だったと絶対に言い返せないようにコントロールされたお蔭で、気がつけば現在1500日以上継続できております。

冨樫さんもおそらくこのブログ100日継続という会の約束をどこかの段階で、1000日に変えてしまうのだろうなと僕は予想しています。まず間違いないと断言します。

今日現在6日目継続中ですが、これが面白いです。イベントは参加しなければ意味がないと常々言葉にはしておりますが、171人のパワーって凄いです。インターネットの世界の場合、心が合わさると、響鳴度が実世界以上に綿密になるような感覚を味わっています。この拡がりは無限大と感じます。まだまだ所詮1週間なのでこの感覚はぼんやりふわふわしてるのですが、100日経過した頃もっとしっかり見えてくるものなんだろうと楽しみにしています。

池田名誉塾長から読書、今西最高顧問から水垢離、冨樫師長からブログ、この塾をきっかけに始めたことがどんどんライフワークなり、自分の血と成り、肉と成る、そんなキッカケを常に与えていただける「湧くわく本心塾」には本当に感謝の気持ちでいっぱいです。


土曜担当…佐々木秀彦


 6月21日(金)
「重職心得箇条」   金曜担当…佐藤成亮
 
最近、『安岡正篤氏の佐藤一斎「重職心得箇条」を読む』
を読む機会(ご縁)があり、また、周りでも結構読んでいる方が増えてきました。
以降、毎日繰り返し一条づつ読むように心がけております。
読む際には極力、実際の現実ではどのように置き換えられるか
と考えながらゆっくりと理解を深めながら読み進めております。

『重職心得箇条(じゅうしょくこころえかじょう)とは、
幕末の天保・弘化の頃、幕府教学の大宗であった佐藤一斎が、
その出身地である岩村藩の為に作った重役の心構えを書き記
したものであり、聖徳太子の十七条憲法に擬して十七箇条に
説かれてある。』(wikipedia参照)

先日、お聞きしたのが、『言志四録』の4書である、
・言志録:全246条
・言志後録:全255条
・言志晩録:全292条
・言志耋(てつ)録:全340条 
合計1133条からの至極の17条が重職心得箇条であるという話。

内容としては、難しいことを書いているわけではなく、
重職者としての心構えの核心を突いた心得が書かれております。

別に私が重役というわけではありませんが、いつでも重役に
成れるように、また重役の視点をもち合わせて物事に
取り組むと先を見据えた視点で取り組め、次第に素養も備わってくるのでは
という試みでもあります。

第八条:『重職たるもの、勤向繁多と云う口上は恥べき事なり。・・・』
→仕事が忙しいと言うことを恥じなさい とあります。

忙しいということは重職としては言ってはならないことです。
というのは、『心に有余あるに非れば、大事に心付かぬもの也』とあり、
こころに余裕がないと、小さな物事に心を奪われて
大事に(大問題に)気付かなくなってしまうとのことです。

確かにこころに余裕をもって物事に対峙する大事なことだと思います。
忙しいと本領が発揮される、自身が試されていると感じ力が出る、いう見方もありますが、
忙しい時こそ、こころに余裕をもってものごとに取り組めるようにしたいと思います。
余裕をもつことで、忙しい自分から一歩離れた自分というものが俯瞰して見え、
忙しいながらも気づきが得られるのだろうと思います。忙しい時こそが、たくさんの経験を
得られる大きなチャンスなので、繁多に振り回されることなく繁多から気づきを得て経験に
変えていきたいと思います。

こういった形で十七条の記載があり、難しい内容ではなく、読んでいて
やっぱりこういう事が大事なんだとあらためて気づかされることが多々あります。

学ぶということは当たり前を改めて気付いていく事だと思います。

重職心得箇条を繰り返し読むことで自身の中に言葉を浸透させて、
考える指針、行動する指針として自身からにじみ出てくるようにしていきたいと思います。

金曜担当…佐藤成亮


 6月16日(日)
時間の感覚」   日曜担当…八木正典
 
ジャネーの法則をご存知でしょうか。
ある本を読んでいて出会ったのですが、年を取るほど時間の経過が早く感じられることを説明した法則なのです。

19世紀にフランスの哲学者であるポール・アレクサンドル・ジャネは、主観的に記憶される年月の長さは年少者にはより長く、年長者にはより短く評価されるという現象を説明しました。それは、生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例するという法則です。
その法則だと、10才子供の1年は1才の子供が感じる10分の1であり、30才の1年は30分の1、50才の1年は50分の1と時間の感覚が短くなっていくのです。
ジャネーの法則にしたがった感覚年齢では100歳の折り返しは何と20才。驚きです。

「少年老い易く、学成り難し。一寸の光陰軽んずべからず。」

これから時間の感覚がどんどん短くなっていく中で、いかに新しい経験にチャレンジしていくのか、自分の好きなことを突き詰めるのか、そして一瞬一瞬を大切にしていくかを考えつつ日々の工夫をしていきたいと思います。

日曜担当…八木正典



 6月15日(土)
心像」   土曜担当…佐々木秀彦
 
『日本の戦前・戦中・戦後を通じて代表的な精神的指導者であった「中村天風」師が『鞍馬天狗』、「安岡正篤」師が『宮本武蔵』というヒーローのモデルだったとは、二大哲人が急に身近に感ぜられて実に愉快なことではないか』(竹下和男・天才と本質)

坂本龍馬のイメージは司馬遼太郎の「龍馬がゆく」の影響です。司馬遼太郎の「坂本龍馬」に実在の人物の誰かがモデルになっていたかどうかは不明ですが、武田鉄矢が独自の解釈でイメージし、台本を書き、主演した映画を観て「こんなの龍馬じゃねー!龍馬に失礼だ!」と自称坂本龍馬ファンから相当のバッシングを受けていた記憶があります。ただ今の僕が抱いている坂本龍馬のイメージは司馬遼太郎と比較すれば、武田鉄矢の龍馬像に近いような気がします。

鞍馬天狗のイメージは大佛次郎の「鞍馬天狗」です。そしてその鞍馬天狗は中村天風がモデルだったと、中村天風師も大佛次郎も公言しています。このブログをご覧の方々は、中村天風師の経歴・人物等に関しては相当に詳しくご存知なので、大佛次郎の「鞍馬天狗」はかなり楽しめるのだろうと推測いたします。

宮本武蔵のイメージは吉川英治の「宮本武蔵」だろうということです。そしてこの吉川英治は安岡正篤を「宮本武蔵」のモデルにしたのだろうと、関西師友協会や松下政経塾で活動された新井正明氏の記述や、その他具体的な根拠を元に、竹下和男はこの本に記述しております。安岡正篤は四條畷中学で剣道部の主将でした。

陽明学の教えと、宮本武蔵の「五輪書」はかなり通じるものがあります。安岡正篤師は「日本武道と宮本武蔵」という本も刊行しておりますし「宮本武蔵」を題材にして講演した記録も多数残っています。安岡正篤師が宮本武蔵に相当な興味があり、かなり研究したことは間違いないことと思います。

中村天風師のお話として「鞍馬天狗」を、安岡正篤師のお話として「宮本武蔵」を読むと、きっと楽しめるのだろうなと、僕は次に読みたい本のリストにこの2冊を加えてみようかと思います。

土曜担当…佐々木秀彦



 6月14日(金)
論語読みの論語知らず」   金曜担当…佐藤成亮
 
論語読みの論語知らずの意味は、『表面上の言葉は理解できても、それを実行に移せないことのたとえ。』

頭で理解できてるだけでとどまっているような状態のことだと思います。

なぜ学ぶのか、ということを改めて自分の中で考えると、
①知的好奇心、新しいことを知る(気づく)とわくわくする。
②生活を豊かにしたい。精神的な面のゆとり、余裕をもつこと。
③自分を戒めるため。思いあがらないために修身としての意味合いをもたせること。
だと思っております。

この学ぶという範疇がまだまだ自分の中にとどまっているので、
内にも外にも発信して学び、刺激しあえる仲間を増やしていきたいと思います。

学ぶことを目的とすれば、論語読みの論語知らずでも問題ないとは思いますが、学び自体に終わりはないので、しっかりと自身の中で問を立てて、目的意識をもって学ぶことだと思います。(学び自体が目的になってしまうとゴールのない迷路に入ってしまうようにも思います。)

結果的には目指したものに行きつくかもしれないし行きつかないかもしれない。しかし、ゴールを決めるのと決めないのでは成長の仕方が全く違ってくると思います。

まもなく『不惑』に突入。

学びをより実践に活かせるように問を立てて行動し、さらに精進して参りたいと思います。

金曜担当…佐藤成亮


 6月8日(土)
自由」   土曜担当…佐々木秀彦
 
『世において、知恵によったり、戒めや務め(戒律や修行法)によったりして、「正しい見解はこれだ、というような」物の見方を構えてはいけません。自分を他人と比べて、「同じだ」といったり、または「劣っている」「勝れている」と思ってはいけません。』(佐々木奘堂・ブッダの言葉)

6月2日の天正寺座禅会で「膝や腰を固めてしまうのは自傷行為」と何度も何度も仰っていらっしゃいました。座禅というと固まってしまう人が実に多い、殆どの人は膝も腰も手も足もガチガチに固めて、その痺れや苦痛と戦っていて、瞑想どころじゃなくなっているとのことでした。

「ブッダの言葉」の本文には、これを「知恵、戒め、務め」で自分自身をガチガチに固めて、それを他人と比べることは、修行どころでなく、愚かなことだと書かれています。

座るという肉体的な作業も、修行という心の作業も、固まってしまってはダメということでしょう。諸行無常、自然は常に動いています。水も空気も流れています。心も静止することは自然の摂理に反するということでしょうか。

「お釈迦様には仏教という新たな宗教を説く意図はおそらくなかった…」というのが、奘堂顧問のお考えです。キリストはキリスト教を布教する気があったのでしょうか、王陽明は陽明学というものを伝えたかったのでしょうか、おそらく哲人聖人と現代にまで語り継がれている人の全ては、自分が教祖となる目的はなかったのだろうと思います。

最初のライオンも、虎も、イルカも、人間も、自分が新しい生物だと意識して生まれたわけではないという理屈でしょう。気がつけば自分はライオンだった、虎だった、イルカだった、人間だった。そこにはもっと強くなりたい、海を泳ぎたい、自由に動きたいという願望だけが強くあって、肉体の限界を決めつけないで、思いっきり自由に腕をふったり、地面を蹴ったり、海に潜ったり、歩く足と違う動きで物を掴んだりしたことで、進化したのかもしれません…

『「座る」のは「お尻」と「もも」が地面についていて、そこは動けない。しかし、それ以外の手も膝も腰も完全に自由なんです、自由じゃなきゃいけないんです』奘堂顧問のお言葉を聞いて、心も体も宇宙も、「主人公」として、どこも固めてはいけないのだなと感じました。


土曜担当…佐々木秀彦



 6月7日(金)
コミュニケーション」   金曜担当…佐藤成亮
 
いろんな人と話していて大事なことは「何を言ったかというよりも、どう伝わったか?」
ということであると思います。

誰々にこう言ったから理解してもらってる。分かってないのは相手が理解できない頭だからだなど、
思い込むのはすごく独善的な解釈であると思います。

コミュニケーションは相手がいて成り立つものなのに、自分自身の言葉が伝わらないのは相手のせいにする。

これではいつまでたっても何も伝わらないと思います。

「相手と過去は変えられない。自分と未来は変えられる。」
というスタンスにたって考えると、相手に伝わりやすい話の仕方をすることが重要になってきます。

たいていは話がうまく伝わっていないときは、自分の頭の中のイメージを相手も共有しくれてて、断片的にかいつまんで伝えただけで理解してくれてるやろうという自分の勝手な一体感的な考えの上で話していることが多いです。

やはり自分と相手とは違うのだという離別感を意識して、正確に伝えようとすることは常に大事な事だなと改めて思います。

身内だから、いつも自分のことを見ててわかってくれてるやろのわかってくれてるやろは勝手な自己解釈でフタを開けたら何も分かってもらえていない、伝わっていないと思います。

「どう伝わったか?」を意識することはクセづいてないと難しいもので、今日は相手にこのような話をしたけど、振り返ってどうやったやろ、と思い直す習慣を意識的に作っていくと良いのかなとも思います。
(感情は紙に書き出すことで客観的に見ることができ気持ちがすっきりします。)

伝えるための大前提として常日頃の相手との距離感と環境づくり、時折、自分はこう考えている、思っていると相手に伝え自分のことをよく理解してもらい双方の良い空気感を維持しつつ相手に伝わるコミュニケーションを図っていきたいと思います。


金曜担当…佐藤成亮



 6月2日(日)
大事と小事」   日曜担当…八木正典
 
事の大小といったとて、表面から観察してただちに決するわけにはいかぬ。小事かえって大事となり、大事案外小事となる場合もあるから、大小にかかわらず、その性質をよく考慮して、しかる後に、相応の処置に心掛くるのがよいのである。(中略)世の中に大事とか小事とかいうものはない道理、大事小事の別を立ててとやかくいうのは、畢竟君子の道であるまいと余は判断するのである。ゆえに大事たると小事たるとの別なく、およそ事に当たっては同一の態度、同一の思慮をもって、これを処理するようにしたいものである。
(渋沢栄一)


仕事が忙しくなってきて仕事それぞれの重要度に合わせて優先順位をつけて効率よく仕事をこなしていくことに注力しております。
限られた時間の中でチームや個人のパフォーマンスを高めるために必要だと思うのです。
ただ後で振り返ってみると、重要度が高いと思っていたものがそれほどでもなかったり、大した仕事でないと思っていたものが後から大きな影響を及ぼし多くの時間が必要となったりと難しいものです。
今ではゆっくりと自分の判断を振り返る時間をもつことにより、なるべく物事を俯瞰的に見るようにして、その上で目の前の仕事に全力を注ぐことに集中をするようにしております。
渋沢栄一が話しておられる大事でも小事でも同一の態度、同一の思慮で物事に当たるという考えも採り入れながら意識して過ごしていきたいものです。

日曜担当…八木正典



 6月1日(土)
「八紘」   土曜担当…佐々木秀彦

『八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を(多くの雲が立っている。その雲が多くの垣根のように、わたしの家を取り巻いている。その中に、わたしは妻を取り籠める。ああ、雲が垣根をつくっている。多くの多くの垣根をつくっている)』(古事記・梅原猛・第1章国生み)

僕達は3次元空間で暮らしています。前後左右上下、つまり平面ではなく立体空間に暮らしているのです。しかし、通常はどうやら平面だけに意識があるようです。宇宙の果てまでを含めた上の空間、地獄やマントルまでも突き抜けて地球の裏側に拡がる宇宙は下の空間、まぁまぁ前後左右の平面も突き抜ければやっぱり宇宙にたどり着くのではありますが…普通はせいぜい目に見える範囲の3次元しか意識しません。

古事記は日本の有史以前の言い伝えを書き記したものです。奈良時代に編纂されたということですが、編纂されて書いてあるそれぞれのお話そのものがいつ頃作られたお話なのかは全く想像すらつかない大昔のことと推測します。上記引用文は、須佐之男命が櫛名田比売と宮を造って結婚されたときに作った詩です。雲が重なる様子を「八重垣」と生け垣が何重にも取り囲んでいるのと同様な印象を歌っていらっしゃいます。須佐之男命は神様なので当然だと言えばまぁそうなのですが、少なくても日本の神代の時代は、雲の上も地の底もしっかり含めて日常生活を送っていたんだということが古事記には書いてあります。

日本の神様は名前がいくつもあります。有名な大国主神なら、大穴牟遅神・葦原色許男神・八千矛神・宇都志国玉神、これは全部大国主神の名前です。名前が多々あるというとかなり怪しい雰囲気なのですが、実は簡単なことでした。現代でも歌舞伎役者・落語家等々、出世する度に新しい名前を襲名します。ブリ・スズキ・ボラ等の魚も出世して新しい名前を襲名していきます。日本の神様も出世して新しい名前を襲名していくのですが、親切に以前の名前も羅列される場合が多いので、ややこしい印象となっている訳です。

江戸時代までは日本人は出世して名前が変わるものでした。木下藤吉郎・豊臣秀吉、竹千代・徳川家康、というふうに武士はがそうだったことは誰もが知っています。また絵や詩を描く時に「雅号」を名乗るのは今でも普通にあることです。生まれてから死ぬまで同じ名前のままというは日本の場合つい最近に始まったかなり斬新かつ柔軟に世界に対応したルールなのです。唯一正式に残っている出世の機会というのが結婚で、両性どちらかの名前に決めるルールとなっていて、苗字を変えた方だけが、唯一日本古来からの伝統である出世を体感できる機会に恵まれることとなります。

雲の形を見るのは実はすごく大切です。雨や風が見えてきます。地震雲という言葉も有ります。本来の人間生活に宇宙がもっともっと身近だったと古事記から感じます。文明が進化したから忘れて良い本能もきっとあるのでしょう、しかし、文明の発展や技術の進化がどれだけ進んでも忘れてはいけない本能もあるはずです。大先輩達が書物として残してくれた大きな財産を、現代に生きる僕達はしっかり次代へ繋ぐ義務は担っているのかなと最近思うようになりました。

土曜担当…佐々木秀彦



 5月31日(金) 
ボルダリング」   金曜担当…佐藤成亮
 

いつもは頭の筋トレ、柔軟として本を読んでますが、心身を鍛える上で、頭だけでなく体も鍛えようとボルダリングを始めました。トレーニングジムで単調な動きの繰り返しよりも、見る景色が変わり、実践的で楽しめるやり込み要素が深いところにひかれました。

きっかけは、今住んでいるところのお隣さんがすでにボルダリングをされており(私のひと回り年上の方です。)、日増しに体が引き締まっていく姿を見て、どのように引き締めるかをお聞きしておりましたらボルダリングという答えに行き着きました。

道具は、シューズとチョークバックのみ。だいたいトレーニング場にレンタルがあります。怪我をしないための諸注意はあるものの、経験を必要とせず、すぐ始められるところが魅力的です。

運動としては全身を使う運動になります。自重トレーニング(自分の体重の負荷だけのトレーニング)になり、やることは『ただ登る』だけですが、『ただ登る』作業はひたすら上のゴールを目指すことに無心になれて心がリラックスできます。

トレーニングジムの様な器材を使わないので、筋肉が肥大してマッチョになることは無いので、身体のラインをシャープに細マッチョを目指すならもってこいだと思います。

実際に挑戦してみて、基礎コースは一通りクリアできましたが、チャレンジでひとつレベルを上げてみたところ、段違いに登るのが難しくなりました。時間の経過に連れ最初は動いていた腕も途中から笑い出して全く力がでなくなりました。そこでその日は終了。筋肉痛が5日間続きましたが、筋肉痛をキッカケにまた継続的に筋トレに励もうとやる気が湧いてきました。

ダイエットや体を引き締めるためには、カロリーコントロールと合わせて、基礎代謝が上がる体を作るために少し筋トレがあるとなお痩せやすくなります。基礎代謝が上がると平常時でもカロリー消費してくれるので痩せる体になっていきます。

簡単に楽にとダイエットアイテムに頼るのは、何がダイエットしてるか今一度考えてみると、実は、体重ではなくお財布の中身のダイエットだったと後で気づくかもしれません。

しばらくは無理のないペースで頭だけでなく体も動かしてボルダリングと自宅での自重トレーニングで体を鍛えようと思います。

金曜担当…佐藤成亮



 5月26日(日)
歴史の活力」   日曜担当…八木正典
 

平時においても、けっして無為にすごすことなく、たゆまず時間を利用して変事にそなえ、獲得した知識を利用できるようにしておくべきである。運命の変転があったときには、すみやかにその打撃に対抗できるようにしなければならない。 (マキャベリ)


先日の潜学講座で冨樫さんからご紹介いただいた宮城谷さんの「歴史の活力」を読ませていただきました。
この本は、令和の出典の解説の一助として、昭和、大正の元号の起源で紹介されていたものです。
宮城谷さんは中国古典にお詳しいと聞いていたので、中国古典の説明が中心なのかと思いきや、なかなかどうして、多彩な切り口で非常に楽しめる本になっています。

才能篇で紹介されている、マキャベリの君主論に関して、その断定的な文章とその根底に流れる陽気さはドラッカーの文体と似通っているというものは面白い視点でとらえられており、そこからの君主論を覇道論として説明する流れは興味深いものです。
また、最後の観察篇では、私の大好きな王陽明の「一摑一掌血、一棒一条痕」を引用し、志の大切さを語りながら、そこで紹介される財界人のもつ志が生き生きと描かれているのに非常に魅力を感じることが出来ました。

潜学講座でご紹介いただいたことで、これまで触れることのなかった作者やその方の持つ新たな視点に出会えることは本当に幸せなことです。
引き続き変事に備えて新たな知識の獲得とそれを利用できる体制を整えていきたいと思います。

日曜担当…八木正典



 5月19日(日)
水垢離」   日曜担当…八木正典
 

今月で毎朝行っている水垢離が5年を経過しました。
振り返ってみれば2014年本心塾に参加し始めた時に諸先輩方に水垢離の良さを教えていただきスタートを切ったのです。
ただ毎朝シャワーで水を浴びるというそれだけのことなのですが、一年目は冬の寒い中で息もできないような状況になり、大変なことを始めてしまったと後悔したのを思いだします。

ただ習慣というのは不思議なものですね。
毎日行っているうちに完全に生活の一部となり、今では水垢離を行わないことが想像もできなくなっています。日々の穢れを洗い流してくれているようなすっきりした気分になるのです。また毎日続けられるというのは健康な印であり本当に有難いことです。

今年のうちには2000日に到達する予定です。これからも、これまでの本心塾での出会いや多くの人からアドバイスいただいたことに日々感謝をしながら、水垢離を続けていきたいと思っております。

日曜担当…八木正典



 5月17日(金)
「読んだら書かねば思考の便秘」   金曜担当…佐藤成亮
 

日頃から本を読む機会があるのですが、読むだけでなく、本を傍らに置いて、考える時間を取ること、または、考えたことを行動の一歩手前の段階として、考えを整理する意味で文字にすることは大事なことだと最近よく思います。

読むだけでは、読む行為自体は能動的だとは思いますが、まだまだ情報に対しては受け身であると思います。頭の中で考えているだけというのは、思考のアイドリング状態のような感じで、同じところで同じように、形にならない考えを行ったり来たりしているだけだと思います。

今年は、大変ありがたいことに本塾の金曜日のブログの担当や講座を担当させて頂ける機会に預かり、自分の考えをまとめ、発信していくことでより深い学びにつなげていけるよう精進させて頂きたいと思います。

金曜担当…佐藤成亮



 5月12日(日)
「潜学講座」   日曜担当…八木正典
 

5月の潜学講座に参加してきました。

まずは「大学」の素読からスタート。伊與田先生の本に従って、参加者全員が声を出す。読み進めていくと全員のリズムが合ってきて気持ちがいいものです。

第一講は、佐藤先生の『大塩平八郎「シオイズム」を紐解く』の講義です。
大塩平八郎の生きた時代背景や人物像、大塩平八郎の乱までの生涯を丁寧に整理してもらい、説明いただきました。
大塩平八郎と学問、書物との出会いが人生の転機を与えたとの話は興味がつきません。
次回に続く後半の講義も楽しみにしながら、理解を深めるために自分なりにもう少し勉強してみたいと感じております。

第二講は、冨樫先生の「令和の出典から時代を占う」です。
元号の歴史や明治以降の元号の出典や元号が与えた影響、令和の出典を万葉集、帰田賦、礼記の原典を踏まえてご説明いただきました。
以前から本塾ではいろいろな方がおっしゃっていますが原典にあたるのはいいですね。内容の理解が進むのに加え、前後の文章から多くの受け止め方や考え方を導くことが出来て勉強になりました。
令和を「人の集まる」時代と表現したのも面白く受け止めさせていただきました。
令和の時代を生き抜くヒントとして今日の講義を生かしていきたいと感じております。

いよいよ第7潜学講座がスタートしましたが、刺激を受ける魅力的な講座でうれしく感じております。
引き続き本塾での人が集まるエネルギーを感じ、出会いを大事にしながら、自分を高める努力を行っていきたいと気持ちを新たにしております。

日曜担当…八木正典


 5月11日(土)
「改革」   土曜担当…佐々木秀彦
 
「社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきである」 (後藤新平)

大阪都構想が現実味を帯びてきました。来年の秋に住民投票の計画だそうです。今秋だと堺を巻き込むことは不可能でしょうが、来秋なら堺も含めた計画になるのかもしれません。

明治大正時代に後藤新平という人がいました。上記引用文は日清戦争で割譲された台湾の民政局長に就任した頃の言葉です。後藤新平は医者です。彼の業績を確認していけば、ことこん医者の発想だなと感じることが多々あります。医食同源を国家形成、地域形成、組織形成に見事に応用している気がします。

大阪が良くなるためには…血液がしっかり流れて、栄養が身体全体に行き渡って、健康的に活動しつづなくてはいけません。経済・流通・人間が血なのでしょう。

関東大震災が起こりました。後藤新平は東京の震災復興計画を作成しました。計画では当時の国家予算1年分ぐらいの13億円を計上しました。議会に承認されたのた5億7500万円でした。それでも今の東京の街の基本はこの計画の賜物です。

大阪も大胆な都市改造計画をぜひ施行していただきたいと願います。平成31年度の国家予算が300兆円ぐらいとして、大阪復興計画に300兆円ぐらい算出する政治家が欲しいなと僕は思います。そうすると100兆ぐらいを持ってこれる期待もできます。

「人物や実力をみないで、学歴や、親分子分の関係では、我が国の将来は危うい」と後藤新平は明治時代に喝破していました。日本に大学ができてまだ20~30年程度の頃の学歴偏重否定は面白いです。令和の普通社会ではかなり親分子分は解消されてきましたが、政治家の世界はまだまだ親分子分が成り立っているようにみえます。

医者の目線…健康体とは如何なることかは、組織運営、経済活動等々の日常生活でも強く意識していきたいことだと、あらためて感じます。

土曜担当…佐々木秀彦



 5月5日(日)
ティール組織」   日曜担当…八木正典
 

人類の意識が新しいステージに入ると、人々の協力体制にも大変革が起こり、新たな組織モデルが生まれてくる。これまで、人類は4段階にわたる組織の発達を経験し、今まさに進化型組織(ティール組織)という新たな組織が生まれている。

これまでの変遷は次の通り。
衝動型組織(レッド)             :集団をまとめるために組織のトップは常に暴力を行使。
順応型組織(アンバー)        :トップダウンでの秩序維持と前例踏襲での安定を重視。
達成型組織(オレンジ)         :イノベーション、目標管理、実力主義が特徴的。目標は競争に勝つこと。
多元型組織(グリーン)         :権限移譲や価値観、多数のステークホルダーの視点を生かす。 

今生まれているティール組織は、①自主経営(セルフ・マネジメント)、②全体性(ホールネス)、③存在目的を特徴として組織運営される。

達成型組織が「機械」に、多元型組織が「家族」に喩えられるのに対して、ティール組織では「生命体」、「生物」に喩えられ、それぞれの担当が自分の責任においてあらゆる知恵を絞りつづけて組織として進化し続ける。組織は独自の存在目的を追求する一つのエネルギーが集まる場としてとらえられる。
これは、フレデリック・ラルーの「ティール組織」という本に書かれている新たな組織論の考えです。

新しい時代、令和を迎える中で、自分として所属する組織の中で、何ができるのか、いかにあるべきなのかを考えるいい機会をいただいた気がします。自分がいいと信じられることを諸先輩や新たな視点を持った方々と相談し、ブラッシュアップしながら一つ一つ着実に行動に移していきたいと思っております。

日曜担当…八木正典




 5月5日(土)
「建国」   土曜担当…佐々木秀彦
 
【日本の建国】皇紀元(神武天皇元〈前660〉)年辛酉1月1日、橿原の地で即位される。初代天皇・神武天皇の誕生であり、日本の建国でもあり、この年を皇紀元年と定める。正妃・媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を尊んで皇后とされる。媛蹈鞴五十鈴媛命は大神大物主神(三輪大明神)、素戔鳴尊、大国主神の子孫であるから、ここで天津神系と国津神系に分かれた系譜がまた一つに統合されることになった。媛蹈鞴五十鈴媛命との間に、神八井耳命、彦八井耳命、神渟名川耳命の三皇子が誕生される(吉重丈夫著・歴代天皇で読む日本の正史)

御代替わりが僕の中でこんなに大事なイベントだったことに若干驚いています。まず氏神様である生國魂神社へ参詣しまして、初めて御朱印をいただきました。この御朱印帳はチビスケの御朱印帳ということにします。そしてサムハラ神社へ参詣しました。御朱印は締め切り時間が過ぎていましたのでいただけませんでしたが、偶然同じ時刻に正式参拝されていらっしゃった方のお蔭様で鈴の音を聴くことはできました。宮内庁へ奉納する記名帳にもしっかり記帳いたしました。

昭和初期まで日本人は歴代天皇をすべて言えたということを知らない平成育ちの方々もかなり多くなってきたのではないでしょうか。僕も戦後高度経済成長期生まれなので、歴代天皇は言えませんが、戦争を知っている先輩方々が当然のように歴代天皇を暗誦していたことは知っています。歴代天皇を暗誦できるということは、世界に誇る126代続く天皇家を追うことで、日本の歴史を確認している作業です。これは小学校で教えるべきなのではないかと思います。

上記引用文では、初代神武天皇の皇后が天津神の子孫ということで、神様と天皇家をしっかり結びつけています。西洋では神様と現代人との間に大きな大きな壁がありますが、日本では日本国民はみんな神様の子孫であるということになっています。西洋のように神様という特別の生命体が天地創造された瞬間があるのではなく、日本では宇宙空間があったところに天之御中主神が突然現れました。それ以後は一度も現れませんが…。神様の子孫が天皇及び日本人という説を「非科学的」と笑う人がいます。人間がどこからきたのか全く解ってない程度の方々が、日本の国史を「非科学的」と決めつける鷹揚さはどうなんだろうなと感じます。

非科学的上等!2600年前から続く歴史はアナログに決まっています。僕たち日本人は、地球で一番アナログを大切にする民族で、令和は駆け抜けていきたいと思います。

土曜担当…佐々木秀彦



 5月3日(金)
「アルカイックスマイル」   金曜担当…佐藤成亮
 
『サイレント映画の時代に、ダグラスフェアバンクスという活劇役者がおり、この人の言葉に『朝10時まで笑顔を顔に止めれば、後は自動的に、夜遅くまでつづく』という名言があります。
笑顔はアルカイックスマイルで、ほんのちょっと口角を上げて、笑顔を意識するだけで良いと。この笑顔が自分をあたため、まわりをあたためていくと。』(無能唱元サトリシリーズ第2弾より)

「アルカイックスマイル」とは、表情の1つであり、 無表情にも拘らず口元に笑みをたたえたような表情のこと。 古代ギリシャのアルカイック期に製作された人物の彫像に表現された表情からきているようです。自分流の解釈では「口元に笑みを」というとらえかたではなく、「口元から笑みを」という発信していくスタイルでいきたいと思います。

行動療法のうちのひとつに入るのかはわかりませんが、心身が相関しているように、顔に笑顔を止めておくと、終日気分が陽気で、気持ちの余裕を持って過ごせるように思います。

毎朝服を着替えてボタンを掛けるように、メンタルな面でも、良い言葉を発したり、笑顔を止めて自己肯定感を少しでも高めていくことを毎日心がけることで、ちょっとした変化が現れます。

大きな変化もちょっとした変化の集まりからだと思います。

まずは自分から良い流れの一灯を点して周りに伝播していきたいと思います。

金曜担当…佐藤成亮


 4月27日(土)
「龍神」   土曜担当…佐々木秀彦
 

『惟神魂幸えませ(かむんながらたまちはえませ) 惟神魂幸えませ(かむんながらたまちはえませ)』(龍神祝詞)

時代の変換は昭和から平成の時に体験はしております。ただ前回は昭和天皇のご逝去に伴っての改元でしたので、何事も自粛モード、日本国全体が喪に服す状態だったので、今回のようなお祝いムードとは全然違いました。そういう意味では、素直にお祝いと感謝としての御代替わりを体験できることは幸せなことだなと感じます。

元号を廃止して西暦表記を公式にすべきと大きな声で主張する方々もいらっしゃいます。西暦はご存知のようにキリスト教基準です。宗教の自由を憲法で保証する日本の国で、西暦を遣うのは当然に自由ですが、国民の大多数が死後仏教方式にてお葬式を執り行う現実があるにもかかわらず、キリスト教の暦を公式にせよと叫ばれても、どうなんだろなぁと感じます。それよりせっかく2679年もつづいている皇紀があるのだから、こちらをもっと活用して公式にすべきという主張なら、賛否はともかくとして、もっと納得し易いと思います。

僕は京都出身です。京都はご存知のように平安の都、平城京の奈良と共に、歴史的価値は大阪より優れていると思っていました。そして今大阪に暮らして10年以上が経過すると、不思議なもので大阪の歴史的価値も京都以上に素晴らしいと感じるようになってきました。

僕の住む地域の氏神様は生國魂神社です。この生國魂神社に祀られている神様は日本の国家全体を守護してくださる神様です。初代神武天皇が難波の地で神事をおこなったという記述が古事記あり、その場所が生國魂神社であると伝えられています。2650年ぐらい生國魂神社は鎮座されていらっしゃるとうことです。平安京遷都からは1225年です。平城京遷都でも1309年です。倍以上長い歴史が生國魂神社にはあります。

歴史的価値がという表現をあえてしましたが、大阪、京都、奈良等々そんな小さな地域で価値を比較することがクダラナイことと皇紀を勉強すると気がつきます。生國魂神社の歴史は日本人の歴史です。京都や九州や北海道もみんな含めた日本の歴史です。京都が奈良が大阪がという細かい価値比較はあまりに近視的です。皇紀は2679年続いているのです。

皇紀が2679年つづいて、令和天皇が第126代です。この歴史の一番の価値は、僕達日本人それぞれみんなに126代先のご先祖様がいらっしゃった証明です。それぞれのみんなの個人の家系図は残ってはいなくても、皇紀は国民の代表としての天皇家の家系図です。詳細には世代の数の前後はあるでしょうが、神武天皇と同時期に日本には国民も一緒に生活していました。

国家が攻め滅ぼされり滅亡していたなら、同時にご先祖さまも絶えていたかもしれません。しかし日本は2679年存続している国家です。僕達それぞれみんなのご先祖さまも皇紀と同じだけは必ずつづいて現在の僕らに繋がっている…この壮大な浪漫と魂の継承に感謝しながら、新しい時代を迎えたいと思います。

冒頭引用文は「龍神祝詞 天之叢雲九鬼サムハラ龍王神様」の最後の結びです。

土曜担当…佐々木秀彦



 4月26日(金)
「ブルーエッジ」   金曜担当…佐藤成亮
 


先日、佐々木さんのブログのタイトルが青淵でした。
気づけば私は、今週は渋沢栄一さんの本を読んでおりました。

読んでいる本の原書は渋沢栄一さんの『青淵百話』というタイトルで、竹内均さんが解説を入れられ 「人生の急所を誤るな!」というタイトルで1996年に出版された本になります。

そして、先日の佐々木さんのブログにも記載がありました『青淵』という意味は渋沢栄一さんの屋号、つまりは、ペンネームであると本の中にも書いてありました。

他にも本の中には、
『真の楽しみは心の持ち方を第一とし、物質的満足を得ることを第二とし、結局、精神と物質との中和を得たものが、すなわち人生の目指す楽しみというものであろう。』
とありました。

心の持ち方として、足るを知るという自分自身の欲望を充足させることはなかなか難しいことですが、『ないない尽くしの人生』よりも、『あるある気づく人生』の方がはるかに幸せだと思います。

この『あるある気づく』というのは、今ある状態をどんなに小さいことでも感謝することから『あるある』と気づいていくのだと思います。そんなに大層なことでなく、大小さまざま、身近に幸せはたくさんあると思います。

例えば、「今日もごはんが食べられてありがたい。」「好きな本が読めてありがたい。」「お酒が飲めてありがたい。」「学ぶ仲間が周りにいて刺激を受けられてありがたい。」「仕事ができてありがたい。」などなど、少し思い返すだけでもありがたいことはたくさんあり、幸せであることに気づいていきます。

このように、感謝することで心の持ち方を整え、物質的満足を第二としバランスをとり充足させていこうと思います。

金曜担当…佐藤成亮



 4月21日(日)
「マインドフルネス」   日曜担当…八木正典
 

ハーバードビジネスレビューのマインドフルネスを読んでおります。

研究によれば人は起きている時間のうち、約47%を実際に取り組んでいること以外の何かについて考えながら過ごしているそうです。多くの人は、「自動操縦」状態で動いているのです。

マインドフルネスは、集中と感知によって「今、この瞬間を」を意識することによって、必要性の高いものを選択し、より集中し、それによって長期的充足感を持つことが出来るということです。

本にはマインドフルネスの様々な効用が書かれていて、なぜ多くの企業や多くの方が取り組まれているのかがよくわかります。

私も2016年に本心塾の縁で、尊敬する方から毎日瞑想を行うといいよと教えられて、それから朝と寝る前に10分程度の瞑想を行っております。考えてみれば2年半ぐらいになります。

最初のころは、仕事につかえるとか、自分の生産性が上がっていいという邪心もあったものの、最近は毎日落ち着いて一定の時間坐り、頭の中を空っぽにすることが気持ちいいからやっているという状況になっています。

引き続きゆったりした気持ちで瞑想の良さを味わいつつ、事上磨錬で日々の一瞬を大事にし、多くの方と喜びを分ちあえるよう意識していきたいと思います。

日曜担当…八木正典



 4月20日(土)
「常識」   土曜担当…佐々木秀彦

『ムリだと思ったら、3日間限定で頑張ってみる。もしそれでも結果が出なければ、計画そのものを見なおす必要がある。感情的になりすぎたときは、その3日間を冷却期間にして、3日後に改めて考える』(矢吹紘子・99歳ユダヤのスーパー実業家が孫に伝えた無一文から大きなお金と成功を手に入れる習慣)

平成もまもなく終了します。新しい時代に生きるためには、過去の常識は捨て去るのが正しい道です。

特に何という思いも無く、引用文の書籍を図書館で借りました。15冊ぐらい借りた中の1冊です。ぶっちゃけ勢いというか、ついでというか、…特に思い入れは無く借りたのですが読んでみました。かなり面白かったです。この99歳のスーパーユダヤ人が孫に伝えたのは、けっこう儒教的なお話でした。そういえば、日本人のルーツはユダヤ系だとバブル時代に誰かから聞いたことがありました。僕個人的には日本人の根源がユダヤ人だという説には、お腹でお茶を沸かすくらい否定的ではありますが、この本のスーパー実業家が孫に伝えたことはすべて納得できて、儒教と価値観が繋がるお話ばかりでした。

この本を読んで初めて、ユダヤ人に関してネットで調べてみました。こういうのが差別意識と言われれば否定はできませんが、ユダヤ教・ユダヤ人に関して僕は完全に見ないようにして避けて通っていました。インターネットで検索したのもこれが初めてでした。結果…よくわかりませんでした。ネットで調べると、それが間違ったことでも正しいように決めつけた記述があり、それに追随する常識がどんどん出てきて、結果そういうイメージを植え付けられます。しかしユダヤ人に関しては軽く検索した程度ではチンプンカンプンになってしまいします。このチンプンカンプンな印象こそ、ユダヤ人の現代の正しい立ち位置のような気もしました…

この本の中で『常識』というのを99歳のスーパー実業家は孫に丁寧にかつ100%否定して伝えておりました。人間は3次元世界で生きています。平面しか見てないような社会通念に縛られているから、何も生み出すことないのではないか???360度の角度すべてからそのモノゴトを精査することがまず第1のスタートだよというのが99歳のスーパー実業家のお話でした。

日本人とはこの日本に住んでいるというのが基本です。ユダヤ人というのはユダヤ教という宗教に生きているというのが基本です。極論日本に住んでいる、もしくはそれなりに日本に関係していれば、いかなる宗教に信心していても日本人です。同様に極論ユダヤ人は地球上どこに暮らしていて、どこの言語を遣っていても、ユダヤ教を信心していればユダヤ人です。

僕が日本人という自覚と誇りをもつなら…ユダヤ人というカテゴリーとは違うことをまず認識しておく必要はあるかと思います。祖先・地域が当然に同一なのは、世界常識として特異である。皇紀2679年は世界最長であること、その特殊な価値観は、日本では常識でも、他国ではありえない非常識であるという現実を認識おくことはとても重要と感じました。明治時代の45年間で日本が世界の列強国に進化した現実。第2次世界大戦での敗戦にもかかわらず、戦後数十年で世界トップクラスの経済大国に躍り出た現実。詳細を突き詰めれば日本は宗教の自由が憲法で保証されています、しかしながらお正月の初詣や、お葬式や、初節句や、お彼岸やお盆等々、別宗教でもまぁまぁそこそこは容認していただける文化でもあります。

日本には世界中から多くの外国観光客が訪れます。しかし隣国の政治家は日本を誹謗中傷します。さらにしかしその隣国からも多くの観光客が訪れています。国家、思想、宗教、、、人間の根源は突き詰めれば裸の人間です。

土曜担当…佐々木秀彦



 4月19日(金)
「一歩進んで二歩振り返る。」   金曜担当…佐藤成亮

先日から月二回の新月と満月は意図的に食を抜いてみようと思い、ファスティングしてみて感じたことを書いてみたいと思います。

・そもそも誰がご飯を三食食べるって決めたの?と思ってしまった。

→気になったのでこれをネットで検索すると、『一日二食の慣習が崩れ、一日三食が一般に行われるようになったのは、元禄年間(1688~1704)の時といわれている。』や、『エジソンが、パンを焼くトースターの発明をした事をきっかけとし、トースターを売る為と、電気の需要を高める為に、「1日3食」を宣伝したとされている』という陰謀論なのか、と思うようなものまで出てきました。
何食(何回)たべねばならない、と自分の中での過去の習慣から来る「ねばらない」と思い込みで食べる事はどうなのかと思いました。
ここはあえて『何を食べるかより誰と食べるか?』と食事の回数の斜め上をいくロマンチックな路線を目指すのも良いかと思えてきました。

・ご飯食べた後に消化のために、頭にある血が、お腹にいかないので、眠気が抑えられる。

→眠たくなるのは血が消化の手助けをするために、頭の中の血までが積極的にお腹に行き、なかば頭が貧血状態となるから眠くなる、と健康関連の本で読んだことがあります。食べないことでお腹に血が集中しないので頭がクリアな状態を保てます。
(余談ですが、昼間の眠気は、我慢するよりコーヒーを飲んでの15分寝るに限ります。コーヒーのカフェインが10~20分くらいで効いてくるので割合にすっきり起きられます。)

・集中力が増す。

→血流が安定するからだと思いました。

・疲れにくい。

→これも血流が安定するからだと思いました。

・お腹が軽い

→お腹に何も入っていないのでお腹周りがすごく軽くスッキリしたように感じられます。

・ふだんいろいろなものを不自由なく食べられていることへの感謝の念がわく。

→意図的に食べないことで当たり前に食べていることがいかに恵まれたことなのかと思いに至り、感謝の念が自然にわいてきました。

・効率だけで考えると、食への一連の流れは、お腹がすく、何を食べるようかと考え、準備し、食べて、片付けして、消化して、排泄して、と結構時間をついやしているものなんだと気がつきました。
だからといって、食べないでおこう。とは全く思いませんが、もう少し考えて食べるようにしたほうが環境にも体にもお財布にも優しくなれると思いました。

~まとめ~

食について、食事の内容や食べ方に対して、食べることをやめてみることで、立ち止まり、ふと考えるきっかけを持つ時間ができることは良いことだと思いました。食だけではなく、日々の学びにおいても、なんでも取り入れるだけでは消化不良になるので、立ち止まって、振り返る時間やきっかけを意図的にもつようにしていこうとも思いました。惰性ではなく、自分の立ち位置やどこに向かっているのかを考える時間をもつことはとても大事なことなのだと。こういった一歩進んで二歩下がる、ではなく一歩進んで二歩振り返ることで、気づきを得て、成長につなげていきたいと思います。

引き続き無理なく月二回ファスティングを楽しく続けてみたいと思います。

金曜担当…佐藤成亮



 4月13日(土)
「青淵」   土曜担当…佐々木秀彦

『子温やかにして厲し、威あって猛からず、恭しくして安し』(論語・述而第七)

孔子の人格を弟子が表現している文言ですが「温やかにして、而も厲しい、威あって而も猛からず、恭しく而も安し」と「而」をあえて「しかも」という読み方で入れる方がより理解し易いと平澤興先生は解説されていらっしゃいます。

渋沢栄一が一万円札の肖像画になるということです。僕は渋沢栄一という人は徳川慶喜の戦略を実行しつづけた方だと思い込んでいます。

渋沢栄一は幼少期より学業・剣術に優れた子だったようで、江戸幕府の名門一橋家へ士官が叶いました。しかし勝手番に配置されたため武士として認められるチャンスすら無い。そこで渋沢栄一は、慶喜が毎朝乗馬の訓練することをチャンスと捉え、自身も毎朝馬と一緒に走って、慶喜へ自分の考えや思いを話す、毎朝それをやる。そういう栄一を慶喜は見どころがあると感じて、渋沢栄一の人生は拓けていったといいます。

渋沢栄一は実に多くの会社を起業しました。ありとあらゆる業界の事業です。その全ては国家の発展と国力の充実を目的にしていました。社会貢献に関しても相当に尽力しました。この発想力と実践力は、今で言うなら天皇家的価値観です。当時でこの発想があったのは開国のために大政奉還をした徳川慶喜です。そして渋沢栄一はこの徳川慶喜の信頼する家臣でした。大政奉還後の徳川慶喜は表に出て活動することはありませんでした。渋沢栄一が事業者としてすべてを実践したからではないでしょうか…。もちろん僕の勝手な空想の結論で、そんな証拠はどこにもありませんが、政治家になることを拒否しつづけ、私的財産を築きあげて財閥になるということも拒絶した渋沢栄一の気概は、普通の人のそれとは思えないほどあまりに高尚な境地です。薩長土肥の志士の気概も相当に凄かったとは思います。ただ渋沢栄一の裏には常に徳川慶喜がいたとすると、僕にはすべてが納得できるのです。

渋沢栄一は陽明学者でした。山田方谷の愛弟子三島中州とはかなり懇意にしていました。幼少期には四書五経と同様に頼山陽の「日本外史」も熱心に学んだということでした。そして、渋沢栄一は3つの魔を持っていたということです。「吸収魔」「建白魔」「結合魔」。学んだことを見たことを吸収しつづけ、物事を企画、立案、建白しつづけ、人材を発掘し、それを結び付けつづける。すべてをトコトン徹底し、事が成るまでやめない、その情熱は狂気に近く「魔」としか言えないということでした。

「青淵」とは渋沢栄一の「号」です。渋沢栄一と言えば「論語」です。「論語」も含め、これからもっと渋沢栄一を勉強してみたいと思います。そしてさらに徳川慶喜に繋げていければ楽しいなと思います。

土曜担当…佐々木秀彦



 4月12日(金)
「ホームページ」   金曜担当…佐藤成亮

先日の大阪城公園でのお花見は気候も良く、満開の桜の中、本心塾のメンバーと語り合う
ひと時がもて、有意義な時間を過ごすことができました。

昨年のお花見を思い返すと、桜が散っており、非常に寒い日に当たり、
これはこれで思い出になって良かったのですが笑、今年もものすごく寒いんだろうなと
予想して暖かめの格好で参加しましたが、よい意味で裏切られました。

さて、来月から潜学講座第7期の講義がはじまります。はじめて、講座を担当させて頂くにあたって、
人物は大塩中斎をテーマに掲げております。

最近の読書は、大塩中斎の洗心洞箚記やいろんな方が書かれた大塩氏の解釈本、はたまた大塩氏の漫画本
などあり、それぞれ目を通して行っております。

近々に学びを深めるため、大塩氏のお墓や資料館に足を運び謦咳に触れていきたいと思います。

また、4月からホームページの管理を任せて頂くこととなりました。至らぬところもあるかと思いますが、
少しずつ更新を行っていくことで流れをつかみたいと思います。

ブログに関しても、みなさまの意見を参考に、湧くわくの要素に一灯ともして参りたいと思います。



金曜担当…佐藤成亮



 4月7日(日)
「花見」   日曜担当…八木正典
4月の潜学講座は昨年に引き続き大阪城公園での花見でした。

満開の桜を見ながら、本心塾のメンバーと語り合うことのできる楽しい時間でした。
寒くて大変だった昨年と違って春の陽気の中でゆったりとした時間を過ごせて、本当に日本で生まれてよかったと感じる時間です。
持ち込まれたフードやドリンクも素晴らしいもので、堺で40年以上続く鰻の名店「う玄武」さんの鰻や皇居でしか買えないという「大吟醸 御苑(みその)」、ルアイのバターとバゲットをはじめとしてコロッケあり、ケーキあり、フルーツありと五感が刺激されるものばかりでした。
一緒に過ごす時間を充実したものにしようと参加者の思いがあふれていて、有難く、豊かな時間を過ごすことが出来ました。

来月からいよいよ潜学講座第7期の講義がはじまります。
「朋あり、遠方より来たる、亦楽しからずや」とありますが、本心塾を通じて出会うことの出来た同じ思いを持った人と多くのことを学び、語り合うことの喜びを感じていきたいと思います。

日曜担当…八木正典


 4月6日(土)
令和   土曜担当…佐々木秀彦



土曜担当…佐々木秀彦


 4月5日(金)
ファスティング   金曜担当…佐藤成亮
四月に入り、行く先々で桜を楽しめ、改めて日本に生まれてよかったなぁと感じます。

三月の繁忙期をのたうち回っているうちに、いつの間にか四月になっておりました。

次から次に、振りかかってくる仕事に、思ったようにいかないことがたて続きに続くので、途中から反対に面白くなってきて、状況がコントロールできないのなら少しでも楽しめる要素見つけて楽しもうと考えを変えて取り組むようにしました。

最近、読んだ本の中の言葉に、

『タフでなければ生きて行けない。
やさしくなければ生きている資格はない』
レイモンド・チャンドラー(アメリカの小説家、脚本家)


とありました。

打たれ強くタフさがなければ生きていけない。しかし、タフに生き抜くために人間的な繊細さを犠牲にしてもいけない。もともと人生とは未解決の問題を背負って生き抜いて行くと二律背反をいかにこなすかが大事である、と。

タフに生き、繊細さをも大事にするには、今のおかれた状況に腰を据えて楽しんで取り組んでいくことで達成できるのでは、と思います。

四月から新しい習慣として、新月と満月の月二回、胃を休める日にしようと考えております。この習慣は体に何かあったから、ではなく、この飽食の時代、小腹が空いたら何かを食べることがクセづいており、ひどいときはお腹がすいてなくても食べるということもたまにあります。

自身の胃を休めることと普段あたり前に食べている食べ物に対して感謝する一日として、習慣化して取り組んでいこうと思います。

金曜担当…佐藤成亮


 4月1日(月)
無題   月曜担当…池田光
お久しぶりですが、みなさま、お元気のことと思います。
いよいよ、4月。
新体制での「潜学講座」のスタートですね。
さらなる発展を祈念しております。

さて、ぼくの近況をお話しします。
いつもと同じように、本づくりをしています。
■5月中旬に発売予定の「中村天風」本の校正。
■淘宮術ガイドブックづくり。

まず、天風本ですが、2月に執筆。
そして、3月には、へとへとになるくらい校正を頑張りました。
「この本を、ぼくにとっての天風本入門書の決定版にしたいな」という思いがあります。

最近、出版されている天風本の解説本を見ると、その内容は面白くないのですね。
数十年前の解説書は、けっこう面白かったのです。
そこで、なによりも、面白い本にしようと思いました。
しかも、役に立つ本であること。
つまり、「面白い×役に立つ」という掛け算で、初心者をぐんぐん惹き込んでいける本を書きたいと考え、そんな思いで作り込んでいきました。

担当してくださったのが、ぼくにとっては初めての女性編集者で、きめ細かな編集をしてくれました。
斬新なタイトルをつけてくれました。
また、手軽に手に取れるサイズの本で、気持ちがいい装丁にしてくれました。
紙面のレイアウトも分かりやすくしてくれました。
細部にまで神経を届かせてくれました。
5月中旬の発売ですが、納得できる一冊になりそうです。

淘宮術のほうは、2色刷りのガイドブックにしようと決めました。
デザイナーさんと徹底的に本文のレイアウトを作っています。
フリータイムでカラオケルームを予約し、その部屋にパソコンを持ち込んで作業しました。
隣から、大音量の女子高生らしき歌声が聞こえて、なかなか集中できなかったのですが、進みだすと気にならなくなり、昼前から始めて夕刻までぶっ通しでやりました。

フリータイムの終了まで、2時間余り時間が残ったので、デザイナーさんと二人で久しぶりのカラオケをしました。
翌日は疲れて、二回昼寝をしてしまいました。

こうして3月が終わり、4月を迎えました。
4月は、淘宮術についての執筆が山場を迎えます。
これまで蒐集してきた淘宮術関連の本が百冊以上ありますので、主なものを読みたいと思います。
中には、手書きの本や、明治時代の写本などもかなりあり、どこまで読めるかわかりませんが、頑張ります。
手書きの本の頂点に立つのは、淘祖の直弟子の飯田勝美が、徳川慶喜に献上した手書きの本です。
15代将軍に献上しただけあって、立派な装丁で、しかも題字を徳川慶喜が書かれているものです。
神田の老舗古書店で、ガラスケースの中に特別展示されていたものです。
「高いなあ」
と思いながらも、将来のために購入しました。
その将来が、いま、やってきたわけです。
ひたすら、淘宮術に立ち向かっていきたいと思います。

では、みなさま、今回はここまで。
また、お会いいたしましょう。

月曜担当…池田光



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