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湧くわく本心塾は互師互弟で、志を高め合おうとする集まりです。


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湧くわく本心塾は、互師互弟で、志を高め合おうとする集まりです。
儒教や天風哲学などの教えをベースに、さまざまな先哲の叡智に共通する真理を学び、また実生活で実践することで、塾生一人ひとりが自らの人間力を向上させていきます。
そして、各自がそれぞれの持ち場で「一隅を照らす人」となることを目的としています。

トピックス

  • 湧くわく通信第4号発刊
  • 照隅ライブラリー第4弾『ブッダの言葉〜最古の原始仏典「アッタカヴァッガ」を読む〜』 発刊
  • 照隅ライブラリー第3弾『禅の言葉〜随処に主と作(な)れ!』発刊
  • 照隅ライブラリー第2弾『論語 人間を磨く言葉』発刊
  • 照隅ライブラリー第1弾『天風哲学の基本と実践 わが師中村天風に学んだ心身統一法』発刊
  • CD『中村天風から教わったお鈴・ブザーを使う瞑想法』制作

わくわくブログ新着情報

【担当】月曜…池田光、火曜…柿原まゆみ、水曜…冨樫功、木曜…西端努斗夢、
    土曜…佐々木秀彦、日曜…八木正典


 4月22日(日)
無題   月曜担当…池田光



天風先生の『安定打坐考抄』には「理入」が説かれた文章があるのですが、
この文章から「理入」を定義するのは、とても難しいのです。
漢字を一部ひらがなに置き換え、句点を加えて掲げます。
いかがでしょう。この文章から、理入の何たるかが読み解けるでしょうか。

【天風先生が「理入」を説明した言葉】
理入の方を「一切衆生は、本来如来の智慧徳相を具有する」と説かれた。
この意味をひっくるめていうと、
「人は各自の本分に安着せよ」
という事で、人間元来生れると同時に、本分なるものを先天的に有しているのだから、他を探すにも、また求むるにも及ばないというのである。(中村天風『安定打坐考抄』天風会)


仮に、この文章から「理入」の定義を導き出してみましょう。

■第一段階として、次のように書き換えます。
@「理入」とは、「一切衆生は、本来如来の智慧徳相を具有する」ということで、言い換えれば「人は各自の本分に安着せよ」ということである。

A「人は各自の本分に安着せよ」というのは、人間は「本分なるものを先天的に有している」からで、したがって「他を探す」必要も「他に求める」必要もない。

■第二段階として、さらに書き換えます。
@理入とは、もともと具わっている「如来の智慧徳相」=「各自の本分」に落ち着くことである。

A「如来の智慧徳相」=「各自の本分」は生得的に具わっているから、これらを自分以外に探したり求めたりする必要はない。

■第三段階として、次の仮説を立ててみます。
「如来の智慧徳相」=「各自の本分」とは何かというと、これが「理」である。
すると、理入とは、理に入るということで、「各自の本分(理)に安着する(入)こと」となる。
ところで、本分とは、生得的に具わった根本の性質であり、「本性」と言い換えうる。

■理入の定義
理入とは、本性に落ち着くこと=本性を自覚すること=本性になり切ることである。

以上は、ひとつの思索遊びです。
さて、あなたなら、「天風先生が『理入』を説明した言葉」をどう解釈されるでしょうか。
『中村天風 「心の力」瞑想録』では、この文章をぼくなりに解釈しました。
校了するまで、いまも考え続けています。

月曜担当…池田光


 4月22日(日)
「具備すべき資性」   日曜担当…八木正典
大橋武夫さんの統帥綱領を入手しぼつぼつと読み始めております。
日本の参謀本部や陸軍大学校の英才によって東洋、西洋の兵書を含有した日本独自の指導書です。敗戦時にいったんすべて焼却されたものの、その後多くの方の記憶を持ちよってまとめ上げたものだということです。
その中にある文章で次のようなものがあります。
「将帥の具備すべき資性としては、堅確強烈なる意志及びその実行力を第一とし、至誠高邁なる品性、全責任を担当する勇気、熟慮ある大胆、先見洞察の機眼、人を見る明識、他人より優越しありとの自信、非凡なる戦略的識見、卓越せる創造力、適切なる総合力を必要とす。」
力強い言葉です。今でも十分に通用するどころか、今だからこそ必要とされているものかもしれません。
具備すべき資性を自分がどれを持ち得ているのかを振り返るととともに、少しずつでも高いレベルに向けて日々意識していきたいと思っています。

日曜担当…八木正典


 4月21日(土)
大学   土曜担当…佐々木秀彦
『心焉に在らざれば、視て見えず、聴きて聞こえず、食いて其の味を知らず。此れを身を修むるには、其の心を正しうするに在りと謂う』

今期の潜学講座は池田塾長の『大学章句を読む』の講義があるということで、大学を素読してみますと上記誰もが知っている文言に出合いました。ここで僕は「見て視えず、聞きて聴こえず」と思い込んでいた自分に気づきました。これは頗る大きな勘違いだと感じます。恥ずかしながら『大学』も『論語』も素読どころか、本を開いたこともないというのが正直な僕でした。『伝習録』や『西国立志編』は読んでいて、四書五経は全く手をつけていないのも可笑しな話だなというのが、僕が初めて『大学』を素読した後の率直な感想でした。

先日、仕事でたまたま近くを通ったので、四條畷神社へ参拝してきました。どっしりと迫力のある由緒ある神社ですが、ここには『有源招魂社』も御鎮座されています。内外古今の先哲先人の御霊が合祀されて平成19年に建立されたということですが、ここに若宮幾馬顧問の名前が刻まれた石碑を発見しました。論語普及協会や伊與田覺という碑と一緒に並んでこの祠を囲んでおりました。話としては若宮顧問と有源招魂社のつながりは存じておりましたが、澄んだ空気に凛とした祠の前に立って『若宮幾馬』というお名前を発見した時の清々しさは本当に心地よいものでした。「湧くわく本心塾」も、「安岡正篤」も、「神社」も、「大学」も、全部が見事に繋がりました。

『視て見える、聴きて聞こえる』ように…この間違いの修正こそが、僕の場合の『心を正しうするに在り』に繋がる大きなきっかけになるのかもしれません。

土曜担当…佐々木秀彦


 4月19日(木)
比重の大きな人間   木曜担当…西端努斗夢
昨日は、毎月恒例の勉強会に参加させていただきました。そこで印象に残ったのは、中里スプリング製作所・中里良一社長の「私は、小さくても比重の大きい会社作りを普遍のテーマにしています」という言葉でした。
中里スプリング製作所は、群馬県高崎市にある社員数21人のバネメーカーです。比重とは、単位体積あたり質量で、比重の大きい会社と聞いて私は、単に社員一人当たりの売り上げや利益の多い会社かと思いましたが、目指していたのはそれだけではありませんでした。品質やサービス、地域社会に対する貢献度など、比重の大きさを追求する部分は、幅広いのです。
そんな話を聞いていて思ったことは、人間も同じだということ。大きな人間になれればいいのですが、なれなければせめて比重の大きな人間になろうと思いました。
もちろん私の場合、大きくするのは比重だけで、体重はこれ以上増やさないように気を付けます。

木曜担当…西端努斗夢


 4月16日(月)
『中村天風 「心の力」瞑想録』   月曜担当…池田光



拙著『中村天風 「心の力」瞑想録』の予約ページを、Amazonに開きました。
詳しくは、Amazonをご覧ください。
6月5日の発売予定です。

この本は、わずか百ページにも満たない小さな本ですが、ぼくの中間決算の書です。
いちばん書きたいことを書きました。
ぼくの個人史において、「これが書ければ悔いは残らない」というレベルまで達していると思います。

この本は、数年にわたる「湧くわく本心塾」での講座がベースとなっています。
「理入と行入」という学びの問題や、「心の力」の解釈については、講座で何度か取り上げてきたことです。
とくに、「理入と行入」については、まともに取り組んでから5年以上が経過し、この間にある程度の原稿を書いては没にしたりと、一貫して考え続けてきたテーマです。
ようやく「これで良い」というレベルに達しました。
塾生のみなさまには、この場をおかりして、御礼申し上げます。
もし、本塾がなければ、この本を出すことはできませんでした。

7月14日の潜学講座では、この本をベースにしたお話をさせていただきたいと思います。
もっとも、ぼくのほうは、その頃には次の本に取り掛かっていることでしょうが。
次の本も、やはり中村天風の本で、言葉集の決定版を書きます。

ほんとうにありがたいと思うのは、天風先生の帰霊50年となる節目の今年に、ぼく自身の集大成の時期を迎えることができそうだということです。
天風哲学に出会った頃の二十代のぼくには、まったく夢のような出来事です。
10冊ほども天風哲学の本を発表することになるとは、思ってもいませんでした。
また、たまに、天風先生と通じあえたと思えることもあるのです。

月曜担当…池田光


 4月15日(日)
「いま、ここ、自分」   日曜担当…八木正典
最近読んだ本の中に自分自身でコントロールできるのは、いま、ここ、自分だと書かれていました。
安岡正篤先生も「東洋学発掘」で、現在我々が喪失されているものを次のように語っています。
「尊い喪失とは何か。個人です、自己です、魂です、自己の主体性です、真の自由です。現代の我々は、主人公、すなわち自己自身主体性を失っておるのです。」
自分に振り返ってみると、膨大な情報が溢れる状況の中で周りに影響をされて、主体的な動きが取れていないことがあまりも多く発生しています。
自分の今の境遇、今の立場で出来る最大限の力を注いでいく。それが周りに広がって、回りまわって社会の何かしらに役立つ。そんな形を少しでも目指していきたいと思うのです。

日曜担当…八木正典


 4月14日(土)
青眼   土曜担当…佐々木秀彦
『竹林の七聖人の一人に、阮籍という人物がいる。この阮籍は気に入らない客には、眼を剥き白眼で対したが、気に入った客には青眼で応対したという故事がある。しかしお前につけた「青眼」は、そのような気性狷介なものではない。剣道に青眼の構えというものがある。切先は相手に冷たく向けられている。この青眼を中段の構えともいう。大上段に振りかぶった威圧的な構えに比べて、極めて静かであるが、湖水の如き底の知れぬ怖ろしさを秘めておる。迫られれば、退き、退けば、迫る。融通無碍の自然体のなかに、裂帛の気合が剣にある』

『さむはら(文字はサムハラ神社のお守りに書かれている難しい字)』という本を図書館で見つけて読んでいます。飯尾憲士という人の書いた5編の短編小説から成る本の、最終編がこの「さむはら(難しい字)」で、その主人公に名前の由来を父親が晩酌しながら説明しているのが上記引用文です。剣道は「正眼の構え」と普通は表記しますが、そこを「青眼の構え」としているところに作者の思いを垣間見れるような気がします。

人間には生まれてから死ぬまで、さまざまなシーンの積み重ねだと思いますが、この作家は死を覚悟した人間心理を深く掘り下げることで、命の凄さを表現されていらっしゃる方という印象を持ちました。確かに健康体で暮らしていると、その健康が当たり前になって、健康に関しての感謝がついつい薄くなりがちなのは誰しも同じかと思います。僕も昨年ヘルニアで歩けなくなった時期があったので、今はまだ普通に歩けることをありがたいことだと思い、腰に毎朝の水垢離で感謝を伝えておりますが、水垢離をしていなければ、毎日の感謝を腰に伝えるなどということはおそらく無かっただろうと断言できます。

この作家の登場人物は結核病棟に暮らしていても、極貧で介護と仕事を余儀なくされていても、戦時中という状況の中でも、自分の世界を精悍に澱みなく命を全うする姿勢は貫かれております。「青眼」さんは、大正14年生まれで戦争時点では士官学校の生徒でしたが、結果戦地に行かず、その後も廻りは波乱万丈であったのに青眼さんは地味に、しかし力強くしっかりご長寿となっています。士官学校の寮に入る前に母親から贈られた手書きの「さむはら(難しい字)」と書かれたお守りは、娘がアメリカで暮らすと旅立つ時に手渡したという内容になっておりました。

本は意識的に読むようにしておりますが、小説を読むのはかなり久しぶりです。この作者の描く世界は色が暗いので正直読むのはこれで最後になるだろうと思いますが、偶然今、手に取ったのも、きっと今、読まなければならない何かがきっと隠されているのだろうと、この本だけは5編しっかり読了する予定です。

土曜担当…佐々木秀彦


 4月12日(木)
 あたり前の奇跡   木曜担当…西端努斗夢
奇跡には、不思議な奇跡とあたり前の奇跡の2種類があるそうです。
事故に遭って奇跡的に助かる人は確かに凄い。けれど、事故に遭わない人の方が本当はもっと凄いのかも知れない。
不思議な奇跡を引き起こす何か訳のわからない力を求めるより、日々を無事・安心して過ごすことができる自身の内に秘めた本心の力を私は求めていきたい。

木曜担当…西端努斗夢


 4月9日(月)
 無題   月曜担当…池田光
六月の初旬に、『中村天風 「心の力」瞑想録』(本心庵)を出版する予定です。
書き始めて、ほぼ一か月。
昨日、ようやく書き終わりました。

最後の一週間ほどは、かなり覚醒してしまい、睡眠が少なくても平気になっていました。
数時間ほど寝ると、起きだして執筆するという状況になっていたのです。

これでは身体がもたないと思って、寝る前に強めのアルコールを飲むのですが、覚醒してしまうと効果なしです。
また、身体をゆるめようとして、自律訓練法で四肢末端の力を抜いていくのですが、スイッチが入ってしまうと、この方法も効果がありませんでした。
脱稿したので、これでようやくゆっくり眠れます。

この本は、ぼくが書きたいと思っていた悲願の一冊です。
涌くわく本心塾での、数年間にわたる講座をベースにしています。この準備があったから、一か月で書けたのです。
天風道四十年近くになる中間決算の書でもあります。

さて、これから四月いっぱいをかけて、じっくり校正します。
そして、五月の連休が明けたら、印刷・製本にかける予定です。
その後は、天風先生の著述書を再読すると同時に、次の本をイメージしていきます。
昨年、『安岡正篤 運命を思いどおりに変える方法』(イースト・プレス)を出版しました。
次の本はその姉妹本で、ぼくは何冊か中村天風の言葉集を出しましたが、その決定版にしたいと思います。

月曜担当…池田光


 4月8日(日)
「潜学講座」   日曜担当…八木正典
4月の潜学講座に参加してきました。
今回は、適塾見学会with桜花舞の宴で、適塾の見学と大阪城公園での花見でした。

適塾はこれまで恥ずかしながら見学をしたことが無く、学びのいい機会を与えていただきました。
適塾は日本近代医学の祖と言われる緒方洪庵が開設した蘭学の私塾で、大阪大学医学部や慶応義塾大学のルーツです。
大村益次郎、橋本左内、福澤諭吉等のそうそうたる塾生を輩出しています。
適塾の大広間にゆっくりと座って昔の時代に思いをはせると、限られた情報しかない環境で西洋医学の吸収に全力を注ぎ、塾生同士がお互いに学びを深めている光景が目に浮かんでくるようで感動でした。

花見は桜も大部分散ってしまっておりましたので、伸び行く葉桜を楽しみながらの宴です。
予想外の気温で寒さに耐えながらも、お互いがそれぞれ思いやる中で、気持ちよく楽しむことが出来ました。「何をするか」よりも「誰とするか」が大事といいますが、本心塾のメンバーと時間を共有することの楽しさと有難さを改めて感じた次第です。

今年から潜学講座が復活し毎月の開催となります。
引き続き出来る限り本心塾に協力しながら、新たな学びを追求していきたいと思います。

日曜担当…八木正典


 4月7日(土)
 息遊   土曜担当…佐々木秀彦
『陰徳ある者は、必ず陽報あり、陰行ある者は、必ず昭名あり。』(淮南子)

「陰徳陽報」と四字熟語で言われる言葉です。元号「昭和」の出典「百姓昭明、協和萬邦」で示される「昭明」どちらも同じ明るいという意味だそうです。陰徳陽報、陰行昭名。何か救われる気がする言葉です。

安岡正篤師の「人生をひらく活学」の最終稿で熊沢蕃山が登場します。中江藤樹同様に、僕の中でこれから勉強したい人物の一人でもあります。この熊沢蕃山の雅号が「息遊軒」です。礼記の中の学記の「君子の学に於けるや、焉を蔵し、焉を脩し、焉に息し、焉に遊ぶ」という「四焉」からとったもので、学に於ける最後の2つということだそうです。学問というのはまず蔵する、そのままでは何の役にも立たないので脩めて整え磨く。脩するのはいわば勤労なので勤労ばかりでは苦になるから息する、つまり休む。息するように学問するようになると、さらには遊ぶ。学問に遊ぶという境地というところまであるそうです。安岡正篤師は「この遊というのが、東洋のあらゆる学問・芸術の一つの特徴であり、精神であります」と仰っています。

この「四焉」の学を、商売に変えると確かに成り立つ気がします。息するのが生活することで、さらに遊ぶ感覚になれれば、商売に成功したと言っても良いかと思います。おそらくここで一番大切なのは、脩ではないかと感じます。整える、そしてさらに磨く…この作業の繊細さが勝負の分かれ目になるような気がします。商売には修行期間と表現される時期は必ずありますが、この修行に対する認識が間違っていると、修行そのものが無駄な徒労となるのは明白です。修行を整える、磨くという認識をもってすれば大丈夫な人になる訳です。何も解らない…つまり蔵する前に修行してもあまり意味は無さそうです。蔵が先、この順番は絶対間違えてはいけないと、この本を読んで初めて知ったことでした。

この本を読んで、僕は今凄く刺激されているのですが、これも以前に安岡正篤師の伝習録を読んでいる下地がある、さらに潜学講座で陽明学、天風哲学、四書五経等々、各回講師の方の熱意ある講義で、蔵したものがあるからこそ初めてこの本もやっと僕の蔵となる読み方ができるようになったような気がします。この蔵があるからこそ、初めて僕は商売の修行をする権利を得ることができたのでしょう。商売として息はかろうじてしてはいますが、この場合の息というのはおそらく有我無念を指してると思います、そういう意味では僕はまだまだ有我有念で商売をやっています、まだ息の領域には到達しておりません…無我無念までは追及してないとは思いますが、そこまで到達していないのでそこは不明です。遊はどんな感じなのか???今からとても楽しみです。

土曜担当…佐々木秀彦


 4月5日(木)
 花より団子?   木曜担当…西端努斗夢
先週、お花見に行ってきました。桜が満開で最高の気分でした。
その時に私は、「花より団子」という言葉があるけれど「花より人間」だと感じました。
心をワクワクさせるのにロケーションはもちろん重要なのですが、それよりも、誰と一緒に満開の桜を見て「綺麗だね!」と話せるかということの方が私にとっては重要なのです。
湧くわく本心塾では、今週末に『適塾見学会with桜花舞の宴』と題して、江戸時代後期に医者で蘭学者の緒方洪庵が大坂・船場に開いた私塾・「適塾」跡を見学した後、大阪城公園でお花見を計画しています。
もしかしたら、桜の花は散っているかもしれません。しかし、高い向上心を持った仲間や人生の師と思える方々と杯を傾け、心を開いて語り合うことは、優れた書物を読み解くことに匹敵すると私は思っています。

木曜担当…西端努斗夢


 4月2日(月)
 無題   月曜担当…池田光
4月に入りました。
例年ならこのあたりで何か成果物があるのですが、今年は出遅れています。
がんばらねば。

さて、3月下旬に、弊塾顧問の佐々木奘堂先生がイギリスに旅されました。
丸5日間、昼間はずっとブリティッシュミュージアムの「パルテノンの間(ディオニュソス等、パルテノン神殿にあった本物がある)」で過ごし、ひたすら、ディオニュソスからの声に耳を傾けられるのだそうです。

ところで奘堂先生は、関空でスーツケースの鍵を落とされたそうです。
スーツケースが開けられず、無用の長物たなってしまったとして、夏目漱石が亡くなる前の月くらいに作った漢詩を、うろ覚えだとして思い出されていました。

「いろいろ多くの物を持っていた。
だんだんと物を捨てていった。
行き行きて、長物、尽きたり。
いずくにか、我が愚を捨てん。」
漱石らしい、実に味わい深い漢詩です。
長物、余計な物は、どんどん捨てていったけど、最後に残ったものは、
愚かさだけの自分。(この長物は、捨てようもない)
というような意味の漢詩です、と。

ぼくは、さっそく原文を当たりました。
『吉川幸次郎全集』第十八巻にありました。(『漱石全集』を持っていないので。ちなみに、『吉川幸次郎全集』と同じ十八巻に乗っているようです。)
その後、奘堂先生が原文や現代語訳をフェイスブックにアップされていましたので、これを引用します。

■以下、奘堂先生の文章から。
大正5年10月21日に漱石の作った漢詩。

元是一城主
焚城行廣衢
行行長物尽
何処捨吾愚

【書き下し文】
元(もと)これ一城(いちじょう)の主(あるじ)。
城を焚(や)き、広衢(こうく)に行く。
行き行きて、長物(ちょうぶつ)尽きたり。
いずれの処(ところ)にか、わが愚(ぐ)を捨てん。
※吉川幸次郎氏の訓読とは少し違います。

【おおよその意味】
元々、一国一城の主(あるじ)として生まれた。(何不自由なく過ごせる身であった。)
ところが、城が火事で焼けてしまった。一城の主という立場を失い、広い衢(ちまた)、世の中に投げ出された。
世の中を行くうちに、持ち物を売ったりして、長物(余計な物、持っていた物)は、すべて尽きて(無くなって)しまった。
残った、たった一つのもの、それはこの自分の愚かさのみ。これだけは、捨てようにも、どうにもならない。

この漢詩を作った、ちょうど1ヶ月後に、漱石は倒れ、そのまま意識は戻らないまま亡くなります。
(以上が、奘堂先生の文章です。)

ぼくは、この詩をずいぶん昔に教えてもらったことがあります。
おそらく、高校生の頃。
が、いま、奘堂先生の体験を通して、この詩に出会って思うところが多々あります。
それにしても、奘堂先生の体験は説得力がありました。
忘れられない奘堂先生からの説法となりました。

月曜担当…池田光


 4月1日(日)
 「切磋琢磨」   日曜担当…八木正典
子貢曰く、貧しくして諂うこと無く、富みて驕ること無きは如何。
子曰く、可なり。未だ貧しくして道を楽しみ、富みて礼を好む者には如かざるなり。
子貢曰く、詩に云う、切するが如く磋するが如く、琢するが如く磨するが如しと。其れ斯れを謂うか。
子曰く、賜や、始めて与に詩を言うべきのみ。諸に往を告げて来を知る者なり。(学而第一)

組織強化を考えていた時に、相手だけに成長を望むのではなく、自分のみが成長するのでもなく、双方にバランスの取れた成長が必要であると考えているとある言葉が浮かびました。
それが「切磋琢磨」です。切は骨、磋は象牙などを切り出し削ることで、琢は玉、磨は石を磨くことだと言われています。修養によって自らを向上させるのみならず、同じ志を持つ者同士が互いに刺激し合い向上し合うことです。
下村湖人先生の論語物語では、切磋琢磨を人格陶冶の苦心を謡ったものだけではなく、工匠の仕事を楽しむ心、則ち労苦の内に、否、労苦することその事に生命の躍動と歓喜を見出す心が大切な点だと説明しておられます。
お互いを高め合う動きの中に、仕事を楽しむ要素をどこまで組み合わせていくことが出来るのかを意識していきたいと感じております。

日曜担当…八木正典



2017年6月9日〜2018年3月31日

2017年4月1日〜2017年6月8日

2016年4月1日〜2017年3月31日

2015年4月1日〜2016年3月31日

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2012年7月2日〜2014年3月31日