わくわくブログ 2014年4月1日~2015年3月31日

【担当】 月曜…池田光、火曜…坂本欣也、水曜…冨樫功、木曜…西端努斗夢、金曜…小笹正洋、土曜…ゲスト、日曜…八木正典

2015年3月31日(火)
「つぼみ」                                 火曜担当…坂本欣也




先週撮った、桜のつぼみです。


今年はなぜか、このつぼみに心が大いに惹かれます。

咲き誇る桜ももちろんいいですが、これから出てくる宇宙に、心が躍ります。

火曜担当…坂本欣也



2015年3月30日(月)
楽しみます。                          月曜担当…池田光

60歳の誕生日まで、あと2週間強。

昨日、編集していた『禅の言葉』の色校を終えました。
最後の最後に大きなハプニングがあり、
紙面の三分の二を再入校するということになりましたが、
いよいよ出来上がりを待つだけになりそうです。

誕生日までの2週間は、仕事をしないでゆっくりしようと思います。
そして、一日、一日を楽しみます。

3月の最終日は、神戸の教会めぐりをする予定です。
神戸栄光教会
ロシア教会
イスラム教寺院
神戸バプテスト教会
神戸聖ミカエル教会
を巡ります。

4月の最初の日はお酒とお弁当を持って、夙川の桜を楽しむ予定です。
夙川の「さくら道」は昨年も行って、楽しい記憶が残っています。

4月の前半に、大きな古書市があります。
まず、ツイン21で開催される「古書フェア」に行きます。
次に、サンボ―ホールで開催される「ひょうご大古本市」に行く予定です。
僕は、古本の背表紙を見ていると心が癒されます。
高校生の頃から古本屋通いを始めて四十数年。
何百万冊、何千万冊もの背表紙を見てきたわけですが、
本にも人生のようなものがあって、
背表紙を見ている僕の心にいろんな思いが去来するのですね。

あと、漢文をやらないといけません。
唐代の韓愈の文章をここ一年間ほど読んでいるのですが、
先生から新しいテキストをもらったばかりなので数日かけて読解します。

それから、編集のために中断していた読みかけの本を読了します。
そうこうするうちに、今回編集した2冊の本が届き、
すぐに誕生日がやって来ますね。
その日は、近くに住む母が訪ねてきてくれるそうです。
母にしてみれば、息子が還暦を迎えるというのは不思議な感じでしょう。

いろいろ、つまらないことを書きましたが、
あと2週間ほど、楽しませていただきますね。

月曜担当…池田光



2015年3月29日(日)
「睡起偶成」                           日曜担当…八木正典

四十余年 睡夢の中
而今(じこん) 醒眼 始めて朦朧(もうろう)
知らず 日已(すで)に亭午を過ぐるを
起って高楼(こうろう)に向んで 暁鐘(ぎょうしょう)を撞(つ)く

起って高楼に向んで 暁鐘を撞く
なお多くは昏睡 正(まさ)に??(ぼうぼう)
縦(たと)え日暮るるも 醒むるを 猶ほ得ん
信ぜず 人間 耳尽(ことごと)く聾(ろう)すを

王陽明が世の中に対して警鐘を鳴らすために詠んだ句と言われています。多くの人に真理を伝えたい、何とか真理に目覚めさせたいという強い意志と万人の本心良心を信じる気持ちが伝わってきます。
私も朦朧としているどころか「多くは昏睡して」の一人として夢から覚められず、どうしたらいいか日々悩んでいる状態ですが、早く暁鐘を聞いてそれを誰かに伝えられるようになりたいと考えています。それに向けて今日も歩みたいと思います。

日曜担当…八木正典



2015年3月27日(金)
ものの値打ち・・・                       金曜担当…小笹正洋

思い返せば、禁煙をしてからかなりの年月が経ちました。

タバコを断った1997年は、セブンスターが1箱230円でした。
2015年の現在では460円となり、2倍の価格になっています。

東京都の銭湯の入湯料は、同期間で385円から460円へと値上げ。

同じ460円でも、この18年間の価格推移の差は凄いものです。


煙と湯煙がついに同じ価格です(笑)



さて、


先日、古本屋さんに行って2冊の本と出会いました。


1冊は、新渡戸稲造さんの「運命を拓きゆく者へ」

もう1冊は、伊集院静さんの「悩むが花」


この2冊、一見何のつながりも無いようですが、


「今の自分」が媒介役となってつながりを持ちました。

今の自分は、活字に溺れてしまい、何を読んでもうわの空で、
あっち摘み、こっち摘みで、自分が何を学びたいのかも
定まらないでいました。

内容が頭に入っているのかどうかも自信がない状態でした。



そんな時に、ふと手にした2冊から得たもの。


・「運命を拓きゆく者へ」から抜粋

精読するに値する書物を決め、それを出版年数、出版社に至るまで、
反復して精読する。そしてその他の書物はこの標準書の参考、
補助として読むのである。つまり標準書のすべてを頭脳の中に入れ、
他の本から得た知識は、この標準書の補足として用いるのだ。



・「悩むが花」から抜粋

小説というものは、音楽と同じでいろいろあって、その人が好んだり、
心地良かったり、読者の人生、生き方と共振できるものがあれば、
それでもう十分で、わからぬものはわからないで棚に置いておけば
いいじゃないか。
何年かしてまた手にとってみればいい。何かがある小説なら
何十年経っても頁の中で光り続けているものだよ。



あくまでも私自身の中の状況と感じ方ではあるのですが、
素晴らしい出会いに導かれ、救われた気持になりました。



以上、2冊で308円也♪

金曜担当…小笹正洋



2015年3月26日(木)
歴史                              木曜担当…西端努斗夢

先日、歴史の勉強会に参加させていただきました。

古事記、日本書紀を拠り所とし、それに合わない史実は無視をしてきたのが明治以降の日本の歴史。

歴史の教科書やNHKの大河ドラマで語られていることがすべて本当だったと思っていた自分が恥ずかしくなります。
どうでもいいことかも知れませんが、歴史の真実に近づくことで見えてくる世界が変わることだけは間違いないようです。

木曜担当…西端努斗夢



2015年3月25日(水)
聖人の姿                             水曜担当…冨樫功

宮城谷昌光さんという小説家が好きです。

神話の時代から、商(殷)、周、春秋戦国など、中国古典を題材に、多数の長編小説を発表されています。

長編小説はもちろん面白いのですが、短編集(それほど多くありません)が特にお気に入りです。

なかでも「侠骨記」と「沈黙の王」という二冊の短編集は何度も読んでいます。
短編は、気楽に読み通せるので、気分転換にとても重宝します。


「侠骨記」の中に、中国神話に登場する君主「舜」を題材にしたものがあります。

「布衣の人」という作品ですが、個人的にはこれが珠玉の一品だと思っています。


舜は、農民(庶民)から帝になります。
世界の歴史では、庶民から天下を治めるまでに至ったような人は、それなりにいます。
中国で言えば、漢を作った劉邦がそうですし、日本で言えば豊臣秀吉、西洋で言えばナポレオンといった具合です。

権力を得るまでには血なまぐさい闘争があるのが普通です。

しかし、舜は、違います。
帝の位を堯から禅譲されているのです。



庶民の身分から、帝の位を譲られたというのは、
人類の長い歴史からみても他には類を見ないのではないでしょうか。


布衣の人は小説でしかも神話の時代の人物が題材ですが、論語や孟子などからもよく取材されていて、
舜の人となりにほれ込んでしまいます。


どこまでも自分を認めない、わからずやの父に孝を尽くし、
上に立つ者は誰よりも働かねばならぬと自分を酷使し、
民の幸せを願う。

まさに理想の君主の姿があります。


本当に好きな作品です。
儒教の聖人がみごとに現代に浮かび上がってきます。

水曜担当…冨樫功



2015年3月24日(火)
「宇宙の法則」                           火曜担当…坂本欣也

・神道と言うのも、東洋医学というのも、根本は同じものです。(中略)宇宙はすべてバランスの仕組みで成り立っています。
・細胞は自分で生きているのではない。昔からの宇宙の記憶によって生かされているということになります。(中略)神道では神の恵みと祖先の恩によって生かされている。
・まず第一に、生かされているということに感謝しなさい。自分で生きていると思うから病気するんですよ。
・神の波動は感謝しなければお恵みとなって出てこないんです。だから、宇宙の仕組みが科学でわかったら、宗教がわかると説明している。宗教と科学は同じものですよ。
・どう考えても一番最初にある心は、人間をこの地球に誕生させようという神の心だと思われるのです。人間は決して偶然で誕生したのではありません。(中略)特定の意志、神の心、これがなければ地球、人間はでてこない。心がなければ、この世の中に何も出てこないのです。

医学博士(形成外科)から春日大社の宮司になられた葉室頼昭(はむろ よりあき)氏の著書『<神道>のこころ』からの抜粋です。

改めて読み返してみて、天風哲学と通じるものが多くあるなあと思いました。

天風先生も医学を学び、科学にも幅広く精通されていたので、宗教や哲学という観点のみでなく、多方面から生命を解き明かそうとされた点で、お二人は共通していると思いました。

ということは、インド思想、ヨーガ哲学と神道も通じる部分が多いという事も言えます。

上述の書にも書かれていますが、大宇宙は、銀河、星、生物など個別に分かれた小宇宙で形成されていて、大宇宙も小宇宙も根本的な仕組みは同じであるということです。 宇宙からの情報によって生かされているという点でも同じです。

人間の心身も一つの小宇宙で、大宇宙を司っている大いなるもののバランスと同じで、そのバランスが崩れると病気になったり、滅びたりしてしまう。

つまり、このバランスの仕組みが宇宙の法則、摂理であり、万物を創り進化向上させている根本なのではないかと思います。

この仕組みを知り活用することが、与えられた命を生かし切れると、天風哲学はじめ、あらゆる思想や宗教の教えと共通しているところであるのではないかと思います。その宇宙の法則、摂理を、神、仏など、それぞれに応じた呼び方をしているだけで、根本は同じであると思うわけです。

歴史上多くの先哲や偉人がこのことを解き明かそうと、凄まじい努力、修行と探究を続けて来られた結果、私のような凡人が書籍でその教えを読み、また諸先生に教えていただくことで、宇宙の法則摂理に触れる事ができることに、畏怖と感謝の念が湧き出てきます。

火曜担当…坂本欣也



2015年3月23日(月)
増刷                               月曜担当…池田光

60歳の誕生日まで、あと3週間。

ぎりぎり59歳で2冊、次の本が出版されます。
① 佐々木奘堂編著『禅の言葉』(湧くわく本心塾、本心庵)←4月10日発売
② 立花大敬著『2万人の人生を変えた23通の手紙』(イースト・プレス)←4月15日発売
http://www.honsinan.jp/index.html
この2冊は、僕が編集したもので、50代を締めくくる本にしました。

60歳になったら、中村天風先生のことをテーマに何冊かの本を書きたいと思います。
この執筆を支えてくれるのが、上記の2冊になるという予感があります。

どういうことかというと、この2冊は、新しい世界観を示しています。
その世界観は、天風哲学の世界観と同じ側にあると思うのです。

天風先生は、要素還元主義という現在のバラバラな科学的世界観のなかで、
「心身一如」の世界観を教えてくれました。
それは、安生打坐などの行を行っているうちに悟得できるものです。
あるとき、
「世界はつながっている」
と世界観が一変し、
「私は、独りではない」
ということを、身も心も魂も打ち震えるように自分という全体で気づきます。
そのとき、自我の蓋が、ポンと抜けてしまっているはずです。

この天風哲学の世界観を見事に解説したのが、杉山彦一先生でした。
「天風先生は、我が生命は大宇宙の生命とつながっていると悟った」
と教えてくれました。
この世界観を、頭で理解するのではなく、
行ずるうちに体得したとき、
その人は天風哲学の世界観の中にいます。
外から天風哲学を評論的に見るのではなく、
天風哲学の内側から外をながめることになるのです。
杉山彦一先生は、天風先生の新しい世界観をトータルに教えようとした方でした。

僕は、杉山先生を発展的に引き継ぎたいと考えています。
 
天風先生についての4冊目の本となる
『中村天風 打たれ強く生きる100の言葉』には、
秘かにそんな思いを込めました。
が、発行して一年くらいで品切れとなっていました。
数日前、増刷しますという連絡があり、
僕の60歳からの執筆を祝福してくれたような気持ちになりました。
誰もが書かなかった新しい天風哲学の世界を描く。
それが僕の60代の使命のひとつだと思っています。

月曜担当…池田光



2015年3月22日(日)
「功夫」                              日曜担当…八木正典

学は固より己れの心を正しくし、己れの事を修む。然れども己れの心を正しくし、己れの身を修るのみをもって学の至りと為すは、蓋し大人の道に非ず。夫れ身外の虚は、皆吾が心なり。則ち人物は心の中に在り。其の善を為し悪を去るも亦た我が身の事にして、而して其の善を為すも亦た窮り無く、悪を去るも亦窮り無きなり。故に大人は斃れて而る後に休む。故に斃れざるの内は、其れをして善を為し、其れをして悪を去らしむ、便ち是れ功夫なり。(洗心洞箚記84)

(学問はもともと自分自身を修めることである。しかし、自己の陶冶だけが学問の目標でなく、大人として生きるためには社会的な責任を果たさなければならない。自分の外のものは私の心によるし、他者も自分の心によって定義される。善を行い、悪を取り去ることも自分の身の事だが、ここまでやれば善の終わり、ここまでやれば悪の終わりということはない。だから大人は死ぬまで学問を続けるのである。生きている以上善を行い、悪を取り去る。これこそが真の努力である。)

日々学びを続けているつもりですが、学んでいることが自分の思っているほど日常の行動に活かされていないことに愕然とします。事が起こるたびに心が乱れて言葉や行動が乱れます。家族からは「それで何を学んでいるんだったっけ。」という辛辣な言葉を言われることもあり、分かったつもり、知ったつもりになっているけれど十分に身についていないのです。知行合一の難しさを本当に痛感しています。
それでも死ぬまで学びを続ける、善を行い悪を去る努力を一つ一つの行動の中で続けていくということでしか先には進めないのだと思います。いつかはようやくここまで辿り着いたと思える時が来るのを信じて歩んでいこうと思います。

日曜担当…八木正典



2015年3月20日(金)
「言必信 行必果」                       金曜担当…小笹正洋

3月7日(土)の潜学講座での池田塾長の講義からの学びの中で、
田中角栄首相(当時)が、周恩来首相(同)から揶揄された
お話しが出ました。

以前に書物で読んだことを思い出しながら話を繋げていくと、
内容は凡そ以下のようなお話しです。


昭和47(1972)年9月、日中国交樹立に向けて首相就任間もない
田中角栄さんが訪中した際に、交渉相手の周恩来首相から

「言必信 行必果」(言必ず信、行必ず果)

と書いた色紙が田中首相に贈られました。

帰国後、マスコミは「これこそ日中友好のきずな」と大いに持ち上げ、
田中首相の得意満面の姿が新聞紙上を賑わしました。

http://gyao.yahoo.co.jp/player/01061/v00001/v0000000000000000313/?auto=1&rep=2


しかし、これを聞いて

「なんと情けないことか、一国の首相が揶揄されたとは」

と、一人嘆き、周首相の非礼を指摘した人物がいました。


この言葉は、論語(子路第十三:20)に記されており、
「言うことは必ず偽りがなく、行うことは潔い」
人物は、まあ士のうちに入れてもいいが、
こちこちの「路傍の石のような小人よ」と続く。


この人物こそが、歴代宰相や財界首脳の指南役と言われた
安岡正篤先生だったのです。


周首相のような人物を育てた中国の強かさ、
それを見抜いておられた安岡先生の見識。

改めて、凄味を感じる次第です。

金曜担当…小笹正洋



2015年3月19日(木)
本当の歴史                           木曜担当…西端努斗夢

先日、日本史の勉強会に参加させていただきました。

明治以降、日本の歴史は古事記、日本書紀を拠り所とし、それに合わない史実は無視をしてきました。

「日本」という国は、いつ、どうやってできたの?
高天原はどこにある?
天照大御神って?
神武天皇は本当に東征したの?

本当の歴史を知ることが、自国を愛し、他国を敬うことの第一歩だと思うのですが・・・

木曜担当…西端努斗夢



2015年3月18日(水)
国の成り立ちがファンタジー                 水曜担当…冨樫功

日本の神話について勉強する機会がありました。


中国では、孔子や諸子百家が活躍する時代でも、日本ではまだ神話の時代です。

そこに登場する神様は、全知全能ではなく、人間臭い八百万の神様たち。



理路整然とはしていない、荒唐無稽ともいえる神話の世界は、
自分にとっておとぎ話のようなイメージでしかありませんでした。


しかし、登場する神様を祀っている神社が今も現存していることを考えると、
急に現実世界とのリンクが感じられます。


出雲など出てくる地名が西日本に偏っているのも興味深い。


名前だけが伝えられている神様たちの文字に残らず消えてしまった、消されてしまった事績やエピソード。

それらも、祀られている神社に行けば、何かが残っているかもしれない。


日本って、神話と歴史と現在がつながっている、奇跡のような国なんですね。
国の起源がおとぎ話。
こんな面白い国はめったにないと思います。

あの夢の国ディズニーランドも顔負けのファンタジーワールド!


中国古典も面白いですが、日本の勉強も深めたいと思いました。

水曜担当…冨樫功



2015年3月17日(火)
「気体、液体、固体」                      火曜担当…坂本欣也

気体を冷やせば、液体になり、液体を更に冷やせば、固体になる。

心もこれに似ているなあと思います。

人生に前向きに取り組んでいる時、何かに夢中になって楽しんでいる時は、
心は軽く、のびやかで、雲一つない青空のように、透き通り晴れ晴れとしています。 
これは、心が気体の時。

普段、心が安定している時は、川の清らかな水のようにさらさらと流れている。
岩などの障害物があっても、上手くすり抜け、乗り越え、川下に向かって流れていく。

しかし、水が淀んで動かない所に溜まってしまうと、しだいにゴミなどがたまり、水自体が腐敗してくる。
心身共に疲れて来て、積極性が減退してくる。
過去に起こった出来事が心頭から離れず、こびり付いた状態になる。
これが長く続くと病気になる。
なので、日々常にゴミを取り除き、淀みから水をかき出して動かしてあげないといけない。
~洗心~

温度が下がっていくと、水は凍って氷になり、まったく動かなくなる。
ショックなことが起きたり、緊張状態が長く続いたりすると、心がこわばり、委縮し、固まってしまう。
身体もそれに伴い、固くなる。

氷は、表面は固くて強いが、叩けばもろくも壊れてしまう。

氷のように、固体になった心を、元の水や気に戻すには、温めてほぐしてあげないといけない。
それには、愛、温かみ、優しさ、そして赦しが必要。
まずは、自分が自分にそうしてあげないといけない。人からももらわないといけない。

私たちの心の本来の状態は、目に見えない気体の状態だったのだろうと、私は想像しています。

伸びやかで、軽やかで、どこにでも飛んで行け、どんな形のものにも合わせられる。
光のように輝き、美しい。
これが、元の気。元気の状態。

生まれてくる前の私たちは、この気自体だった。
子供の時の無邪気な心。
梵我一如、神人冥合の状態。

最近、私は心が重たく沈んだような気分になると、この元気の状態をイメージします。
そして、今西最高顧問に教えていただいた「息吹法」をして、サッと暗雲を消し去り、心を晴天にします。
すると、一瞬にして心が軽くなり、晴れ晴れとし、元の気、元気になった、気がします。
~観念要素の更改~

人生は心の暗示
心のスクリーンに映る映画のようなもの

火曜担当…坂本欣也



2015年3月16日(月)
互師互弟                            月曜担当…池田光



4月から開講する、

「第4期 潜学講座」のパンフレットが出来ました。
僕がこのパンフレットを見ていちばん嬉しかったのは、
大勢の塾生たちが講師を務めることです。

弊塾での活動方針のひとつとして、
「互師互弟の精神で、さまざまな勉強会や修練会を実施する」
というのがあります。
塾生同士が教え、学び合おうということです。
その方針通りに実ってきました。
第3期でも、何人かの塾生が講師を務めてくれましたが、
その内容はとても充実していました。

当初、塾生が講師を担当したらレベルが低くなるのではないか、
と不安がありましたが、そんなことは全くありませんでした。
むしろ、その逆でした。
ありがたいことだと思います。
第4期も、みなさまとともに学びを楽しみたいと思います。

新しい期が始まる、せっかくの機会ですので、
ぜひ、多くの方にご参加いただきたく思っております。

月曜担当…池田光



2015年3月15日(日)
「結願」                             日曜担当…八木正典

2012年10月からお遍路を初めました。その当時、周りにいた何人かの尊敬すべき方から、「お四国はいいよ、一回はやってみるべきだよ。」という言葉をいただき、何となくスタートしたのです。
歩き遍路でなく車での遍路なので、ものすごく楽をしており多くの先達には及ぶまでもないですが、時間を見つけては少しずつお参りに行き、2年超かかってようやく結願時である大窪寺、そしてお礼参りで霊山寺に行くことができました。
終わっても欲望まみれで生きている自分は全く変わることはありません。それでも、少なくともお寺毎に祈る時には真剣に無心に、一心になれました。そして、お参りしている間に自分のためだけでなく人のためにという意識が出てきた感じがします。お世話になった方々に本当に感謝です。

夫れ仏法遥かに非ず、心中にして即ち近し。
真如外に非ず、身を棄てて何んか求めん。
迷悟我に在れば、発心すれば即ち至る。
明暗、他に非ざれば、信修すれば忽に證す。

日曜担当…八木正典



2015年3月13日(金)
社会復帰について・・・                     金曜担当…小笹正洋

「THE BIG ISSUE」という雑誌を駅などの周辺の路上で
販売されているのを見かけることがあると思います。


内容は、著名人のインタビュー、時事情報、文化、暮らしの知恵等と
1冊350円の割には充実しています。

そして、何よりも販売者はホームレスの方が中心で、
売り上げの約半分が販売者の収入になるのです。


イギリスで産声を上げた、ホームレスの社会復帰を促すストリート新聞。


行政ではなく、民間の力でのこういった意義ある事業があります。


未だ読まれてない方は、一度お求めになってみてはいかがでしょうか。


今回の記事には、理想の学校づくりに邁進する元高校教師を描いた
映画「サムライフ」の事も書かれており、興味深く読ませて貰いました。

金曜担当…小笹正洋



2015年3月12日(木)
湧くわく通信第2号                      木曜担当…西端努斗夢

湧くわく本心塾の塾報「湧くわく通信」の第2号ができました。
主な内容は、4月から始まる第4期潜学講座のご案内で、塾生の皆様には順次郵送させていただく予定です。
また、湧くわく本心塾のホームページも更新し、そこからご覧いただけるようにしたいと思っていますが、とりあえず、下記よりご覧いただけるようにしました。

各ページごと

http://honsinjuku.com/wakuwaku02-4.pdf



1ページと4ページ、2ページと3ページの見開き

http://honsinjuku.com/wakuwaku02-2.pdf



私は、4月4日の初回にいきなり講師をさせていただくことになっていて多少緊張していますが、第4期でも互師互弟で学びあえることを楽しみにしています。

木曜担当…西端努斗夢



2015年3月11日(水)
第三期講座を終えて                     水曜担当…冨樫功

潜学講座の第3期が3月7日に終わりました。

今期は、幸いにも全講座に参加ができ、とても感謝しています。
病気や急な用事もなく、一年間、継続して参加するという目標が達成できました。



普段の生活をしていると、どうしてもそこに埋没して視野が狭くなってしまいます。

しかし、ひと月に一度、儒教、中国古典、天風哲学といった人間学を学べることは、
自分にとってとても大きな喜びです。

道を外れていても、講座に参加することでスッとそこに戻れるのです。


一年を通して、個人的には「本心」にますます興味がでてきました。

坂本さんが講座でおっしゃっていた、「元気を出す」という言葉。
元の気を出せば、元気になるというのは、目からウロコでした。

そして池田塾長に教えていただいた孟子による「浩然の気」の養い方。

今後の人生を生きる上で大きな指針をいただけました。

来期もできる限り参加して、より学びを深めていきたいと思います。

水曜担当…冨樫功



2015年3月10日(火)
「松下村塾教育メソッド」                   火曜担当…坂本欣也

「正解のある教育」と「正解がない教育」

日本の教育はどちらの傾向が大きいでしょうか?
「正解のある教育」のほうでしょうね。

教科書に書かれてあること、先生が教えることを、暗記してテストで良い点数を取る。
その暗記力が優れているものが評価される。

批判されながらも、未だにそこから脱却できていない。

今年大河ドラマで放送している『花燃ゆ』に出てくる松下村塾では、
上下関係のないディスカッションを通して、「正解を見つけていく」プロセスを
吉田松陰がリードしている様子が良く出てきます。

互師互弟の理想的な形だなあと思います。

教える側の者は、単なる情報の伝達で終わるのではなく、
また、教わる側の物は、単に情報を鵜呑みにし、丸暗記するのではない。

先哲の教えや新たな情報を伝えた上で、
そこに自分の解釈、考え方、思いを伝え、何のためにこの学びが必要かを問い、
それを皆がどのように感じ、解釈し、思ったのかを述べ合い、議論することで高め合い、
ディスカッションをリードして、より真理に近い正解を一緒に導きだすプロセス。

グローバルな現場は、まさにこのプロセスで動いています。
そして、日本の中でも多様性は広がってきています。
様々な文化の人々が一緒に活動する現場では、「一つの正解」などありません。

その意味で、「松下村塾教育メソッド」は、これからの人財を育てるには最適ではないかと思います。
明治維新、明治時代をリードした人々を、吉田松陰・松下村塾が輩出した要因も、この教育方法にあったのだと思いました。

これは、

「子曰、学而不思則罔、思而不学則殆」

 

子曰く、学びて思わざれば則ち罔し、思いて学ばざれば則ち殆し。

 

学んだことを熟考して腹に落とさなければ、本当に身につかない、

自分で思考するだけで他から学ばなければ、自分の考えに凝り固まり成長はない。


にも通じる教育法でもあると思います。

火曜担当…坂本欣也



2015年3月9日(月)
「第4期潜学講座」4月からスタート             月曜担当…池田光




■第三期終了

3月7日の講座をもって、
第三期潜学講座が終了しました。
ちなみに、最終回の今回は以下の内容でした。
【講座①】坂本欣也先生「中村天風から学ぶ、人間力の高め方④」
【講座②】池田光「『孟子』を読む ⑥ 浩然の気について」

写真は、私がお話させていただいているところです。
今回は、韓愈の「文と気」についての関係からスタートし、
孟子が説く「浩然の気」が文天祥に影響を与えて「正気の歌」となり、
我が国では藤田東湖、吉田松陰が自作の「正気の歌」を作っていることにふれ、
気について考えるところをお話しました。

講座①では、坂本講師による「中村天風から学ぶ、人間力の高め方」の
総まとめ的なお話があり、ここでも「気」が登場しました。
私のお話と通じるところがあり、私自身がとても啓発されました。
いつもそうですが、講師をすると、いちばん学べます。

■第四期スタート
さて、4月からは、
第四期潜学講座がスタートします。
講師陣もぐんと増え、
年間11回で、14名の講師が登壇します。

その初回は、
4月4日 14時から~
【第1講座】西端努斗夢先生「ものの見方、考え方①」
【第2講座】若宮幾馬先生「中国古典について」

いつものように、大阪倶楽部で開催します。
会場は、素敵な洋室に変わります。
参加し続けているうちに、きっと人生観が変わってくることでしょう。

しばらくしましたら、
本サイトからパンフレットをダウンロードできますので、
ご覧のうえ、気軽にご参加ください。
みなさまにお会いできますことを楽しみにしています。

月曜担当…池田光



2015年3月8日(日)
「果たすべき責任」                      日曜担当…八木正典

あなたはいま 何をもとめて日々努力し
日本はいま 何をめざして進んでいるのだろうか
ともに育ち ともに暮らしているこの国を愛し
日本人のすぐれた素質を大切に思うならば
政治家も経営者も 勤労者も家庭の主婦も
おたがい 他にのみ依存する安易な心をすてて
みずからが果たすべき責任に厳しく取り組もう
この国日本の 百年の計をあやまらないために

松下幸之助さんの「道を開く」にこの言葉があります。
思わず暫く留まって思考がぐるぐる回り、自分自身について考えさせられました。昭和の激動を高い矜持で生き抜いた名経営者の思いが伝わってくる気がしました。
「宜しく先ず一時より一日より始むべし。」
自身の行動、考えについて襟を正す気持ちが沸き起こりました。

日曜担当…八木正典



2015年3月6日(金)
人の心に火をつける・・・                   金曜担当…小笹正洋

2月に東京に行く機会があり、その日程の中で面談を申し入れた方から
偶然にもその日に自主上映の映画が開催されるので一緒に観ましょうと
お誘いを頂き、鑑賞することとなりました。

映画『日本一幸せな従業員をつくる!~ホテルアソシア名古屋ターミナルの挑戦~』予告編


人は可能性を感じたときに、本気になれる。


国鉄労働組合の専従役員から、関連企業であるホテルアソシア名古屋ターミナルに
転身された柴田秋雄氏の再建ドキュメント。

4期連続の赤字にあえいでいたホテルを見事に業績とともに人の心も立ち直らせた


経営とはいかなるものか、リーダーとはどうあるべきか。

理屈ではなく、肌で感じさせてもらえるお話しです。


自主上映予定

金曜担当…小笹正洋



2015年3月5日(木)
大和言葉                            木曜担当…西端努斗夢

先日、知人より『日本の大和言葉を美しく話す(高橋こうじ著 東邦出版)』という本を送っていただきました。
まだ読んでいませんが、帯にはこんな文章が書かれています。


日本には漢語と外来語、そして生粋の日本語「大和言葉」
大きくわけてこの三つがあります。

「感動(漢語)する」ばかり使わずに、たまには「胸に迫る(大和言葉)」と表現してみませんか? 心を動かされたことがより伝わるはずです。
「デート(外来語)」を「逢瀬(大和言葉)」と言えば、艶やかな雰囲気まで感じさせ、「妥協(漢語)する」ではなく、「折り合う(大和言葉)」と言えば、引き下がったのではなく大人な対応という印象に変わります。

「好きな人」と言うよりも「心を寄せる人」と言った方が、何となく響きが優雅で心に染みるような気がします。
言霊の幸わう国・日本に生まれたことに感謝し、少しずつでも美しい言葉を使う習慣を身に着けていきたいです。


木曜担当…西端努斗夢



2015年3月4日(水)
宇宙のように                          水曜担当…冨樫功

中村天風さんは、人が生きる意味を宇宙の進化と発展に同調することと言いました。

宇宙、世界は、日に日に進化、発展していきます。
同じことだけをしていたら、それは結果的に退化と同じことになってしまいます。

より良くなっていく、世界、宇宙と同調するには、自制というか、修養の気持ちが欠かせないと思います。

でも、それよりも、何よりも、周りにとって有益な存在であることが大切な気がします。

宇宙は、何の見返りも求めずに、私たちを生かしてくれています。

宇宙のように、周りに与えることができるような存在。

そんな人に憧れています。

水曜担当…冨樫功



2015年3月3日(火)
「元気」に戻る                         火曜担当…坂本欣也

人類は持前の知性と探究心を持ち、現象事象を「分かろう」として、
いろんな物事を「分けて」分析し、新たに名前を付けて整理し考え、
いろんなものを開発し文明的に進化してきました。

その結果、元は一つで同じだったものを分けすぎて、それぞれの違いが強調され過ぎてしまい、
小さく分かれたもの同士が、「俺が、俺のやり方が一番だ」と主張し合うようになりました。

世界も各国に分裂し、神も各宗教に分裂し、同じ宗教内でも各宗派に分裂し、
現代では社会だけでなく、組織や家族も個人も分裂してバラバラになる傾向にあります。

その分裂したもの同士が矛盾を起し、対立し、紛争にまで発展しているのが、
今私たちが観ている世界の一面でもあります。

グローバル化やダイバーシティ(多様性)の拡大は避けて通れませんし、それ自体が悪くはないのですが、
同時にグローバル、ダイバーシティ・多様性社会の中で生きる私たちの智慧、能力を高めなければ、
自らを破壊しかねません。

まずは「分ける」ことをほどほどにし、「万物は、元は一つであったことを思い出す」必要があるのではないかと思います。

物の観方、考え方をリセットし、元に戻る。「元の気」に戻る。

それは、天風哲学のいう「宇宙霊」、儒教の言う「先天の一気」、老子の言う「道」ではないかと。

すると、人や社会が「元気」になれ、繋がれるのではと。

火曜担当…坂本欣也



2015年3月2日(月)
撃壌歌(げきじょうか)                    月曜担当…池田光

お日様が出たら起き、
お日様が沈んだら寝る。
井戸を掘って水を飲み、
畑を耕して食らう。
帝王は自分に何の力も及ぼしていない。

こんな詩があります。
この詩は、とても古い中国の詩です。

この詩は、庶民が歌ったものです。
はるか悠久の昔、中国の聖王といわれた堯(ぎょう)の時代に、
一人の老人がこの歌を歌いました。

その老人は、
帝王の政治の力を一筋も感じることなく、
日々の簡素な生活のなかにどっぷりつかって、
満ち足りたものを感じています。
この詩は、「撃壌歌」と呼ばれています。
「拍子木を叩きながらの歌」というような意味です。

これが中国における、究極の政治の成果です。
為政者の存在を感じさせない政治……、
そして、国民は日々の生活を淡々と満ち足りて送る……、
生活の主人公は「その老人」のような一人ひとりの庶民である……、
誰に使われることもなく、自らの主体性で生きている……。

こんな政治を、『論語』も『老子』も「無為の政治」と考えているようです。
僕はサラリーマンになり、企業の教育担当になり、経営コンサルタントとして独立したときを通じて、頭の片隅に「無為のマネジメント」のような理想を描いていました。
中国古典を学ぶ意味のひとつが、ここにあります。

月曜担当…池田光



2015年3月1日(日)
「天地の化」                           日曜担当…八木正典

伊川先生曰く、道に志すこと懇切なるは、固(まこと)に是れ誠意なり。若し迫切にして理に中(あた)らずんば、則ち反って誠ならずと為す。蓋し実理の中に自(おのずか)ら緩急有りて、是の如く迫る容からず。天地の化を観れば、乃ち知る可し、と。(近思録、論学)

熱心に道を志すのは誠意の道につながる心がけだけれども、やたらと焦って、心に余裕がなくなると結局のところ誠意、誠実ではなくなる。目指している道から外れてしまう。実理には緩急が備わっているので、悠々とゆとりを持って対処すべきである。ゆっくりしているが着実な四季の移り変わりを観ればよい。

最近読みたい本がいっぱいあって、学びたいことがたくさんあって時間がいくらあっても足りないなと焦っていました。そんな時に近思録を読んでいてこの言葉に出会いました。徳川家康の遺訓でも、「人の一生は重荷を負いて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。」とあります。思いは一心に持ちながらも、あわてず、あせらず、あきらめず自然の悠久の流れを感じながら着実に歩を進めていきたいと思います。

日曜担当…八木正典



2015年2月27日(金)
名前の由来の持つ力・・・              金曜担当…小笹正洋

世界的なスポーツ用品メーカーのアシックスですが、
「ASICS」を辞書で調べても出てきません。

鬼塚喜八郎氏が、昭和24年(1949)に、神戸市で鬼塚商会として
立ち上げ、昭和52年(1977)に、社名をオニツカ株式会社から
株式会社アシックスに変更されました。

鬼塚社長は毎日マラソン(1961年)出場のために来日した
裸足のマラソンランナーのアベベ選手に説得してシューズを
履かせて出走させることに成功しました。
そして、同大会でアベベ選手は見事優勝を飾りました。


その鬼塚社長と直接お会いされた方から社名の由来をお聞きしました。

Anima Santa In Corpore Sano.

「もし神に祈るならば、健全な身体に健全な精神があれかしと祈るべきだ」

というラテン語の格言の頭文字をつなぎ合わせたそうです。

この言葉の意味が経営理念となり、社名と共に脈々と受け継がれているのです。

金曜担当…小笹正洋



2015年2月26日(木)
半身浴                              木曜担当…西端努斗夢

昨年末より半身浴を始めました。
スマートフォンを防水ケースに入れて浴室に持ち込み、お湯につかりながらニュースや動画を見ているとあっという間に時間が過ぎ、気がつくとお湯につかっていない上半身から汗が噴き出してきます。
お風呂から出ても身体の中からポカポカしてきてとてもいい気持ちです。

体調不良の原因の多くは身体の冷えにあると思います。
現代社会になって冷房や冷蔵庫など以前にはなかったものを冷やす機械ができました。暖房器具の燃料が木や炭から石油、電気などに代わりました。砂糖など身体を冷やす食べ物を多く摂るようになりました。こうしたことから現代人は知らず知らずのうちに身体を冷やしているのです。

身体が温まると血流がよくなり、それによって免疫力や自然治癒力がアップするそうです。
身体を温める方法の一つとして、半身浴を始めて正解だったと思います。

木曜担当…西端努斗夢



2015年2月25日(水)
楽観主義を意志する                     水曜担当…冨樫功

人間は幼いときは誰でも楽観主義なのではないでしょうか。
自我が芽生えていないときは、世界とひとつ。

しかし、大きくなるにつれて、自分と世界とに距離を感じ、
心に影が差してくることになります。


これは、人が大人になるのに必要な通過儀礼なのかもしれません。


そのまま、身についてしまった悲観主義で生きていくのか、
それとも生来の楽観主義を取り戻していくのか。

もちろん、誰もが楽観主義で生きていきたいはずです。

でも、一度身についてしまった悲観主義というフィルターは容易に取り除くことができません。

アランはこう言っています。
「悲観主義は気分に属する。楽観主義は意志に属する」

風見鶏のように生きていては、悲観主義から逃れることはできません。
なぜなら、再度獲得される楽観主義には意志が必要だからです。


明るい人、元気な人、陽気な人、ユーモアにあふれた人。
身近におられるその方々も、その明るさは自らの意志で獲得したのだと思います。


その場にいるだけで回りを明るくできるような能力。
それは先天的には誰もが持っているはずなのですが、後天的な努力が不可欠と感じます。


いつも楽観でいられるよう、意志を持ちたいと思います。

水曜担当…冨樫功



2015年2月24日(火)
「敷島の風景」                         火曜担当…坂本欣也

これまで積み重ねてきたランニングの成果として、
大和三山の「耳成山」~桜井の「大神神社」~天理へ続く「山の辺の道」の往復を
ハーフマラソンしました。

そのちょうど中間地点で、ご褒美にこの景色をいただきました。



これは、元伊勢と言われる、檜原神社からの眺め。
鳥居の間から二上山が見えます。

古来この二上山の竹内峠を越えて、聖徳太子や遣隋使たちが飛鳥と今の大阪を行きかったと言われています。また、大阪と伊勢をつなぐ伊勢街道があります。

「敷島の大和の国は言霊の幸はふ国ぞ真幸くありこそ」(柿本人麻呂)
(大和の国・日本は言霊によって幸せがもたらされる国です)

敷島は、この檜原神社の麓にある第10代崇神天皇の宮・磯城瑞籬宮の磯城が源だとされ、
奈良(大和)盆地、ひいては日本を示すようになりました。

このような地を身近にランニングできることに感謝し、
この場所から観た太古の景色はどのようなものだったのかと思いを馳せながら、
残りのランを続けました。

これからの四季折々の花の景色は最高です。
是非お越しください。

火曜担当…坂本欣也



2015年2月23日(月)
先送りをやめる その2                    月曜担当…池田光

■『しあわせ通信』傑作選、4月発売!
立花大敬先生が『しあわせ通信』を発信されてから、もうすぐ19年になります。
僕は、2年に一冊のペースで『しあわせ通信』を出版していますが、
つい先ごろ、第9集を発行しました。

そして、もう一つ、今年は新しい試みをします。
『しあわせ通信』傑作選(アンソロジー)の、全国書店での発売です。
時期は、4月中旬。
あと、2か月足らず。

この傑作選は、『しあわせ通信』から面白いものをランダムに寄せ集めた、というものではありません。
まったく新しい角度から、『しあわせ通信』を読むことができる一冊になっています。

この傑作選が、多くの読者に支持されるようであれば、第2弾も出したいと考えています。
すでに、次の編集方針も僕の胸のなかにあります。
それは、僕なりの思想で『しあわせ通信』を編集することであり、
僕の視点から『しあわせ通信』を訴えていきたいというものなのです。

■先送りしない
先週のブログで、
「もう、先送りしない」
という決意を書きました。

50歳のとき、僕は、60歳までの目標を描きながら、
「でも、60歳になったら、次の10年の目標を描けるよね」
みたいな余裕がありました。

が、まもなく60歳になります。
今の心境は、
「あと10年は、仕事をさせていただけるだろう。
それは、とても幸せなことだ。
この10年を、僕にしかできないことに使い切ろう」
という感じです。

と同時に、
「とはいえ、病などのために、途中で終わることがあるかもしれない。
優先順位をつけて着手しなければ」
という気持ちもあります。

冒頭に書いた、この4月に発売する『しあわせ通信』傑作選は、
僕にしかできないことの一つです。
この計画は数年前からあったのですが、
もう先送りせず、
きっちりとやっていきます。

■今年やること
今年、何をするかは、すでに決めています。

たぶん、僕でないと書けないことがあり、そんな本を2冊書く予定です。
そのうち、一冊は一般書店に並ぶような本として出版し、もう一冊は僕の出版社から出したいと思います。

ほかに、編集を数冊やります。
それと、現在温めている「悟りのシステム」の構想があり、この目途をたてます。

これだけやろうとすると、凡人の僕では時間が足りませんので、ここ5年ほど続けてきた勉強会参加をやめることにしました。
勉強会はけっこう刺激になるのですが、やはり自分で思索することから逃げていますね。
あまりにも参加し続けると、自分というものの独自性が希薄化していくように思います。
だから、僕が勉強会の参加をやめるというのは、時間が足りないこと以上に、本音は、独自の思索へと自分を追い込むためです。

エラそうに「独自の思索」などと書きましたが、僕は凡人なので、思索してもすぐに底が見えてしまいます。
これを掘り返さないと独自性は生まれません。
浅い底ながら、掘り下げていく努力は、きっと僕でしかできない鉱石を発見させると信じています。
せっかくこの世に生まれたのだから、次の10年をそんなふうに使っていこうと思います。

月曜担当…池田光



2015年2月22日(日)
「六セント半のおつり」                     日曜担当…八木正典

風の吹く寒い日ですっかり日が暮れて暗くなっていました。その村はミシシッピ川沿いの田舎町で近くには家がたった15件ほどしかありません。
オフェットさんの店では、日用雑貨を扱う商店で、近くの農家が必要なものを買いに来ます。

ある日、その店の番頭のエイブが、店の勘定を締めたところ6セント半余ってしまいました。昼間の布を買った女性へのおつりが少なすぎたのです。
「オフェットさん、大事なお客様なので、今日中に帰してきます。」
エイブはそう言って、冷たい風がふく夜道を歩いていきました。女性の家は10キロも離れていて2時間以上かかるのです。
「こんばんは。オフェット商店のエイブです。」
女性が不思議そうに出てきました。
「あら、今頃なんの用?」
「昼間のおつりを間違えてしまっていて、差し上げるおつりが6セント半少なかったのです。これをお届けに来ました。」
女性は驚きます。6セント半は今の日本円でたった10円弱です。
「あなたそれだけのことでわざわざ来てくださったの。町の人があなたを「正直エイブ」といっているけど本当ね。ありがとう。」
エイブはお詫びを述べて、にっこり笑って夜道をまっすぐ帰っていきました。

第16代のアメリカ大統領になったリンカーンの若いころの物語です。古今東西を通じて、正しくあることは人の胸を打つのでしょう。自分をごまかさず、自分に嘘をつかず過ごしていきたいものです。

日曜担当…八木正典



2015年2月20日(金)
習慣・・・                            金曜担当…小笹正洋

誰にでも励みになる言葉や、勇気を貰える言葉に
何度か巡り合っている事と思います。


私の好きな言葉の一つに、


“習慣は第二の天性なり。”


という教えがあり、
「習慣」という語句を使った名言には、


“はじめに人が習慣をつくり、
それから習慣が人をつくっていく。”


という、イングランドの詩人、ジョン・ドライデン(1631-1700)の
教えもあります。



習慣という文字の、「慣」は慣(な)れるとも読みます。


『慣(カン)』は、毎日行なう習慣を漢字にしたものです。
漢字の足し算では、
「りっしんべん:心」+貫(つらぬく)=慣(毎日行なう心に決めた習慣)。
漢字の部首は「りっしんべん」です。


『貫(カン)』は、たくさんの貝を貫く様子を示す漢字です。
漢字の足し算では、
「つらぬく(上部のつくり)」+貝=貫(たくさんの貝を貫く)。
部首は『貝』、意味は『貫く(つらぬく)』です。



何か一つのことをコツコツとやっていれば、
やがて道は開けていくといつも信じています。

金曜担当…小笹正洋



2015年2月19日(木)
心のポカポカ                          木曜担当…西端努斗夢

1ヶ月ほど前から半身浴を続けています。身体を温めることは、身体の健康だけでなく心の健康にも良いそうです。
これまでの私は、お風呂に入っても湯船につかるのはせいぜい1~2分でした。それが、半身浴を始めてからは、20分間湯船に浸かるようにしています。
スマートフォンを防水ケースに入れて動画やニュースを見ているとあっという間に20分が過ぎ、上半身からは汗が吹き出してくるのです。そして、身体だけでなく心までポカポカしてきます。
この心のポカポカが幸せな気分にしてくれ、何とも快感なのです!

木曜担当…西端努斗夢



2015年2月18日(水)
師弟愛を読む                          水曜担当…冨樫功

中村天風さん関連の本はたくさんありますが、自分が好きなものの一つに、
おおいみつるさんの「ヨーガに生きる 中村天風とカリアッパ師の歩み」という本があります。


この本は、結核で死に瀕している若き中村三郎こと天風が、
カリアッパ師に会って奇跡の復活を遂げるところを小説形式で描いています。


どこまでが本当なのかはわかりませんが、本の中の二人のやりとりは興味深く、示唆に富んでいます。
地の声、天の声、そしてクンバハカ。様々な指示をカリアッパ師は天風に与えます。

個人的にはクンバハカを体得するまでの修行が細やかに描かれているところが好きです。


クンバハカを身につけるため、
天風は下半身を冷たい川の中に浸して修行しています。


カリアッパ師はそれを見て「いいぞ」と言います。

天風はそれを聞いて川から上がろうとすると、
「だめだ。そんな態勢では。」と叱られます。


天風は混乱するのですが、結局、
川の中でしている身体の状態をそのままに保ち続けることがクンバハカの奥義であることに気が付きます。


そして、天風が悟ったことをカリアッパ師は涙を流して喜ぶのです。
その涙を見て、天風も涙を流します。

ここまで読むといつも感動してしまいます。


修行の特殊な状況のみで、クンバハカができても意味はそれほどありません。
実際の生活でそれを生かせるほどに身につけてこそ、はじめて奥義を体得したといえるのだと思います。

水曜担当…冨樫功



2015年2月17日(火)
「ウズウズいのち」                       火曜担当…坂本欣也

宇宙の中で育つ宇宙。

湧き出ようとウズウズしている命。

春に出会えることが楽しみです。


火曜担当…坂本欣也



2015年2月16日(月)
先送りをやめる                         月曜担当…池田光

渋沢栄一(1840―1931)は、江戸末期の豪農に生まれ、やがて明治・大正期の経済界を指導し、日本資本主義の父となった人物です。

渋沢栄一は、
「生存するかぎりは、社会事業に努めねばならぬ」
「役に立たぬくらいなら、死んだほうがよい」
と言っています。
この言葉に、僕は深く打たれます。

深く打たれるのは、渋沢栄一が、実際にそのような働きをしたからです。
晩年にあっても、彼は世のため、人々のために働き続けました。

子どもの頃から、僕は、よく「死」のことを考えていました。
気がつくと、考えているのです。
高校卒業の頃は、部屋に閉じこもって、来る日も来る日も「死」をテーマにした哲学書を読み続けておりました。

今、どれほど死への覚悟ができたか分かりませんが、
「与えられた命を使って、何をすべきかが大切だ」
と思えるようになってきました。

が、渋沢栄一はそんなどころではない、
「役に立たぬくらいなら、死んだほうがよい」
と働き続けたのですから、すごいです。
与えられた命を、自分のためにではなく、世のため、人のために使おうとしたのですから。

僕の場合は、世のため、人のためも少しはありますが、自分のために使うことばかり考えていて、恥ずかしくなります。
さらに、実際の僕は、すぐにいい加減に生きてしまい、だらだらとした一日を送ってしまいがちになります。

……ですが、最近、いいことがありました。
還暦の年になり、死がこれまでよりもリアリティをもって感じられるようになったことです。
このリアリティ感は、ありがたいです。
人にはいつ死が訪れるかわからないのに、これまでは、さほどのリアリティ感がなくて困っていました。
死へのリアリティ感が高まったことで、僕は、前より生きる力が高まりつつあり、
「もう先送りできないぞ」
「優先順位の高いものから着手しなければ……」
と意欲が湧いてきました。

この5年間ほど、僕は充電期間みたいに、いくつも勉強会に参加してきましたが、多くの勉強会への参加を今年で辞めることにしました。
毎月続けてきた長岡禅塾での坐禅も、来月末をもって休会させていただきます。
もう、勉強会に逃げるのはよそうと思います。
(ただ、4年目になる「漢文読解講座」だけは例外で、これからも続けます。
これは逃げではなく、古代や中世の中国の聖人に向き合うには必要となる「言葉」だと思うからです)

こうして背水の陣を敷き、優先順位の高いことから、着手して行こうと思います。
凡人ですのでボチボチとしかやれませんが、先送りはしないと決意しました。
すると、亡くなるまでに、1つや2つくらいの仕事はできるでしょう。

月曜担当…池田光



2015年2月15日(日)
「宇宙内」                            日曜担当…八木正典

「四方上下を宇と曰ひ、往古来今を宙と曰ふ。宇宙は便ちこれ吾が心、吾が心は即ちこれ宇宙なり。千万世の前に聖人出づるあるも、同じくこの心、同じくこの理なり。千万世の後に聖人出づるあるも、同じくこの心、同じくこの理なり。東南西北の海に聖人出づるあるも、同じくこの心なり、同じくこの理なり。」
「宇宙内の事は、これ己が分内の事なり。己が分内の事は、これ宇宙内の事なり。」

南宋時代の儒学者で朱子と並んで有名な人物に陸象山がいます。
宇宙は吾が心に内在するという思想で心即理を唱えました。のちの王陽明と合わせて、陸王学と呼ばれています。朱子とは朱陸論争を行い、同世代の論敵ではありましたが、お互いに認め合う親しい講友であったとも言われています。
上記の言葉は、なんと陸象山が13歳の時に宇宙の字義を考え、大悟して話したとのことです。そしてその後、聖学に志すようになったということです。
自己の内面に深く、深く掘り下げ、自己に内在している固有の本心を得ていこうという生涯をかけての努力は驚くしかありません。時代を超えて先人の偉大な思想に出会えることに只々感謝です。

日曜担当…八木正典



2015年2月13日(金)
心を込める・・・                         金曜担当…小笹正洋

近ごろは、わが国からもずいぶんたくさんの製品が海外に輸出され
ていて、包装などについてもいろいろと配慮されているようですが、
それでも輸送途中の事故というものがかなりあるようで、せっかく
の製品を台なしにするだけでなく、会社の、そして日本の信用を失
う場合が少なくないと聞いています。

その原因はいろいろあるでしょうが、一番大事なことは、やはりお
互いのゆきとどいた心くばりと、強い責任感ではないかと思います。

包装だけではありません。どんな仕事についても、一人ひとりが自
分の職務に対して強い責任感とゆき届いた心くばりをもつことが、
大事なのです。

ことに貿易の自由化を迎えて、私たちもいよいよ本格的な国際競争
の場にたたされようとしているとき、一そうこのことが求められて
くると思います。

お互いに、安易な気持でウカウカしておれないような世の中の動き
ですよね。



松下電器産業㈱(現:パナソニック㈱)の1960(昭和35)年
2月25日の給与メッセージの一部です。

松下幸之助創業者は、どんなに忙しい時でも、毎月の給与の支払い
の折りに上記のようなメッセージを書いて、一人一人の給与袋の中
に入れておられたようです。


素晴らしい心尽くしですね。


今では、大半の企業が銀行振り込みとなり、働いている本人よりも
奥さんの方が早く入金を確認し、引出しているのは当たり前の光景
となっています。


55年前と比べれば、はるかに便利な世の中になってはいますが、
その反面、不足してきているものもあるのではないかと考えさせら
れるところです。

金曜担当…小笹正洋



2015年2月12日(木)
大本営発表                           木曜担当…西端努斗夢

ヒットラーの側近だった高官が戦後、「国民は戦争を望まない。しかし、するかしないかを決めるのは指導者で、国民を戦争に引きずり込むのは実に簡単。外国に攻撃されつつあると言えばよい。それでも戦争に反対する者を愛国心がないと批判すればいい」というようなことを言っていたそうです。
昔も今も、“大本営発表”には要注意です。

木曜担当…西端努斗夢



2015年2月10日(火)
「ゼロと空」                           火曜担当…坂本欣也

天風先生は、インドで修行を始めた頃、カリアッパ師から「頭と心を空っぽにしない限り、修行を始めることはできない」と言われたとあります。

空っぽにするとは、これまで持っていた経験、知識、情報、そして思いや考えを取り去り、無にすること。
つまり、「ゼロの状態」にすること。

数学のゼロという概念は、インドで誕生したそうですが、インド思想、仏教でいう「空」という概念から来たのではないかと思います。

ゼロ・空は何もない無の状態ではなく、反対に、万物を備え全てを生み出す元の状態。
宇宙でいうと、宇宙が誕生したビッグバンが起こる前の状態。
これが「道(タオ)」、「先天の一気」、「梵」、そして天風哲学でいう「宇宙霊」ではないでしょうか。

満たされている100%の状態だと、もうそこには何も入り込む余地がない。何も生まれない。
また、何かを得たことで、傲が起こる。
得たものを減らす、ゼロにするのは怖い。そこに執着が生まれる。

本当の豊かさ、心の幸福の源は、このゼロ・空の状態にあるのではないか、
そして、本当の意味での開放感、心の自由自在の境が開かれるのではないか、
それが高められると、梵我一如、神人冥合につながるのではないか、

と思う、今日この頃です。

天風哲学は、ゼロから始まったとも言えるのではないでしょうか。

火曜担当…坂本欣也



2015年2月9日(月)
虫混入                              月曜担当…池田光

 だいぶ前のことです。
 旅先のホテルで、近くのコンビニで買った晩飯を食べました。

 そのとき、買ってきた漬物パックのなかに、蝦のような羽虫が混入しているのがビニール越しに見えました。
 まだ、パッケージを開けておらず、
「さて、どうしたものか」
 と考えました。

 何を考えたかというと、お店に苦情を言うかどうかです。
 すると、どうなるのだろうか……。

 最近は食の安全ということがよく言われます。返品されたコンビニがこのことを問題視すると、食品メーカーにとっては、大変なことになるでしょう。
 見ると、地域の有限会社の名前のシールが貼られています。この会社は、故意で虫を混入させたのではないように思えました。

 仮に、この会社がずさんな管理体制をしていたなら、ほかの商品にも虫の混入はあって、そのときは、誰かが苦情を言うでしょう。
 また、僕に当たった今回の商品は、衛生管理に努めながらも、たまたま混入したものかもしれない。もし例外だとしたら、騒ぎ立てるのは可愛そうだ。

 それに、何十年も前だったら、誰でも虫を取り除いて食べていただろう。
 そう思って、僕は虫を取り除き、漬物を洗って食べることにしました。

 古くなった食材を故意に製品化するなどの偽装をすることは良くありません。その場合は、食品回収は当然のこと、そのメーカーの営業停止はまぬがれません。

 が、最近は、機械のちょっとした破片が混入したくらいで、何万個も回収するということがあります。
 この場合は、衛生上の問題が無ければ、破片混入を発表してもらって、みんな気をつけて食べようというコンセンサスが社会に出来ていればといいと思うのです。
 でなければ、食材をムダにしてしまうではありませんか。
 メーカー対消費者のレベルで考えるのではなく、他方で、地球の資源というレベルで考えてほしいと思うのです。
 そんな、多価値的な物の見方ができる社会であってほしいと思います。

月曜担当…池田光



2015年2月8日(日)
「ロウソク」                           日曜担当…八木正典

自分が火のともっている一本のロウソクだと思っている。ロウソクでも途中で消えちゃうのもある。それだったら役目を果たしたことにはならないわけよ。全部、燃えつくしてこそロウソクなんだからね。だから、悔いを残さないで、燃えつくして死ねばそれでいいわけだ。本望や。自分は行者だから、拝んで拝んで拝みたおす覚悟なのよ。(酒井雄哉)


新年から引き続きいくつか日課を定めて行っています。
続いているのは続いているのですが、だんだん長くなってくると何となく惰性で行ったり、ゆるみが出てきたりします。本来の目的である進化と向上、真理を追究する姿勢を見失ってくるのです。手段が目的化してくるのです。
こんな時は、比叡山延暦寺の千日回峰行を2度満行した行者である酒井大阿闍梨の言葉を読み返します。全くレベルが違いすぎるのですが、高い次元で自己を貫き続けた先人が残してくれた言葉を味わえるのはありがたいことです。ぐっと気持ちが引き締まります。今日も一歩先に進む勇気が湧いてきます。

日曜担当…八木正典



2015年2月6日(金)
学ぶ姿勢について・・・                    金曜担当…小笹正洋

先日、学ぶ姿勢(心構え)について考えるきっかけを頂き、色々と思いを馳せている中で、

キングスレイ・ウォードの「ビジネスマンの父より息子への30通の手紙」(新潮社)

を久しぶりに手にとってみました。


今から四半世紀以上前に日本で翻訳出版された本ですが、私にとっては名言・名話の宝庫です。
その中から特に心に響いた大切にしたい一節を抜き出してみたいと思います。


<以下引用>

つぎの物語は1899年に、わずか1時間で書きあげられた。著者エルバート・ハバードは
ごく平易な文体で書いたのだが、そこには非常に重要な基本的教訓が含まれていたため
早くも1913年には原本が4千万部印刷されていた。
日露戦争中、前線に向かうロシア兵士はみな、「ガルシアへの書簡」を一部携えていた。
日本軍は捕虜のロシア兵から没収したその本の数からただちに翻訳すべきであると考えたし、
後には勅命によって、武官と文官を問わず、官吏全員に一部ずつ与えられた。
この物語はこれまでに、ロシア語、ドイツ語、フランス語、スペイン語、トルコ語、
ヒンズー語、日本語、そして中国語に翻訳されている。
おそらくこのほかにも多くの言葉の翻訳があることだろう。
その教訓は当然ながら、書かれた当時の時勢に適っていたが、今日もなお、さらに耳に痛い
向きさえあるように思われる。



「ガルシアへの書簡」

キューバがらみでいえば、私の記憶の地平線に、近日点の火星のように輝くひとりの人物がいる。
米西戦争が勃発したとき、反乱軍の指導者と直ちに連絡をとる必要が生じた。
ガルシアはキューバのどこかの山塞にいる。どこであるかは誰も知らない。
郵便や電報が届くはずもなかった。

大統領は彼の協力を得なければならない。しかも早急に。

どうすればいいのか!

ある人が大統領に言った。

「ガルシアを見つけられる人がいるとしたら、それはローワンという男でしょう」

ローワンが呼ばれ、ガルシアへの書簡が託された。
「ローワンという名の男」がどのようにしてその手紙を受け取り、油布の袋に入れて密封し、
心臓の上にくくりつけ、4日後に夜陰に乗じて小さなポートでキューバの海岸に上陸し、
ジャングルに消え、敵国を徒歩で縦断し、ガルシアに書簡を届け、三週間後にこの島国の
もう一端の海岸に現れたかを、ここで詳しく話すつもりはない。
私が強調したいのは、マッキンレー大統領がローワンにガルシアへの書簡を託したとき、
ローワンはその書簡を受けとって、「彼はどこにいるのですか?」と尋ねなかったことである。


<中略>


読者諸氏よ、試してごらんなさい。あなたはいまオフィスにいて、六人の部下が近くにいる。
その中の誰か一人を呼んで、頼む。
「百科辞典で調べて、コレッジョの生涯について簡単なメモを書いてくれないか」

その部下は静かに「はい」と答えて、仕事に取りかかるだろうか?
決してそうはしないだろう。きっと怪訝な顔をして、次の質問をひとつか二つするだろう。

どんな人ですか?
どの百科事典でしょう?
百科事典はどこにありますか?
ビスマルクのことではありませんか?
チャーリーにさせてもいいんじゃありませんか?
過去の人ですが?
お急ぎですか?
その本を持ってきますから、ご自分でお調べになりませんか?
なんでお知りになりたいのです?

あなたがその質問に答えて、その情報の求め方や、あなたがそれを求める理由を説明した後、
その部下は十中八、九、ほかの部下の所へ行って、ガルシアを見つける手伝いをさせるだろう。
それからあなたの所へ戻ってきて、そんな人物はいない、と言うだろう。
もちろん私はこの賭けには負けるかもしれないが、平均の法則に従えば、負けないはずである。

もしあなたが賢明なら、「補佐役」にコレッジョの見出しはKではなく、Cであると、わざわざ
説明したりしないで、優しい笑顔を見せて「もういい」と言い、自分で調べるだろう。
この自主的に行動する能力の欠如、精神的な愚鈍さ、意志の軟弱さ、進んで快く引き受けようと
しない態度のために、本物の社会主義者がなかなか現れないのである。
自分のためにさえ行動しようとしない人たちが、全員の利益のために、どれほどの努力を
するだろうか?


<中略>


私が心を惹かれるのは、「上司」がいるときにはもちろん、いないときにも勤めを果たす人である。
そして、ガルシアへの手紙を渡されたら、黙ってその信書を受け取り、愚かな質問をせず、
すぐさま下水に捨てたり、そのほか、届けないで処分したりする気を起こさない人は、
決して「一時解雇」を受けないし、賃金の値上げを求めてストをする必要もない。
文明はそのような人々を捜し求める長い課程である。

そのような人の願いは何でも聞き入れられるだろう。そのような人はどこの都市でも、町でも、
村でも、必要とされるだろう。
どこの事務所でも、店でも、工場でも。世界中がそのような人々を呼び求めている。
「ガルシアへの書簡を届けられる」人物は、非常に必要とされているのである。


<以上引用>



「学問に王道なし」といわれるように、要領よく学ぼうとする姿勢が出過ぎると、
何のために学ぶのかという真の目的や志から離れていってしまうでしょう。
そして、学んだ内容自体もいずれはボロが出てしまいまうのではないかと思うのです。

習熟、熟しきった果実がポトリと落ちるかのようになるまで、学びを練って練って、
深掘りをしていきたいと思います。

金曜担当…小笹正洋



2015年2月5日(木)
賞味期限                            木曜担当…西端努斗夢

私はかつて、スーパーなどで食品を買う時、賞味期限を見てできるだけ期限が先の新しい商品を買うようにしていました。
ところがある時、留学生が何気なく言った言葉に衝撃を受け、目から鱗が落ちました。

「日本の人は、なぜわざわざ奥に置いている賞味期限の長い新しい商品を買うの? 今日食べるのだったら、賞味期限が迫った古いものから食べるのが普通ではないでしょうか?」

人間以前の生き物としての視点からすればそれが常識かもしれません。

この言葉を聞いて以来、私はスーパーで食品を買うときは、できるだけ賞味期限の迫った古い商品を選ぶようにしています。

木曜担当…西端努斗夢



2015年2月4日(水)
風邪の効用                           水曜担当…冨樫 功

久しぶりに風邪をひきました。

症状は軽いものの、やはり体は多少重く感じられます。

仕事も短期集中の省エネでやって、
残りの時間は暖かくして休んでいました。


休みながら本読んだりして、いつもよりリラックスです。


そうしたら、昨日も今日もなぜか売上が良い。


普段は、暇な時間には、どうやったらもっとお客さんが来るだろうか、とか考えます。
でも、昨日今日は、ただただ体を休めたい一心。
売上をあげる方面の思考は全くしませんでした。


それが、逆に良かったのかもしれません。

昨日は、タウン誌で店を取材をさせてくれという依頼が入りました。
今日にいたっては閉店40分前には完全に売り切れてしまいました。


いつも執着している思考、凝り固まった考えから抜け出すと、
一気に目的地にたどり着くのかもしれません。


微熱でボーっとしながらそんなことを考えています。

水曜担当…冨樫 功



2015年2月3日(火)
「今こそ、実践」                        火曜担当…坂本欣也

昨年の3月までスクーターに乗り、走り回っていた母が、2週間前から入院しています。

あれだけ元気だった母が、動くこともできず、一日病室のベッドで天上だけを見て寝ている。

それを思うと、常に心晴れない気分です。

そんな今こそ、これまで学んできた天風哲学の更なる実践。

身は病んでも、心まで病ませてはいけない。

心が積極的であれば、積極的なものをひきつける。

心が積極的だと生命全体が積極的に運営される。

私自身の気を「元の気=元気」に戻し、その元気を母に届けます。

火曜担当…坂本欣也



2015年2月2日(月)
わが家の家訓 その2                     月曜担当…池田光

先週のブログで、
「眠たいときは、寝にゃならん」
というわが家の家訓を紹介しました。

ほかに、僕がやっていることに、
「逃げたいときは、寝る」
というのがあります。
これも家訓の続きにしようとしたのですが、
こちらのほうは家族の支持は得られず、
家訓にはなっていません。

「逃げたいときは、寝る」
というのは、バカバカしいようですが、
僕はまじめにやっています。

たとえば、僕は隔週で「漢文読解講座」を受けているのですが、
順番に、書下し文にし、解釈したり現代語訳したりします。
なので、予習していかないと発表できません。

そこで予習ですが、これがけっこうしんどいので、
つい逃げたくなるのですね。
で、読書に逃避するなど、ほかのことをやりたくなるのですが、
それをやってしまうと、時間がなくなります。

そこで、寝るのです。
寝ると、寝溜めしたことになり、
目覚めると気分が変わっていたりして、
予習がはかどることがあります。

「逃げたいときは、寝る」というのは、
別のことに逃避して物理的時間を減らしてしまうのではなく、
寝るという逃避をして、①寝溜めし、②気分を変える、ということです。

これはお勧めの方法なのですが、
今のところ支持を得ていないのはとても残念です。

月曜担当…池田光



2015年2月1日(日)
「不将不迎」                           日曜担当…八木正典

不将不迎、応而不蔵
将(おく)らず迎えず、応じて蔵せず(荘子/応帝王篇)


一生懸命に全力で頑張っているのになかなか思っている結果が出ず、自分の努力がむなしいものに思えたり、自分がものすごくちっぽけなものに思えたりして悲しくなる時があります。
先週からの私がそうでした。
うまくいかないな、どうしたらいいんだろうとぐるぐる思考の堂々巡りをして何となくイライラしていました。

そんな時に、偶然ある人の本でこの言葉に出会いました。
「過ぎ去ったことをくよくよいつまでも悔やまない、先のことをあれこれ取り越し苦労をしない、事態の変化に対応して心に何もとどめない」というものです。

何となく心が軽くなりました。
心に何もとどめないという境地に簡単になれるわけではないですが、持ち越し苦労、取り越し苦労をしないように、自分の気持ちを明るくのびやかに持ち続けたいと思います。

日曜担当…八木正典



2015年1月30日(金)
見えないものも事実として存在する。           金曜担当…小笹正洋

企業にとって資金は人間の血液と同じで、枯渇すると生存(存続)が
できなくなります。

企業の財務の仕事というのは、その資金という名の「血液」が
組織内に行き渡るように「入るを量りて、出るを制する」役割を
担います。

ある会社を定年退職された方とお話させて頂いたお話しです。

その方は、入社当初は決算編成の担当をされてました。
そして、次に財務(資金管理)の担当をされることになりました。

月末になると、社内の資金が足りるかどうか、
いつも頭を痛めておられました。

ある月に、月末資金が足りなくなることが見えてきたので、
上司である経理部長に借入の決裁を仰ぎに行くと、

経理部長から

B/S(貸借対照表:企業内の財産目録と考えて下さい)を見たか?

と即座に返答され、

???

だったそうです。
(当時は、B/Sの見方が分からなかったそうです)


ここの「売掛金」を見てみなさい。
○○○億円もあるやないか。
このお金を君が現金に換えてきて、
月末の決済資金にするんやで。


直に出先とやりとりしながら、売掛金の回収に奔走され、
月末資金残高を確保されたのでした。


お金を借りれば当然利息がかかる。
手持ちの隠れたる財産の中に資金化できるものは眠っている。


私たちの中にある才能や能力、見えている部分だけを
使っているのかもしれません。


火事場の馬鹿力で、信じられない力を発揮するということも
あるようです。


見えざる能力、可能性を信じて問いかけてみたいところです。

金曜担当…小笹正洋



2015年1月29日(木)
ハイテンション                         木曜担当…西端努斗夢

いつ会っても元気いっぱいでテンションの高い人が私のまわりにも何人かいます。
私にはとても真似をすることができません。ただ、ただ、脱帽です。

できるだけ高いテンションでいたいと思うのですが、私の場合、意識してテンションを上げのはしんどいです。それに、「山高ければ谷深し」という言葉があるように、心を高揚させ過ぎると落ち込んだ時との落差が大きくなります。

なので私は最近、できるだけ一つ一つのことに一喜一憂せず淡々と、しかし着実にしっかりと地に足をつけて毎日を過ごすように心がけています。

木曜担当…西端努斗夢



2015年1月28日(水)
甘美なお昼寝                         水曜担当…冨樫功

池田塾長が「眠たいときは、寝にゃならん」という家訓があるとブログに書いておられました。

すばらしい家訓だと思います。
これが社訓の会社があればぜひ働きたいところです。



しかし、忙しい現代人。
なかなかそうもいきません。
眠たくても睡眠時間を確保できない方も多いかと思います。


午前中の疲労を五分で回復する方法があるのを御存知でしょうか。

それは、昼寝です。
人類始まって以来定番の方法だと思いますが、効果は絶大です。
昼寝をしたおかげで長生きできたという話は枚挙に暇がありません。

自己啓発界の大家、デール・カーネギーは疲労するまえに休むことが、
疲労を蓄積しない一番の方法だと言っています。

一日分まとめて睡眠をとるより、
昼寝をしたほうが疲労の蓄積が少ないことは科学的にも証明されているそうです。

昼寝は別に長い時間は要りません。
長く寝てしまうとどうしても寝ぼけてしまうので、10分~20分くらいがベストと言われています。

でも、五分眠るだけでも、午後の調子が全然違います。

日本で昼寝の時間を取っているのは保育園か、デイサービスか病院くらいじゃないでしょうか。
日本人が昼寝の習慣をマスターしたら、もっともっと仕事も学習も能率があがると個人的には思います。



労働者の国、中国は、さすがです。
昼休みに加えて昼寝の時間がありました。

はじめは、その分だけ終業時間が遅くなるので、馬鹿げている!と思いました。


でも、その長い昼休み、他にすることもないので皆に習って昼寝をしてみたのです。


以来、そのスッキリ感のとりこになりました。
朝一番の爽快さまではいきませんが、それでもかなり頭がスッキリするのです。


最近は、仕事の都合上昼寝時間を取っていませんが、毎日、昼過ぎに
「五分でいいから寝たいなあ」と思ってしまいます。

論語にも昼寝の話があります。
宰予という弟子は、昼寝を孔子に叱られて、歴史に名を残してしまいました。

さて、これは怠け心なのか、それともさらなる能率や快適を求める向上心なのか。

「眠たいときは、寝にゃならん」


お昼寝休憩を取るかとらないか、真剣に検討したいと思います。

水曜担当…冨樫功



2015年1月27日(火)
「孝」                               火曜担当…坂本欣也

さて、元来をよく押し極めてみれば、
わが身は父母の身を分けて受け、
父母の身は天地の氣を分けて受け、
天地は太虚の氣を受けたるものなれば、
本来、わが身は太虚神明の分身変化なる故に、
太虚神明の本体を明らかにして失わざるを以て身をたつると言うなり。

中江藤樹、『翁問答』

そもそも、大本を突き詰めて良く考えてみれば、
私の身体は、両親の身体から生まれてきた。
両親の身体は、天地自然の氣・エネルギーから生まれてきた。
天地自然は、宇宙の氣・エネルギーから生まれてきたものであるから、
そもそも、私の身体は、その宇宙を司る神(宇宙神)の分身ということになる。
それ故に、その宇宙神の存在を実感し、その本体と常に一体であることを忘れずに生きることが、聖人の道なのである。

と、私なりに解釈しました。

宇宙の最小単位が自分自身であり、次に父母の存在であり、祖先を何代にも渡り、宇宙の誕生から脈々と繋がっている、命の存在であるという壮大な宇宙観に感動しました。

宇宙神は、万物に対して、ひと時も絶えず無償の愛とエネルギーを公平に与え続けている。
その本体が、父母の中にあり、私たちに受け継がれている。

この考え方は、「私たち人間は、宇宙霊の直接分派である」という天風哲学と共通していると思いました。
私たちは、宇宙霊という父母から生を受け、常に育まれ、守られている存在。

故に、「不孤」。孤ならず。

「孝」は、近江聖人・中江藤樹が一番大切に実行し、人々に説いていた最高徳目。

全ての人々が、「孝」という仁の心を以て、全ての人々に接することができれば、ひいては社会が平和になる。

斉家、治国、平天下とつながる。

「孝行」が、最小単位にして、全てに通じる聖人への最大の行いであることの背景を、教えてもらいました。

火曜担当…坂本欣也



2015年1月26日(月)
わが家の家訓                         月曜担当…池田光

「眠たいときは、寝にゃならん」
これがわが家の家訓です。
(※実際は、「眠たいときは、寝なあかん」と関西弁です)

さて、この言葉が家訓となったのは、次のような出来事があったからでした。

■成績低下の原因は?
息子が小学5年のときです。
塾に通っていたのですが、
そこでの成績が急転直下的に悪くなりました。

どうしてだろうと答案を見ると、注意不足によるミスが目立っていました。
「睡眠不足のためではないか」
と仮説を立てました。

午後5時から夜の9時まで塾があります。
行き帰りの時間や、塾から出るたくさんの宿題をこなす時間を加味しますと、
寝るのは、どうしても夜の12時を過ぎるのです。

(こんなにまでして、小学生が塾に通う必要があるのか
というご意見もあることでしょうが、確かに進学塾の事情は大変で、
夏休みなどはお弁当を持参して、朝から夜まで勉強です。
中学受験がいちばん大変かもしれません)

■解決法①
睡眠時間をたっぷり取るようにすると、成績は元に戻りました。
「睡眠不足のために、成績が落ちた」
という仮説は正解だったようです。

子どもが眠いのかどうかは、目を見るとわかります。
そこで、宿題ができていなくても、眠そうな目をしていると、寝かせました。
すると、日々の細切れ時間で、宿題ができるようになるものです。
また、寝ると能率が上がり、宿題にかかる時間が短くなりました。

その大義名分として(つまり、子どもたちに納得させるために)、
「眠たいときは、寝なあかん」
と、家訓にかかげたのです。

実際に寝ると成績が上がったので、この言葉は家族から支持され、
今も家訓として通用しています。

ただ、
「世間には恥ずかしくて言えない、世界でいちばんつまらない家訓だ」
とみんな思っているようです。

■解決法②
もう一つ、僕は解決策を出しました。
学校を休む基準を下げたのです。
「眠いときは、学校を休む」
としました。
そして、この基準は「眠たいときは、寝なあかん」という家訓から認められるんだ、
と説明しました。

ふつう、学校を休むのは、やむをえないときで、
例えば、病気というのが理由になります。
が、寝不足が重なると、実際に学校を休ませました。
(年に5、6日程度だったでしょうか)

寝不足で休んでいますから、
朝の9時や10時くらいまで寝ると、元気を持てあますほどになります。
また、塾の宿題も終わっているので、逆に一日をだらだら過ごしがちになります。

これでは逆効果だと、僕は、映画館に行くことを勧めました。
家内と息子の二人で、です。
そのあと、食事を楽しむようにして、それから塾に通うわけです。

眠いと朝寝坊させ、映画を観てリフレッシュする……。
ふだんはテレビも見られないハードスケジュールですから、
映画館に行くというのは心理的な効果があり、
これが功を奏して成績はさらに上りました。

■悪影響はないか?
こんなふうに、学校を休んで朝寝坊し、映画を観るとなると、
子どもに悪影響はないか、と思われるのではないでしょうか?

つまり、成績は良くなっても、人間としてダメになるのではないか、
という疑問です。

すでに子どもたちは、社会人になっています。
が、今のところ悪影響は認められません。
(僕は、厳格な家庭に育ちました。
が、そんな僕のほうが、子どもたちよりだらしない生活をしています)

ところで、娘は、その頃は中学生だったのですが、
「弟はきょう、学校を休んで映画に行ってるねん」
と友だちに話したそうです。

すると、友だちは、
「お父さんに叱られるわ」
と言ったそうですが、
「お父さんが、勧めてん」
と答えると、みんな変な顔をしたとか……。

娘は帰ってきて、
「みんな、変な顔をした。外で言わないほうがいいわ」
と言いました。
娘は、僕のやっていることが標準的なことなのか、世のなかで認められるのか、
を試すことが多く、そのときも友だちに話して反応を調べたのでしょう。

ところで現在、娘も息子も、
「眠いときは、学校を休む」
という基準を、
「眠いときは、会社を休む」
という悪適用はしていません。

むしろ、
「眠くなく会社に行ける」
ように、
「眠たいときは、寝なあかん」
を、未然に防ぐ知恵として活用しているようです。

月曜担当…池田光

2015年1月25日(日)
「知命」                             日曜担当…八木正典

孔子曰く、命を知らざれば、以て君子たること無きなり。礼を知らざれば、以て立つこと無きなり。言を知らざれば、以て人を知ること無きなり。(論語、堯曰第二十)

先週、仮名論語で毎朝2題ずつ素読してきた論語が読み終わりました。
何の因果か2007年から論語を読んでおりますが、この言葉を読むと毎回、「ああ今回も終わったな。」という気持ちと「まったく自分の使命なんて分かってないから君子どころじゃないな、また1からのスタートだな。」という気持ちが湧き上がります。
あの孔子ですら五十にして天命を知ったわけです。簡単にわかるはずもありません。
これからも焦らず、あきらめず、歩みを止めず、自分がどうあるべきかを考えながら進んでいきたいものです。

日曜担当…八木正典



2015年1月23日(金)
あっぱれ!                           金曜担当…小笹正洋

江戸時代のお話しです。
師と仰ぐべき人を求め、一人の青年が岡山を旅立ちました。

旅先の近江の国の宿での出来事です。


襖を隔てた隣りの部屋で、知り合いになったばかりの二人の旅人が話し合っていた。

その一人は武士でした。

隣室からの会話が、青年の耳に聞こえてきた。


武士はこう語っていた。


主君から数百両の金を預けられ、財布をいつもは肌身につけて持っていたが、
この村へ来て馬に乗ったときには、その財布を馬の鞍に結びつけていた。
宿に着いたとき、うっかりして鞍につけていたその財布のことを忘れ、
馬を馬子といっしょに帰してしまった。

やがて、そのことに気づいた彼はびっくりした。

武士は、馬子の名も知らず、財布を探し出すことができない。


主君に詫びて許されるのは・・・・・

ただ腹を切るしかなかった。


家老と親族宛に遺書をしたため終わった真夜中に、
宿の戸口を激しくたたく物音がした。

人夫の身なりをした男が面会を求めていると知らされた。


その男は、なんと昼の馬子であった。


馬子は財布を差し出した。

お礼としてその4分の1の金を受け取ってくれという武士の願いに対して、

「これはあなたの財布だからあなたが持っておられて当然です」
と言って彼は受け取らなかった。

15両、5両、2両、1両と渡そうとしても駄目だった。


馬子の家からの4里の道を歩いてきたわらじ代として四文の金を求めただけでした。
(1両は四分で、四千文)

なんとかして、武士は馬子にやっと二百文の金を受け取ってもらった。


「こういう無欲で正直な人と出会おうとは、自分は思ってもみなかった」

それに答えて馬子は、

「私のところの小川村に中江藤樹という人が住んでおられ、
利益をあげることだけが人生の目的ではない。
常に正直で、正しい道、人の道に従うことです。
と私たちに教えてくださっているのです。
私たちはその教えに従っているだけです」



話を聞き終えた青年は、膝を打って言った。

「その人こそ私の探し求めていた聖人だ。
明朝彼のところへ行って、弟子にしていただこう」と。

三日三晩藤樹の家の玄関でとどまった後に、藤樹の母のとりなしで
ようやく、青年は藤樹の弟子となることができました。


このお話しは、「代表的日本人」(内村鑑三:著)の中江藤樹のお話しに
でてくる一節で、青年の名は熊沢蕃山。
蕃山の思想は後に藤田東湖、吉田松陰などが傾倒し、倒幕・明治維新の
原動力となっていきました。

明治43年(1910年)には、蕃山に正四位が贈呈されました。

金曜担当…小笹正洋



2015年1月22日(木)
祖母の手紙                           木曜担当…西端努斗夢

サッカー日本代表の長友佑都選手が自身の著書『上昇思考』(角川書店)の中で祖母からの手紙を披露していますが、この内容に感動しました。この御祖母様はすごい人だと思います。
長友選手は、試合前に何度もこの手紙を繰り返し読んでいるそうです。

最高の成績で日本に帰り、嬉しいですね。
普段の心がけと努力の賜物と思います。
サッカーに対する考え方に変化があったように受けとめています。
ほんとうに心の躍る試合でした。
思いが身体を支配しています。
いつも誰かのためにと思ってプレイをしていれば、それ以上の力を出せます。
日常生活でも、基礎の部分がしっかりしていると、とっさのとき、何が起きたときにも、どうにでも補えます。
ピンチを抜けだせる基礎のある人は、出来、不出来がなく安定しています。
人生は順調に成功していくばかりではありません。
成功は人間の表面を飾ります。
失敗は内面を豊かにします。
人間の成長のために失敗は用意されています。
失敗には成功に劣らぬ報酬があります。
失敗を恐れて何もしないでいては、生涯、失敗ばかりになります。
人は、表現する言葉を失ったときにキレます。
多くの言葉を用意して、褒めの言葉を考えておくことです。
人の心をほぐすマッサージの言葉です。
困ったときは自分の本(筆者注:長友選手の前著『日本男児』)を読みましょう。
機会があれば、宮沢賢治さんの本を読みましょう。
生活は質素に、志は高く、物を大切に。
とくにユニフォーム、スパイクなど自分の分身と思ってください。
日本の空気をしっかり吸って、1月からの試合に向けて、心をやわらかく、ふにゃふにゃでいきましょう。


私もいつか孫ができたらこんな手紙を送りたいと思いますが、それにはまだだま時間と修養が必要です。

木曜担当…西端努斗夢



2015年1月21日(水)
不朽の名著                           水曜担当…冨樫功

自己啓発の本に、デール・カーネギーの「人を動かす」と「道は開ける」という本があります。

この二冊は時代を超越した古典として残るのではないかと思われてなりません。
すでにデールが亡くなってから60年の月日が経とうというのに、この二冊の輝きは全く失われていないからです。


人間関係を説く「人を動かす」、そして人生全般の悩みへの処方箋を書いた「道は開ける」。

二冊とも、読むたびに感動してしまいます。
なにしろ事例が豊富で、その事例に常にひきこまれるのです。
そして、生き生きとした事例のあとに、そのエッセンスを一行でまとめてくれます。
この構成のわかりやすさが群を抜いて優れていると思います。


人間はエピソードでしか教訓を理解できないと聞いたことがあります。

もちろん、言葉だけの理解はできます。
しかし、その言葉と現実の距離を埋めるのは、事例やエピソードやストーリーしかありません。

キリストやブッダがたとえ話をたくさんしたのも、そのためだと思います。
こどもに絵本やおとぎ話を読み聞かせてあげるのも、そういうことなのだと思います。


人間はながながしい文句を腹に落として理解することは容易にはできないのです。


そして、デールカーネギーは、事例を集め最終的な本の形にするのに、人を動かすには20年、道は開けるには7年かけたそうです。
もちろん、それは執筆への時間であって、それまでの彼の人生の膨大な時間も入っています。
そのかけた時間が、この本にこれだけの説得力といのちを与えているのでしょう。

いつか、自分にもこんな本が書けたら、どれだけすばらしいだろう・・・
なんて妄想してみたりします。

水曜担当…冨樫功



2015年1月20日(火)
「日々是好日」                         火曜担当…坂本欣也

今日も目が覚めました。

いつもの日課をして、心身を整えました。

家族に「おはようございます!」と、元気に挨拶しました。

外に出て、ランニング。

空気に、太陽に、大地に、光に満ちた風景に、歓びと感謝を伝えました。

お蔭様で、今日も元気にお仕事ができます。

夜のビールも美味しいです。

日々是好日

ありがとうございます。

火曜担当…坂本欣也



2015年1月19日(月)
20年前                             月曜担当…池田光

20前の僕は、39歳でした。
神戸に住んでいる僕は、阪神大震災で被災しました。
その頃のことは、ありありと覚えています。

一念発起して、独立したのが38歳。
社員研修の仕事がようやく軌道に乗ってきた矢先でした。

被災したとき、いくつかの仕事が入っていたのですが、
交通網は完全につぶれていて、動くことができません。
元町に置いていた事務所にすら行けません。

鉄骨で新築した自宅は強度があって大丈夫でしたが、
停電ですし、水道はダメ、ガスも通っておらず、
食器類は大半が壊れておりました。
思い出の食器も割れておりました。
書庫は、十数本の書棚がすべて倒れ、
崩れ落ちた本の山を見ると、片付けする力が萎えました。

とにかく停電で電話が使えず、
すでに社員研修の仕事が入っていますから、
近くの公衆電話から先方様に電話するのですが、
なかなか通じません。

数日に渡って、何度も何度も電話して、
ようやく通じると、被災の状態を説明して、
キャンセルさせていただきました。
が、どうしても京都の相手先が通じません。

僕は諦めて、
加古川から播但線に乗り、
さらに福知山線に乗りついで京都に行くことにしました。
被災から四日目のことです。
そこで、資料を取りに元町の事務所まで父の車で行きました。
四日目には、大きな通路は確保されていました。
が、荒廃した街を目の当たりにし、祈らずにはいられませんでした。

事務所は、ビルの一室でしたが、ビルの様相は少し変わっておりました。
まず、ビルの基礎は十数センチほどむきだしになり、
よくぞ倒壊していなかったと安堵しました。
エレベーターは動いていませんでした。

階段で八階まで上がり、部屋に入ろうとしましたが、
二つあるドアの一つは開きませんでした。
什器類が複雑に倒れ、
ドアを塞いでいたからです。
とりあえず、京都の研修に必要な資料だけを取り出しました。

それから二日後。
福知山線で京都に入り、ホテルで前泊しました。
その翌日に、先方様の事務所に入ると、
被災している僕が来るとは思っておられなかったようで、
とても驚いておられました。
その企業からは、研修費とは別に、御見舞金を5万円いただきました。

帰りは、2リットルのペットボトルの水を2本買い、
リュックに背負いました。
とにかく水道が通っておらず、
飲み水にとても困っていました。

こうして、すべての研修をキャンセルし、
京都の研修だけはやり上げると、
家族で加古川の実家に行き、何日か過ごしました。

いろんな物資を調達して、神戸の家に戻ると、
ようやくこれからの生活を考えられるようになっていました。
地元企業様とは顧問契約していたのですが、
被災して先方様も研修どころではなくなり、
多くの仕事はなくなりました。

この数か月間は貯金で食いつないでいましたが、
貯金がなくなるまで、あと半年。
その年の9月末で、ゼロになることが分かりました。
つまり、あと半年間の猶予が僕に残されていました。

40歳を目前にしていた僕は、
「ベストセラーを書くぞ!」
と、ある日目が覚めると、決意を口にしました。

神戸の街が壊れ、
多くの仕事がなくなった僕には、
居ながらにしてできる仕事は、
本を書くことだと思ったのです。

そこで、企画書を作成して、
まず、三つの出版社に送りました。
家内は黙って見ていましたが、
後で聞くと、「可哀そうに」と思っていたそうです。
「被災で頭がおかしくなったのではないか」
とも思ったそうです。

そうですよね、
一年半前に、社員研修の仕事で独立した男が、
被災して先の展望が開けなくなり、
困った末に、
「ベストセラーを書いて、乗り切るぞ」
と突然、口にしたのですから。

結果は、第一候補にあげていた三笠書房から、
当時常務で、名編集長と言われていた方から直々に電話がありました。
オッケーになったのです。
よくぞ、たった一枚の企画書で通ったものだと思います。
B4のペーパーに、主旨、内容、経歴をコンパクトに書いて送っただけです。
幸運としか言えません。

それからの僕は、二か月間、必死で書きました。
何日も徹夜しました。
すべて出し終えると、半年後に出版されました。
初版、4万部。
最初からベストセラーの数字です。
今からすると、信じられないほどの幸運です。

しかも、すぐに続編を書いてほしいと言われ、
一年後には続編が初版5万部発売されました。
荒廃した神戸の街のコンビニにも、
僕の本が並んでいるのを見けたときは、
胸がつめつけられました。

最初の本は、今も出版され続け、
累計15万部を超えるロングセラーになりました。
20年前のあの日がなければ、僕は、このような本を出すこともなく、
今の僕もありません。
何が人生を変えるか分かりません。

震災もあり得ないことでしたが、
ベストセラーになるような本もあり得ないことで、
実は、この先もあり得ないことが続いていきます。

その年の年末に、
東京でコンサルティングの会社を立ち上げないかという相談があり、
取締役として参画しました。
これが大当たりで、最初から一流企業のコンサルティングをやり、
数年後に僕はこの会社のエースとなって、
6人くらいのチームを作って、
いろんなプロジェクトをやりました。

少し遅れて、立花大敬さんとの出会いがありました。
その文章に感動した僕は、
42歳のときに本心庵という出版社をつくって、
編集者や出版人の道を歩み始めました。

ほかにも、いろんな出会いがあり、
それは45歳までに集中的に現われました。
川井信一さんもそうですし、西端努斗夢さんもこの時期に出会いました。
震災からの5年間は、僕にとって、ありえない時期でした。
あのとき、僕は、違うレールに乗り換えたのかもしれません。

月曜担当…池田光



2015年1月18日(日)
「子絶四」                            日曜担当…八木正典

自身の今年のテーマを「常識のデリート」としています。
自分が常識だと考えていることを疑い、消去し、新たなものに置き換えたいのです。
というのも最近出会う本や話の中に全く知らなかった考えや発想が含まれていて、これまで長く正しいと考えていたことが信じられなくなっているのです。
「人は自分の見たいものしか見ない」といいますが、これまでの思考の癖や習慣によって自分の考え方、生き方がコチコチに固まったものになっていることに気づきました。
自分に意識にしっかりと目を向けて、もっと柔軟で豊かな感性を磨いていきたいと思います。

子、四を絶つ。意毋く、必毋く、固毋く、我毋し(論語、子罕第九)

日曜担当…八木正典



2015年1月16日(金)
吉田松陰の学びから・・・                   金曜担当…小笹正洋

糞水を掬(きく)せざれば善農と成ること能(あた)はず、
筋脈(きんみゃく)を断たざれば善工と成ること能はず、
肩背(けんぱい)を傷けざれば善賈となること能はず、
死地を踏まざれば善士と成ること能はず。


「産語」という書物に記されています。著者の太宰春台は、江戸時代に荻生徂徠の下で学んだ儒者であり経済学者でもあります。


糞尿の肥やしを手で掬えるくらいにならないようでは立派な百姓にはなれない。
鉋をかけ、鋸をひいて筋脈を断つぐらい打ち込まなければ、立派な大工にはなれない。
重い荷物を背負って肩背を傷つけるようなところまでやらないと、立派な商人にはなれない。
死ぬような場を経験しなければ、立派な士(さむらい)にはなれない。


という意味になりますが、非常に身の引き締まる内容です。

安岡正篤先生もその書物の序で「西洋近代的な経済科学万能思想の今日、この書は吉田松陰も愛重したように、否それ以上に珍重されてよからうと思ふ。」
と述べられていました。

日々の努力の積み重ねの種子が
やがて立派な花を咲かせる。

コツコツこそ勝つコツ。
ということではないでしょうか。

金曜担当…小笹正洋



2015年1月15日(木)
見方・考え方                          木曜担当…西端努斗夢

幸か不幸かは、置かれた状況や条件で決まるのではなく、ものの見方、考え方で決まると思います。

不幸だと思っている人の置かれている状況や条件が変わったからといって幸せになるとは限りませんが、ものの見方、考え方を変えることによって、置かれている状況や条件がそのままでも幸せになることは可能です。

この「見方・考え方」を極めていこうと思っています。

木曜担当…西端努斗夢



2015年1月14日(水)
日本一の商人の考え方                    水曜担当…冨樫功

最近は、久しぶりに斎藤一人さんにはまっています。

日本を代表する商人の考え方をすこしでも自分のものにしたいと思うからです。


斎藤一人さんといえば、その事業は健康食品の販売。

しかし、その販売方法は、規模と時代の流れで随分変わってきているようです。

初期は、口コミと訪問販売。
中期は、通信販売。

そして現在は、特約店を通した店舗販売が中心となっているそうです。
これだけ売り方を変えながら、生涯納税額日本一というのは、さすがです。

普通は、売る方法が違えばノウハウも違うので、成功は難しいとされています。

著作を読んでいると、いとも簡単に商売をしているような感じもありますが、
この間にはかなりの見えない汗と努力や工夫があったのではないでしょうか。

いくつか、それを感じた言葉を引用したいと思います。

「アイディアなんていうのは、数なんだから。
これ一発で決めようなんて思ってると、出るものもでなくなるんだよ」

「これさえあればというたったひとつの方法、
成功する決定打なんてないんだよ」

「商売というのは、一気にポーンと成功するなんてことはないんだから。
成功するまでは時間がかかるんだよ。
だから、その過程を楽しめるようにしようよってことなんだ よ」

                        以上 「それで元はとれるのかい?」より


斎藤一人さんでも、アイディアは数と言っているのには驚きます。
凡人の自分はアイデアを出して出して出しまくって行かなくてはならない、
と肝に銘じたいと思います。

水曜担当…冨樫功



2015年1月13日(火)
「古代との対話」                        火曜担当…坂本欣也

天理参考館に行ってきました。
<http://www.sankokan.jp/>

世界の生活文化と世界の考古美術の2コーナーに分かれて、数多くの素晴らしい品々が展示されていました。 世界旅行とタイムスリップを同時に体験できるような場所です。

私が最も印象に残ったものの一つが、中国の殷(紀元前17世紀頃)~周の時代の青銅器です。

今から、殷は3500年以上前。日本はまだ石器時代の縄文時代でした。

湧くわく本心塾で学んでいる孔子(紀元前6世紀)の春秋時代からも、更に遡ること500~1000年以上の時代のものです。

当時、青銅器は日常に使われるものではなく、支配者が各種の祭祀の際に、あるいは重要な賓客を迎える際に使用したものであったそうです。

烹煮器、盛食器、飲酒器、水器、楽器

それらには当時の人々が抱いた宇宙観が表されていて、天上には万物を支配する最高神「帝」があり、地上には帝の統率を受けて様々な活動をする神々がいる。青銅器を用いての祭祀は、これらの神々のたたりを鎮め、逆に恩恵を引き出すためのものであった。ということです。

人の世の3000年間を見続けてきた殷の青銅器たちだ。。。。と思って観ていると、
私は不思議な感覚に惹きこまれ、私はそれらの不思議な深い光を放つ青銅器の前で立ちつくしました。

一瞬のことだったか、どれくらいの時間が経ったか、、、ふと我に返りましたが、
その間は心が無になっていたような気がしました。

以前ブログでご紹介した化石ハンターの宇都宮氏が、
「石は私たちにたくさんのことを語りかけてくれている」と仰っていたことを思い出しました。

湧くわく本心塾で中国古典を学んでいることで、昔の中国の人々の暮らしぶりや考え方、生き方を回想できる情報がインプットされ、以前にも増して想像力が旺盛になっているせいかもしれません。

また一つ楽しみが増えました。
有難うございました。

火曜担当…坂本欣也



2015年1月12日(月)
長所伸ばし法                          月曜担当…池田光

先週のブログに、孟子の性善説は「長所伸ばし法」に通じると書きました。
僕は、教師は「長所伸ばし法」の指導をするのが良いと思っています。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか、自分や子どもの学校時代のことを思い出していました。
思い出したなかから、子どもの小中学生の頃のことを少し。
(前半の2つの話は、「長所伸ばし法」とは関係ありませんが)

■その1
「お母さんがどんな一日を送っているのか、お母さんに尋ねてまとめましょう」
という宿題が、娘の中学の家庭科で出されました。

「お母さんは、どんな一日を送っているの?」
と娘が聞いたので、
「なんであなたにそんなことを話さないといけないの。これは、プライベートなことです」
と答えたそうです。

娘は、そのままを先生に告げたところ、先生から、
「確かにプライベートなことです。申し訳ありません」
と謝罪がありました。(※謝罪の手紙を持ち帰ってきました)

娘が「宿題」という背景を言わないので、そういう答えをしたのですが、次の話もその類です。

■その2
「お父さんに、お仕事の日と、お休みの日をどう過ごしているのか、過ごし方の違いを聞いてきましょう」
という宿題が家庭科で出されました。

「僕の仕事に、休みの日とか、休みでない日というような区別はない。つまらん質問をするな」
みたいなことを答えたようで、
これもそのまま先生に伝えたようで、謝罪がありました。

娘はどうも、「宿題だから……」という前提を意識的に外して、課題そのものを親にぶつけて、どう答えるかを試したようでした。

■その3
息子は算数の問題がでると、独自な解き方をする傾向があり、
小学校では、解き方が違うので、答えが合っていても「バツ」になることがよくありました。
だから、算数の成績は良くありませんでした。
懇談会では、先生から「よく理解できていませんね」と指導を受けました。

進学塾はその反対で、解き方が違っていても「○」になっていて、
塾の面談では、その独自性を褒めていただけました。

やがて息子は、数学科に進み、数学基礎論を専攻しました。
院では、ゼミの准教授から研究者の道を歩むことを薦められました。

さて、その頃の僕は、どうしたかというと、
小学校での算数のテストを、たまに採点し直しました。
そして、解き方が違っていても、正しければ「○」とし、
「こちらのほうが本当の成績だ」
と返してやりました。

が、心のなかでは、そのまま公立の中学にあがると、
息子は学校から理解されず、その長所が逆に短所になるだろうなと心配しました。
(ちなみに中学からは私立に通いました。 
↑地元中学を見学し、塾や中学に通っている親から聞いて、そう判断しました。
が、公立が合っているという子どももいると思います。
これは、人と環境のフィットの問題として受けとめてください)

■以下は僕の思いです。
教師は、
・人(生徒)には絶対に長所があると信じて、
・その長所を見つけ、伸ばすことが仕事だ、
という使命観を持ってほしい。

荀子の性悪説は「短所矯正法」に通じると前回のブログでふれましたが、僕は、「短所矯正法」を中心に据えるのはあまり良くないと思っています。

中心に据えるのは、やはり「長所伸ばし法」であり、それを補完する形で「短所矯正法」を用いるべきだと思っております。

月曜担当…池田光



2015年1月11日(日)
「潜学講座」                           日曜担当…八木正典

新年1回目の潜学講座に参加しました。今年も心新たに更なる学びを続けたいと感じる刺激を受ける講座でした。
秦先生からは「看護現場から得たもの」とのテーマで、看護現場の最前線で働く立場から多くの事例を交えて興味深い話をいただきました。QOL(クオリティオブライフ/命の質を高める)に向けてどういう生き方をするか、どういう死に方をするのか、更に今の一瞬一瞬を大切にしていくとの話は、普段死を考えていることから目をそむけている自分にとって非常に考えさせられるものでした。
若宮先生の講義では、「管鮑の交わり」と「貧交行」について教えていただきました。管仲、鮑叔、桓公のそれぞれの人間的特徴を学べたことに加え、刎頸の交わり、水魚の交わり等中国の歴史の中であった深い交わりも説明いただきました。中国古典を更に深く深く学んでみたいという気持ちがわきました。

「死を恐れるのは人間の本能である。だが、死を恐れるよりも、死の準備のないことを恐れた方がいい。人はいつも死に直面している。それだけに生は尊い。そしてそれだけに、与えられている生命を最大に生かさなければならないのである。それを考えるのがすなわち死の準備である。そしてそれが生の準備となるのである」(松下幸之助)

一日一日生きていることに感謝し、自分をどう生かすか、どう成長させるかを考えながら今日も全力で価値高く生きていきたいと思います。

日曜担当…八木正典



2015年1月9日(金)
落とした十文銭は・・・                     金曜担当…小笹正洋

鎌倉時代のお話です。

青戸左衛門という武将の家来が、夜道を歩く中で10文銭を
川に落とし、そのまま帰って青戸に報告したところ、青戸は
50文銭で松明を購入して10文銭を探し出しました。
これにより、散じた50文銭で自分の懐は痛めたものの、
50文銭は松明を売った人の手に渡り、世の中に流通していくし、
当然拾い上げた10文銭は手元にある。
こうして合計60文銭を活かしたことになり、天下の財産を守った
ことになるとしました。

この天下公に立った行動を石田梅岩は著書「都鄙問答」の中で
大いに評価したのでした。

お金は稼ぎ方も大切であるが、使い方はもっと大切である。
とはよく耳にします。

合理化や効率化を追及すること賞賛を得、ややもすればそちらの方に
偏って行ってしまいがちな今の世の中において、一石を投じるお話し
ではないでしょうか。

金曜担当…小笹正洋



2015年1月8日(木)
誕生日                             木曜担当…西端努斗夢

1月8日は私の誕生日です。
何年か前から私は、誕生日は生まれたことを祝うだけでなく、生んでくれた両親に感謝をする日にしています。

私を生んでくれた両親、両親を生んでくれた祖父母、祖父母を生んでくれた・・・
ご先祖様に感謝する日が誕生日です。

とは言うものの、この年になって親に面と向かって「ありがとう」と言葉にするのは照れくさく、一人の部屋で手を合わせ、小さく呟くだけです。

木曜担当…西端努斗夢



2015年1月7日(水)
アー・ユー・ハッピー?                    水曜担当…冨樫功

2015年がスタートしましたね。
昨日、今日あたりでほとんどの方が仕事始めをされたと思います。

自分もはじめたばかりの仕事ではありますが、
気分も新たに仕事を始めました。

元気に働くことができるはありがたいことです。

働けるのも、自分の力だけではありません。
健康も、環境も、大いなる力に生かされてこそだと思います。


正月に矢沢永吉さんの自叙伝、「アー・ユー・ハッピー?」を読みました。
処女作の「成りあがり」も面白いですが、
それから20年以上後に綴られたこの本も最高でした。

おそらく糸井重里さんがインタビューして、
それを書き起こしていると思うのですが、
普通の作家にはないボキャブラリーが新鮮でサクっと読めてしまいます。

冒頭から、30億円以上の借金を背負ってしまった話からはじまります。
それらをすべて落とし前をつけます。

至極まっとうなアプローチでトラブルに立ち向かっていく姿勢は、
さすがカリスマです。

そしてそのルーツはおばあちゃんの生きざまにあるそうです。
息子や娘に頼ることなく、市役所で芝刈りの仕事をもらって、
70いくつでも自立し、中学生の永吉少年を育てていたとのこと。

「ほんとうに貧乏だったけど、おばあちゃんは教えてくれた。
 誰にも頼ることなく、自分の手で稼いで、
 それで食べていくのが一番カンファタブルなんだっていうことを。」


自分は独立1年目です。
自立できるように、頭も心も体もフル回転で頑張っていこうと思います。

そして、「アイ・アム・ハッピー!!」と答えられるように。

水曜担当…冨樫功



2015年1月6日(火)
「梵我一如」                           火曜担当…坂本欣也

2015年の私担当の最初のブログとなりました。
今年も湧くわく宜しくお願いいたします。

私の今年のテーマは、「梵我一如」としたいと思います。

これは大それたことを!と思われるかもしれませんが、
私は、「肩の力を抜いて、ゆるゆると生きる」ことをイメージしています。

意識しないまでも、私たちは大いなるものの一部であり、その大いなるものから様々なものを戴いて存在しています。

空気、水、大地、光、自然、先祖、両親、家族、友人、自分の心身、仕事、課題、困難、全ての出来事、人との出逢い、言葉、本、尚友の気縁、インスピレーション、思考、湧くわく本心塾、このブログ、、、、、無限の万物、遍満存在するエネルギー、目に見えないつながり、そして宇宙そのものです。

「宇宙の進化向上」「世の人のために役に立つ」「自らの魂を研き向上させる」という天風哲学をはじめとする多くの真理の共通目的の遂行の前提として、今一度この真理を「常に実感して感謝していたい」と思います。

とは言え、この真理を「常に」実感して感謝することが、難しいのです。すぐに忘れてしまうのです。

日常生活の中で、このことを簡単に忘れ、自分が先に立ち、自分だけで何とかしようとする、自分だけの力だけで生きている、成し遂げたと錯覚する。その心の隙から、「傲」が湧き出てくる。

そして、また困難に遭遇することで反省し、その真理の存在と有難さに気づき感謝し、「謙」の気持ちが戻る。。。。を繰り返してしまう。

そうならないために、「梵我一如」という大それた言葉、最終ゴールイメージを強く心に持つことで、枝葉末節に囚われないように、そしてお蔭様にお任せし、一年を過ごしてみたいと思います。 

そうすることで、心が洗われ、無駄なものが削ぎ落とされ、
「本心が湧く湧く」の状態になるような気がするのです。 

これも戴きもののインスピレーションです。
感謝です。

火曜担当…坂本欣也



2015年1月5日(月)
今年の抱負                           月曜担当…池田光

なかなかできないことではありますが、
僕は、次の三項目をこれからの指針としたいと思っています。

①【慎独】徳を積むとは、独りを慎むことにある。
②【本心】性の表を善と信じて、本心のままに生きる。
③【只坐】意識をこねまわさず、ただ坐る。

これを一言でまとめると、次の言葉になります。

「慎独只坐道(しんどくしざどう)」

この道を、僕は、今年から意識的に歩んで行きたいと思います。
少し、解説しましょう。

■「【慎独】徳を積むとは、独りを慎むことにある」ということについて
人を動かすのは、「徳」だと思います。
その根本には、慎独(=独りを慎むこと)があると思いますが、
これがなかなかできません。
「慎独」は、僕の今後の課題であり、
今は、人様に言うべき体験も、言葉も持っておりません。

■「【本心】性の表を善と信じて、本心のままに生きる」ということについて
「性」というのは、性善説とか、性悪説の頭についている漢字の「性」です。
僕は、孟子の性善説、荀子の性悪性をいろんな解説書で学びましたが、
実際に原典である『孟子』と『荀子』を読んでみると、
「おやっ、解説書の書いてあったのと、かなり印象が違うぞ」
と思いました。
まして、通俗書には、まったく間違った知識を書いているのではないか、とさえ思えました。

この孟子の性善説、荀子の性悪性については、「潜学講座」で昨年12月にお話させていただきました。
僕が話したことを、事務局長の西端努斗夢さんは、
「コインの片面が善、もう片面が悪とすると、孟子は善を表側にしたので性善説であり、荀子は悪を表側にしたので性悪説なのですね」
とまとめてくれました。
僕が原典を読んで理解したのは、まさに、その通りです。
性善説とは、人は生まれながらに善一色だという説ではありません。
同様に、性悪説とは、人は生まれながらに悪一色だという説ではありません。
そんな単純なものではなく、人は生まれながらに善悪の両面が具わっているけれども、どちらのウエイトが高いのか=コインの表側にしたのか、ということです。

孟子も荀子も、両者とも儒者であるかぎり、目標とする「良い政治をして、良い社会を形成しよう」というところは同じです。
しかし、どちらを表側にしたのかで、まったく目標達成へのアプローチは変わってきます。
そんなことを講座ではお話しました。

また、善とか悪とかいうけれども、これは人倫における価値観であり、人倫を離れたら、じつは善とか悪とかは無いのだとも思います。

それはそれとして、人倫の立場から、人の性には善と悪の両者が具わっているけれども、
僕は、表側は善だと信じて、孟子の方法論で生きていきたいと思っています。
これは信念です。

ちょっと論理は飛躍しますが、
教育で言えば、性善説の立場をとる孟子のアプローチは「長所伸ばし法」であり、
性悪説の立場をとる荀子のアプローチは「短所矯正法」に相当します。

僕は、じつは短所を矯正したり、人を型ハメしたりする教育法は大嫌いです。
僕が入学した中学校は、そういう荀子型の学校でした。
まったく僕には合わず、中一の時に登校拒否をしました。
そのときから僕は、
「自分の長所を伸ばしてくれる学校で学びたい」
あるいは、
「自分の長所を伸ばして、その道で社会を生きていきたい」
と思うようになりました。

僕の子どもには、得意なことや、好きなことを徹底的にやれる環境をつくりました。
ただ、学校を卒業できないと困るので、
息子の通っていた学校は「二科目欠点を取ると留年になる」という校則がありましたので、
「一科目だけは捨てたらいい。一切勉強せずに〇点を取ったらいいんだ」
とアドバイスして、そこから確保した時間を長所伸ばし(=数学の勉強)に充てるようにとアドバイスしました。
このように僕は、けっこう極論を言ったものです。
学校が指導したのは、
「数学はできるのだからほどほどに勉強して、まんべんなく時間配分して欠点を取らないように」
というものです。

このように、学校の指導と、僕の考えがたびたび矛盾するので、結果として、子供たちは自分の頭で考えるようになりました。
現在、子どもたちは社会人になりましたが、学校時代に得意なものを伸ばしていき、その道での専門職についています。
僕は極論を言いましたが、結果的には、学校のアドバイスよりはマシだったと思っています。

ちょっと話がずれましたし、論理もおかしくなりました。
さて、性の表が「善」というのは、人には善なる「本心」が具わっているということです。
この本心を素直に発揮するという生き方を、僕は選びたいと思っています。

素直に発揮すると書きましたが、発達心理学的に、
① 成熟前の「本心」
② 「気質」と「本心」の葛藤
③ 成熟した「本心」
というプロセスをたどるのだと思います。

上記の①は、持って生まれたままの本心です。これが、②の葛藤を経て自己確立し、③の成熟した、鍛えられた「本心」を持つ人間になるのだと思います。

ただ②の段階で負けないように、孟子は「本心伸ばし法」を取りましたし、荀子は「気質矯正法」を取ったのだと思います。
ホンネを言うと、「長所伸ばし法」七、八割、「短所矯正法」二、三割をブレンドした教育をすると良いと思っております。

■「【只坐】意識をこねまわさず、ただ坐る」ということについて
僕は、二十代の頃から瞑想に惹かれていました。
数年前、マインドフルネスを数か月やってみて、
ふと、大きな疑問が湧き、今では「瞑想」を敬遠しています。
どんな疑問かと言うと、「意識をこねまわしている」と感じたのです。

数息観を勧められたこともあります。
「まず、坐禅の最初に、数息観で精神集中してみたらいいよ」
とアドバイスされ、何度かやってみたのですが、今では不用だと感じています。

マインドフルネスも、数息観も、坐禅とは別物です。
ちなみに、僕は坐禅をしようとしたので、この両者を不用だと思っただけです。
別に、これらを否定しているのではありません、念のため。

天風先生のブザーやお鈴を使う方法は、
「精神統一」を目的とするものであり、
さらには「無念無想の境地に達入する」ことを目的とするものですが、
確かに精神を集中させようという目的のためには効果的だと思います。
しかし、僕がやろうとしているのは、坐禅であり、
ブザーやお鈴を使う方法では、やはり「意識をこねまわす」ことになるので、
かつては実践しましたが、今では使っていません。

ただ坐る。
もちろん、最初は雑念妄念がもやもやと湧いてきます。
しかし、雑念が湧こうと、妄念が湧こうと、
湧けば湧くままにして、
そんなものを相手にせずに、ただ坐る。

上記の「精神集中」という方法は、
この雑念妄念に対抗しようとして、
意識をこねまわしているように感じるのです。
これらの方法は、確かに効果があるでしょう。
結果として、精神は集中することでしょう。
ですが、それが何だというのでしょう。
「雑念妄念という意識」と、「雑念妄念に打ち勝とうとする意識」の
こねくりまわし合戦をしているだけです。
ただ、天風先生が教えているように、
その果てに、一瞬の「空」を体験することはありますが……。

こうした「雑念妄念という意識」と「雑念妄念に打ち勝とうとする意識」の
こねくりまわしの構図は、長年、僕がやってきたことです。
また、この構図から一瞬解き放たれて、「空」に達入する、
という天風式の方法を数十年もやってきました。

が、今は、違った考え方をしています。
僕は、ここ数年、長岡禅塾をベースにして、
臨済宗、曹洞宗の別なく、坐禅会に参加しました。
あるときのことです。
雑念が湧こうと、妄念が湧こうと、湧くままに放置して、
何時間も坐っていました。
このように、ただ坐っていたら、「底が抜ける」ように、
何かが落ちるという体験をしました。
その体験のあとも、雑念妄念は湧きますが、
すっと消えていくようになりました。

「雑念妄念という意識」と「雑念妄念に打ち勝とうとする意識」の
こねくりまわしの構図から解放された一瞬です。
「ただ、坐る」とは、そういうことなんだ、と会得しました。

最初は、ただ、坐わっていれば、雑念と妄念でいっぱいになります。
一時間坐れば、きっちり一時間、雑念妄念にとりつかれます。
が、坐わり続けていると、ポコンと底が抜けて何かが落ちる。
その瞬間、これからも雑念妄念は湧くだろうけれども、
雑念妄念から解放されます。

雑念妄念など、
雲のように、来ては、去っていくだけのことです。
それより実感として、本心が感じられます。
あるいは本心になり切れます。
それを信じることです。

■今年の抱負
冒頭で述べたように、「慎独只坐道」を歩んで行きます。
これは、ここ数年の僕の思索の結論であり、今年一年の抱負だけでなく、これからの生き方の方針であります。

※追記。
「慎独只坐道」を掲げることにより、「立腰瞑想道」を廃棄します。
「立腰」は、間違いではありませんが、正しい方法ではないと考えるようになりました。
これは外からの押しつけであり、型ハメであり、荀子的です。
「立腰道」を唱えている方がいらっしゃいますが、その方の思想は素晴らしいもので、僕は尊敬していますが、やり方はあまり良くありません。
結果しとして、「腰が立つ」のなら良いのですが、その方が教えているのは外からの押し付けであり、礼儀正しく見えるでしょうが、腰を悪くするだけです。
また、「瞑想」を敬遠するというのは、すでに述べた通りです。
つまり、「立腰瞑想道」はあまり良くない方法だと自己批判する次第です。

月曜担当…池田光



2015年1月4日(日)
「新年を迎えて」                        日曜担当…八木正典

新年あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

年始に実家で今年の目標を考えていたのですが、何も思いつかず、悩んでいるうちにふと昔読んだ詩が浮かびました。
愛媛で教師をしながら詩を作っていた坂村真民さんの作品です。
今年はこの詩を意識して日々活動することを目標とします。
どれだけのことができるか分かりませんが、自分でできる何かを全力で行っていきたいと思います。

『あとからくる者のために』
あとからくる者のために
苦労をするのだ 我慢をするのだ
田を耕し種を用意しておくのだ

あとからくる者のために
しんみんよお前は 詩を書いておくのだ

あとからくる者のために
山を川を海を きれいにしておくのだ

あああとからくる者のために
みなそれぞれの力を傾けるのだ

あとからあとから続いてくる
あの可愛い者たちのために
未来を受け継ぐ者たちのために
みな夫々自分で出来る何かをしてゆくのだ

日曜担当…八木正典



2015年1月2日(金)
摂生・・・                            金曜担当…小笹正洋

新年明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

年末年始にかけての挨拶や忘年会や新年会などで、心身共に負荷をかけている時期ではないでしょうか。

そんな折に、貝原益軒の「養生訓」という書物の中に、摂生の七養という教えが目に止まりました。

曰く、

一には言をすくなくして内気を養ふ。
二には色慾を戒めて精気を養ふ。
三には滋味を薄くして血気を養ふ。
四には津液(唾液)をのんで臓器を養ふ。
五には怒をおさえて肝気を養ふ。
六には飲食を節にして胃気を養ふ。
七には思慮をすくなくして心気を養ふ。


睡眠の多寡については触れられていませんが、眠いと思ったときに寝たらよいということなのでしょうね。

金曜担当…小笹正洋



2015年1月1日(木)
365日 元日                          木曜担当…西端努斗夢

あけましておめでとうございます。
「今年も1年、ありがとうございます」と、初詣で神様に感謝の前払いをしてきました。

新年、最初のブログを担当させていただき、それだけで素晴らしい年になるのではないかと、ワクワクしています。

新しい年を迎えることができたことを歳神さまに感謝すると気分も新たになり、力が湧いてきます。
そんな元日を特別な日にするのではなく、日々、新しい日を迎えることができたことに感謝し、気分も新たに1年365日を過ごしたいと思います。

木曜担当…西端努斗夢



2014年12月31日(水)
大晦日                              水曜担当…冨樫功

今西最高顧問にお願いしていた色紙を届けていただきました。

とてもすばらしい色紙なので、共有させていただきたいと思います。
新年を迎えるにふさわしい、縁起の良い、そしてやさしい色彩の色紙です。



今年は湧くわく本心塾で多くの学びをいただきました。
潜学講座の学びももちろんですが、塾での出会いも大きかったです。

その学びを実践していけるようがんばっていきたいと思います。


ところで儒教の一番のよりどころである論語には、
孔子や弟子たちの言行が記録されていますが、
そこには奇跡がありません。

奇跡がないのに、2500年以上受け継がれているという奇跡。
来年も引き続き中国古典の学習もしていきたいと思います。


年を経るごとに思いますが、一年があっという間でした。


あっという間に何もせず終わってしまうことがないように、
来年の計画をしっかり立てたいと思います。


お世話になった皆様、ありがとうございました。
来年もよろしくお願い致します。

水曜担当…冨樫功



2014年12月30日(火)
「単騎、千里を走る。」                    火曜担当…坂本欣也

私も、高倉健さんが大好きでした。
健さんの悲報は、私にとっても、2014年のもっとも大きな出来事の一つでした。

新入社員のころ、仕事での理不尽さや自分の不甲斐なさに憤りを感じていた初心(うぶ)な頃の私が、帰る途中のレンタルビデオ屋で、健さんの映画を借りて帰って観て、正義のあるべき姿がこれだ!とスカッとしてから寝ていた日々のことを思い出します。 

先日、『単騎、千里を走る。』 (2005年)を観ました。

張芸謀 (チャン・イーモウ)監督が、この映画を撮るなら高倉健さんしか考えられないと、5年がかりで健さんと脚本を練って完成させた作品です。

言葉の壁、文化の壁を越え、見知らぬ日本人と中国人がつながっていく。そして、親子がつながっていく。ストーリーはシンプルで素朴、先が予想できそうな展開なのですが、
途中から、一つ一つのシーンに涙が止まらなくなりました。

作品を観終わった後、DVDの中に収録されている「張芸謀、高倉健、心の旅」を見て、
その答えが見つかりました。

健さんは、「完成した作品よりも、皆との思い出と心の交流が大切」と、張監督に話されていたそうです。

撮り終えた張さんは、
「高倉さんほど思いやりをもった俳優を知りません」
「高倉さんの人に対する思いやりと尊重は、本当に心からのもの。普通の人間の境地を遥かに超えている」

と、高倉さんのことを話していました。

ご存知の通り、健さんは、中国でも大人気でした。
寡黙で謙虚、一志を貫く「慎独」の姿勢に、日中両国の人々は、理想として憧れ尊敬される「君子」の姿を、健さんに見ていたのかもしれません。

撮影現場では、他の俳優やスタッフに気を使い、椅子には一切座らなかったそうです。
健さんは、中国でもそれを実践されていたそうです。

「此謂誠於中形於外。故君子必慎其独也。」
(心中が誠であれば、それは自ずと外に現れる。故に、君子はまず自らを慎まねばならない。)

この映画は、健さんが74歳の頃の作品で、人生の集大成とも言える作品です。
子供や老人、すべての人々と接する無邪気な笑顔の健さんがとても印象的でした。
健さんの熟成された「氣」が他の俳優やスタッフを取り込み、観客まで巻き込んでいく。

「七十而従心所欲不踰矩」 
「老者安之、朋友信之、少者懐之」

「入廛垂手」にまで達した姿にも見えました。

君子とは、国や文化、言葉を越えて、万人から愛され尊敬される人なのですね。
グローバル人財の理想の姿です。

火曜担当…坂本欣也



2014年12月29日(月)
『大丈夫・そのまま!』                    月曜担当…池田光

大敬先生が書き綴られている『しあわせ通信』。
その第九集が出ました。
『大丈夫・そのまま! ~自分が自分に帰る旅』という書名です。

■十牛図
この本のテーマのひとつは、「十牛図」です。

十牛図というのは、中国宋代の禅宗の書。
仏道に入門してから悟りに至る修行のプロセスを、
牧者と牛に託して、
十枚の図と、頌(じゅ)という漢詩などの短文で示したものです。
十牛図の段階を示しておきましょう。
この第一と、第九に、ご注目ください。

第一「尋牛」……心牛(本当の自分)を探すことから、旅が始まります。
第二「見跡」
第三「見牛」
第四「得牛」
第五「牧牛」
第六「騎牛帰家」
第七「忘牛存人」
第八「人牛倶忘」
第九「返本還源」……「大丈夫・そのままでいいんだ」ということに気づきます。
第十「入鄽垂手」

「そのままでいいんだ」ということに気づく第九の頌(漢詩)を、
大敬先生は、とてもやさしく訳してくださいました。

第九図 返本還源(本に返り、源に還る)
旅は終わり
私は私にかえる
もとのままで
何の変わりもない
水はサラサラ流れ
花は紅にかがやくのみ
(立花大敬訳)

続く第十は、第一への橋渡しにもなっています。
そして、十牛図は、ぐるぐると円運動を描くようになります。
『しあわせ通信』第九集では、そんなとってもユニークな十牛図の世界が堪能できます。

■この時期だから語れる、僕の夢
ところで、年末年始というのは、
ここぞとばかり、語りにくいことを語れるときなのだそうです。
昔、師事したセールス指導家に教えていただいたのですが、
営業パーソンなら、
「この年末(年始)に、ひとつ、お納めさせてください」
とセールストークを飛ばすことができるのだそうです。
そして、これが意外に成績に結びつくのだと。

なので、この年末に、ここぞとばかり、夢を語らせていただきます。

僕は、大敬先生の『しあわせ通信』シリーズが、
同時代のみんなに読まれ、愛されるだけでなく、
次世代や、次々世代にも読み継がれるものであってほしい、
という夢をいだいています。

このことは、100年先の人、200年先の人である未来人にも読み継がれるということです。
未来において、「『しあわせ通信』は古典だ」と評価されているはずです。
現代流通している大半の書が滅びて行くなかにあって、
『しあわせ通信』は次世代たちに読み継がれることで生命を保ち、古典となるのです。
僕は、そんな仕事の一端を担っているのだという自負を持っています。

要するに、僕がやっていること。
それは、本の発行という小さなものではなく、「古典を作っているんだ」ということです。

古典とは、どんな時代のニーズにも応えられるということです。
僕たちの世代が『しあわせ通信』から学んでいることと、
次の世代が『しあわせ通信』から学んでいることは違うかもしれません。
つまり、次の世代のニーズが、『しあわせ通信』から新しい学びをさせるということです。
これに耐えうる本だけが、古典となります。
そんな力を持っている本……これを僕たちは目の当たりにしているんだ、と思うのです。

■『しあわせ通信』は、普遍の書
大敬先生は、自らを「縦糸の人」と位置付けられました。
『しあわせ通信』とは、縦糸の人が紡いだ「縦糸の書」です。

縦糸の書のことを、「経書」と言います。
儒教の四書五経の「経書」です。

このように、経書の「経」には、織物の「縦糸」の意味があるのですね。
織布を織るとき、経を固定し、それを基幹として織り上げていくことから、
古今を貫通して不動の基幹(=縦糸)となる書ということで、
経書は古典を意味するようになりました。

さて、縦糸の人は、時代を超越した人です。
だから、次の世代にも、次のさらに次の世代にも語りかけることができます。
その語りかけが、『しあわせ通信』です。
僕たちの時代のなかで生まれた『しあわせ通信』は、
誕生した時点で、すでに僕たちの時代を超越しているのです。
これを普遍と言います。
『しあわせ通信』とは、普遍の書です。

「古典を作っているのだ」という気概を持って、
やがて2016年8月には、『しあわせ通信』第十集を発行したいと考えています。
活動に賛同してくる仲間とともに夢を現実のものにしたいと思っています。

今年もあと二日。
ブログは休みなく続いて行きます。
ですが、年内の僕の担当は本日をもっておしまい。
……この一年間、ありがとうございました。
新年もよろしくお願いいたします。

月曜担当…池田光



2014年12月28日(日)
「お蔭」                             日曜担当…八木正典

本当にわれわれの存在というものは、究明すればするほど種々のお蔭によって在る。天地のお蔭、国家や社会のお蔭、親や師友のお蔭。この計り知ることの出来ないお蔭をしみじみと感じとり認識する、これが所謂恩を知るということであります。そこではじめて理性や感情を持った人間になるのであります。(安岡正篤)


今年も残り4日。今年は本当に多くの出会いと多くの縁に恵まれました。本ブログを8月から担当させていただけたのも、本心塾の師友のお蔭だなとしみじみと感じております。ありがとうございます。
多くのお蔭に感謝し自分に何の恩返しができるかを考えながら、来年に向けてまた新たな日課を定め一隅を照らすべくコツコツと自己修養に努めていきたいと考えております。多くの縁ある方々には引き続きご指導いただければと思います。

来年も皆さまにとって輝かしい良い年になりますように

日曜担当…八木正典



2014年12月26日(金)
2014年の書き納め・・・                   金曜担当…小笹正洋

早いもので、今年最後のブログとなりました。
この一年も多くの方々から沢山のご教示を頂け、
密度の濃い一年を過ごさせて頂きました。


潜学講座では、古典や人物から学ばせて頂いておりますが、
古典の中では儒教がメイン講座となっております。

儒教では「五常」という5つの徳目があり、
仁・義・礼・智・信の教えがそれです。

その中で、礼というものについて一寸。
礼とは仁(人に対する思いやり)を具体的にカタチにし
行動で表したものです。


礼は未然の前に禁じ法は已然の後に施す。
法の用を為す所の者は見易くして、
礼の禁を為す所の者は知り難し。
~史記(太史公自序)


礼は事前対応、法は事後処理。

本来、礼とはお辞儀や礼儀という狭義のものではなく、
人間関係と社会秩序を維持構築していくものです。

今の「法治国家」の中では法律を犯さなければ罰せられない。
しかし、法律を全能とするほど危ういものはないでしょう。

人は尊厳とともに狡猾さも持ち合わせています。
法律の役割は、礼の欠落した者の行いを罰するときの
補助機能でないといけないと思います。

人は礼を学ぶことができます。
これは法律の条項を覚えることよりも崇高な学びだと思います。


来年もより一層人間関係の道を学び求めていきたいと思います。


新しい年を迎えるにあたりまして、皆様にとって
輝かしい一年となりますことを祈念申し上げます。

金曜担当…小笹正洋



2014年12月25日(木)
雨もまたよし                          木曜担当…西端努斗夢

「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」 織田信長
「鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトトギス」 豊臣秀吉
「鳴かぬなら 鳴くまでまとう ホトトギス」 徳川家康

信長、秀吉、家康の3人の武将が同じ題材で詠んだ俳句と言われています。これらは本人が詠んだものかは不明で、後世の人が作ったという説が有力ですが、3人の生き方や行動がうまく表現していることだけは確かです。

自分なら鳴かないホトトギスをどうするか?
殺すような残酷なこと、私にはできません。
鳴かせるような能力、私にはありません。
鳴くまで待つほど、私は気が長くありません。
3人の句のどれをとってもなんとなくしっくりこなかったときに出会ったのが、松下幸之助さんの句でした。

「鳴かぬなら それもまたよし ホトトギス」 松下幸之助

どんなことに直面しても「それもまたよし」と言ってすべてを受け入れ、ニッコリ微笑むことができたら格好良いし、そんな人間に憧れています。


余談
先日、冷たい雨が降る中を歩くことがありました。その時「雨もまたよし」という気分になり、松下幸之助さんのこの句を思い出しました。


毎週木曜日に担当させていただいている私のブログも今年最後となりました。この1年、ありがとうございました。
皆様にとって来年も素晴らしい年になることをお祈りいたします。
よいお年を!

木曜担当…西端努斗夢



2014年12月24日(水)
修己治人は東洋だけにあらず                水曜担当…冨樫功

修己治人とは、自分を修養して徳を積み、世を治めていくことです。
自分の修養に励んで徳を積み、その徳で人々を感化して、世を正しく治めることをいい、儒教の根本思想となっています。

この考え方は、日本や中国に代表される東洋的な考え方だと思っていました。

しかし、西洋の自己啓発本を読んでいたら、こんな言葉を見つけました。


「自分の精神を管理できない者は、都市を治めることはできない。
自分自身を管理できない者は、国を治めることはできない。
自分の習慣を再設計できない者は、自分の未来を設計することはできない。
自分の知的行動レベルを高められない者は、報酬を増すことはできない。」


「人生を解く5つの鍵」ジムローン より


驚いたことに自分を管理することで、都市や国を治めると言っています。

ジム・ローンといえば、アメリカ自己啓発界でメンターのメンターといわれる大御所で、
数年前に亡くなっていますが、あの世界一のコーチといわれるアンソニー・ロビンズや、
ブライアントレーシー、ジャックキャンフィールドの師匠です。


儒教の入門書である大学には以下の文があります。

「古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治む。
その国を治めんと欲する者は、先ずその家を斉う(ととのう)。
その家を斉えんと欲する者は、先ずその身を修む。
その身を修めんと欲する者は、先ずその心を正しくす。
その心を正しくせんと欲する者は、先ずその意を誠にす。
その意を誠にせんと欲する者は、先ずその知を致す。
知を致すは物に格る(いたる)に在り。
物格って(いたって)后(のち)至る。
知至って后意(い)誠(まこと)なり。
意誠にして后心正し。
心正しくして后身修まる。
身修まって后家斉う(ととのう)。
家斉いて后国治まる。
国治まって后天下平らかなり。」


意味するところがかなり近いと思うのは自分だけでしょうか。

修己治人はまさに古今東西、人類の普遍的な原則と言えるのかもしれません。

水曜担当…冨樫功



2014年12月23日(火)
「師走」                             火曜担当…坂本欣也

師走の語源は諸々あるようですが、行事ごとで忙しい師(僧侶)が走り回ることから来たという説も一つです。

私の場合は、忘年会の飲み過ぎ食べ過ぎの解消のために、12月はよく走っています。笑

この週末は、ハーフマラソンを想定して21キロを2時間かけて完走しました。

そして、その後は、また走り仲間との忘年会でした。

その席で、「来年、比叡山の50キロトレイルランを走りましょう!!」と誘われました。

もしかして、千日回峰行のルートかも?と思い、
酔いが入っていたので、おもわず「やりましょう!」と言いかけましたが、
さすがに50キロは。。。と悩んでいるところです。

皆さんもご一緒にいかがですか?!

2015年は、走る方でもしっかり目標を立てて、ワクワク&ランランな一年にしたいと思います。

火曜担当…坂本欣也



2014年12月22日(月)
相変わらず                           月曜担当…池田光

昭和33年生まれの相河ラズさんは、関西に単身赴任していました。
ところが、働き盛りの47歳のこと、がんが発覚。
医者から「上咽頭がんです」と告知されますが、
外科手術が不可能な部位のため、
抗がん剤と放射線で治療していました。

2010年、闘病5年目に、再再発となります。
そして、ついに「余命半年です」と宣告されます。

そんな折、関東に一人息子さんとともに残していた奥さんが路上で倒れて、
病院に緊急搬送されます。
取るものも取りあえず、関西から関東の病院へ。
目覚めたら、奥さんは記憶喪失になっていました。
統合失調症だったのです。
しかも息子さんは、学習障害児で一人で置いておくことはできません。
泣く泣く仕事を辞め、余命半年の身でありながら、
奥さんの介護と、息子さんの世話をする専業主夫になります。

彼が仕事を辞めてからやり始めたことは、ブログでした。
それは人気ブログとなり、いくつかの出版社の目に止ります。
そして、2012年に、
相河ラズ『余命半年から生きてます!  面白いほど不運な男の笑う闘病記』(幻冬舎)
が出ました。
ふり返れば、余命半年の宣告から、1年10か月目のことでした。

ですが、ついに、2013年2月20日に亡くなります。
彼は力尽きる3日前の、2月17日まで、毎日ブログを書き続けていました。
最後のブログのテーマは、
「考えています」
というもので、こんな文面です。

相河ラズでございます!
どうもです!
こうしん したり しなかったり 笑
私の本意ではありませんし
読みにきてくださるかたに
失礼かなと・・・。
末期で間接も骨も固まり
答えを出す頃かもしれません
( 休んだほうがええかもやで~ )
相河ラズ

ところで、彼のペンネームである「相河ラズ」は、
「相変わらず」をもじったものでしょう。
がんを告知されたとき、
なんでもない「相変わらず」という平凡な言葉に、
特別な意味を感じられたのかもしれません。

「相変わらず、元気やなあ」
とか、
「変わらんなあ、おまえ。……相変わらずやなあ」
とか。

僕がこの本に出会ったのは、
「平穏死」のことを考えてみようとしたからで、
求めた何冊かのうちの一冊だったのです。

死のどれくらい前まで知的作業ができるかというのが
僕の疑問の一つで、
前回のブログに、若き医師の次の言葉を掲載しました。
「『がん』については、もちろん個人差はありますが、
比較的最後の最期までPCで作業をされる方もおられます。
当日の朝に朝食を食べ、そのあと家族みなに礼をいい、
必要な指示をだし、
夜にお亡くなりになった方も現実的におられました」
と。

相河ラズさんは、3日前までブログを綴られたのですね。
ちなみに、相変わらず、彼のブログは、今もネットで読むことができます。

月曜担当…池田光



2014年12月21日(日)
「有朋自遠方来」                       日曜担当…八木正典

古くからの親友が家族で自宅に遊びに来てくれました。
酒を酌み交わし、盃を重ね、懐かしい話や今の思い、そのほか取り留めもない話を続ける中で、過去からの思いや記憶が甦ってきて、非常に楽しい時間を過ごせました。
家族ぐるみでお付き合いをいただけることに本当に感謝です。引き続き、多くの与えられた縁を大事に大事に続けていければと思います。

光の中を一人で歩むよりも、闇の中を友人と共に歩む方が良い。(ヘレンケラー)

日曜担当…八木正典



2014年12月19日(金)
弓と鉄砲・・・                          金曜担当…小笹正洋

立花大敬さんの「しあわせ通信」第9巻がまもなく発売されますね。
私は立花大敬さんのしあわせ通信のシリーズと同様に「人生飛行術」
もお気に入りです。
「弓と禅」という本を読んでいたら、「人生飛行術」のことが
頭に浮かんできて再度読み返す機会に触れました。

理屈では説明できないのですが、何か引き合うものがありました。
(自分なりの「学問は発明」ということにしたいと思います)

金曜担当…小笹正洋



2014年12月18日(木)
大丈夫                              木曜担当…西端努斗夢

立花大敬さんのしあわせ通信第9集が今月26日に発売されるそうです。
今日のブログで「大丈夫」という言葉について書こうと思っていたら、タイトルが『大丈夫・そのまま! 自分が自分に変える旅』と知って少しビックリしました。

何か問題に直面した時、私は「大丈夫! 大丈夫!」と自分に言い聞かせるようにしています。
私の場合、「大丈夫」とは、自分の望んだ通りになるから大丈夫なのではなく、望む、望まないに関わらず、どちらに転んでも大丈夫だということを自分に言い聞かせているのです。

楽しいこと、嬉しいことはもちろん、辛いこと、苦しいことも、すべての出来事は、自分を成長させてくれるために起こっていると思えば気が楽になります。

木曜担当…西端努斗夢



2014年12月17日(水)
惻隠の心                            水曜担当…冨樫功

人の本心は四つの心からなると孟子は説きます。


その一番にあげられるのが、惻隠の心です。
これは他者を思いやる心のことで、
孟子は、井戸に落ちた子供をみれば、
誰もが利害得失に関係なく助けることを例にしています。


これは人に本から備わった心だそうです。


以下の動画を見て、惻隠の心は人間のみならず、
すべての生物にプログラミングされているのでは?と思いました。

https://www.youtube.com/watch?v=2baWiDI_v8A


概要は、お腹をすかせたヒョウが、ヒヒを襲います。
ヒヒを仕留めた後、食べるために移動していると、
ヒョウは、ヒヒの赤ちゃんを見つけます。
襲われたヒヒはお母さんだったのです。


赤ちゃんを見つけたヒョウは、お腹がすいていたのも忘れてしまいます。
そして、赤ちゃんに夢中になるのです。


じゃれたり、木から落っこちそうになるのを助けたり。
まるで自分の子供であるかのように赤ちゃんを可愛がります。


この動画をみると、狼に育てられた狼少女の話なども、
本当にあったのだろうなあと思えます。


弱いものや、いたわるべきものを保護しようとする心が
動物にも備わっているとすればどうでしょう。


いろいろ考えさせられます。

水曜担当…冨樫功



2014年12月16日(火)
「忠臣蔵と徳川綱吉」                     火曜担当…坂本欣也

BS・NHKの『英雄たちの選択』「そして“忠臣蔵”が生まれた~赤穂事件・将軍綱吉の裁決~」を観ました。

「忠臣蔵」を、大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士側からではなく、裁きをした五代将軍徳川綱吉の側から観る、これまでにない切り口の視点でした。

これまで綱吉と言えば「生類憐みの令」の「犬公方」、あまり評価が高くない将軍として描かれてきましたが、この番組を通して、彼の政治姿勢、その背景にある社会体制の変化が存在したことを学びました。

江戸幕府が始まってから約80年が経ち、上下身分秩序、将軍を頂点とする幕藩体制の強化のために、戦国時代から続く「武断政治」から「文治政治」への転換の必要性があった。 

その文治政治の柱に、儒学・朱子学、特に「忠孝」を置いた。
武家諸法度も、家康以来の第一条「文武弓馬の道、もっぱらたしなむべきこと」が、「文武忠孝を励まし礼儀を正すべき事」と改訂された。

「生類憐みの令」も、そもそもは親子の関係や社会秩序の乱れを正すために、導入・強化された法令だった。

綱吉自身、儒学を修学し、自らが江戸城で儒学の講義を家臣に対して行ったといわれている。その回数、約240回。

朱子学者(京学派)の林信篤を大学頭に任命し、林家の私塾を湯島聖堂に移し、聖堂学問所として朱子学を普及させた。

武士は、「忠孝」を精神行動の基本とし、民の模範となる行動を求められた。

かつて戦闘集団だった武士は、幕藩に仕える終身雇用のサラリーマン役人となり、禄高という報酬よりも、名誉という社会的報酬を得ることに価値を置くよう教育された。

私は、かねてから、現代にも残る日本人の精神性、社会システム、会社システムは、この江戸時代に形成され、明治~大正~昭和~平成と引き継がれて来たと考えてきました。 ちなみに、私の知る限りでは、終身雇用を維持している国は日本以外には見当たりません。

この辺りのことは、『「日本政治の謎」徳川モデルを捨てきれない日本人』(猪口孝著、西村書店)に興味深く書かれています。

しかし、その封建体制が徳川家康から約260年間に渡り代々受け継がれ維持されてきたが、家康の威光が弱まりつつあった徳川綱吉の代でこのように強化されたことは、意外でした。

徳川政権の屋台骨を支えたのは朱子学でしたが、壊したのは幕末の志士たちを動かした陽明学と言えるのではないでしょうか。と考えると、当時の日本人の精神・社会文化への漢文化の影響は絶大であり、現代にも無意識にも大きく影響していると言えると思います。

この様なことを頭に置き、年末恒例の『忠臣蔵』を再度観てみようと思います。

火曜担当…坂本欣也



2014年12月15日(月)
最期を考える②「医師からの回答」             月曜担当…池田光

先週のブログに、延命治療とか、看取りについてふれました。
そして、そんな勉強会の機会をくださった医師に、質問状をお送りしたと書きました。
彼は、在宅治療を行っている四十一歳の若き医師です。ちなみに、とても整ったお顔立ちの方です。

そうしたところ、まもなく懇切な回答が届きました。
医師としてのお忙しいなかでのお答えであり、感謝せずにはいられません。
と同時に、そのお答えをみなさまと共有したいと考え、以下、「質問→回答」を掲載いたします。
(私が住む地域の緩和ケアの施設に関する回答は、省略しています)

【質問……延命治療について】
「延命治療を望まない」ということを、リビング・ウィル(生前の遺言)としてどう伝えたらいいですか?
これまでは、「延命治療を望まない」ということを伝えるだけで事足りると思っていましたが、先生のお話をうかがい、実際は「胃瘻をしない」などのブレークダウンしたレベルで延命治療を望まないことを伝えないと、指針にはならないのではないかと思えました。
そこで、どのように伝えればいいかお教えいただければと助かります。

【回答】
ご指摘の通り、医療が高度化するに従って、一口に「延命治療」といっても様々なモノを含む時代となりました。
心臓マッサージ、人工呼吸器だけでなく、人工心肺、点滴、胃瘻、経管栄養、人工透析、昇圧剤、抗生物質、などなど、延命治療とそうでないものとの分水嶺がわかりにくい時代です。
参考になるものとしては後述の長尾医師が副会長を務めておられます日本尊厳死協会にリビング・ウィルのフォームもあります。

http://www.songenshi-kyokai.com/living_will.html


また、聖路加国際病院のものが具体的でわかりやすいですのです。

http://hospital.luke.ac.jp/about/images/livingwill.pdf



【質問……最期のどの時点まで知的作業ができるか】
死に至る状態は人によってさまざまでしょうが、私が関心あるのは、死のどれくらい前まで知的作業ができるかということです。
・先生の資料に、「病気による亡くなり方の違い」というのがありましたが、「がん等」や「認知症・老衰等」の場合、一般的にどれくらいまで、知的作業ができるものでしょうか?
・余命を宣告された場合、私とっての自分らしい過ごし方は、親しい方々に「手紙」を書き遺こすなど、何らかの文章表現をすることだと思っています。PCが使え、ワープロ機能で、文章をぎりぎりまで綴りたいと思うのですが、それはどの時点まで可能なものでしょうか?

【回答】
あくまで私の個人的な印象ですが、「がん」と「認知症・老衰」では、いつまで知的作業が可能かは異なると思います。

「がん」については、もちろん個人差はありますが、比較的最後の最期までPCで作業をされる方もおられます。当日の朝に朝食を食べ、そのあと家族みなに礼をいい、必要な指示をだし、夜にお亡くなりになった方も現実的におられました。がんは基本的には身体の病気ですので、認知機能はギリギリまで保たれている方が多いと思います。

「認知症」の方については、文字通り認知機能が低下していく病気ですので、比較的早期に知的作業が困難になることが多いと思います。「老衰」に関しても同様に徐々に衰弱していきますので、意識レベルの低下が先に起こってくると思います。

以上のことから、大切なことは、「元気なうちからもしものことを話し合う」ということかと思います。病状が進行してから今後のことを考えていくのは体力的にもなかなかつらい作業です。そうではなく、ある程度の余命を宣言された段階で、早いうちから、お元気なうちから、今後のことを考えていく、ということが重要であると最近よくいわれており、これをAdvance Care Planning(アドバンス・ケア・プランニング、略してACP)といいます。ご参考まで。

月曜担当…池田光



2014年12月14日(日)
「根」                               日曜担当…八木正典

枝葉は萎むも、而も根猶ほ元気を存すれば、則ち甦るの理有り。根既に蠧まれ、而も枝葉の猶ほ生くるがごときものは、則ち必ず甦るの理無きなり。然り而して昧き者は、その枝葉を修飾して、以て其の盛茂を望む。此れ笑ふべし。亦た自ら警むべし。(洗心洞箚記29)

「枝葉が弱っていても根さえしっかりしていれば甦る可能性がある。逆に枝葉が元気でも、根が虫食いになっていたら生き返る可能性は全くない。道理に暗い、真理の分かっていない者は枝葉を飾りよく見えることを望んでいる。自戒すべきことだ。」

最近久しぶりに大塩中斎の洗心洞箚記を読み返しています。
その中でこの章を読み、三洋電機元副社長の後藤清一さんの本で出会った、「何も咲かない冬の日は下へ下へと根を下ろそう。」という言葉を思い出しました。毎日毎日を全力で自分なりの工夫を続け、自分を鍛えることによって、自分の根をしっかりしたものにしていくことが必要なのです。そうして、下へ下へと根を下ろすうちにやがて大きな花が咲くのだというのです。
また、努力には3本の柱があり、苦労、勤勉、持続を実行することができるのが本当の努力家だと言っておられます。
苦労、勤勉、持続を意識し、枝葉にとらわれず、確りと自分の根を広げ、深く深く伸ばしていきたいものです。

日曜担当…八木正典



2014年12月12日(金)
温故知新・・・                          金曜担当…小笹正洋

湧くわく本心塾の潜学講座では「人物」と「古典」をベースに
相互研鑚をしてきています。


歴史を学ぶのに、年号などを暗記するのは学生時代までの勉強で、
世の中に出たら歴史上の出来事や歴史を舞台に活躍した人物を通して
応対辞令(人との対応・所作・言葉遣い)や出処進退(特に退)を
学んでいくことが醍醐味になります。



「十八史略の人物学」/伊藤肇(著)


20代の後半に、当時の上司から「論語を学びなさい」と言われて
薦められた書物です。
タイトルからは、これがどうして論語?と思いますが、
読めばなるほどと思いました。
あれから20年近く経ち、数度の引っ越しを経てきていますが、
常に帯同してきました。

 
「十八史略」は中国の十八の歴史書で、史記、三国志等で4,517人の
人物が繰り広げる壮大なドラマで、応対辞令、出処進退、修己治人の
教えの宝庫です。


また、大切にしなければいけない人物として

・原理原則を教えてもらう師
・直言してくれる側近
・よき幕賓(※幕賓:顧問、パーソナル・アドバイザー)

も挙げられています。


十八史略のお話しだけでなく、古今東西の色々な出来事、人物からの
考察も興味が尽きないところです。

金曜担当…小笹正洋



2014年12月11日(木)
命は自分で守る                        木曜担当…西端努斗夢

東日本大震災のあと、千葉県から関西に住む私の近所に引っ越してきた家族がいます。その理由は、福島の原発事故でそれまで住んでいたところが放射能に汚染されたためだそうです。

この話を聞いてほとんどの人は、「汚染されているのならテレビや新聞で報道するはず。国や自治体、マスコミが危ないと言っていないのに何故?」と思うのではないでしょうか?

実際に汚染されているのか私にはわかりませんが、自分の命は、国や自治体、マスコミに守ってもらうのではなく、自分で守らなければいけないということだけは間違いありません。

自分で命を守るために大切なことは、常に本心に問いかけ本心の声に耳を傾けることだと思います。
では、どうしたら本心の声を聞くことができるか?
それはまたの機会に・・・

木曜担当…西端努斗夢



2014年12月10日(水)
道徳について                          水曜担当…冨樫功

道徳の授業。
みなさんはどんな記憶をお持ちでしょうか。


道徳というと、個人的に今は儒教や孔子の教えを思い浮かべますが、道徳の授業の記憶が全く思い浮かびませんでした。

道徳といえば、修身。
今はそんなイメージを持つのですが、そんな授業の記憶がないのです。


かといって道徳の授業がなかったのかといえばそんなことはありません。
たしかに、時間割にあった記憶があります。


それなら、どんなことをやっていたのか。

いろんなかたのキーワードを聞いてやっと思い出せたのが、「人権」「差別」「いじめ」「被差別部落」とかそんな感じのことです。
そして、道徳の授業では、NHKのテレビ番組を見ていたことも思い出しました。
内容はともかく、学校でテレビが見れるということが嬉しかった記憶もあります。


しかし、総じて道徳の授業は修身のように人生にポジティブな動機付けを与えるというより、
人類、日本人の暗部を見せるようなものでした。
最低限の社会的規範を教えると言うような。

そのイメージが強いため、今も多くの人にとっては道徳と言うと、
重い、できれば関わりたくないといったものになっているということがわかりました。


個人的には、世界に誇る日本人のモラルは正しい道徳教育から生まれると思っています。

そして、それはまず自分から。
潜学講座で教えていただいたように、独りを慎み、偉人を見習い向上心を持って日々を過ごしたいと思います。

水曜担当…冨樫功



2014年12月9日(火)
「対極を越えた、大局」                    火曜担当…坂本欣也

12月の潜学講座も、充実した内容で勉強になりました。
塾生一人一人の近況報告も、一隅を照らす日々の実践をされていることがお互いに分かり、善い刺激になります。

宇田先生の「道徳」についての講義では、「道徳」の捉え方に対して、教育現場の混乱が存在することが認識できました。私が特に印象に残ったのは、シュバイツアーの言葉、「真の道徳は、言葉の終わった所から始まる」でした。子供や他者に対して、言葉ではなく行動で示し続けることが真の道徳であると、身につまされる言葉でした。

池田塾長の講義は、「道徳」を「向上心」と「慎独」の2つの方向から捉えるという所から始まりました。
「慎独」は、前回講座で学んだ「自分に向けた義の節」であり、道徳の捉え方にピッタリくると感動しました。
「慎独」は、主体性と真の自由を持つということ。これが一番難しいと仰っていたのが印象的でした。

11月講座の「人性論」①の孔子と曾子の教えを発展させた孟子の性善説に基づき、今回の「人性論」②は荀子が考える性=性悪説を、孟子の性善説と対比して、実際の言葉と図で解説いただきました。 
対極同士を対比することで、双方の違いが明確になり、その双方の本質と更にその奥にある大局を観ることができる素晴らしい講義でした。

(老荘の)無為に対する人為、利に対する義、仁に対する礼、内に対する外、先天性に対する後天性。。。。という違いがありながら、その大局には、「社会を善くしたいという思い」が共通的に存在する、と。

お話を聴きながら、私の中国人の友人から、「中国人は、儒家を米屋、道家を薬屋と考え、日々は米を食べ鍛え、心身が弱ったら薬を取る。中国人はこの両方を時と場合により使い分けて処世するという説がある」と聞いた事を思い出しました。 

そして、かつて読んだ『老子・荘子の教え』(守屋淳著)の冒頭に、

「昔の中国には面白い処世法がありました。唐や宋、明といった王朝に仕えた政治家や官僚たちの多くは、常に対極の考え方を使い分けていた、と言われるのです。それが、儒教と老荘という二つなのです。
(中略)仕事中は儒教だけど、家に帰ると老荘を信奉するといったように、・・・」

と書かれていたのを思い出しました。

一つのことを突き詰めハマルのも良いことですが、一つに入り込み過ぎると、全体が見えなくなる。
両対極を知り、その両方を活用することで、大局観からの思考と行動が可能になると改めて思いました。

「こだわって、こだわらない。」

今回も善い学びをいただきました。
有難うございました。

火曜担当…坂本欣也



2014年12月8日(月)
最期を考える                          月曜担当…池田光

アラ還なのですが、そういう歳になると、まわりから老後の生き方についての色んな情報がやってきます。

先日は、「在宅医療と地域での看取り」というテーマの勉強会がありました。
僕は、自分のいま住んでいる地域で老後をどう暮らしていくか、という男ばかりのゼミに参加していて、その8回目の勉強会がこのテーマでした。

まず、病院医療と在宅医療は、まったく対照的な考え方だということが理解できました。
病院医療は、疾患の治癒を目的にしていて、「根治療法」であり、「長寿」を目標とするのに対して、在宅医療は苦痛を取り除く「緩和療法」で、「天寿」を目標としています。

たとえば、看取りということを含む終末期医療として、自分が在宅医療を選択したなら、自宅で息を引き取ろうとしている瞬間に、家族は救急車を呼んでは絶対にダメなのです。
もし、呼んでしまうと、それは病院医療へと医療方針が変更することを意味しており、延命処置されます。
また、救急車を呼んで、着いたときに死亡していたら、警察に通報され検死の対象となります。
つまり、在宅医療とは、家族にとっては「看取り」であり、主治医を呼ぶだけなのです。そして、主治医が報告書を書くのです。
ここには、家族のある程度の覚悟がいります。

そのようなことを学びつつ、どのような終末を迎えるか、それまでに自分は何を為したいのか、など考えさせられました。

この勉強会の講師は、僕が住む地域で在宅医療を行っている四十一歳の若き医師なのですが、彼に以下のような質問状をお出ししたところです。

■「延命治療を望まない」ということを、リビング・ウィル(生前の遺言)としてどう伝えたらいいですか?
これまでは、「延命治療を望まない」ということを伝えるだけで事足りると思っていましたが、先生のお話をうかがい、実際は「胃瘻をしない」などのブレークダウンしたレベルで延命治療を望まないことを伝えないと、指針にはならないのではないかと思えました。
そこで、どのように伝えればいいかお教えいただければと助かります。

■これと関連して、リビング・ウィルの記述の仕方について、どう書けば良いのか、参考事例のようなものはないでしょうか?

■私が住んでいる近くで、緩和ケアをしている施設というのはどこが適当でしょうか?  また、見学というのはできないものでしょうか? 
・個人単位では無理だと思いますので、何か、そのようなツアーみたいなものはないでしょうか。
・近くで、在宅医療をされている事例はありますでしょうか? 
・先生は、『「平穏死」十の条件』の著者である長尾和宏先生を存じておられ、資料でも紹介されていましたが、ネットで調べると長尾先生は尼崎市で開業されているそうで、もしかしたら、そのようなネットワークのようなものがあるのかも知れないと思ったのですが、同じような考え方で実践されている医師グループのようなものはあるのでしょうか?

■死に至る状態は人によってさまざまでしょうが、私が関心あるのは、死のどれくらい前まで知的作業ができるかということです。
・先生の資料に、「病気による亡くなり方の違い」というのがありましたが、「がん等」や「認知症・老衰等」の場合、一般的にどれくらいまで、知的作業ができるものでしょうか?
・余命を宣告された場合、私とっての自分らしい過ごし方は、親しい方々に「手紙」を書き遺こすなど、何らかの文章表現をすることだと思っています。PCが使え、ワープロ機能で、文章をぎりぎりまで綴りたいと思うのですが、それはどの時点まで可能なものでしょうか?

ところで、僕は何か「節目」があると、その「節目」をチャンスにして、ちょっと深く考えてみるということを信条としています。
そして、その「節目」である程度の「結論」を得たら、その問題はもう、次の「節目」が来るまで考えることはありません。

そんなやり方で来ており、ちょうど今回、在宅医療や看取りについての機会を得ましたので、関連書を何冊が読んでいるところです。
その結果、「平穏死」が良いと思えるようになってきました。
平穏死という言葉は流行しているらしく、そんな関連の本も意外に多くあり、団塊の世代たちがやがて迎える、死の適齢期には、
・死に場所がなくなる、
・それは都市部でより多く発生する、
という状況のなかで、どのような最期を迎えるかの、現時点での結論を得、これをリビング・ウィルとしてまとめておきたいと考えています。

月曜担当…池田光



2014年12月7日(日)
「英雄」                             日曜担当…八木正典

小処に滲漏せず、暗中に欺隠せず、末路に怠荒せず。わずかにこれ個の真正の英雄なり。
(菜根譚)
小さなことでもバカにしないで手を抜かない、人が見ていないからといって悪いことをしない、己を欺かない、逆境でも投げやりにはならず頑張る。このようであってこそ、初めてひとかどの人物である。

昔上司から教えてもらった言葉で、ABCD作戦というのがあります。
「A:当たり前のことを、B:ぼーっとせずに、C:ちゃんとやる、D:できれば笑顔で」
自衛隊でイラク復興支援を務めた番匠さんの言葉らしいです。
これぐらいいいか、すこしぐらいやらなくてもという感情に負けず、小さなことを、誰も見てなくてもしっかりと笑顔で取組んでいきたいと思います。

日曜担当…八木正典



2014年12月5日(金)
12月5日                            金曜担当…小笹正洋

1866年の12月5日は、最後の将軍徳川慶喜が徳川幕府第15代将軍に就任した日でした。
そして、その翌年の1867年10月14日に大政奉還で将軍職を返上し、同年12月9日に
発せられた「王政復古の大号令」で「天皇中心の政治で行く」と宣言され、
260年以上続いた徳川幕府の終焉と共に明治という新しい世の中が誕生しました。

ひとつの政権が260以上続いた世の中というのは歴史的事例をみても奇跡的な事例です。

幾つかの例を見ても、抜け目ない手を打たれています。

武家諸法度を定めて大きな船を造ったり築城の禁止を徹底した。
これを違うと大名家のとり潰しとされ、領地の没収等の憂き目を負った。
士農工商の身分制度。農民統制のための慶安の御触書で百姓は生かさず殺さず。
手伝譜請(幕府の工事に対する負担)や参勤交代で、各藩の財力を弱めた。
鎖国により外国文化(キリスト教など)の排斥と貿易利益を幕府が独占。

そんな盤石と思われた体制であっても、形ある限りは必ず壊れてしまうものです。


日本においてのもう一つの歴史の転換期が、第二次世界大戦終戦の1945年とすれば、
明治が始まった1868年からは77年が経過。終戦から現在までは69年が経過。


いかに江戸時代という泰平の期間が長かったことか。

金曜担当…小笹正洋



2014年12月4日(木)
揚げまん本舗 肉まんアトム                 木曜担当…西端努斗夢

水曜日のブログを担当されている冨樫さんのお店「揚げまん本舗 肉まんアトム」に先日、娘と行ってきました。

私が注文したのは、肉まんと肉ピーマン、豚キムチまん、それに揚げまん。もちろん、どれも美味しかったのですが、特に肉ピーマンは肉とピーマンの相性が抜群で、予想以上の美味しさに感動しました。

気に入ったのは揚げまん。名前通り食べると運気が“揚げ上げ”になるような気がします。

ちょっと残念だったのは、狙っていた切り干し大根とザーサイの揚げまんが売り切れだったことです。次回はぜひ試したいと思います。

木曜担当…西端努斗夢



2014年12月3日(水)
「フラメンコ」                          火曜担当…坂本欣也

フラメンコを観てきました。

ご案内いただいたのは、某大手総合電機メーカーの、仕事でお世話になっている方で、20歳の時にフラメンコ修行のため1年間スペインに滞在したという男性です。
今年で48年周年を迎える、新宿の伊勢丹会館にある「エルフラメンコ」です。
http://www.el-fla.com/schedule.html

圧倒されたのは、演者のプロの技。 
あれだけ激しく踊っていても、頭と体の軸がぶれない。
そのプロの技は、人を惹きこみ、虜にする。

一つの演技が終わると、はーっと息をつきました。
演技の途中には、私は息をするのも忘れていたのでしょう。

自分も熱くなりながら、その熱さで観客を熱狂させながらも、
自分自身は、全体を俯瞰しながら、観客を観察し、次の展開を考えている。
と、自分自身が研修やセミナーという舞台に立つ演者として、そのプロの技術を観察していました。

しかし、もっと深く考えると、その演者の凄さは、それを越えていました。
つまり、彼と私たちをつなぐ、もっと大きく強烈な波動を創り出していたのだという事です。

大きな波、小さな波を受けているうちに、演者の世界に引き込まれていっていました。
つまり、自我を忘れ、いや自我を離れ、演者の世界に入って行っていたとも表現できます。

そして、それには、テクニックを越えた何かがあるのではないかと、考えました。
何故なら、彼らは一日に二回講演し、それを毎日無休で続けています。
毎回、この新鮮な感覚を観客に感じさせているわけです。

演者、特にそのリーダーは、演技中とにかく楽しそうでした。
光のように輝いていました。

公演が終わった後、私たち観客は大きな拍手、清々しい笑顔で、お店を後にしました。
坐禅とは形は違いますが、空に至った洗心のプロセスを得た感覚でした。

プロのエンターテイメントという世界。
また楽しみが一つ増えました。

Oleオレッ!

火曜担当…坂本欣也



2014年12月3日(水)
朋遠方より来たる有り、亦た楽しからずや。        水曜担当…冨樫功

11月23日に、念願だった自分の店、「揚げまん本舗 肉まんアトム」をオープンしました。

湧くわく本心塾の皆さまからもずっと応援をいただいておりましたが、ついに開店することができました。
まずは、このブログにてお知らせ致します。


オープン初日には、池田塾長も来店してくださり感激でした。
記念に色紙にサインを書いていただきさっそく店に飾りました。
湧くわく本心塾での学びをいつも実践できるよう、毎日見て励みにしていきたいとも思います。


池田塾長以外の本心塾の方々にも続々と来店していただき、
感謝以外の言葉がありません。


九条という他に何もないところにわざわざ来ていただける、
同じ学びの志を持った朋がいる。


こんなに嬉しく楽しいことはありません。

みなさんに恥じないよう、一生懸命がんばっていきたいと思います。

水曜担当…冨樫功



2014年12月1日(月)
湧くわく本心塾in多治見                    月曜担当…池田光

■着眼高ければ、則ち理を見て岐せず



佐藤一斎の言葉から、僕は、
「着眼高ければ、則ち理を見て岐せず」(『言志録』)
を好きな言葉として選びました。

「着眼」をどれだけ高く持つか。
着眼が高いならば道理が見えます。
その結果、岐路に立っても迷うことはありません。
では、高い着眼とは、何でしょうか。
僕は、①高所から見ること、②細部に目をつけること、が高い着眼点だと考えました。
このことについての詳しい説明は、いずれの機会にまた。

写真は、瀬戸の石彫家・川井信一さんに、
「着眼高ければ、則ち理を見て岐せず」
を、色紙に書いていただいているところです。
もちろん、参加者11名の全員が川井さんに言葉を書いていただきました。

その日は、11月25日。湧くわく本心塾in多治見の1日目でした。
「大儒・佐藤一斎の言葉と郷里を訪ねよう!」のテーマのもとに、
多治見市のまなびパークで過ごしました。
まなびパークは、このたびの会合の準備をしてくれた加藤健治さんが、毎月「多治見元気大学」を開催されている施設でもあります。

では、今回のブログは、以下のように写真を掲載します。
この写真に説明については、僕のfacebookにアップしましたので、そちらをご参照ください。
このたびの勉強会は、本当に楽しく充実していました。
その要因は、地元の加藤健治さんがきめ細かく準備してくださったことにあります。
1日目夜の美味い料理、旨い地酒。
2日目の講師とガイドさんの手配。
感謝しても、し尽せません。本当にありがとうございました。今も僕は余韻にひたっております。

■湧くわく本心塾in多治見…【1日目】11月25日





■湧くわく本心塾in多治見…【2日目】11月26日




月曜担当…池田光



2014年11月30日(日)
「変化」                             日曜担当…八木正典

「変化はコントロールできない。できるのは変化の先頭に立つことだけである。今日のような乱気流の時代にあっては、変化は常態である。変化はリスクに満ち楽ではない。悪戦苦闘を強いられる。だが変化の先頭に立たない限り生き残ることはできない。」(ドラッカー)

今のままでいいのでは、結構頑張っているのではと心が弱くなるたびにこの言葉を読み返します。
自身を変化させていくこと、コンフォートゾーンを飛び出そうと努力することによってしか次のステップに進んでいく道はないと。
「遽伯玉、行年五十にして四十九年の非を知り、六十にして六十たび化す」、昔の賢人も変化を恐れず、更なる進化に向かって同じ努力していたと考えると、また今日も何を変えていこうかと勇気が出てきます。

日曜担当…八木正典



2014年11月28日(金)
健さん                              金曜担当…小笹正洋

小田剛一。1931年福岡県生まれ。
1956年「電光空手打ち」で映画主演デビュー。

多くファンや仲間から「健さん」と呼ばれていた高倉健さんが11月10日に83歳で他界されてもまだ、いや、いよいよその作品を再度観たいという思いに駆られます。

その寡黙なお姿は幾万言の饒舌さに勝るものがあります。

健さんの映画では「BLACK RAIN」(1989年)が一番のお気に入りで、何回も、いや何十回も鑑賞しています。字幕を見なくてもストーリーが分かります。

健さんは「気」というものを大切にされていました。
いい映画、いい撮影現場には役者やスタッフが発する「気」が現れており、その「気」を貰っておられたようです。

そしてその「気」を感じるひとつのコツとして、刀鍛冶の現場に行けば良いとインタビュアーに促されてました。一本の刀に対して無心に懸命に打ち込む姿からその「気」が発せられていることを感じられるとの事です。


その健さんのインタビュー語録。


映画はね、あくまでもエンターテインメントだと思う。映画を見て学識が豊かになるとか何かを教わるとかは、僕はないと思う。ただ、ボディは打つね。見る人の心に響くものを届けることはできる。アメリカの大統領が全世界に向かって演説するよりも、「タイタニック」を持って世界中で上映したほうが、大衆の心はアメリカに向かうと思う。

なるほど!

金曜担当…小笹正洋



2014年11月27日(木)
湧くわく本心塾in多治見                   木曜担当…西端努斗夢

25日、26日と湧くわく本心塾in多治見に参加させていただきました。
「佐藤一斎の言葉を学ぶ」をテーマにした初日、「佐藤一斎の郷里で学ぶ」をテーマにした2日目と、どちらもたいへん充実した素晴らしい2日間でした。一夜明けた今もその興奮から抜け切れず、思いをまとめることができていませんが、大成功だったことだけご報告させていただきます。
いろいろと計画、準備をしていただいた塾生で地元・多治見市の加藤健治さんをはじめ、参加いただいた皆様には大変お世話になり、ありがとうございました。

なお、懇親会での料理と地酒は最高で、それだけで多治見ファンになってしまいました。

木曜担当…西端努斗夢



2014年11月25日(火)
「孝」                               火曜担当…坂本欣也

孔子
子曰。弟子入則孝。出則弟。謹而信。汎愛衆而親仁。行有餘力。則以學文。
「初学の者、まずは家に在って孝を尽し、外に在って弟を尽し、事を謹んで信に当たり、人を愛して仁に親しめ。 尚も余力があるならば、文を学ぶとよい」

中江藤樹
「父母の恩徳は天よりも高く、海よりも深し。」

吉田松陰
「父母に順ならざれば、天下の快ありと雖も、またなんぞ言うに足らんや。」

その他、王陽明、藤田東湖はじめ、先人の儒者は、親孝行の実践者です。

「夫れ孝は、徳の本なり」
親への仁、つまり孝は、五倫の一つで、全ての始まりです。


私の父母は、その生涯で、親孝行を含め、人への仁愛の手本を見せてくれました。

次は、私がその手本を子供たちに見せる番ですが、どこまでそれができているでしょうか?

週末に、談山神社、吉野川上村に、両親を紅葉狩りにお連れ致しました。

最高の景色を、神さまからプレゼントしていただきました。



火曜担当…坂本欣也



2014年11月24日(月)
右から左へ                           月曜担当…池田光

■「右から左へ」は素晴らしい

「お金が入っても、右から左へと消えていく……」
と、ため息が出ることがあります。

が、右から左へ、というのはとても正常で自然なことなのです。

右から入り続けるまま、というのでは、逆に不自然です。
これでは一か所に蓄財されるばかりで、全体としてみれば不健全でしょう。
やはり、金は天下の回り物で、流れることが自然なのです。

次のような困ったこともよくあります。
「まず左へと支出した後で、右から入ってくる」
これは苦しいですね。
資金繰りがうまく行かなくなります。

僕は10年前に会社を経営し出してから、
「右から左へ」という正常で自然な流れを強く意識するようになりました。

でも、ちょっと下手をすると、
先に「左へ」出て行ってしまい、
その翌月や、翌々月に「右から」入ってくることになります。
相手先も資金繰りがうまく行っていないときは、一年くらい待たされたり。
こういうのは、共倒れの危険性がありますね。

同時期に何件も「右から」が遅れてしまい、先に「左へ」と流れ出してしまうと、
資金繰りに黄信号や赤信号に点ります。
経営者なら、誰だって経験しているはず。
ほんと、とても苦しいですね。

その苦しみが分かるから、
僕はできるだけ早めに「左へ」を行うように心がけています。
とにかく、取引先に早め早めに支払うのです。

すると、それよりも早く「右から」がないと成り立ちません。
しかし、「右から」は相手がある問題であり、
なかなか思うようにはいきません。
(そんななかで、すぐに入金してくれる方がいらっしゃると、思わず手を合わせてしまいます。
あるいは、正反対の業者さんもいらっしゃいます)

さて、そこで、これら「右」と「左」の迅速性を満たそうとすると、
「右から」と「左へ」との期間を、できるかぎり圧縮することになります。
最短の「右から左へ」は、当月に「右から」の収入があると、支出の「左へ」も当月とすることです。

また、「先行投資」という次元も、必要ですね。
僕の会社でも商品開発を行っていますが、これは計画化された「左へ」です。
この「左へ」は正常です。
これがないと、社会は創造的にならないし、会社は成長しません。
しかし、こういう先行投資が必要であるからこそ、日々のオペレーションでは、できるかぎり「右から左へ」と流れて行ってほしいわけです。

零細企業を運営していると、「右から左へ」というなんでもないことが、ほんとうに大事なことに思えてきます。

■御飯を食べたら食器を洗え

『しあわせ通信』シリーズの立花大敬先生の詩に、こんなのがあります。

人生は
流れ作業
御飯を食べたら
食器を洗え

僕の好きな詩です。
ここで言われているのは、「右から左へ」ではないでしょうか。
御飯を食べる=右、
食器を洗う=左。
なんとも、当たり前のことを言っています。
でも、この当たり前を、当たり前にできるようになることが、非凡なのです。

月曜担当…池田光



2014年11月23日(日)
「オリオン座」                          日曜担当…八木正典

先週仕事であまりいいことがなく、家に帰りながら悲しい気持ちのまま空を眺めました。
冬の星座であるオリオン座が煌めいていました。しばらく立ち止まって星空を眺めていると、子供のころに星空を眺めていたその時のうれしく新鮮な気持ちが湧き上がってきました。更に眺めていると体が吸い込まれるような不思議な感覚に包まれました。
気が付くとすっかり自分の気持ちがポジティブに変化していることに気づきました。自然のパワーというか、偉大さを感じた瞬間でした。

日曜担当…八木正典



2014年11月21日(金)
金持ちになる処方箋・・・                   金曜担当…小笹正洋

井原西鶴(1642-1693)の「日本永代蔵」という書物の中に
「長者丸」というお金持ちになる妙薬の処方箋についてのお話しがあり、

朝起 五両(早起き)
家職二十両(家業に励む)
夜詰 八両(夜なべ)
始末 十両(倹約始末)
達者 七両(健康でいること)

この合計五十両をきっちりと調合し、朝夕服用すれば裕福にならないわけがない。

という下りになっていますが、妙に納得させられます。


「日本永代蔵」は一家の栄枯盛衰や人間関係の中での毀誉褒貶についての因果を
終始独特の言い回しや風刺を効かせた語りとなっています。

江戸時代前期の一種のビジネス書のような存在でベストセラーとなっていました。



今も昔も、おそらく未来も。。。

人が求めるものはそんなに大差はなく、

やるべきことと、やってはいけないことも

同じようなことなんだと思います。

金曜担当…小笹正洋



2014年11月20日(木)
一灯を頼め                           木曜担当…西端努斗夢

湧くわく本心塾in多治見の開催が来週に迫りました。
今回のテーマは、「大儒・佐藤一斎の言葉と郷里を訪ねよう!」です。

私が佐藤一斎を知ったのは、ある雑誌を読んでいて「一灯をさげて暗夜を行く。暗夜を憂うなかれ、一灯を頼め」という言葉に出会ったのがきっかけでした。
この言葉が私の胸に深く突き刺さり、それ以来、自分にとっての『一灯』を探す旅が始まったのです。

振り返ると旅は20年以上続いていますが、いつまで続くのやら・・・ まだまだ終わりそうにありません。

木曜担当…西端努斗夢



2014年11月19日(水)
義を見てせざるは勇無きなり                 水曜担当…冨樫功

この動画を見て涙がでました。
10分とかからないので見てみてください。

https://www.youtube.com/watch?v=hwpNQ1NWzOU


色々考えさせられる動画です。


動画の女性が自分の危険をかえりみず、毅然と立ち向かう姿がかっこよすぎます。

特に以下のやりとりにしびれました。
「怒りが自分に向かうことをおそれなかった?」 
「正義のために戦うとき、そんなこと気にしてられないわ。
 私を殴りたければ殴ればいいのよ。そんなこと関係ないわ」

あの女性が立ち向かった時、自我はないのです。
自分の利益がまったくない、そこにはただ正義があるだけ。

とっさに行動ができるのがすごい。


自分ならどうするか。
日本人ならどうするか。
色々考えますけど、日本ならまずあれだけ文句言ってる人間がいたら相当な危険人物ですよね。

それを差し引いても、せいぜい若い兄ちゃんがしてた去り際に一言捨てゼリフがせいぜいかもしれません。

男は強がっていても、メンツやら自我やらに支配されてて、かつコミュ障だから何にも言えない。

そして女性は強い。
母性というのは、自分以上のものを育てることなのかもしれません。
だからこそ、ああいうときに仁を為せるのだと思います。

それに対して男性は自ら仁を育てていかないと身に付きません。
修養が必要です。

水曜担当…冨樫功



2014年11月18日(火)
「タイムトラベル」                        火曜担当…坂本欣也

先日、化石ハンターで有名な宇都宮聡氏とお話する機会をいただきました。

宇都宮氏は会社勤めをするかたわら、中学生の頃からの趣味である化石採集をライフワークとし、クビナガリュウ(サツマウツノミヤリュウ)やその他多数の大型化石を発見し、国内屈指のドラゴンハンターとして知られている方です。

お話の内容は、時代的には恐竜が誕生した三畳紀(2億5000年前)~ジュラ紀~白亜紀(6550万年前)にまでさかのぼり、また生物の誕生した38億年前にまで展開するという、私のこれまでの思考や想像を越えた壮大なものでした。

化石の話から始まり、石学、地学、鉱物、生物の進化、レイライン、中央構造線、飛鳥の由来、易学や風水、松下幸之助翁の生きた方、経営の更に奥底にあった自然の摂理との関わり方、ついには松下翁と中村天風師とのつながり、などなど、自然や地球を軸に話はどんどん展開していきました。

~印象に残っている言葉~

「世界(自然の摂理)は、本来、非常にやさしく、シンプルにできている」

「鉱物も生きている。石は空間を与えると成長する」

「鉱物、植物、動物は同じものからできている。地球や宇宙の一部である」

「生物は何度も絶滅と復活を経験してきている。我々のDNAの中にはそれらの情報が刻み込まれている」

「対極同士が交わって、強く進化する」

「時間を1年単位で観るか、100万年、1億年単位で観るかで、世界が変わる」


科学的であり、哲学的でもありました。
初めて聞く話ばかりで、私のこれまで持っていた思考の枠、時間の感覚が、壊れていきました。
それが爽快でした。

一緒にいた3時間で、何億年も旅をしたような不思議な感覚になりました。

帰宅後、宇都宮氏の著書『日本の恐竜図鑑』を早速オーダーしました。
今、子供たちと一緒に楽しく勉強しています。

火曜担当…坂本欣也



2014年11月17日(月)
無縛自縛                            月曜担当…池田光

無縄自縛は、「むじょうじばく」と読みます。
「自縄自縛」という言葉をもじったのではありません。
無縄自縛というのは禅から出た言葉で、こちらが元になっているそうです。

中国唐代に、百丈禅師(749~814)がいました。
禅師は、
「自ら知見を生じて、縄無くして、自ら縛る」
と言っています。

禅師の言葉の、前半の「自ら知見を生じて、」の原文は、「自生知見」です。
そして、後半の「縄無くして、自ら縛る」の原文が「無縄自縛」なのです。

私たちは、生きていると、どんどん生きることに賢くなり、生きる知恵や見識のようなものを身につけて行きます。
また、学問すれば、学問したなりに、知見が高まってきます。

こうして自ら起こした知見をもとにして、
「こんな場合は、こうすると、うまくいく」
「この考え方はおかしい、あるいは正しい」
などと判断し、スマートに生きているつもりでいます。
が、これが元で、無縄自縛に陥っているのだ、と百丈禅師は指摘しています。

知見ですから、縄はありませんね。
しかし、縄が無いのに、自らが良かれと思って身につけた知見によって、あるいは知らぬ間に身につけた知見によって、自分で自分を縛っているというのです。
その結果、身動きが取れなくなっています。

うまく生きているつもりが、どんどんと自分を規制してしまって、生命力のない生き方になっていないか。

常識を取り込んでしまって、一方的な物の見方になっていないか。

無意味な聖域やタブーをつくってしまっていないか。その結果、萎縮した生き方になっていないか。

会社という環境が、身動きできなくさせている。
家庭という環境が、身動きできなくさせている。
……そうではありません。
自分で自分を縛っているのです。
環境のせいでなく、他人のせいにしないことです。

自分を縛っている縄は、実際の縄のようには見えず、無いけれども、本当はある。
その正体が「知見」だったのです。

湧くわく本心塾では、毎月、潜学講座を開き、新しい知見を学んでいます。
が、私は、学ぶことがこれまでの知見の上に新しい知見を積み重ねるだけになってはいけない、と思っています。

学ぶことが、前の知見に気づかせ、壊し、捨て去ることにつながるという一面が大切だと思うのです。
無意識にいだいていた自分の知見に気づかせるために学ぶ。
そして、それが自分を縛っていたことに気づく。
無意識にいだいていた知見も、新しく学んだ知見も、ともに捨て去ればいい。

このような学びを、私は、「本心の学」と呼びたいと思っています。
自分を縛っていた知見を取り払うことで、本心が顕れる。
本心による生き方が、知見に縛られていない生き方です。

が、これは届きそうにもない理想です。
しかし、近づくことは可能だと私は信じています。
本心で生きる生き方に近づく人間が持っている力を、王陽明は「良知」と呼んだのだと思います。

また、「本心の学」に大切なのは、坐禅だと思います。
からっぽになることです。
からっぽにすることです。
その力が、坐禅にあると思います。

坐禅していると、あるとき、底が抜けます。
そして、底が抜けた穴から知見が流れだし、からっぽになるのです。

瞑想ではそうはいきません。
瞑想は意識の技であり、抜けそうになった底を、ぎりぎりのところで掴んでいるからです。

無縛の縄=知見をいかにして放行するか、これが湧くわく本心塾のテーマだと思うのです。

月曜担当…池田光



2014年11月16日(日)
「措かざるなり」                        日曜担当…八木正典

学ぼうと思って学んで学びつくさなければ決して途中でやめない。
疑問点があることはすべて解消するまでは決して途中でやめない。
思い足りないことがあれば身につくまで思わなければ決して途中でやめない。
道理が分かっていないがあれば徹底的に突き詰めなければ決して途中でやめない。
一回やろうと思ったことは成し遂げることができなければ決して途中でやめない。
一回でできる人がおり、私が出来なければ同じことを百回やるのだ。
十回でできる人がおり、私が出来なければ同じことを千回でもし続ける。
このやり方ができたなら、才能の愚かなものでも必ず明知の人となり、軟弱なものでも強者となるのである。


この言葉は宮本武蔵の五輪書にある「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす」を彷彿させるような強い気持ちと思いが詰まったものですが、なんと中庸に出てくる言葉なのです。
「中庸」という言葉は、生きていくうえで極端に走らず、程よくバランスのいい中を取っていくというものです。中庸の書には、程よくバランスを取る努力はバランスを取った意識と行動で成し遂げられるということが記載されているのではないかと考えていたのですが、この言葉を読んで衝撃を受けるとともに自分の甘い考えを打ち砕かれる気がしました。中庸を成し遂げるためにはすさまじいまでの意志の力と努力が必要で、それによって成立するというのです。その厳しさに身震いしました。但し、本文の結びの言葉は、誰でも、すぐにできなくても、人の百倍の努力をすることによって、どんな愚かなものでも真理は明らかになるし、どんな弱いものでも強くなれると締められています。強い気持ちを持って思いを続けていきたいものです。


学ばざる有り、之を学んで能くせざれば措かざるなり。
問わざる有り、之を問うて知らざれば措かざるなり。
思わざる有り、之を思うて得ざれば措かざるなり。
弁ぜざる有り、之を弁じて明らかならざれば措かざるなり。
行わざる有り、之を行うて篤からざれば措かざるなり。
人一たびして之を能くすれば、己之を百たびし、人十たびして之を千たびす。
果して此の道を能くすれば、愚なりと雖も必ず明らかに、柔なりと雖も必ず強し。

日曜担当…八木正典



2014年11月14日(金)
学び方について思うこと少し・・・              金曜担当…小笹正洋

伊藤仁斎(1627-1705)は江戸時代の前期の儒学者として名を残されていますが、
仁斎は、論語を「最上至極宇宙第一の書物」として、50年間研究に打ち込んで
来られました。

また、本居宣長(1730-1801)は、町医者をしながら「古事記」を35年間研究に
取り組まれ、研究の成果である「古事記伝」を自費で出版され、国学の存在を
揺るぎないものにされました。


論語は約2,500年の主に東洋の人たちの営みを支えてきたし、
古事記は1,300年以上もの間、意識するしないに関わらず
日本人の拠り所としての位置を保ってきました。


ここで、双方の考えや他論を交えて比較対比するつもりはありません。
どちらも本物の教えであり、精神的支柱となっていくものだと思います。


一つの事に生涯をかけて突き詰めて行こうとする姿勢、並々ならぬ熱意。
ここに頭が下がる思いであると同時に、そうした先人たちの血の滲むような
取り組みによって残された教えを享受できているという環境にいることを
自覚して、より一層学びを深めていける可能性に向かっていきたいものです。



学んで知るのではなく、思って得ることが大事。
学問は教わるのではなく、発明するものという覚悟が必要。

とは、小林秀雄の教えでもあるのですが、


ともすれば、学びを広めていこうと多読乱読に走っていきがちですが、
先記の先人たちの「熟読玩味」の学び方にも習いたいところです。

金曜担当…小笹正洋



2014年11月13日(木)
「ゆ」の言霊                           木曜担当…西端努斗夢

仕事を終えて、お風呂に入り、お湯に浸かっていると、凝り固まった心と身体が緩んで、ゆったりとした気分になり、立花大敬さんが話されていた「ゆ」の言霊のことを思い出しました。
お湯はまさに「ゆ」の言霊そのもの。だから日本人はお風呂が大好きなのかもしれません。

優雅に悠々と日々を過ごし、まわりの人に夢や豊かさを与えてくれる、「ゆ」の言霊のような人に憧れます。

木曜担当…西端努斗夢



2014年11月12日(水)
転職も天職                           水曜担当…冨樫功

自分が何をすればいいか、ずっとわかりませんでした。

自分の履歴書はボロボロです。
天職どころか転職ばかりするという有様で、
社会保険料が天引きされるような、いわゆるマトモな会社には一度も務めたことがありません。

そんな自分でも死なずに生かされている。
自分にも何かできることがあるはずだ、とずっと模索してきました。

中村天風の統一箴言に次のような言葉があります。


私は今、人の世のために何事かを創造せんと欲する意欲に燃えている。
そしてかくのごとくに心を燃やしていれば、
いつかは、宇宙霊は私に何をなすべきかを教えたもうにきまっている。


それを信じて、迷い探し続けてきました。

そして、ついにここ数年、宇宙霊が自分に何をなすべきかを教えてくれたように思います。
今までの転職の経験や人生すべての経験がこれから始める事業のために用意された道筋だったように感じます。
転職すら天職だったのかもしれません。

人の世のため、というほどのスケールではありませんが、
回りの縁ある人々を喜ばせ元気づけられるような仕事をしていきたいと思います。


2014年11月11日(火)
「気縁」                             火曜担当…坂本欣也

この世には、すべてのものを進化発展していく流れがあります。これは「宇宙の意志」というべきものです。この「宇宙の意志」は、愛と誠と調和に満ち満ちています。そして私たち一人一人の思いが発するエネルギーと、この「宇宙の意志」とが同調するのか、反発しあうのかによってその人の運命が決まってきます。
宇宙の流と同調し、調和をするようなきれいな心で描く美しい思いをもつことによって、運命も明るく開けてくるのです。

成功を持続させるためには、描く願望や情熱がきれいなものでなければなりません。つまり、潜在意識に浸透させていく願望の質が問題となるわけです。そして、純粋な願望をもって、ひたすら努力を続けることによって、その願望は必ず実現できるのです。

これらは中村天風師の本の抜粋ではなく、稲盛和夫氏の『京セラフィロソフィー』(サンマーク出版)の冒頭に出てくる言葉の抜粋です。稲盛氏が、京セラの創業から発展、DDIからKDDIへの経営、JALの再建に取り組まれてきた、一番基本とする考え方の一つです。

中村天風師から影響を受けたという稲盛和夫氏が書かれたので、天風師の言葉を引用したのかと受け取る方も居るかもしれませんが、無論稲盛氏が様々な学びや体験を通して自ら掴んだ真理だと、私は信じています。超一流の人達は、時空を越えて、同質の真理に達するのだということがよく分かりました。

その稲盛氏は、鹿児島県の出身で、そして西郷隆盛翁を敬愛されていると知りました。
西郷翁は、天風師の二人の師の一人、頭山満翁(もう一人は、カリアッパ師)に大きく影響を与えた人で、ここにも稲盛氏と天風師の繋がりはあるのです。

また、西郷翁は王陽明の陽明学から大きく影響を受け、王陽明を遡ると朱子、孟子、孔子、そして中国古代の教えに繋がっていきます。また、まだ詳しくは私も知りませんが、インド哲学、ヨーガを根本とし中国に伝わった仏教やその一つである禅が、儒教の発展プロセスに影響を及ぼしたと読んだこともあります。

私たちが哲学や思想を学ぶ時に、このような脈々と続く流れの中で学び影響を受け、バトンをつなぐように生かされているのだと改めて認識したとき、私は畏怖と畏敬の念を以て感動しました。

先日の潜学講座で、これを「気縁」「気流」という私の造語で、お話をさせていただきました。知識という理性心で理解するというレベルではなく、気という霊性心でつながるご縁という意味です。

以前私が中国人の経営者とお話していた時に、数名の方々が「稲盛氏は中国の経営者の間で有名で、その経営哲学を学んでいる人、学びたいという人はたくさんいる」と仰っていました。稲盛氏が今度は中国のリーダー達に影響を与えているのです。

日中関係は今、困難な局面を迎えていますが、この気の流れを素直な心で見つめることで、表面に流されず、真に為すべきこと、築くべき関係が見えてくるのではないでしょうか?

私もこうした学びをさせていただいていることを、偶然ではなく必然の「気縁」であると感謝して、これからも続けて学んで生きたいと思います。

火曜担当…坂本欣也



2014年11月10日(月)
佐藤一斎『言志四緑』                     月曜担当…池田光

『言志四緑』は、佐藤一斎(1772-1837)が後半生の四十余年にわたって書いた語録であり、『言志録』『言志後録』『言志晩録』『言志耋録』の四書の総称です。

これらの書を、人生の教訓として読むことができます。
が、その時代背景を考慮して読むと、各録に収録された言葉がひしひしと緊張感をもって伝わってきます。
 
・『言志録』全255条。42歳(1813年)~53歳(1824年)の執筆。
・『言志後録』全255条。57歳(1828年)~67歳(1838年)の執筆。

この『言志録』『言志後録』の二書が書かれたときは、徳川家斉(1787-1837)の治世でした。

家斉の一面を示すエピソードに、大奥の話があります。
特定されるだけで40人の妻妾を持ち、男子28人、女子27人の子をもうけ、その子息の養子先に選ばれた諸国の大名の中には、家督を横領されたものもあったそうです。
ほかにも妾がいたと伝えられ、子息の膨大な養育費などで、大奥関連の経費は幕府に大きな負担を強い、やがて財政は破綻へ向かうこととなったともいいます。

『言志録』は、このような弛緩した幕政に対しての、もっとはっきり言えば、家斉に対しての批判の書として読めます。
もっとも、幕府の体制を否定するのではなく、体制を正常化するために改革指導しよう、という意図をもたせて書かれたものでしょう。

このような視点で読むと、言葉の意味合いに緊張感が感じられ、また、違った意味合いに見えてきます。

・『言志晩録』全292条。67歳(1838年)~78歳(1849年)の執筆。

大塩平八郎の乱がおこったのは、『言志晩録』が執筆する前年の1837年(天保8年)のことです。
佐藤一斎を慕っていた大塩平八郎(1793-1837)は、陽明学者です。
しかし佐藤一斎は、ある一定の距離感をもって、平八郎に対しています。
では、佐藤一斎の陽明学と、平八郎の陽明学とは、どこに違いがあるのでしょうか。
このあたりのことも、ひとつの論点として読むことができるかもしれません。

・『言志耋(てつ)録』全340条。80歳(1851年)~82歳(1853年)の執筆。

黒船が来航したのは、1853年です。つまり『言志耋録』の執筆が終了したときです。
ここから、明治元年となる1868年まで、日本史に残る激動の時代が始まります。
その幕明けの年である1853年に、四十余年にわたって書き綴られてきた『言志四緑』は終えられています。

では、激動の時代を走った志士たちは、『言志四緑』から何を学んだのでしょうか。
たとえば、西郷隆盛は、『言志四緑』から百一条を抜粋して、『手抄言志録』をまとめ、座右の書としています。

■湧くわく本心塾in多治見■
「大儒・佐藤一斎の言葉と郷里を訪ねよう!」のご案内

『言志四緑』を書き綴った佐藤一斎。
その言葉と、郷里を訪ねようという、願ってもない旅をします。
参加者募集中です!!
お気軽にご参加ください。

・日時  11月25~26日(火曜、水曜)
・場所 【1日目】多治見市学習館(まなびパーク)
        http://www.tajimi-bunka.or.jp/gakushu/?page_id=15
    【2日目】NPO法人いわむら一斎塾
         http://issaijyuku.com/

 ・主な内容
【1日目】11月25(火曜)~大儒・佐藤一斎先生の言葉を学ぶ
13:00 開場・受付開始
13:30 開会挨拶・自己紹介
14:00 【講義1】佐藤一斎の言葉①「言葉を味わう」
15:30 【講義2】佐藤一斎の言葉②「書を楽しむ」
     参加者が選んだ佐藤一斎の言葉を、
石彫家・川井信一さんに書いていただきプレゼントします。
【懇親会】17:30~20:00頃(希望者)

【2日目】11月26日(水曜)~佐藤一斎先生の郷里で学ぶ
10:00~12:00 NPO法人いわむら一斎塾理事長・鈴木隆一先生より、講話と懇談。
※鈴木隆一先生は、恵那市教育委員長をを務められ、『小学生のための言志四緑』などの執筆もされています。
13:00~15:00 資料館、岩村城跡などを見学

◆講座参加費(多くの方にご参加いただきたく、ありえない価格にしました)
  ①2日間通しで参加 2000円(お得です)
  ②1日目のみ参加  1500円
  ③2日目のみ参加  1000円
   ※その他、交通費、入館料など実費が必要です。一日だけの参加もできます。

◆宿泊が必要な方は、ルートイン多治見インターにお泊まりください。
  予約は各自でお願いします。

月曜担当…池田光



2014年11月9日(日)
「朱子学」                            日曜担当…八木正典

最近儒学の歴史を見ていて朱子学を学びたいと感じました。
そのため何から手を付けていいのかよく分からないながら、近思録と小学を入手しました。まさにこれから一からのスタートになります。

恥ずかしい話ながらそもそも朱子学についてほとんど何も知りません。これまで陽明学は肌が合うような気がしていろいろな本を読んできたのですが、朱子学はそれに対立する学問で、江戸時代の固陋の学問との勝手な認識の中で全く何たるかを知るわけでなく、自分として事実確認するわけでも、学ぶわけでも、研究するわけでもなく勝手な先入観だけで触れずにきたわけです。何も知らないのに食わず嫌いで選択肢から排除してきたわけです。考えれば残念なものです。

思い立った時が必要な時と考えて焦らず、少しずつ読み込んでいきたいと思います。
「天地の為に心を立て、生民の為に道を立て、去聖の為に絶学を継ぎ、万世の為に太平を開く。
(近思録)」 
こんな意識に早く至りたいものです。

日曜担当…八木正典



2014年11月7日(金)
新しい学びになっていくカモ・・・               金曜担当…小笹正洋

先日の潜学講座では久しぶりに懇親会に参加することが出来ました。

当塾の今西最高顧問と席を近くしてお話しさせて頂いた際に、
「天門開闔(てんもんかいこう)」という言葉をご紹介下さいました。

老子に出てくる言葉です。

生命誕生に関する神秘的な意味をも含む
というお話しでした。



「老子」第十章に記載されており、
一部を抜粋しますと、


天門開闔して、能く雌と為らんか、
明白にして四達し、能く無知ならんか。
之を生じ之を畜う。
生じて有せず、為して恃まず、長じて宰せず、
是れを玄徳と謂う。



興味を覚えましたので、その言葉が載っている章を
何冊か読んでみて「タオ 老子」/加島祥造(著)
の解釈が面白い。



天と地を結んだ神秘の門を開いて、
母と遊ぶことができるんだ。
無理に知ろうなんてしなくとも
四方八方、とてもよく見えてくる。
もちろんタオの人も
産んだり愛したり養ったりするさ、
しかしそれを自分のものとしない。
熱心に働いても
自分のしたことだと自慢しない。
ひとの先頭に立ってリードしても
けっして彼らを支配しようとしない。

これを玄徳というんだ、すなわちそれは
ひとの玄(おく)にある深い力が
いちばんよく働くことなんだ。



儒教の教えに習うことも勿論良いことですが、
老子の教えの中の解釈を尋ねることでも
また新しい気付きと発見を貰えそうです。

金曜担当…小笹正洋



2014年11月6日(木)
3つの幸せ                           木曜担当…西端努斗夢

イエローハット創業者・鍵山秀三郎氏のお話で最も印象に残っているのは、「3つの幸せ」というお話です。

3つの幸せのうち、1つ目の幸せは、「してもらう幸せ」です。
赤ちゃんの頃、両親や祖父母らからミルクを飲ませてもらったりおむつを替えてもらった時の幸せ。今も、周りの方から親切にしてもらったり、色々なことを教えてもらって幸せを感じています。

2つ目の幸せは、「できるようになった幸せ」です。
幼い頃、それまでやってもらっていたことを初めて自分でできるようになった時の幸せ。今も、新しいことに挑戦してできるようになった時に幸せを感じています。

そして、3つ目の幸せは、「してあげる幸せ」です。
小学校高学年になって低学年の子供に手伝いをしてあげた時の幸せ。今も、人のために役立つことができ「ありがとう」を言われた時に幸せを感じています。

これからも、3つの幸せをかみしめて生きていきたいと思います。

木曜担当…西端努斗夢



2014年11月5日(水)
荀子のこと                           水曜担当…冨樫功

戦国時代最後の大儒といわれた荀子は、評価が異様に低いと感じています。
そこで少しずつですが荀子を読んでいます。
しかし、なぜ評価が低いのか。
その理由を少し考えてみたいと思います。

まず、第一に性悪説を唱えたというのがあると思います。
人の本性は悪であるというイメージは、そのまま荀子が悪い人間だったというイメージにつながります。

さらに、有名な弟子である韓非と李斯が法家の大家になり、
秦の悪政のブレーンとなっていたという事実がそのイメージに拍車をかけます。

たしかに荀子をひもとくと、君主は信賞必罰をもって民を治めるようなことが書いてあり、
法家的な考えも取り入れていたことがわかります。

なにしろ孟子より100年ほど後の世界。
そして荀子は実際に士官もしています。

孟子の理想では世に用いられなかった実際的な反省があると思います。

でも性悪説は、修養しなければ人は悪いままだ、だから学を修めなさい、という教えであって、
孔子のいう「性は相近し、習いは相遠し」から離れた考え方ではありません。


荀子があくまで儒者だなあ、と思うのは、天人相関説を否定しつつも、
第一の篇に勧学をおき、第二に修養を持ってきているところです。

学を重視しているのです。
法家は民は愚かな者として、学を勧めたりはしません。
ここが儒教と法家の大きな違いの一つだと思います。


そして、荀子があまり読まれない二つ目の理由は、長いことだと思います。

論語の簡潔さと比べると、全二十巻三十二編は分量がかなり多くなっています。
そして文章自体も比喩や説明が多く、読みにくくなっているのです。
まわりくどく感じてしまいます。

また、説明が多いということは、読者が独自の解釈をしにくくなることを意味します。
読者が入り込む余地が少ないということです。

時代を超える英知となる評価を得られていないのは、こんなところからきているのかもしれません。


史記では、荀子は荀卿と呼ばれています。
卿は先生という意味だそうです。
孟子荀卿列伝となっています。
当時から、孟子は子なのに荀子は卿と区別して呼ばれているところも興味深いところです。

水曜担当…冨樫功



2014年11月4日(火)
「冬春夏秋」                           火曜担当…坂本欣也

11月1日の潜学講座、『中村天風から学ぶ人間力の高め方③』の中で、
「困難・苦悩の意味」についてお話をさせていただきました。 

しかし、講義を終えてからも、語っていた自分自身が、その意味についてまだスッキリ理解・納得できていないと、週末考え続けていました。この意味が分からないと、真の幸福の意味も分からない、と。

 「健康なら幸福だろうとか、運命が良ければ幸福だろうと考えるのは、小成に安んじようとする凡人の気持ちと言うべきで、これは断じてとるべきところではない。本当の幸福とは、健康や運命の中にある苦悩というものを乗り越えて、それを突き抜けたところにある。」

 「およそ苦悩から離れた人生というものは、断じてあり得るものではない。苦悩というものは、いわば人生についているものである。(中略)それを嫌い、それを逃れて幸福を得ようとしても、そこにはないのだから得られるはずがない。本当の幸福というものは、凡人の多くが忌み嫌う苦悩というものの中にある。すなわち、その苦悩を楽しみに振り替えるところにあるのである」

 『図説、中村天風』(財団法人天風会編)
 阿波小松島講演会(1929年ごろ)「幸福の要諦」の要旨より

この天風先生の言葉を何度も読み、安定打坐をし、信頼する友人と対話しました。
そして、一つのイメージにたどり着きました。

それは、自然の摂理・法則である「春夏秋冬」です。
その中で、困難・苦難は、寒さ厳しい「冬」。

困難・苦難は、
魂の成長プログラムに組み込まれたプロセス。
真の幸福に至る上で、欠かせないプロセス。
神さまからのプレゼント(今ここ)。

木は、寒い冬に耐えながら、目に見えないところで、新しい芽と花と葉を出す準備をしています。
寒い冬を乗り越えて、年輪を刻みます。この年輪の幅が小さく密度が濃いほど、強い木になれます。

逆に、常夏の環境では、細胞を鍛える時期がなく、大きくはなるが、密度の薄い弱い木になってしまいます。

春になると、温かい太陽、ポカポカした陽気に切り替わります。
愛と慈悲と癒しをもらい、心が解放されます。

この瞬間に、冬の間に蓄積されていたエネルギーが一気に解放され、
木の細胞が大いに増殖し、芽や花や葉になって出てきます。

夏には自然のエネルギーを更に吸収し、また同時に放出ししながら成長し、
秋にそのエネルギーをギューッと濃縮した実をつくります。

実という一つの成果を付け、ひとつの成長サイクルを終えた木は、
次のレベルの成長過程への準備をするために、また冬を迎えます。

そう考えると、厳しい冬の間には、辛いながらも、春夏秋の自分の成長活躍、人の世に役立つ自分を想像し、楽しみながら過ごせるのではないかと思えるようになりました。

天風先生の「本当の幸福というのは、その苦悩を楽しみに振り替えるところにあるのである」の意味が、少し分かって来た気がしました。

この歳になり、一年が経つのが本当に早く感じられてきましたが、
これからは、一年の「自然の摂理」と「魂の成長プロセス」を重ね合わせ、
一瞬一瞬をもっと味わって生きたいと思いました。

そして、「春夏秋冬」ではなく、「冬春夏秋」と変えたくなりました。

火曜担当…坂本欣也



2014年11月3日(月)
大知・小知・深知                       月曜担当…池田光

■三知の必要性
「人は三知を持たなければならない」
と、現代のある儒家が言っております。

三知とは、
① 大知……大きく広い立場から物事を見ていく知
② 小知……小さく細部まで見ていく知
③ 深知……深く、深く物事を見ていく知
です。

例えば、「孟子は性善説を唱えた」というのは、大きく広い「大知」による理解ですが、
これだけだと表層の認識に終わってしまいます。
つまり、浅知だということです。

9月の潜学講座で、
私は、孟子の「心の官」と「耳目の官」の話をしました。

孟子によると、人間が持って生まれた先天的なもの(=性)には、
・心の官(本心・良心)
・耳目の官(情動)
があり、心の官は「善」だから、「性善説」なのだと単純に決めつけると、
他方の「耳目の官」には目をつむることになります。

耳目の官は、どちらかと言えば、「悪」なのです。
だから、こちらの面をみれば、「性悪説」ともなりかねません。
にもかかわらず、孟子が性善説を唱えたとは、どういうロジックによるのでしょうか?

孟子の言葉を集めた『孟子』を読むと、
性善説というのは、教科書通りの単純さではないということがわかります。
まずは「小知」で『孟子』を細かく読んでいきながら、
なぜ、どうして、孟子は性善説を唱えたのかと思索を深めることが「深知」なのです。

この三つの知のあり方は、ビジネスにおいても、人性においても必要な物の見方だと思います。
別の言い方で繰り返すと、
・大局観をもつこと……大知
・細部にこだわること……小知
・なぜなぜなぜと一枚一枚皮を剥いでいきながら核心に迫ること……深知
であり、この三つはどれも欠かせないのです。
そして、知には、深知による裏づけが必要なのです。

■深知の実践 ~田処さんへのお答え~
9月の潜学講座が終わったときでした。
塾生の田処さんから、
「孟子の『心の官』には、理性が含まれるのでしょうか?」
という質問を受けました。

彼の質問には、
天風哲学では「霊性(本心・良心)」と「理性」とは別の層ですが、
そうなると、「心の官」=霊性とはならないですね?
という問いかけが内包されているのです。

孟子の「心の官」には、「知」が含まれています。
ただ、理性=知と単純に捉えていいのかという疑問を残しながらも、
私は、
「儒教では『知』や『学』は特別の意味があり、もっと深めていかねばならないが、現時点では理性は含まれていると考える」
と、11月の潜学講座でお答えさせていただきました。

それにしても、「知」をどう捉えるか?
王陽明のことを話すときまでお待ちいただきたい、
というのがお願いです。

現時点では、上記のお答えで精一杯ですが、
来期(第四期潜学講座)のどれか一つの講座で、
王陽明を取り上げたいと思います。
その際に、「良知」の観点から、この問題を考えてみたいと思います。

大切なのは、ここで終わらせないこと。
もう一皮を剥いで、核心に迫ること。
そのステップが、深知の道程だと思うのです。


※現代のある儒家と冒頭に書きましたが、それは、岡田武彦さん(1908-2004年)です。

月曜担当…池田光



2014年11月2日(日)
「学び」                             日曜担当…八木正典

11月の潜学講座に参加してきました。
坂本先生の「中村天風から学ぶ人間力の高め方③」と池田先生の「孟子を読む④」の2本立てで素晴らしいものでした。

坂本先生の講義では、天風先生の略年表の説明から始まり、そこから学べるヒント、悩みの発生原因、そこからの気づき、過去の聖人への系譜、最後は天風先生が師事した頭山満の一生までと非常に充実した内容でした。特に、悩みの原因を<焦り>、<驕り>、<乖離>の3つの観点でとらえていたのは新鮮で、なるほどとうなずかされました。

池田先生からは、孔子から孟子へつながっていく中での性の捉え方の違いを学ばせていただきました。孔子の仁、義、礼、知(学)が、孟子の仁、義、礼、知では微妙に変化していることを、自暴自棄という言葉を通じて説明いただき、儒教の変遷に関しての理解が進みました。孔子から内面派の曾子と外面派の子夏、冉雍に分かれていく流れと、内面派の代表である孟子の考えを整理付けいただきすっきりと頭の中に入ってきました。次回の外面派の代表である荀子の説明が今から楽しみです。


「少にして学べば、則ち壮にして為すこと有り。
 壮にして学べば、則ち老いて衰えず。
 老いて学べば、則ち死して朽ちず。」
とあります。

今回の講座でも自分だけの知識や理解、学びでは何年かかっても全く気付くことのないものが多く含まれています。それを新たな気づきとして教えてもらえることは本当に幸せなことです。学べる機会が得られるというのは本当にありがたいことです。引き続き、どんな困難でもピンチはチャンスだと考えることを忘れずに、更なる高みに向け学び続けていきたいと思います。

日曜担当…八木正典



2014年10月31日(金)
大切にしたい記念日・・・                   金曜担当…小笹正洋

あまり知られてないかもしれませんが、
明日(11月1日)は、「古典の日」です。


少し説明しますと、


2012年9月5日に「古典の日に関する法律」が公布・施行されました。


その内容は、

(目的)
第1条 この法律は、古典が、我が国の文化において重要な位置を占め、優れた価値を有していることに鑑み、古典の日を設けること等により、様々な場において、国民が古典に親しむことを促し、その心のよりどころとして古典を広く根づかせ、もって心豊かな国民生活及び文化的で活力ある社会の実現に寄与することを目的とする。

(定義)
第2条 この法律において「古典」とは、文学、音楽、美術、演劇、伝統芸能、演芸、生活文化その他の文化芸術、学術又は思想の分野における古来の文化的所産であって、我が国において創造され、又は継承され、国民に多くの恵沢をもたらすものとして、優れた価値を有すると認められるに至ったものをいう。

(古典の日)
第3条 国民の間に広く古典についての関心と理解を深めるようにするため、古典の日を設ける。
(2)古典の日は、11月1日とする。
(3)国及び地方公共団体は、古典の日には、その趣旨にふさわしい行事が実施されるよう努めるものとする。
(4)国及び地方公共団体は、前項に規定するもののほか、家庭、学校、職場、地域その他の様々な場において、国民が古典に親しむことができるよう、古典に関する学習及び古典を活用した教育の機会の整備、古典に関する調査研究の推進及びその成果の普及その他の必要な施策を講ずるよう努めるものとする。

附 則
この法律は、公布の日(2012年9月5日)から施行する。


となっています。


「紫式部日記」の寛弘5年(1008年)11月1日の記述に、源氏物語の作者紫式部に対して、藤原公任が、「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」(そういえば、このあたりに若紫の姫君がいらっしゃるのでは)と語りかけたとあり、「若紫」とは源氏物語の登場人物であることから、この記述は日本を代表する古典文学である源氏物語が歴史上はじめて記録されたものであることを根拠としている。
このため、記述の日から千年目に当たる2008年(平成20年)の前年、2007年(平成19年)1月に京都府などを中心に立ち上げられた「源氏物語千年紀委員会」が11月1日を「古典の日」とすることを提案した。
(Wikipediaより)

2012年(平成24年)3月に超党派の議員連盟「『古典の日』推進議員連盟」が国の制定する記念日とする法案を議員立法で提出。8月29日に参議院本会議で成立したが、国民の祝日とはなっていない。
(Wikipediaより)



この「源氏物語」は、1930年代に英訳されてから20余の外国語に翻訳されるに至り、世界各地に広がっているようです。


これを機会に、この源氏物語にチャレンジしてみよう!(読書ですよ)

金曜担当…小笹正洋



2014年10月30日(木)
まず自分                            木曜担当…西端努斗夢

「まず自分」というとエゴイストのように思われるかもしれませんが、私はまず自分です。

自分を大切にできない人が他の人を大切にできるでしょうか?
自分を愛することができない人が他の人を愛することができるでしょうか?
自分に優しくできない人が他の人に優しくできるでしょうか?

まず、自分が満たされること、それが大切だと思います。
歯を食いしばり、眉間にしわを寄せてまで世の中の役に立ちたいと、私はは思いません。

木曜担当…西端努斗夢



2014年10月29日(水)
みてじま論語講座10月25日                 水曜担当…冨樫功

10月25日にみてじま論語講座に参加しました。

今回は、学而第一第二章を学びました。

「有子曰く、其の人と為りや孝弟にして、上を犯すを好む者は鮮なし。 
上を犯すことを好まずして、乱を作すを好む者は、未だ之れ有らざるなり。 
君子は本を務む。本立ちて道生ず。孝弟なる者は、其れ仁の本為るか。」という箇所です。

参加者のある方は開始前に、これだけの文章で1~2時間もかかるのかと言われてましたが、
これだけの文章でも、注釈から読んでいくと時間いっぱいになりました。

特に一番最後の「其れ仁の本為るか」の部分は、これまで大いに議論されてきたということです。
ここを、「其れ仁の本為るか」と読むか、「其れ仁を為すの本か」と読むかで、認識が変わってきます。

また、自分は論語のそれぞれの句の順番をあまり気にとめたことがありませんでしたが、
やはり意図を持って編纂されているということに気づかされました。
そうすると、論語の二番目に孔子ではなく、弟子の有子の言葉が来ているのは不思議な感じがします。

調べてみると、有子は孔子の弟子のなかでもさほど有名でもなく、
名前が出てくるのは学而第一の中に数回を数えるのみで、他の篇には出てきません。
さらに、残っている伝説は、孔子に容貌が似ていたから後継者に担ぎあげられそうになったが
容貌だけで中身がなく、曾子の反対で失脚した、とかいう冴えないものです。

そんな有子の言葉がなぜ二番目という重大な場所に置かれているのか。
面白いところです。

註によれば、この言葉は初学者の心得として最適であり、
また孔子の思想の表れであるために、二番目に配されていると考えられるとのことでした。

孝悌に務めば、仁の入り口に立つことができ、道が生じてくる。

この部分もお気に入りの一章になりました。

水曜担当…冨樫功



2014年10月28日(火)
「西郷南洲遺訓」                        火曜担当…坂本欣也

私は異文化コミュニケーション&マネジメントをアメリカ留学で学びました。そして、現在は、様々な企業や大学で、「仕事などで起こる異文化摩擦を解消し、より良い人間関係と組織づくり」ができる人財育成のお手伝いをさせていただいています。

価値観、考え方、仕事への取り組み方、手法方法、コミュニケーションスタイルなど違いから、摩擦や対立が起こりやすい。それらの違いと原因を知ることが、問題解決の第一歩でもあります。

最近、日本で働く外国人にインタビューをして、彼らから観て現代の日本人はどのように映っているのか、何が摩擦の原因になっているのか、について改めて調査をしています。

興味深いコメントをたくさんもらっていますが、再認識できたことを2つにまとめると、

1)近年の日本社会において表面上の変化は多々あるものの、昔も今も諸外国との文化の違いは、大きく変化していない。

2)文化の違いはあっても、その更に根底にあるものは同じである。


そこで、西郷隆盛翁が遺された『西郷南洲遺訓』の中のこの言葉を、改めて噛みしめました。

「忠孝・仁愛・教化の道は、政事の大本にして、

萬世に亘(わた)り、宇宙に弥(わた)り易(か)ふべからざるの要道也。

道は天地自然の物なれば、西洋と雖(いえど)も決して別無し。」


「忠孝・仁愛・教化の道」は、世界中どこでも通用する、平和と調和と信頼を築く根本であると。
なぜなら、それは「天の道」であるからと。

「世界に通用するグローバル人財の育成が急務である」と、国も企業も躍起になっていますが、
目先の違いやテクニックに翻弄されるのではなく、慌て焦ることなく、この「天の道」を拠り所に、人財育成をすべきであると改めて思いました。

私もこれを根幹に据えて、グローバル人財のお手伝いをこれからもしていきたいと、改めて思いました。

火曜担当…坂本欣也



2014年10月27日(月)
最高顧問のこと                        月曜担当…池田光




一昨日……。

弊塾の今西最高顧問から、電話がかかりました。
「今、天正寺さんで坐禅をやってきましたが、
佐々木奘堂(じょうどう)住職はたいした人ですなあ。
11月の坐禅会は、あと何人参加できますか?
みなさんにも行くよう、薦めさせてもらいます」
という内容でした。

11月22日、湧くわく本心塾では、
佐々木奘堂先生の「お話と坐禅会」(淡路駅、クレオ大阪北で開催)を予定しています。
(サイトのトピックス参照)

ところがその日、今西最高顧問は日程が合わず、
その代りに、
佐々木奘堂住職の天正寺(写真)で開催されている坐禅会に、
昨日、行かれたのだそうです。

良いものがあれば、即坐に行動される……。
なかなか行動を起こされない方が多いなかで、
80歳というご年齢をものともせず、さっと動かれる……、
自然と頭が下がりました。

■今西最高顧問との出会い
僕が今西最高顧問を知ったのは、
もう、15年も前のことです。
「大敬先生の<しあわせ通信>を読んで感動しました」
という封書をいただいたのがきっかけです。

僕が主催する本心庵では<しあわせ通信>シリーズを出版しているのですが、
第一集『心はゴムひも!?』に感動して、お手紙をくださったのでした。

その頃、今西最高顧問は「プレジデント経営懇話会」の代表世話役として、
毎月、大阪倶楽部で勉強会を開催されていました。
まもなく僕は、その講師に招かれたのですが、
ちょうど経済界から一冊上梓したばかりの頃で、
参加されていた経済界の大阪の責任者に50冊ばかり新刊を運んでいただき、
懇親会の席上ではサインばかりしていたのを覚えています。

その後も何度か講演の機会を与えていただき、
そのお礼にと、今西最高顧問のご著書『魂に響く108の言葉』を出版させていただきました。
が、お返しのほうが多くて、結果として「していただく」ことばかりで、
その何十分の一もお返しできておりません。

■そして、明日…
今西最高顧問には「長岡禅塾」をご紹介いただき、
禅塾で坐禅をするようになってから4年目になります。

そして明日は、
現在、パナソニックの迎賓施設になっている真々庵に
お連れいただきます。
尊敬する松下幸之助の哲学が、真々庵の広大な庭園に表現されていると知り、
かねて訪ねたいと思っていたもので、
とても楽しみにしておりました。

まことに、今西最高顧問には「していただく」ことばかりです。
感謝にたえません。

※真々庵(しんしんあん)
元染谷寛治氏の別邸(聚遠亭)であった。
小川治兵衛の作庭(明治42年)という。
昭和36年松下幸之助が社長を退任し、PHPの活動を再開するにあたって、この別荘を求める。
真々庵は、松下幸之助の命名。
昭和55年、建物の全面改装を経、「松下美術苑真々庵」(松下電器迎賓施設)となる。
敷地約1500坪。
非公開。
真々茶室、根源の社、出雲国分寺の礎石、十三重の檜垣塔(江戸末期)などがある。

ネットでの情報は少ないようですが…
http://tomoyuki1202.blog103.fc2.com/blog-entry-1001.html

月曜担当…池田光



2014年10月26日(日)
「日課」                             日曜担当…八木正典

昨年2月から自己改善のために日課を定めようと思い立ち、月ごとに10項目程度の毎日やることを決めています。

しかしながら継続することが重要だと分かって決めていながらまったく継続できない状況が続いていました。
紙にテーマを書いて○、×をつけているのですが、一旦×が入ることを許すと簡単にやらなくなります。自分の中で言い訳探しがうまくなるのです。
ひどい時には、1か月で○が2個しかないという自分で選んでおきながら何故選んだのか全く理解に苦しむようなテーマもあったりして。
そのたびになんて自分は意志が弱いのだろうと自己嫌悪に陥ってしまっていました。
自身の進化向上のためにやっているはずなのに、何のための日課なのかさっぱり分からずただ自信を失うためにやっているような状況でした。

その状況が劇的に変化したのが今年の5月。その変化は次の二点から生まれました。
一つ目は水垢離です。水垢離といっても、行為そのものというより、本心塾の水垢離メンバーの仲間入りをしたことです。同じことを既に行っている先輩たちが継続しているのだから、当然に自分も継続してやる。先に進んでいる人の真似をするだけで続いているのです。
もう一つは、継続した日数を数えることです。こんなに続けているのだからここでやめるともったいないという理由で続ければ続けるほどやめられなくなる。不思議なものです。
そうして続いているのが、論語他の素読、筋トレ、瞑想その他もろもろ。

孫子の言葉で「善く戦うものはこれを勢に求めて人に責(もと)めず」とあります。本心塾の先輩が作り出している勢いに乗せていただくことで、個人の弱さを抑え込むことができています。本当に有り難いことです。その有り難さに感謝しつつ日課を更に継続していきたいと思います。

日曜担当…八木正典



2014年10月24日(金)
勤労は金朗・・・                        金曜担当…小笹正洋

アメリカ合衆国第16代大統領リンカーンに纏わるお話です。

エイブラハム・リンカーンは、義兄であるジョン・ジョンソンからの
借金の申し入れに、僅かですが今までに何度も援助してきましたが、
その度に「これでもう大丈夫」と言われて、またすぐに同じ苦境に
陥ったのを見てきました。

ある日、同じように80ドルの借金の申し入れがあった際に、
リンカーンはジョンソン宛に、

「あらゆる手段をつくして仕事を見つけてください。
それもなるべく高い賃金を払ってくれるところで。
あなたの労働に対して正当な報酬が払われるようになったら、
仕事をはじめてから5ヶ月目の第1週まで、あなたが稼ぐ、
あるいは返済する1ドルに対して、私が1ドルを差し上げることを
お約束します。もしあなたが1ヶ月に10ドル稼げば、私からも
10ドル貰えますから1ヶ月の稼ぎは20ドルになるわけです。
私の提案した条件に従って働けば、4~5ヶ月の間に70ドルから
80ドルのお金は稼げるでしょう。」

という内容の手紙を返しました。

この労働に対する補助金を出すということで、ジョンソンの
「時間を無駄にする悪い習慣」を見抜いていたリンカーンは
ジョンソンに必要なのは融資ではなく、必死で働く習慣を
つけることだと、勤労を促したのでした。


日本の将来を考えたときに、今の社会保障制度についても
考えさせられるお話ではないかと本心より感じる次第です。

金曜担当…小笹正洋



2014年10月23日(木)
縄文人                              木曜担当…西端努斗夢

先日、私たちの目では見ることができないエネルギーの流れを見ることができるという方とご一緒させていただく機会がありました。
「見えないものが見える」と言うと、胡散臭いと思う人もいるかもしれませんが、私たちには見ることができないもの、感じることができないものがこの世の中にはいっぱいあって、それが見える人、感じることができる人がいても不思議ではないと私は思っています。

その方が私を見て「縄文人のエネルギーがものすごく強い。こんな人を見るのは初めて」と面白がるのです。

なぜ私が縄文人のエネルギーが強いのかわかりませんが、自然と溶け合い、人間同士が真実の響きでつながり合って豊かさを獲得していたのが古代日本の縄文人で、その生き方に少しでも近づきたいと日頃から思っているからかもしれません。

この日は、「縄文人!」と言って面白がるだけでなく、その方からは、生きていくうえで大きな力となるメッセージもいただき、とてもありがたい一日でした。

木曜担当…西端努斗夢



2014年10月22日(水)
理想のすがたに近づくために                水曜担当…冨樫功

イギリスの政治家ベンジャミン・ディズレーリはこう言ったそうです。

「心の中ですばらしい考えを育てるのだ。
なぜなら、自分が考えている以上にすばらしい人間にはなれないのだから」

自分が考えている以上にはすばらしい人間にはなれない・・・。

とても深い言葉だと思います。

たとえば、この世の発明すべてが、はじめは人の頭の中にありました。
そして今まで人類が考えてきた以上の発明はまだ生まれていません。

それは、考えることから未来に生み出されていきます。


自分は、中村天風の誦句や、論語を読むことを日課にしています。

誦句は中村天風先生自身がとなえていたものであり、
そこには人の理想的姿がえがかれていると思います。

論語にも、聖人と称される孔子の理想の姿がえがかれています。

それを繰り返し繰り返し読んでいけば、
自分の中でその理想の姿が根をはり、育っていくと思います。


哲人、聖人の理想のすがた。
それは自分が考えられる最高のすばらしい人間のすがたです。

それを絶えず心にえがいて、すばらしいとはいえないまでも、
ちょっとましな人間になれるようにしたいと思います。

水曜担当…冨樫功



2014年10月21日(火)
「『かみさまとのやくそく』を観て」              火曜担当…坂本欣也

中尾憲司さんからお誘いを受け、自主上映の映画「かみさまとのやくそく」を、先日の土曜日、交野市で鑑賞させていただきました。 http://norio-ogikubo.info/

午前の部は、子供連れOKで、赤ちゃん連れのママ・パパが多く、私も10歳になる双子の息子たちを連れて行きました。

これまでに聞いたことがない話ばかりで、不思議な感覚に途中陥りましたが、最後には温かいものが心に残りました。

例えば、「胎内記憶を語る子供たち」。

天国には白い着物を着た神さまが座っていて、その周りに500人ほどの赤ちゃんがいる。
赤ちゃんは順番に、モニターに映るたくさんのママたちの中から、この人の子供になりたいというママを選ぶ。
そのママに通じる滑り台があり、それを降りると、赤色に薄明るい部屋の中(子宮)に入る。
その中では、外の音が聴こえたり、外の様子が見えたりもする。
パパとママがケンカをしている時に、足でママのお腹を蹴ると、ケンカが治まる。
など

これから観られる方もいらっしゃると思うので、これ以上は詳しくは書きませんが、
前世記憶と、(前世と今世の)中間世記憶について、夢中に素直に語る3人の子供たちは、衝撃的でした。

全体を通して、私が受け取ったメッセージは:

人は、幸せになるために生まれてきた。
人は、人を幸せにするために生まれてきた。
人は、それぞれに目的と役割を持って、この世に生まれてきた。

人は、まずは自分の親を幸せにすることで、その本来の目的と役割に向かう事ができる。
なので、親としては、自分達を幸せにするために生まれて来てくれた子供に対して、その子の存在そのものへの感謝と承認を明確に示すことで、子供たちの第一目的を達成させてあげることができる。

その第一目的を達成することで、子供は安心して、自分の本来の目的と役割に向かって、親から自立することができるようになる。 自分の命の使い方が明確になり、使い切ることに専念できる。

逆に、親が子供に不満や心配を持ち続けたら、その子供は親から卒業できない、真の自立ができない、心に不安を抱えた大人になってしまう。

大人になるにしたがって、心が曇ってくることが多くなる。時には、自分自身が自分の心(インナーチャイルド)を赦し癒し、解放し休ませてあげる必要がある。まず自分自身が、自分を愛することが必要。


自分の親、自分の子供たち、周囲の人々、そして自分自身に対する観方が、少し変わった気がします。
そんなキッカケを与えてくれた、心の底に温かいものが残る時空間でした。
中尾さん、スタッフの皆さん、有難うございました。

火曜担当…坂本欣也



2014年10月20日(月)
坐禅と瞑想                           月曜担当…池田光



昨日は、高槻市にある少林窟(しょうりんくつ)道場をたずねました。


この少林窟道場は、飯田とう隠(いいだとういん)老師(註)が昭和6年に開いたもの。
その由緒ある坐禅堂で、あたりが暗くなるまで坐禅をしました。

最近、いろいろわかってきたことがあるのですが、そのひとつが、坐禅と瞑想とはまったく別物であるということです。

この日の指導をしてくださった井上貫道老師も、
「坐禅と瞑想とは、まったく別のものだ」
ときっぱりおっしゃいました。

瞑想では、坐禅とおなじように結跏趺坐や半跏趺坐を組みます。
なので、外から見ると坐禅をしているように見えるのですが、姿勢は似ていても、坐禅と瞑想は、蝶と蛾のように別種類のものなのです。

坐禅は、ただ坐るだけ。
この「ただ坐る」というのが難しいのですが。

瞑想は、意識上の工夫をします。
たとえば、「感じたら、感じたものに気づく」とか。
たえず気づき続けるのです。

天風先生の「ブザー法」も瞑想の一種といえるでしょう。
ただ、僕は、天風先生の方法には、坐禅につながる点があると考えています。
その意味で「天風式坐禅法」と呼ぶのが広がりがあって良く、
「天風式瞑想法」と呼ぶと、天風先生の方法を矮小化してしまうと考えています。
(このことについては、いずれ一冊にまとめたいと思っています)

さらに、井上貫道老師は、
「数息観は、坐禅に必要はない。
坐禅とは、事実にそくして、事実にふれることであり、数息観はこれを邪魔するのみ」
という意味のことを言われました。

僕は、これでスッとしました。
坐禅をしていて、数息観はその邪魔をしている、とずっと感じていたのですが、
「坐禅の呼吸法は数息観である」
と教える人がいて、これを否定しきれるだけの見識がなく、ずっと疑問に思っていたからです。

人間がほんとうの自由になれるのは、坐禅を通してです。
とらわれのない自由でありたいと志すのなら、坐禅をしていくことが最善の道だと思います。
瞑想は、意識の工夫であり、意識が自分を縛ってしまうのではないでしょうか。


■註:飯田とう隠老師
文久3年に山口県で生まれ、19歳で上京し、東京帝国大学医科大学(現在の東大医学部)に学ぶ。 卒業後は、駒込病院に奉職したが、コレラの流行で治療の甲斐もなく亡くなる多くの人々に世の無常を感じ、安芸仏通寺の香川寛量師のもとに参禅、すぐに印可を受ける。 
明治20年、25歳で独立して医院を開業。しかし求法の念やみがたく南天棒・中原老師を訪ね、教えを請い、36歳で印可を受けた。40歳で関西に居を移し、西宮で開業。
大正6年、医業を休止し布教に従事、各地の禅会を指導して回る。大正11年、60歳で小浜発心寺にて出家。15年、池田市の大廣寺に師家として迎えられる。 
昭和2年 貴族院議員中心の禅会「慧照会」を設立。昭和6年、高槻市に念願の「少林窟道場」を落成。昭和12年の9月20日に入寂。75歳の大往生。(※年齢は数え年)

月曜担当…池田光



2014年10月19日(日)
「自反尽己」                           日曜担当…八木正典

秋の夜長に読書をしていて、同じような言葉が目につきました。

伝習録から
「一友常に気を動かして人を責め易し。先生これを警めて曰く、学は須らく己に反るべし。若し、徒に人を責むれば、只だ人の不是を見て自己の非を見ず。若し能く己に反れば、方に自己に許多の未だ盡さざる處有るを見ん。何ぞ人に責むるに暇あらんや。」

デールカーネギー(リンカーンの言葉)から
「自己の向上を心がけている者は、喧嘩する暇がないはずだ。喧嘩の結果、不機嫌になったり自制心を失ったりすることを思えば、いよいよ喧嘩はできなくなるはずだ。」

菜根譚から
「人の過誤はよろしく恕すべし、而して己にありてはすなわち恕すべからず。己の困辱はまさに忍ぶべし、而して人にありてはすなわち忍ぶべからず。」


以前に、「自反尽己」という言葉に出会いました。
指を自分に向ける、起こったことはすべて自分の責任として自分の全力を注ぐという言葉です。
その時には自分もそんな意識でありたい、今後意識していきたいと考えていたのですが、それから時間も経過し、最近は自分に起こったことを周りのせい、人のせいにすることが増えてしまっているように感じます。最近同じような言葉が目につくのはそれが心に引っ掛かっていて、考え方を変えることが必要なタイミングになっているからなのだろうと思います。
改めてすべては自分の責任として捉え、日々全力で過ごしていきたいと思います。

日曜担当…八木正典



2014年10月17日(金)
和魂洋行・・・                          金曜担当…小笹正洋

先日、堺市内の飲食店にて食事をしていた際に、
店員の外国人(ベナン共和国:アフリカ)と話しました。

日本の大学に機械を学びに来ている23歳の黒人男性で、
非常に明るく、丁寧な日本語で話され、
正確にヒアリングをされる方でした。

お父さんがベナンで役人をされているとの事でした。

色々と興味があったので、ベナンの事を尋ねたりして
暫く話し込んでいく中で、


日本人でどんな人を知っている?

尊敬する人は?


と問いかけると、


松下幸之助


と即座に返ってきました。



それと、、、

長崎にお墓のある武士で、、、
あさ、あさ、、、???

(誰かな?)


軍艦に乗ってた人、、、


それ、坂本竜馬とちがう?
と返しました。
(竜馬のお墓は京都市東山区の霊山護国神社にある)


そうそう、それそれ!!
と、大はしゃぎ。



思わず、素晴らしい!!
と膝を打っている自分が居ました。


青年は、大学の教授から色々と日本の偉人の話を
聞かせて貰っているようでした。



色々と話し込んでいくうちに、日本人の実業家を
もっと教えて欲しいと言われ、


渋沢栄一翁を紹介しました。


なかなか発音が難しいらしく、何度も聞きなおして

手のひらにひらがなでメモをされてました。


数年後に、アフリカ大地の一隅で、日本の偉人を尊敬し
お手本とする実業家が活躍する日を願います。

金曜担当…小笹正洋



2014年10月16日(木)
長所と短所                           木曜担当…西端努斗夢

人間には誰でも長所と短所があると言われています。

私は優柔不断だと言われることがあります。しかし、短所という観点から表現すれば確かに優柔不断かもしれませんが、長所という観点から表現すれば、何事も熟考を重ね、安易に決断しない性格なのです。

それぞれの人が持っている特性を上手く活用すればそれは長所と言われ、上手く活用できなければ短所と言われるだけなのではないでしょうか?

つまり、長所と短所は人が勝手に決めているもので、どんな自分であってもすべて長所だらけの人間になれるのです。

自己嫌悪に陥りそうになった時、私はそう思うようにして立ち直っています。

木曜担当…西端努斗夢



2014年10月15日(水)
財を生ずる大道                        水曜担当…冨樫功

儒教は利益を取ることやお金儲けに対して批判的なイメージがあります。
論語にも、貧しくとも道を楽しむことを勧めるようなところがあります。
極論すると、お金儲けを志すだけで失格、というようなところがあると思います。

でも、日本の資本主義の父といわれる渋沢栄一は、
論語とそろばん、つまり儒教とお金儲けが矛盾せず、
お金儲けでも儒教が行動規範となることを生涯を通じて証明しました。


また、儒教の入門として薦められている「大学」には、
財に関しての教条的な言及があります。

「徳は本なり。財は末なり。」

「財を生ずるに大道あり。之を生ずる者衆く之を食するもの寡なく、
之を爲る者疾く之を用いる者舒なれば、則ち財恒に足る。」

「仁者は、財を以って身を發し、不仁者は身を以って財を發す。」


自分は、これから事業を始めるのですが、儒教の仁や忠恕といった考えを基準に
商売をしていきたいと思っています。


ところで、自分の不勉強か、天風哲学でお金儲けに関する言及をみた覚えがありません。
伝記を読む限り、中村天風師は生涯金銭的に困窮したことがまったくなかったのでは、と思えてなりません。

軍事探偵の時など、かつおぶし一本で一カ月過ごしたとかいったような話もありますが、
それは金銭的困窮とは関係ないですしね。

中村天風師は、真理に基づいた生活をするならば、
金銭的に恵まれるのは当然と考えられていたようです。

儒教とも共通するところです。

宇宙にかなった生き方をしていれば、お金は自然に回っていくのでしょうか。
自分の身を正して、生きてみたいと思います。

水曜担当…冨樫功



2014年10月14日(火)
「中国思想と武士道」                     火曜担当…坂本欣也

8月から池田塾長のご紹介で、盛和塾主催の陽明学講座(6回シリーズ)を受講させていただいています。

この講座での学びは、私にとって本当に充実したもので、これまでの断片的知識・情報がつながってきて、まだまだ部分的ですが、これまで曇っていたものが、以前よりクッキリと立体的に見えるようになった感じがしています。この学びに出逢わせていただき、本当に幸運に恵まれたという心境です。

これまでの私にとって、陽明学というと、「心即理」「知行一致」「事上磨錬」という言葉だけの知識しかありませんでしたが、王陽明が自らの悟りを開いていく境遇とその過程を、受講生自身が王陽明の人生物語として体感できるような、講師の難波征男先生による素晴らしい名講義で、今週末の第3回目を終え、徐々に全体が見えてきた気がしています。

陽明学は、孔孟の教えを体系化した朱熹の朱子学を踏まえ、それを批判する形で、次のレベルに発展させた教えであるので、孔子、孟子、朱子の教えも振り返りながらの講義内容となっています。そのため、私個人的には、陽明学までの儒教の発展進化の流れと本末を、少し見える入口に立てたような気がして、儒教思想への学びに対して更にワクワクした気持ちになってきました。

湧くわく本心塾では、中国古典・儒教と天風哲学を二本柱として学んでいますが、学べば学ぶほど、儒教と仏教、特に禅は、日本人、日本文化を形成する上で多大な影響を与えたのだと確信を持つようになりました。

新渡戸稲造の『武士道』には、このように記されています。

「孔子の教訓は武士道のもっとも豊富なる淵源であった」

「それ(孟子思想)は、現存社会秩序に対して危険思想である、叛逆的である、とさえ考えられて、彼の著書は久しき間禁書であったが、それにかかわらず、この賢人の言は武士の心に永久に宿ったのである」

「孔孟の書は青少年の主要なる教科書であり、また大人の間における議論の最高権威であった。しかしながらこれら聖賢の古書を知っているだけでは、高き尊敬を払われなかった。(中略)かくして知識は人生における実践躬行と同一視され、しかしてこのソクラテス的教義は中国の哲学者王陽明において最大の説明者を見出した。彼は知行合一を繰り返して倦むところを知らなかったのである。」

「剣の達人(柳生但馬守)がその門弟に業(わざ)の極意を教え終わった時、これに告げていった『これ以上のことは世の指南の及ぶところでなく、禅の教えに譲らねばならない』」

また、興味深い点としては、「西洋の読者は、王陽明の著述の中に『新約聖書』との類似点が多いことを容易に見出すであろう」とも書かれています。

最近の私の仕事の一つ、企業のグローバル人材育成では、外国人向けだけでなく、日本人向けにも「日本文化とそのルーツ」を教えてほしいというリクエストが多くあります。日本企業がグローバル化する上では、その前提となっている日本文化や歴史を知らない・語れないと、相互理解ができない、また自信が持てないばかりか、尊敬されないという理由です。

そういった意味でも、湧くわく本心塾や陽明学講座での学びは、私にとって本当に有意義な学びであり、そのエッセンスをできるだけ上手にお伝えすることで、少しでもお役に立てればと思います。

火曜担当…坂本欣也



2014年10月13日(月)
尚友                               月曜担当…池田光

先週の土曜日は、「陽明学講座」に参加しました。
坂本欣也さんも出席されていて、毎回、良い学びをさせていただいております。
その講座において、「尚友(しょうゆう)」という言葉が出てきました。

尚友の尚とは、「古(いにしえ、つまり過去)にさかのぼる」という意味です。
ここから、尚友とは、古にさかのぼって、古人(昔の賢人)を友とすることとなります。

ところで、過去にさかのぼっていくと、すでに生身の人間は帰霊されていますから、古人を友とするということを、主に書物に求めることになります。

そこで、尚友とは、あえて言えば、書物を読んで、昔の賢人を友人とすることという意味になります。

出典を示しておきましょう。
「尚友」の出典は、孟子です。その「万章編の下」に出てきます。
興味がある方は、その箇所を探してみてください。

さて、古人を友とする=尚友づくりの方法論は、『孟子』によると、次の通りです。
たとえば、『論語』ですが、『論語』を読むだけでは、孔子を尚友とすることはできません。
孔子を尚友にしようとすれば、孔子の置かれた時代や環境、また孔子が行った行状、孔子の人となりをできるかぎり知ることが必要です。

つまり、①作品と、②時代背景なども含めた人物像、の両面を知ることで、尚友とすることができるのです。

現在における『論語』研究の大勢は、『論語』などの文献を取り上げて研究するというところにあります。
『論語』だけにかぎらず、作者をあまり深く知ろうとせずに、作品だけを研究するというのが現在の主流です。
つまり、作品と作者を切り離してしまう傾向が現在の考え方です。
しかし、これでは論文を発表できても、古人を尚友とすることはできません。
淋しいことですね。

もっと人物を知ろうとする学び方があっても良いはずです。
人間学とは、そのような学びをすることだと僕は思います。

辞書を引くと、「尚友とは、書物を読んで、昔の賢人を友人とすること」みたいな意味が記されていると思いますが、上記の方法論で示した通り、「書物を読む」だけでは古人を友とすることはできないのですね。
その時代を知る努力、その人となりを知る努力は、書物の範囲を越える場合がしばしばです。

だから、「尚友とは、書物を読んで、昔の賢人を友人とすること」という辞書の説明は、言葉足らずですね。
辞書は騙しているつもりはないだろうけど、辞書に騙されないでくださいね。

話は変わりますが、僕は、江戸末期の大儒・佐藤一斎に興味を持っています。
彼の『言志四録』に惹かれるのですね。
そうしたところ、多治見の加藤健治さんが、11月25~26日に開催する「湧くわく本心塾in多治見」では、佐藤一斎を取り上げましょう。
そして、
「佐藤一斎は、岩村藩の出身ですから、26日は岩村に行きましょう。多治見からは車で40分くらいです」
という、素晴らしい提案をしてくださいました。

そして、数日後に、
「岩村にて、NPO法人いわむら一斎塾理事長・鈴木隆一先生より講話、懇談会(予約済)
昼食をはさんで、観光協会のガイドさんとともに、資料館、岩村城跡など見学(予約済)」
という、ありがたいお知らせがありました。
つまり、岩村の地を一日かけて堪能させていただくことで、佐藤一斎の人物像が浮かび上がってくるという趣向です。

僕は、「佐藤一斎を尚友とすることができるかも知れないぞ、絶好の機会だ」と嬉しくなりました。

佐藤一斎を友とするには、『言志四録』を読むだけではダメなのです。
その生まれ故郷に足を運んだり、彼の時代を学んだりすることが必要なのです。
11月下旬に開催される「「湧くわく本心塾in多治見」は、この意味で、「佐藤一斎先生を尚友とする学びの会」と性格づけることができると思います。

いずれ、くわしいスケジュールを公示していただけると思いますが、主催の労をお取りいただく、加藤さん、西端さんには感謝です。
ぜひ、ご都合をつけられる方は、ご一緒いたしましょう。

月曜担当…池田光



2014年10月12日(日)
「平常心」                            日曜担当…八木正典

10月4日で103歳になられた聖路加国際病院の名誉会長である日野原先生は、2013年から2022年まで10年間の予定が書きこめる手帳を使っていて、5年先、10年先のどうしてもやりたいことをその手帳に書いているそうです。自分のやりたいことをコミットメントとして書き出す、その上で年齢が増えるのは人生の通過点として毎日毎日を平常心で暮していく、そんな考えでいるということです。

また、松原泰道先生の心の杖ことばにも、「生涯現役、臨終定年」というものがあります。人生は有限だからこそ必ず途中で終わる、それだからこそ生死のほどは大いなる意志にお任せして、生きている間は、自分にできることの最善を尽くすことを意識して過ごされたのです。

2人の境地にどこまで行けばたどり着けるのか分かりません。ただ、いつかはたどり着けると信じて毎日毎日を大切に、心軽やかに、平常心で生きていきたいものです。

日曜担当…八木正典



2014年10月10日(金)
学びから・・・                           金曜担当…小笹正洋

詩は思考のフィルターを通らずに、ダイレクトに心に働きかけてくれます。
自分の心境に合う詩を見つけると、何ものにも代えがたい心の充実を覚えます。

先日の潜学講座で学ばせて頂いた後に、何首かの漢詩を読んでいましたら、


修学

一日学問千載宝
百年富貴一朝塵
一書恩徳勝萬玉
一言教訓重千金


という漢詩にめぐり会いました。

無窓漱石(むそうそせき)という鎌倉時代末期~南北朝時代の禅僧による漢詩です。



わずか一日の学問であっても自分の身につけば、永遠に宝となって残り、
逆に、百年もの長い年月をかけて得た財産や身分も、わずかの間に塵と消えることもある。
意義ある一冊の書物から受ける恩徳というものは、多くの宝玉よりも貴重なものであり、
師の一言の教訓は、千金の重さに値する。

と訳せます。


有形のものから得た感動は、同時に失う不安も育んでいく。
無形のものから得た感動は、無限に自分の中で成長していく。


そんな境地です。

金曜担当…小笹正洋



2014年10月9日(木)
植物の思い                           木曜担当…西端努斗夢

今から50年近く前。アメリカの嘘発見器検査官クリーブ・バクスター氏が、部屋にあった観葉植物に嘘発見器をつけたところ、嘘発見器の針が大きく振れたのです。驚いたバクスター氏は、実験を重ねた結果、「植物は人間の心がわかる」と結論付けました。

もし、本当に人間の心がわかるのなら、今、植物が何を感じ、どんな思いでいるのか、ぜひ聞いてみたいと思います。

木曜担当…西端努斗夢



2014年10月8日(水)
座右の書を持つ                        水曜担当…冨樫功

10月4日の潜学講座で今西最高顧問の謦咳に触れることができました。
そこで、先週自分がこのブログで取り上げた「素読」の話が出て不思議なつながりを感じたのです。

今西最高顧問は今でも毎日「大学」を素読されているということでした。
その実践の姿はぜひ見習いたいと思いました。

先月学んだ渋沢栄一がいつも傍らに論語を置いていたというエピソードといい、
中村天風師が観念要素の更改を誰よりもまじめに実践していたというエピソードといい、
自分の行動の基幹、軸となる考えを実践の域にまでものにするには、
絶え間ない継続と繰り返しが必要なようです。

それは脳科学の世界でも言われています。
脳科学では、人の心を呼び起こす三つの脳があると考えられています。

大脳新皮質は知性や理論、理性、分析的能力を司ります。
大脳辺緑系の古皮質は、感情、感じるこころを司ります。
大脳辺緑系の旧皮質は、道徳や価値観、基本的な行動パターン、行動様式や習慣を司ります。

道徳や価値観というようなソフトを脳にインストールするには、とても長い時間を要することがわかっているそうです。
いわゆる頭の理解、大脳新皮質での理解は一瞬でできても、
それを無意識レベルで実行する大脳辺緑系の旧皮質に刷りこむには、長い時間と繰り返しが必要なそうです。

歴史に名を残すような偉人、哲人でもそうなのです。
凡人の自分こそ熱心にやらなければなりません。

新しい本を読むのは楽しいことですが、自分の軸となる価値観を身につけられるような、
繰り返し読むに耐えうる本を見つけることは最も重要なことだと思います。

クリスチャンにおける聖書のような、座右の書。
現代の日本人にとって、そんな本は存在するのでしょうか。

自分は、「大学」はもちろん、中村天風の「運命を拓く」と「論語」を繰り返し読んでいきたいと思ってます。

水曜担当…冨樫功



2014年10月7日(火)
「暗示の世界」                         火曜担当…坂本欣也

「人間とは暗示の中にて生活する生物なり」

「元来人間の心力が弱るのは外界に存在する暗示事項に、心が感応するからなので、俗にいう心の垢よごれとは消極的の暗示に心が感応してその消極的の観念が心中に纒綿して居る事なのである。ところが此『安生打坐密法』を行うと此心の垢やよごれを、自然と払拭する事になるから、其の結果心力が強くなるのである。」
『安定打坐考抄』

今見ている仮相世界は、自分自身の心が映し出した暗示の世界。

真善美の本心で見る世界、で生きるのか

それとも、

垢が汚れがついた心で見る世界、で生きるのか

それは自分自身の日々の実践次第。

「洗心」のため、日々の日課を、只々行うのみです。

火曜担当…坂本欣也



2014年10月6日(月)
「凝り」とお道歌                         月曜担当…池田光

折にふれて思い出す、ひとつのお道歌があります。

このお道歌を紹介する前に、まず、お道歌とはどういうものかを話しておきましょう。
お道歌というのは、
短歌と同じ形式の「五・七・五・七・七」の三十一文字で、
ありがたい道の教えを述べた歌のことです。

このようなお道歌は、平安時代あたりから始まったようです。
そして、最も盛んになったのは、室町時代から江戸時代で、
黒住教の教祖である、黒住宗忠(一七八〇~一八五〇)、
報徳仕法を唱えて農村の復興を指導した、二宮尊徳(一七八七~一八五六)
らが多くのお道歌を遺しています。

一例を挙げますと、
★天てらす 神の御心 人心 ひとつに成れば いきとうしなり(黒住宗忠)
★苦と楽の 花さく木々を よく見れば 心の植えし 実の生えしなり(二宮尊徳)
といった具合です。

さて、僕が折にふれて思い出すお道歌とは、
淘宮術を創案した、横山丸三(一七八〇~一八五四)の作で、
こんな歌です。

★源気よく 滞らぬが 仏にて よきも悪しきも 凝りは鬼なり(横山丸三)

「源気よく」というのは、
意味の側面から「源(みなもと)の気」のことであり、
音の側面から「元気良く」ということでもあります。
あるいは、「源清く」ということも考えられます。
このお道歌を、次に、簡単に解釈しておきましょう。

元気がよくて(源の気がよくて)
いろんな思いが心に滞らない状態が
仏の御心にかなっている。
思いの善悪にかかわらず、
ずっと何らかの思いが心に滞っていては迷いが生じる。
(この解釈は、心の観点からの解釈です。体の側面においても通じるところがあり、僕はもっと広い解釈をしています。念の為)

さて、お道歌に出てきた「凝り」というのは、
「エゴ」であったり、
「思い込み」であったり、
「こだわり」であったりします。

このうち、「エゴ」や「思い込み」は良くない凝りでしょう。
また、「こだわりの味」と言われるように、
「こだわり」というのは良い凝りかもしれません。
しかし、良い凝りも、悪い凝りも、このお道歌ではどちらも「鬼」だと断定しています。

つまり、良くても悪くても凝りがあると、
気の流れが止まり、そして滞ってしまい、
心が濁ってしまうのです。

僕は出版業をやっていて、
本の細部にまできめ細かく心を配っているのですが、
その様子を見た方から、よく、
「出版社としてのこだわりですか?」
みたいなことを尋ねられることがあります。

相手は善意で「こだわり」とおっしゃったのでしょうが、
僕は、そんなときにこのお道歌を思い出すのです。
そして、
「いえいえ、こだわりなんて、ないのですよ」
と申し上げます。

僕がこのお道歌を知ったのは、40代の初めの頃ですから、
もう長い間、僕の心に住み続けているお道歌ということになります。

最近、このお道歌を痛烈に思い出す出来事がありました。
坐禅の体勢に関してです。
坐禅をするとき、足の組み方が悪いと、足が痺れてしまいます。
これは、「凝り」だと思うのですね。
つまり、足に気が流れていないのです。
滞っているわけです。

これでは、足を殺してしまうわけです。
いかに、坐禅において、足を生かすか。
足だけでなく、坐禅している自分を生かすか。
そんなことを考えながら、
僕はこのお道歌を何度想起したかしれません。

月曜担当…池田光



2014年10月5日(日)
「謦咳」                             日曜担当…八木正典

10月の潜学講座に参加してきました。
またしても新たな学びを受けることができ、頭がフル回転する講義でした。

若宮先生の宋襄の仁に関しての講義では、歴史背景や事件発生までの経緯を丁寧に説明いただき、多様な見方があることを教えていただきました。宋の襄公というと礼を重んじたがために戦いに敗れた愚かな君主のイメージを持っていましたが、それは表面的な理解で古典を深く深く読み込むことにより新たな考えや魅力が発見できることを体感することができました。

今西最高顧問からの人生の五計、特に老計と死計に焦点を当てた話では、「最後良ければすべて良し。」との言葉と共に長い人生経験の中での深みを味わうことができました。また、これまでに謦咳に接した方々の話を聞き、改めて人との出会いやご縁の重要性を感じました。

「霧の中を行けば覚えざるに衣しめる。よき人に近づけば覚えざるによき人となるなり。」という言葉があります。
毎回の講義や懇親会の中で、多くの刺激を受けて自身の思考スタイルや物事のとらえ方が少しずつ変化していく気がします。また、自身の足りない部分、課題が浮彫りになり、より高みに向けて自己成長を遂げていかねばと心が改まります。
引き続き本塾でのご縁に感謝し、諸先輩方の謦咳に接し続けたいと思います。

日曜担当…八木正典



2014年10月3日(金)
素直と感謝・・・                         金曜担当…小笹正洋

パナソニック㈱の創業者である松下幸之助翁の生誕120周年
(1894<明治27>年11月27日~1989<平成元>年4月27日)
ということで、PHP研究所(京都市)のビル内にある松下資料館を
見学させて頂きました。

少年時代の生い立ち・試練、会社員生活を経て独立起業をし、
37歳の時(1932年)に産業人としての真使命に目覚められ、
第二次世界大戦の戦禍と敗戦後にGHQから財閥指定、公職追放等の
活動制限を受ける等の苦難を超えた後に、PHP研究所、松下政経塾
社会運動活動にも献身された足跡を辿って参りました。

松下幸之助翁が出社時に座を正して拝んだといわれている「根源の社」も
同館に祀られており(1962年に真々庵:京都市東山区で創建、1967年に
PHP研究所に分祀、1981年にパナソニック本社:門真市にも分祀)、
実際に作法どおり拝礼させて頂きました。

松下幸之助翁はこの根源の社にて、事業の成功や一身の健康幸福を
願うのではなく、只ひたすらに自らの内に、素直な心と感謝の心を
持ち続けていくことを誓い願われていたそうです。

ここに、偉大なる凡人の非凡なるところを改めて感じてきました。

金曜担当…小笹正洋



2014年10月2日(木)
30000分の1                          木曜担当…西端努斗夢

日本人の平均寿命は83歳。83年を日数にすると約30000日となり、長い人生からすれば、今日1日は、30000分の1に過ぎません。

たかが30000分の1ですが、今日1日を大切にしたいと思います。

木曜担当…西端努斗夢



2014年10月1日(水)
誦習                               水曜担当…冨樫功

先日のみてじま論語講座で学んだ学而第一第一章の論語集解の中に、
誦習(しょうしゅう)という言葉が出てきました。
「学は時を以て之を誦習するなり」、とありました。

誦習とは何なのでしょうか。

誦の字を調べてみました。
1、声を出してよむ。となえる。
2、書いたものをみないでいう。そらんずる。

そして習の字には、ならう、なれる、くり返しおこなって身につける、という意味があります。

誦習とは、声を出して繰り返し読むことになります。
それは、つまり「素読」ということになるかと思います。

素読とは、文章の意義、理解はさておいて、まず文字だけを声を立てて読むことです。
古典、漢文学習の初歩とされ、江戸時代には広く寺子屋で教えられていました。

西暦250年頃にできた論語集解ですでに、
学は誦習(素読)であると言っていることに衝撃を受けました。

古くからある由緒正しい学習法なのです。

伊與田覺先生の文章を引用したいと思います。

「・・・・古典を学ぶ上に於いて大切なことは「素読」です。
素読は天命に通ずる先覚の書を、自分の目と耳とそして皮膚を同時に働かせて吸収するのです。
これを読書百遍で繰り返し繰り返し続けることによって、自ずから自分の血となり肉となるのです。
それが時あって外に滲み出ると風韻となり、そういう人格を風格ともいうのです。」
                               『大学』を素読する 致知出版社 二頁 より

儒教の入り口とされる大学から、そらんじられるくらい素読してみたいと思います。

水曜担当…冨樫功



2014年9月30日(火)
「スポーツの秋」                        火曜担当…坂本欣也

週末は、友人とジョギングしました。

1周1.5キロのランニングコースを、8周12キロ走りました。

いつも独りで走る場合、3周もすると疲れが気になり始めるのですが、
二人で話をしながら走っていると、時間があっという間に立ち、今何周目なのか数えることも忘れていました。

次の用事があるので、8周で打ち切りましたが、不思議なくらい疲れはありませんでした。
それがなければまだまだ何周でも走れる気力と体力が残っていました。 

狐につままれたような、不思議な感覚でした。

思い返してみると、いつにも増して、景色を楽しんだり、行きかう人々と挨拶をしたり、心が解放され楽しさと嬉しさが、込み上がっているようでした。

心と身の関係。
心身が統一され、心が身を忘れ、身が心を忘れる状態、だったのでしょう。
Here I am. という点の連続だったのでしょう。

「遣り甲斐とは、何をするのか?に関係するが、働き甲斐とは、『誰』とするのか?に関係する」
と、ある講演で聴いた事を思い出しました。


週末のもう一つのイベントは、小学校の運動会でした。

一生懸命競技に取り組む子供たち、
一生懸命に子供たちを応援する大人たち。
全員が一体の気となった、素晴らしい運動会でした。

快晴の空の下、これもアッという間の一日でした。
気が付くと、顔が真っ赤に日焼けしていました。

火曜担当…坂本欣也



2014年9月29日(月)
大敬先生の講演会                       月曜担当…池田光



やっぱり、すごい人数でした。

演台の大敬先生が豆粒ほどに見えます。
……9月23日、大阪での大敬先生の講演会です。

■9月23日の大阪講演会
講演では、
大敬先生が「19歳で志を立てる」というところから始まり、
自ら人生をふりかえりつつ、
節目で得られたビジョン……「ヒトの逆円錐モデル」「金平糖大作戦」などを語られました。

「<ひとついのち>から<ひとつのいのち>へ」という新たなビジョンは、
<ひとついのち>という全体のいのちを前提にして、
その上で、個々のいのちの尊さと独自性を大切にするという、
あたりまえのことが語られていましたが、
なぜか心に残りました。

もしかしたら、全体のいのちの進化論という、全体論の窮屈さから解き放たれたからかもしれません。
大敬先生は、のびやかに、ゆるやかに<ひとついのち>を語っておられるのですが、それでもどこか少し窮屈さを感じていたんですね。
ところが、今回は<ひとつ の いのち>として、つまり個々のいのちにフォーカスされていて、ホッとするところがあり、嬉しく思いました。

話は変わります。
最近の僕は、どんなに素晴らしい思想でも、その素晴らしさゆえに、僕を四の字固めしてくるような考え方は、ごめんなんですね。
世の中には、エラい先生がたくさんいます。
どんなに素晴らしいお話をされるエラい先生でも、こちらのいのちを四の字固めしてくるような先生には、心のなかで「さよなら」を言いましょう。
たとえば、感動的な話をして、「私を敬いなさい」と言わんばかりの先生には、「さよなら」です。
「私のところに来ると、秘法を教えるよ」みたいな先生は、「さよなら」です。
まわりの信奉者たちが「先生を敬いなさい」と迫っているのを、当然のように見過ごしている先生には、「さよなら」です。

そこには、四の字固めのトリックが仕組まれているからです。
その点、大敬先生は、ゆるゆるなんです。
そこがいいのです。
いのちを生かしてくれます。
解放してくれます。

もし、僕が大敬先生にお会いしていなかったら、
「ゆるゆる」とか、「底が抜ける」とか、「頭を落とす」という妙味を
味わえないままの人生を過ごしていたと思います。

僕は長岡禅塾で坐禅していて、あるとき、ストンと何かが落ちました。
その落ちたものは「がちがち」であり、「底蓋」であり、「頭」でした。
それ以来、「エラい先生にお会いしても、この先生はニセモノくさいぞ」と、少し匂うようになりました。

本物はわずかだと推測しています。
というのは、ちやほやされたいのが人の常であり、克己し続けられる人間は、そんなにたくさんいないと思うからです。
エラい先生になれば、周りからのちやほやも半端でなくなり、その快楽にハマっていくのですね。
そんななかで、本物としてのバランスを保っているのが、大敬先生です。
(ただ、周りの人も、心酔しきったり、信仰するのは要注意。
大敬先生が語ったことを120%信じ切っている人を見かけることがありますが、やはり主体は自分です。
心酔しきってしまうと、大敬先生のゆるゆるを、がちがちにしてしまいます。
そこをお間違えなく……)

■ふと気になったこと
ところで、大敬先生の講演のレジュメを拝見していて、
「オヤ、今回のお話には、<心のゴムひも>モデルが入ってないぞ」
と思いました。
大敬先生のなかでは、<心のゴムひも>モデルはどのような位置づけになっているのでしょうか?

僕にとっては、<心のゴムひも>モデルはとても大切なのです。
それは、目標を達成しようとして、一方の手で目標を握り続けるだけではダメだということを教えてくれているからです。
大切なのは、現在の「がちがちの今」を手放すこと。
でなければ、目標の自分と、現在の自分の板挟みになるからです。

<心のゴムひも>モデルは、自己実現のためのモデルと言えます。
これに対して、大敬先生が今回のご講演で話されたのは、自己超越のためのモデルということが言えます。
僕にとっては、自己実現→自己超越は、陸続きです。

■9月28日の東京講演会
きょうは、9月29日。
今、僕は新横浜で、一人の友人と過ごしています。
まず、お話をいろいろ。
僕がこれからやりたいことを話しています。
そして、カラオケへ……。

昨日は、東京の会場で、大敬先生の講演会がありました。
もちろん、大盛況。
九州からも駆けつけた方がいらっしゃったり。

今晩は新横浜でもう一泊し、明日は名古屋で遊びます。
ゆるゆるの旅をしている途上です。

月曜担当…池田光



2014年9月28日(日)
「散歩」                              日曜担当…八木正典

愛娘と散歩に出かけました。
散歩といっても家の近くを少し歩くだけで特別なものではありません。
それでも、晴天の軽やかな空気の中で、紅葉が始まりかけている木々を見て、虫の鳴き声や風の音を聞きながら手をつないでゆっくりと歩いていると本当に気持ちのいいものです。
いつも通る道なのにいつもと違ったささやかな幸せを感じます。

奇跡の人、ヘレンケラーの「目の見える3日間」に次のような文章があります。
「目の見えない私から、目の見えるみなさんに生きるヒントを差し上げることができます。
明日突然目が見えなくなってしまうかのように、目を使って見て下さい。
明日、耳が聞こえなくなってしまうかのように、人々の歌声を、小鳥の声を、オーケストラの力強い響きを聞いてください。
明日、触覚がなくなってしまうかのように、触りたいものに触ってみてください。
明日、においも味もわからなくなるかのように、花の香りをかぎ、食べ物を一口ずつ味わってください。
こうしてどの感覚も最大限に使って、あらゆる姿の喜びと美しさを讃えましょう。」

今この世で多くのものを与えられている幸せを喜び、その喜びを十分に感じながら生きていきたいものです。

日曜担当…八木正典



2014年9月26日(金)
こころいっぱい・・・                      金曜担当…小笹正洋

先日ご縁を頂きまして、立花大敬さんの講演を聴講させて頂きました。
講演に先立って、池田塾長から「『しあわせ通信』の楽しみ方」について

・実際にやってみる(坐禅、延命十句観音経、心のゴムひも、足運び)

・しあわせ通信を聞く(自分とは違うリズムで新しい感覚で入ってくる)

・カベを落として読んでみる(意識のカベ、無意識のカベ、心の本体)

という切り口で実体験(これが実に愉快な内容でした)も交えて解説され、
「楽しみ方」というのにピッタリの語りでした。


立花大敬さんの講演内容は、詳細はここでは書ききれませんが、
神話がない民族の繁栄は無いという、A・トインビーの教えから
神話に頼らない21世紀をリードする教育理念を確立しようと
発起されたことが、立花大敬さんの志の根っこになっているようです。

ひとついのち、思い通り・思い以上、金平糖大作戦(魂の進化論)・・・

興味を持たれましたら、是非書物をお手に取って頂きたいです。

活字以上に直接お話しを聞けて、そして何よりも道友の方々と一緒に
その空気と時間を共有できた事が、心にしっかりと刻まれました。

立花大敬さんの著書は、これまでに『しあわせ通信』以外にも
『人生飛行術(講演録)』、『天界の禅者大いに語る』などの
凡その書物は読みましたが、改めて読み返したくなりました。



そして、自宅に帰ってから『大敬詩集』を再度味わいました。



~ふわっと~

沈むように
できているんなら
大変なんだけど
もともと
浮くようにできている
いのちなんだから
悪あがきさえ
やめたら
おのづと
浮き上がる
ポカッと
光の世界へ
顔が出る

「大敬詩集」:立花大敬(著)より

http://www.honsinan.jp/



自己・自我という囚われから
自由になりたいなあ。。。

金曜担当…小笹正洋



2014年9月25日(木)
偶然はない                           木曜担当…西端努斗夢

故・船井幸雄さんは生前、「世の中で起きることはすべて必要、必然、ベストだ」とおっしゃっていました。
その通りだと思います。出会いも出来事も偶然はないのです。
どう考えても偶然としか思えないことも、何年かしてその答えが解けることもあります。

人生も折り返し地点を過ぎ、この先どれだけ偶然のような必然に遭遇することができるか?

それを考えるだけでも、生きることは面白いと思います。

木曜担当…西端努斗夢



2014年9月24日(水)
古典を読むことを学ぶ                     水曜担当…冨樫功

9月20日にみてじま論語講座が開催されました。

今回からは明治時代に初版が刊行された『論語集説』安井息軒をテキストに、
学而第一の第一章を学びました。

子曰く、学びて時に之を習う。亦(また)説(よろこ)ばしからずや。
朋遠方より来たるあり。亦楽しからずや。
人知らずして人知らずして慍(うら)みず、亦君子ならずや。


という有名な個所です。
普通に現代語訳を読むと簡単な文章かもしれません。
しかし、はじめのワンセンテンス一つとっても、一筋縄ではいかない深さがあります。

子、とは誰か。
学びて、とは何を学ぶのか。
時に、とはいつを指すのか。
之、とは何か。
習う、とはどういうことか。

簡潔な論語の文章だけに、様々な解釈ができます。

論語は2500年ほど前に生きた孔子とその弟子たちの言行録ですが、
この2500年には様々な解釈が生まれています。

その中でも代表的なものが、三国時代の魏の 何晏による「集解」と、
宋の時代の朱熹による「朱注」です。

『論語集説』の本文は、大本である「論語」はもちろん、「集解」、「朱注」、
それから著者の安井息軒がその後の説を引用した「集疏」、
安井息軒自身の考えである「案」から構成されています。

みてじま論語講座では、代表的な注釈である「集解」、「朱注」を読むことが中心となります。

例えば、どうして「説」は「よろこばし」と読むのか。
「慍」は「うらみず」なのか「いからず」なのか。
注釈が基になって読み方が決まっていることが、注釈を読むことではじめてわかります。


『論語集説』はすべて漢文のテキストとなっていますので、
漢文を書き下し文にして、解釈していきます。

書き下し文に沿って意味をみていきます。

そして、なんとみてじま論語講座では、積極的に「現代語訳」をしません!
そこがすごいなと思いました。

英語でも何でも外国語は、あるレベルに達すると、いちいち日本語に訳したりしませんよね。
逐一訳すのは、初心者が便宜上行うことに過ぎないのだな、と思いました。


みてじま論語講座では、「古典を読む」ということを学ぶことができます。
実際に古典を読むとはどういうことか。
それが参加すると体験で理解できます。

原文を解釈していく作業は、現代語訳を読むだけでは知りえない、興味深い世界を教えてくれます。


次回のみてじま論語講座は10月25日(日曜日)午後13時30分~16時30分です 。

2500年続く、人類の叡智をぜひともに学びましょう!

水曜担当…冨樫功



2014年9月23日(火)
「魂踊の友」                           火曜担当…坂本欣也

道を教えて下さる道師、求道し合う道志。心友である真友。

その人物と語らうと、自分自身の本心と語り合っているような、不思議な気持ちになります。

語り合う中で、自分自身の心の奥底まで入ることができ、自分の本心の声が聞こえてくるような感覚です。

自分が気づいていなかった事柄や考え方が、インスピレーションとして湧き上がってきます。

自分でも思いもよらなかった言葉、自分が探していた言葉~言霊~が出てきて、発しています。

本来の自分が求めているもの、本来の自分として反省すべきこと、そのまた原因などが見えてきます。

自分が自分自身の中でいながら、外から自分を俯瞰しているような感覚にもなります。

奥深く語り合うプロセスの中で、本心の周囲についた塵や埃や垢~自我(エゴ)・妄想念~が、削ぎ落とされ、洗い流され、本来の自分、真我の状態になっているのでしょう。

互いの本心と本心が共鳴し合い、融合していく、そしてお互いの本心が高まり合っていく感覚。

過去の歴史や未来のことを語る時には、実際にその場に居るような感覚。
歴史上の人物を語っている時には、実際にその人物たちも目の前にいるような感覚。
初めてのことを聴き語り合っているけど、どこか懐かしい感覚。

そして、全て語り終わった時には我に返り、自分達が時間も空間も忘れて語り合っていたことに気づきます。

「今、ここ」「あるがままの自分」になっていたことに気づきます。 

これが、有意実我となった、自我の殻がホドケた、自他不二の感覚状態なのでしょうか。



とにもかくにも、魂踊の友。
神さまからいただいた宝物に感謝です。



今日はお彼岸ですね。
飛鳥の棚田からの彼岸花をお贈りします。

火曜担当…坂本欣也



2014年9月22日(月)
大敬先生の<しあわせ通信>                月曜担当…池田光



在野で禅の修行と指導をされている立花大敬先生のシリーズに、

<しあわせ通信>というのがあります。

大敬先生は、平成8年8月に<しあわせ通信>の生原稿を
まわりの数人に送られました。
その原稿がコピーにコピーを重ねて広がっていき、
言葉を変えると、感動の波紋が広がっていき、
その後、18年も絶えることなく原稿は生産され、
今も毎月発行し続けられています。

その原稿を待っている方が多くいるのです。
これらの原稿のうち、平成19年7月までのものは、
8冊の本になっています。(上の写真)
読み返えすたびに発見がある、素晴らしい本です。
これは、無量無尽の意味が眠っているからでしょう。

そんな大敬先生が、大阪と東京で講演をされます。
・大阪……9月23日(つまり、明日です)
・東京……9月28日

http://seminar.thd-web.jp/e20599.html


僕は、どちらの会場にも伺います。
そして、30分のお話をさせていただきます。
「13:30~14:00頃に登壇しなさい」
という案内が事務局からありました。

それはそれとして、
現在、<しあわせ通信>の第9集を編集しています。
来年初めには出版したいと思っています。

さらに、<しあわせ通信>アンソロジーを一般の出版社から発売して、
多くの読者に大敬先生の魅力を知っていただきたいと考えています。

来年は、僕にとって<大敬先生の年>なのです。
その準備活動が現在です。
第9集と、アンソロジーの、二つの<しあわせ通信>。
この二つを軸にして、大きな輪をつくります。

じつは、来年も次への準備活動にすぎません。
というのは、再来年の平成28年は、
<しあわせ通信>20周年となります。
ここに僕は焦点を当てたいと思っています。
いろんな力を結集して、
20周年イベントを盛り上げたいと思っています。
乞う、ご期待。

月曜担当…池田光



2014年9月21日(日)
「悲しむべきこと」                       日曜担当…八木正典

死は悲しむべきことではありません。
私たちが悲しむべき唯一のことは
自分が聖なる者になっていないという事実のみです。
(マザーテレサ)


2008年にこの言葉に出会い、何故か背筋が震えました。心が揺さぶられました。
今のままでは、今のままでは駄目だ、自分の何かを変えないといけないと感じました。
でも、何を変えていいか分かりませんでした。何を求めているかも分かりませんでした。
心は動揺し乱れ続けました。

先人の知恵を求めて中国古典や宗教関連の書籍を読み漁りました。
分からないまま分からないなりに動いているうちに、有り難いことに多くの新たな出会いに恵まれ、いろいろな人から新たな学び、考え、生き方を教えていただくことができています。
本当に感謝です。

それから6年たっても未だ道半ばです。いや、ようやくスタートについたぐらいなのかもしれません。これからも道を求め続けるのみです。

日曜担当…八木正典



2014年9月19日(金)
秋の味覚・・・                         金曜担当…小笹正洋

気温の落ち着きとともに、朝晩には秋の虫の声も聞こえてき、
すっかり秋めいてきて、秋の味覚が楽しみになって参りました。
秋の味覚といえば、栗(私の主観的主張です・・・)。

栗に因んだ考察を一つお付き合い願いたいと思います。



徒然草(吉田兼好:著)の第四十段より。


【古文】         
因幡(いなば)の國に、何の入道とかやいふものの女、

かたちよしと聞きて、人あまたいひわたりけれども、

この娘、ただ栗をのみ食ひて、更に米(よね)のたぐひを

食はざりければ、

「かゝる異樣のもの、人に見(まみ)ゆべきにあらず」とて、

親ゆるさざりけり。



【現代語訳】 
因幡国(鳥取県)に、何とか入道という者の娘が、

容姿端麗で美人だと評判になっていて、大勢の男が求婚をしたが、

この娘は、ただ栗ばかり食べて、全く米・穀物の類を食べなかったので、

「このような変わった娘は、よそ様の家の嫁にはやれない」と言って、

親は結婚を許さなかったという。 




変な癖を持つ娘に対する親の苦労話しで済ませてもよいのですが、
ここは、兼好法師の鋭い心眼から筆を走らされているとイメージして
考えてみたいと思います。

最後の下りで、兼好法師は「親ゆるさざりけり」と、なぜ「親」
としたのか。

単に入道が娘の特異性に閉口して、嫁がせなかっただけではなさそうです。
娘に相応しい男が出て来るまで、軽々しく並の男には嫁がせたくないのか、
とか、自分の手許から娘が嫁いで行く姿が忍びないのか、
はたまた、自分が嫁いだ後に残されてしまう親のことを思う気持ちから、
娘が虚けのふりをして婚期を逃そうとしているのか。


はてさて、思いは巡ります。


何とも味わい深い随筆です。

金曜担当…小笹正洋



2014年9月18日(木)
出家                               木曜担当…西端努斗夢

月曜のブログで池田塾長が佐々木奘堂氏のことを書かれていました。
佐々木氏は、梶谷老師から「おまえさん、貴重な人間にならんか?」と言われて悩んだ末に出家されたそうですが、実は私も出家しそうになった時があったのです。

30歳を目前にした私は、転勤先で知り合った曹洞宗のお寺のご住職になぜかかわいがっていただいていました。そのご住職は、荒れ果てて檀家もほとんどいなくなった寺を立て直すため、本山より派遣されたそうで、当時は、お寺の再興を遂げ、弟子も何名かいました。

初対面から何となくご住職と意気投合し、檀家の方からは「檀家の人間よりも大きな顔をして酒を飲んでいる」と言われるほどお寺に入り浸って、いつも般若湯をいただいていたのです。

ある時、ご住職に「僧職の資格はどうすれば取れるのですか」とたずねたことがありました。なぜそんなことを口にしたのか、当時はわかりませんでした。
その時、ご住職からは「ただ単に僧職の資格を取るだけなら短期間で取る方法もあるけれど、君に出家する気があるのなら駒澤大学の3年生に編入して卒業し、その後2年間、永平寺で修業しなさい。その間の君や君の家族の生活は私が面倒を見る」と言う、予想もしていなかった答えをいただいたのです。

私は、ご住職の言葉に、出家を真剣に考えました。しかし、結局は出家することなく、当時の会社に留まり、今日に至りました。

なぜ、出家したいと言い出したのか、にもかかわらず出家することなく会社に留まったのか、その理由がわかったのは何年も先のことでした。

今、思うと、もし出家していたら何人もの弟子を指導する高僧になっていたかもしれません。そこまでならなくても、どこかのお寺の住職として、何不自由ない生活をしていたかもしれません。しかし、当時の選択はやっぱり正解だったと思います。今の私があるのも、そうした経験があってのことで、今の私は、色々ありながらもとりあえずは幸せだからです。

木曜担当…西端努斗夢



2014年9月17日(水)
水垢離(みずごり)ブーム                   水曜担当…冨樫功

湧くわく本心塾の一部の塾生の間では水垢離(みずごり)が静かなブームとなっています。
3000日の水垢離行を達成された湧くわく本心塾の今西最高顧問の影響です。

今西最高顧問の影響を受けた坂本さんの影響で自分は水垢離を始めました。
まだ150日を超えたところですが、これからも続けていきたいと思っています。


水垢離というと、難しい行か何かのように思われますが、
その実はシャワーで水道水を浴びることになります。

夏の間は、行というよりまさに水浴びといっていいくらいで、
とても気持ちの良い毎日の習慣となりました。


ところで、日本には古来より禊(みそ)ぎという風習がありました。
その起源は一説には、古事記のイザナギが黄泉の国で穢(けが)れた身体をこの世に戻った後、
川で洗って祓い清めたという話にあるとされています。

日本では、罪や穢れはきれいな水で洗い清めることができるという素朴な信仰があったのです。
水垢離行もそれがルーツとなっているのだと考えています。

睡眠時は、人間は意識を失い、ある意味、黄泉の世界に行っています。
朝に起床して、黄泉の世界から帰ってきた、甦り(黄泉帰り)直後に、
水垢離をするのは日本の神話に倣った行為とも言えます。


そして、単純に、朝起きがけに水を浴びると、目が一瞬で覚めます。
それこそ細胞単位からスイッチがオンになるのです。
睡眠不足気味でも、眠気が吹っ飛びます。
これが一番のわかりやすい効用だと思います。


さらに、水垢離は感謝行ともいわれます。
水を浴びながら六方感謝をします。
これは坂本さんに教えていただきました。

1、東に向かって、両親とご先祖様に感謝。
2、西に向かって、自分の家族に感謝。
3、南に向かって、人生の師、メンターに感謝。
4、北に向かって、友人、知人に感謝。
5、上に向かって、天に感謝。
6、下に向かって、地に感謝。


甦って、禊ぎをしながら、自分を囲むすべての存在に感謝をする。
水垢離行は心構えを磨くのに、最高の方法の一つだと思っています。


社会教育家の田中真澄さんの言葉に以下のようなものがあります。

「心構えというのは、どんなに磨いても毎日ゼロになる能力である。
 毎朝歯を磨くように、心構えも毎日磨き直さなければならない」



9月に入り、日に日に水の冷たくなるのを感じながら毎日水垢離をしています。
自分は春から始めたので、これからはじめて冬を迎えるのです。

冬の身も凍る冷水を浴びながら六方感謝をするのが、楽しみなような、やっぱりおそろしいような、、、。

とにかく淡々とワクワクしながら水垢離を楽しみたいと思います。

水曜担当…冨樫功



2014年9月16日(火)
「宝さがし」                           火曜担当…坂本欣也

我が故郷・飛鳥で撮った写真です。

早朝の神々しい光を感観し、思わずシャッターを押しました。



先日の「陽明学講座」で、

「人間は人間であるべき宝を、既に自分の中に持っている」

という言葉を学びました。

私はその「宝」を、本心(他にも、良心・真我・魂・天命など)と、解釈しました。

そして、この世の人生とは、その「宝」を一生かけて探求し、
磨き上げていく修行の場、実践の場であると思いました。

別の意味でも、キラキラ光る宝ものは至る所にも、既に存在すると思いました。

飛鳥は、自分にとっては見慣れた風景です。
しかし、その見慣れた風景の中にこそ、宝~神さまからのプレゼント~が、
至る所に散りばめられている宝石箱のように感じました。

そして、身近なもの~家族、友人、仕事、社会、自然など~の中に存在する
宝ものを楽しみながら探していきたいと思いました。

そのためにも、宝ものを見つける心眼~本心~を養わねばと思いました。


2014年9月15日(月)
坐禅とは本来持っている力を発揮すること。           月曜担当…池田光

先日の土曜日(9月13日)は、銀閣寺の坐禅会に参加しました。
指導してくださったのは、佐々木奘堂(じょうどう)氏です。
坐禅会のあとは、晴天に恵まれた銀閣寺の庭園を散策いたしました。(写真)



坐禅会では、
「私(佐々木氏)は1990年に京都にきました。
そして、相国寺で修行された上田閑照先生(京大教授)に出会ったのが、1991年です。これが禅を入るきっかけとなりました」
というお話から始まりました。
その頃の佐々木氏は、京大の大学院で、河合隼雄先生について臨床心理学を学んでおられました。
他方で、相国寺の梶谷老師について、在家居士として修行をされてもいました。

梶谷老師はあるとき、
「おまえさん、貴重な人間にならんか?」
とおっしゃったそうです。
つまり、出家しないかと迫まってこられたのです。
大学に残って心理学を研究するよりも、出家するほうが貴重な人間になれるのだということです。
佐々木氏は悩まれた末に出家されて、20年が経ちました。
そして現在、坐禅の工夫を重ねられ、独自の坐禅観を形成されつつあります。
僕は、そのようなことを最近知ってから、坐禅の可能性に大きな興味をいだいています。

その日のお話では、
「ああだこうだを捨てて、
本来持っている力を信じて、それを発揮する。
この、本来持っている力とは、いのちの活発さである。
そして、本来持っている力を発揮する、その在り方が坐禅だ」
と。また、
「坐禅はともすれば死んだ型になりやすいので、
土台から立て直すことが大切だ。
さまたげを全部やめる。
ああだこうだをやめること。
ああだこうだをやめたときの体勢が坐禅である」
とも話され、一連のお話が心に残りました。

下の写真は、半跏趺坐の際の足の裏ですが、
確かに死んでいません。
これが生きている足です。
この足ならば、何時間坐っても、立つときに痺れているということはなさそうです。

(ところで、一つご注意を……
佐々木氏の指導する坐禅をすると、こういう足になる!、とお伝えしたいのではありません。
何か坐禅をして達人になることを目的にしているのではなく、
本来持っているものを発揮できると信じて、

ああだこうだをやめて、ただ坐るということなのだろうと思います)



※藤田一照『現代坐禅講義』には、佐々木奘堂氏との対談が収録されています。ご参考までに。

■お知らせ
湧くわく本心塾@多治見を、 11月25~26日に開催予定!
現在企画中です。
幕末の大儒・佐藤一斎の教えを生かしている、
いわむら一斎塾
http://issaijyuku.com/
が近郊にあり、
お訪ねすることも計画したいと考えています。
11月25日午後~26日昼過ぎのうち、
一日でも日程調整できる方は、ぜひ、ご予定に入れてみてください。

月曜担当…池田光



2014年9月14日(日)
「竜場の大悟」                         日曜担当…八木正典

私の尊敬する王陽明が悟りを開いたのは竜場だと言われます。

当時の宦官・劉瑾についての弾劾の上奏文を出したがために、瑾の怒りにふれ投獄され、その後貴州省の竜場の駅長として流されることになったのです。

37歳の春、竜場に着いたのですが、そこは毒蛇や毒虫がはびこり、風土病が多く、異民族が洞窟にすんで言葉が通じないそれは酷い環境でした。

陽明は得失栄辱や艱難困苦の念は克服できたのですが、生死の一念だけは克服することができなかったため、居室の後ろに石の棺を作って端座黙然して心の静一を求め、日々それを超克しようとしたのです。ある時、忽然として格物致知の意味を大悟して狂人のように飛び上がって喜びました。

この時の悟りは、「聖人の道というのは自らの本性にそのものを自覚するだけですべて実現できる、すべて性中に備わっている。それまでのように理を外の事物に求めたのは誤りであった」というものです。

陽明は幼少から聖人になりたいとの意思を持ち続けてきました。竜場で劣悪な環境にも負けず自己を高める努力を続けてきました。この悟りは長い間積み重なった思いが天に通じたのではないのでしょうか。一点を思い続ける、自己を克服し続けることの強さを学びたいものです。

日曜担当…八木正典



2014年9月12日(金)
老人には・・・                          金曜担当…小笹正洋

あるところに体の弱いお婆さんがいました。

お婆さんの旦那さんは死んでしまい、後にはお婆さんがただ一人残されました。

そこでお婆さんは息子夫婦と孫娘と一緒に暮らすことになりました。

お婆さんの目は日に日に悪くなり、耳もどんどん遠くなっていきました。

あまりに手が震えて、夕食のときには豆がスプーンから転がり落ちたり、

スプーンがお皿からこぼれたりすることもありました。

息子とその嫁は、お婆さんが食卓の上に食事をこぼすのをとても嫌がりました。

ある日、お婆さんがミルクのコップを倒してしまうと、もう我慢できなくなりました。

二人は、部屋のすみにあるほうきをしまう戸棚の隣に、小さなテーブルを置きました。

その日から、お婆さんはそこで食事をしなければならなくなりました。

一人ぼっちでテーブルにつくと、お婆さんは目に涙をいっぱいためて

部屋のむこう側にいる家族を眺めていました。

息子たちは食事をしながら、時々お婆さんに声をかけましたが、

その言葉の殆どは、お皿やフォークを落としたことへの文句でした。

ある日、夕食前に床の上で孫娘が積み木遊びをしていました。

父親が娘に何を作っているのかと尋ねると、

娘は「お父さんとお母さんのために小さなテーブルを作っているの」

と言ってにっこりと微笑みました。

「私が大きくなった時、お父さんはこのテーブルを使って部屋の隅でご飯を食べるのよ」

父親と母親はしばらくの間、娘を見つめていましたが、

突然声を上げて泣き出してしまいました。

その夜、二人はお婆さんを大きなテーブルに呼びもどしました。

それ以来、お婆さんは家族のみんなと一緒に食事をするようになり、

お婆さんが時折ものを溢しても、息子も嫁も一切気にかけなくなったということです。



「お婆さんのテーブル」というグリム童話のお話しです。



先日の潜学講座での加藤さんの講義の中での論語の教え、

「老人には安心を与え、友達には信用され、子供が懐いてくるような人」

を受けて、改めて読み返してみました。

胸に刺さります。

金曜担当…小笹正洋



2014年9月11日(木)
原点                               木曜担当…西端努斗夢

問題や悩み事に遭遇した時、私は原点に返ることにしています。

私が帰る原点は、「今、ここ」です。
過ぎたことを思い返して後悔するのではなく、先を思い煩って心配するのでもなく、目の前にある今やらなければいけないことを精いっぱいやるようにしています。

そうすると問題や悩みだと思っていたことが実は問題や悩みでなくなったり、消えてしまったりするから不思議です。

こんなことを書きながらも、私の心は今も天馬のように過去へ、未来へと駆け巡っています。

木曜担当…西端努斗夢



2014年9月10日(水)
みてじま論語講座9月のお知らせ              水曜担当…冨樫功

先日の潜学講座で池田塾長から、今の常識は時代精神でしかないと教えていただきました。
今常識と思っていることも、10年後、20年後には通用しなくなるかもしれません。

しかし、時代を超えて通用する超常識とでもいうものもあります。
その一つが、2500年以上前の孔子やその弟子たちの言行をまとめた論語です。

なにしろ2500年絶えず読み継がれてきたという事実があります。


論語は別名「円珠経」と言われます。
珠は玉、つまり宝石のことです。

円珠とは、球形の宝石のことになります。

鏡はただ一面しか照らし出しません。
他の本は、鏡のように一面は照らし出しますが、360度を捉えることはできません。


しかし、円珠は上下四方すべてを照らし出します。

そして、これは誰でも、どの時代にどこから読んでも宝石のような言葉に出会えるということでもあります。


軽く現代語訳を通読するだけでも、
一つや二つはかならず心に響く言葉をみつけることができるでしょう。

しかし、直接原文に触れ、意味を解釈していけばより深遠な言葉に出会えるのではないでしょうか。



湧くわく本心塾には、定期開催される二つの講座があります。
一つは潜学講座で、もうひとつはみてじま論語講座です。

みてじま論語講座では、『論語』を<漢文>として正確に読み、
次に、<人間学>として味わうという手順を踏んで学んでいきます。
テキストは『漢文大系』(冨山房)で、書き下し文を作るところからスタートします。


漢文からここまで本格的に論語を学ぶ勉強会は、めったにないと思います。

来たる9月20日(土)に開催される講座では、
論語中の論語、「小論語」とも言われる『学而』第一からのスタートとなります。

まだ若干席がありますので、興味のある方はぜひご参加ください。

http://www.facebook.com/mitejimarongo みてじま論語講座 【坐禅と論語の会】(Facebookページ)

水曜担当…冨樫功



2014年9月9日(火)
「心のリセット」                         火曜担当…坂本欣也

月に一度の潜学講座、心がリセットされます。

9月6日の講座では、加藤健治先生、池田塾長による素晴らしい講義を受け、三省の思いを強くしました。

双方独立した講義であるにも関わらず、絶妙に相乗し合い、二つの講義で一つの奥深い教えに昇華されていたという印象が残りました。 

素晴らしい教えを、本当に有難うございました。

渋沢栄一が何故論語を重視したのか?そこには、氏が尊敬した徳川家康(公)の存在があった。

論語とは「偉大な常識」。
時代が変わっても変わらぬ普遍的な「大常識」であると。

その大常識を学び、実践したのが戦乱の世から260年間の泰平の世の礎を築いた徳川家康であり、家康公を尊敬し論語を実践し、約500社の企業を設立、その後の日本の経済産業発展の礎を築いた渋沢栄一であること。

まさに、「大人」です。

大人と小人の違い
大人は、大常識に従って生き、小人は逆に小常識に生き、利(損得)に喩る。
本心・良心に従えば大人。小体すなわち耳目の欲(気質)に従えば小人。

私はまだまだ小人です。
この偉大な教えも、理性レベルの範囲でしか理解できていません。

十牛図で、捕まえ乗ったと思った牛を、いつしか見失ってしまい、また探し始める。
これを何度も繰り返しているような状態です。
しかし、諦めず、繰り返して行くしかないと思います。

志を忘れず、日々実践を繰り返し習慣化し、牛さんと一緒にゆっくりと歩んで生きたいと思います。

火曜担当…坂本欣也



2014年9月8日(月)
悩むことについて                       月曜担当…池田光

「悩む」という言葉を、ふつうに使ってもいいのかもしれません。
ですが、なんとなく、
「悩んでいます」
と口にすることに抵抗感があり、自分に関してはこの言葉を使わなくなってきました。

なぜだろうと思い、自分のなかをサーチしてみました。
すると、
「悩むとは、出口のない問題感情にとらわれること」
という定義を、自分なりにしていることが分かりました。

① 出口なし
② 問題感情
③ とらわれ
という、三つのことが、僕にとって「悩む」ということに付帯しているようなのです。

まず、「問題感情」ですが、問題と、問題感情とは違います。
真正面に問題に向かわずに、問題から発生する感情に翻弄されているから悩むのではないか、と思えることが一つ。

次に、「とらわれ」ですが、まず、
① 感情レベルにとらわれている
と、問題をよけいこじらせるばかりで、出口がますます閉じてくるように思います。
また、問題解決をそっちのけにして、悩むために悩んでいるような枝葉末節ループにはまり込んでしまいます。

② 理性レベルにとらわれている
と、二律背反のように、どちらもが同程度に正解であると言える選択肢に対して、どちらを選んだらいいか悩むことになります。
A案もB案も一長一短があり、どうしたらいいの、というのが現実だからです。

僕は、①②の「とらわれ」から解放されるには、
③ 霊性レベルに入ることだ
と思っています。
それには、坐禅をすることです。

人から「悩み」を相談されると、
僕はよく、
「坐禅することです」
という答えをしてしまうのですが、
それは、
① 感情レベル
② 理性レベル
の迷いとは、四つに組まないためであり、
③ 霊性レベルで本心から発した響きを聞くことだと思っております。

「出口なし」とは、「解決策が見つからない」「解決策を選べない」ということですが、霊性レベルに入ると、
① 新しい解決策が見えてくる
② 問題が問題でなくなってくる(もう答えなんか必要でなくなる)
③ 信念のようなものが湧き出して、頭のなかで思い浮かべていた選択肢の一つと結びつき その選択肢が光り輝く
④ 達観する
といったような仕方で、解決してきます。

悩みとは、
① 感情レベルで迷う
② 理性レベルで迷う
ことから発生するのであり、
① 発生した問題について理性レベルできっちり整理したら、
② あとは霊性レベルに入ることで答えの地平がおのずから開けてくる
と思います。
ここには「悩む」ステップは必要なくなるのではないでしょうか。

もし、それでも悩むとしたら、それは悩むことも一つの快楽だからでしょう。
ほんとうは苦しいはずの「悩み」が快楽であるというのは真実だと思います。
だから、悩みたがる人には、「その快楽もほどほどにね」と言うしかありません。

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月曜担当…池田光



2014年9月7日(日)
「前進」                             日曜担当…八木正典

前進しなさい。宿場を目的地と錯覚していつまでも座りこんではいけない。常に学べ。より高く上がれ。より前に進め。(シュリー・ラーマクリシュナ)


昨日、湧くわく本心塾の潜学講座に参加してきました。所用があり残念ながら途中からの参加になりましたが、講座、懇親会を通じて多くの学びがありました。何よりもそれぞれが自分を高めるために努力をし、それを互師互弟で共有して、更なる自身の成長につなげようという周囲の意識の高さに多くの刺激を受けることができました。上には上がいる、まだまだ進化できる、この感覚を抱くことができただけでも参加して良かったと思います。

私も過去の多くの聖賢の残した足跡に導かれて少しでも前にと考え進んでいるつもりですが、自分がどれだけ成長しているのかどうか全く分かりません。ただ聖賢の言葉を信じて自己を律して、でも日々迷い、悩み、戸惑いながら積み重ねていくしかないのだろうと思います。

そんな中で刺激をしあえる仲間がいるということは幸せなことであり、引き続き一緒に前進していきたいものです。

日曜担当…八木正典



2014年9月5日(金)
The Great Stone Face                   金曜担当…小笹正洋

ある渓谷の村にアーネストという少年がいました。

この村からは、山の上の岩が、大きな人の顔に見えた。

この岩の顔は高貴で、表情は壮大で甘美でもあり、
愛情に溢れたものでした。

村に伝わる伝説では、この村に生まれた子の中に、
当代で一番偉い、崇高な人間になる運命にあり、
さらにその子が成人した時にはあの大いなる岩の顔と
瓜ふたつの顔を持つようになるといわれている、

少年アーネストは、その「偉大な人」に会いたいと思い
その人と出会うことを待ち続けます。

外の世界から渓谷の村に帰って来た「成功者」たちを
見ていると、ある人はお金を儲けたが、アーネストには
その富豪の顔や振る舞いは、岩の顔とは似ても似つかぬ
ギャザーゴールド(金集め)に見えた。

また、戦場で活躍した将軍や、政治家なども、渓谷の村に
帰ってきますが、いずれもアーネストには、岩の顔に
相応しい優れた人には見えずに失望していた。

こうして歳月が経過していくうちに、アーネストは、
その暖かい人柄や、深い知恵、優れた精神などから、
渓谷の人々や、はるか遠くの地の人達から深い尊敬を
受けるようになっていく。

そうした中で出会ったある一人の詩人からアーネストは
気付かされることになる。

老境に達したアーネストの顔はまさにあの偉大な岩の顔と
そっくりになっており、アーネストが待ち望んだ偉大な人
とは、実は彼自身であったということを。。。



ナサニエル・ホーソーンの短編小説集に入っている
「大いなる岩の顔」というお話しのあらすじです。



夢を追うのか志を遂げようとするのか。

功名心なのか向上心なのか。



細部は端折りましたが、
何とも言えない読後の爽快感があるのです。



そういえば、このお話、
あの偉大な哲人も絶賛されていたとか。

金曜担当…小笹正洋



2014年9月4日(木)
時の流れ                            木曜担当…西端努斗夢

9月に入りました。
ついこの前にお正月を迎えたと思っていたら、2014年も3分の2が過ぎてしまいました。
年齢を重ねるにつれて時間の経つのが早く感じられるようになると言われていますが、本当にそれだけが原因かと疑いたくなるほど、私の中では時が流れていくのです。

もしかしたら、私たちの暮らす空間に何らかの変化があって、昔と比べて本当に時間の流れが速くなっているのではないか・・・

大切な人と過ごす1日と不毛な会議で過ごす1日、物理的な時間は同じだが、時の流れには明らかに差があるのでは・・・

そんなことを考えていると、秋の夜長もあっという間に更けていきます。

木曜担当…西端努斗夢



2014年9月3日(水)
学の便法は師と礼にあり                   水曜担当…冨樫功

荀子に「学はその人に近づくより便なるは莫(な)し」とあります。

「学問にはしかるべき人を師として近づくのがもっとも便利である」という意味です。

古典は規範を示すだけであったり、古いため現在にはしっくりこなかったり、
また、簡約すぎてわかりにくかったりします。

しかし、師について君子の考え方を学べば、自らも高まり、考えは広く世間に通ずるようになる、と荀子は言います。

さらに、「学の経(みち)は其の人を好むより速やかなるは莫く、礼を隆(とうと)ぶことはこれに次ぐ」と言っています。
「学問の道は師を好きになるのが最も近道で、礼を尊重するのがその次だ」という意味になります。

師も好きになれず、礼も尊重できなくては、雑説を学んで本に従っていこうとするだけで、
生涯をかけても本当の学者にはなれないと言っています。


本だけを読んでいても、理論や知識ばかりが先行して、行動が伴わない人間になってしまうことがあります。

しかし、師につくことは多くの学びを与えてくれます。
大きく二つの利点があります。
まず、わかりにくい知識を、わかりやすく教え てくれるということ。
そして、実際に、その知識を生き方に援用している様を見られるということです。

後者こそが、しかるべき師につく最大の意味だと個人的に思います。


湧くわく本心塾には、志が高く、学びを実践されている先達が多く参加されています。
本塾は、本だけでは到達しえない学びを与えてくれる貴重な場であると思います。


さて、荀子はこの文でも言っているように礼(社会規範?)を重視しています。
しかし、礼というのがわかりにくくて、今、自分は荀子を読みはじめたところです。

そしたらたまたま読んだ西田文郎さんの本に失礼と無礼の違いが説明されているのを みつけました。
ヒントになるかもしれません。
少し取り上げてみます。

失礼とは、礼を失っていること。
無礼とは、礼を知らないこと。
礼儀を知らないとは、具体的にどういうことなのか。
それは、年長者を敬うことを知らない、
年長者をバカにしている、ということである。

お年寄りを敬うというのは、子供のころからいわれていることですね。
しかし、高齢化社会で、お年寄りが多くなって敬われにくくなっているのかもしれません。
礼はいまも存在しています。しかし、どれだけ実践されているか。

そういえば、先日、講座のあとの懇親会でお酒のつぎ方を教えていただきました。
礼についても自分は学ばなければいけないことが多いようです。

水曜担当…冨樫功



2014年9月1日(月)
健康年齢から逆算する                    月曜担当…池田光

9月に入りました。
夜は寒いくらいで、おふとんにくるまって寝るのが心地よくなりました。

さて、報道によると、日本人の男性の平均寿命は、80歳を超えたそうですね。
喜ばしいことですが、大切なのは健康年齢です。

健康年齢とは、健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間のこと。
いわば、他人の世話にならずに、日常生活がおこなえる期間です。
これが、日本人男性は、約71歳なわけです。

ということは、寿命80歳-健康年齢71歳=9歳で、平均として9年間くらいは健康でない晩年が続くことでもあります。
この9年間は、寝込んでいるかもしれないし、他人の助けがなくては満足に日常生活を送れないかもしれません。
また、認知症ということが問題になっているかもしれません。

僕は、健康な間は、社会とかかわりつづける仕事をしようと考えています。
健康年齢から逆算すると、あと約10年。
この10年において、ゆっくりとですが、自分を生かし尽くす決意をしております。

僕のビジネスは、50代において大きく変わりました。
40代は経営コンサルタントとして多くの企業とかかわってきましたが、
50歳前後から執筆と出版事業に軸足を置き、
55歳で経営コンサルティングの仕事を引退しました。

そして、55歳から新たな勉強を始めました。
漢文読解の勉強を基礎に据えて、中国古典を学ぶことにしたのです。
最初はまったく歯が立たないと感じられた冨山房の『漢文大系』も、なんとなく読めそうな気がしています。

また、坐禅を本格化することで、身心を統合したうえで思索することにしました。
長岡禅塾を柱にして、臨済宗、曹洞宗、お寺での坐禅会、在野の坐禅会など、いろんなところに出かけました。
坐禅するうえで、立花大敬先生の文章が大きな指針になっています。
そして、とにかく坐ること。
すると、これまで見えなかったものが見えるようになってきました。

瞑想の世界では、首をかしげたくなる指導をしている方々がいることもわかってきました。
本を出しているからと言って、まともだと思ったら大間違い。
たぶんご本人も気づかれていないでしょうが、危ない指導をしている方がそこらじゅうにいらっしゃるので要注意です。

「健康年齢から逆算した残された健康期間」というのが、この年齢に達した僕にとっては、とてもリアリティのある期間となり、すでに第一歩を踏みこんでいるわけです。
できれば、僕にしかできない仕事をしたいものだと思っています。

これまでいろんな人物のことを書いてきました……、
中村天風
安岡正篤
渋沢栄一
本多静六
船井幸雄
斎藤一人
立花大敬
横山丸三
など。
そんな人物から学んで血肉となった細胞が、内側から僕を応援し支えてくれている気がします。
「健康年齢から逆算した残された健康期間」……遅咲きの僕にとって、嬉しくて楽しみな期間となりました。

月曜担当…池田光



2014年8月31日(日)
「同調、浮揚力、明確性」                   日曜担当…八木正典

ダニエル.H.ピンクは20世紀と21世紀で人を動かす力、影響力が大きく変わってきていると言います。20世紀はより多くの、より有用な情報を入手したものが大きな影響力を及ぼしたのに比べ、情報アクセスが容易になり、情報の非対称性がどんどんなくなってきている中、情報そのものの価値が力を失ってきているというのです。
ダニエルは、これからは「同調」(Attunement)、「浮揚力」(Buoyancy)、「明確性」(Clarity) の3つが人を動かす重要な資質だと述べます。それは「「相手の立場に立って物を考える力」、「相手の拒否に耐え、浮上する力」、「情報を見極め、原理原則に則って本質を見抜く力」です。

確かにどれも必要だと感じながら、何となくこれはそんなに新しいものなのかなと考え直してみるとこれは論語にあるなと思いました。

同調:己の欲するところ人に施すことなかれ。己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。
浮揚力:憤を発して食を忘れ、楽しんでは以て憂いを忘れ、老いの将に至らんとするを知らざるのみ。天、徳を予に生せり。桓?其れ我を如何にせん。
明確性:礼に非ざれば視ること勿れ。礼に非ざれば聴くこと勿れ。礼に非ざれば言ふこと勿れ。礼に非ざれば動くこと勿れ。

最近論語(中国古典)を読む人が増えていると言いますが、情報の非対称性がなくなると人間の本質が重要視されることとなり、2500年前からの古典の出番が来ているのではないでしょうか。
先人の知恵をもっともっと深く学びたいものです。

日曜担当…八木正典



2014年8月29日(金)
感動教育・・・                          金曜担当…小笹正洋

いよいよ8月も終盤を迎え、朝と夜がめっきりと過ごしやすくなり
虫の音や草花も秋の訪れを感じさせてくれるようになってきました。

読書の秋と呼ぶには少し気が早いようにも思いますが、
最近出会った資料をご紹介します。

幕末当時の松下村塾での吉田松陰の講義模様について、塾生の天野御民が
「松下村塾零話」という記録書の中で次のように記しています。
(漢字は現代文字に置き換えております)



先生門人に書を授くるに当り、忠臣孝子身を殺し節に殉ずる等の事に至るときは、
満眼涙を含み、声を顫(ふる)はし、甚しきは熱涙点々書に滴(したた)るに至る。
是れを以て門人も亦(また)自ら感動して流涕(るてい)するに至る。
又逆臣君を窘(くるし)ますが如きに至れば、目眦(もくし)裂け声大にして、
怒髪逆立するものの如し、弟子亦自ら之を悪むの情を発す。



感動を伝える、心と心を通わせる教育をされていた姿が目に浮かびます。




◇近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778081/46

から資料が探し出せて、PDFでダウンロードもできます。


これからの秋の夜長をお楽しみ下さいませ。

金曜担当…小笹正洋



2014年8月28日(木)
はきものをそろえる                      木曜担当…西端努斗夢

はきものを そろえると 心もそろう
心がそろうと はきものもそろう

ぬぐときに そろえておくと
はくときに 心がみだれない

だれかが みだしておいたら
だまって そろえておいてあげよう

そうすればきっと
世界中の 人の心も そろうでしょう



ご存知の方も多いかと思いますが、これは、円福寺(長野県)住職・藤本幸邦さんの言葉というか詩です。
我が家では、この詩を10年以上前から玄関に貼っています。

以前、取材であちこちの学校をまわらせていただいた時期がありました。何年も続けていると、靴箱を見ただけでどういう学校かある程度は想像がつくようになり、校長先生にお会いすることでそれが確信に変わるのです。

靴箱と校長先生、そしてその学校の校風はどこかで一つに繋がっているようです。

木曜担当…西端努斗夢



2014年8月27日(水)
瞑想で内的会話を消すには                 水曜担当…冨樫功

8月24日、25日と山中湖で研修を受けました。

そこで瞑想に関するレクチャーがあり、
目からウロコが落ちるような発見があったのでシェアしたいと思います。

それは「外部音に焦点を当てることで、内的会話が消える」という指摘です。


これを聞いて、中村天風の師であるカリアッパ師の指示が
いかに的を得たものであったかがはじめてわかりました。

結核という病に侵され、心も消極的になっていた若き日の中村天風は、
「おまえは助かる」といったヨガの聖者カリアッパ師とヒマラヤ山脈のふもとの村に行き修行をします。

そこで、若き日の天風に与えられた課題の一つが「地の声を聞く」ということでした。

毎日、毎日、中村天風は、すさまじいまでの轟音のする滝壷で「地の声を聞」こうと苦心します。

しかし、「地の声を聞くこと」以上に、
この「地の声を聞こうとしていること」自体に大きな意味があったのです。


それはのべつまくなく続いていた消極的な内声を裁断する効果でした。
「体がだるい」「熱がある」「頭がフラフラする」「咳がひどい」「また地を吐かないかしら」
そういった、心の中のつぶやきが、地の声を聞こうとしていた間は止んでいたのです。

後の、中村天風は言います。
「病は忘れることによって治る」と。

実際、中村天風は病から心を離したことで結核を克服しました。


心はいつも様々なことを考えています。
特に、目をつぶると自分の内に焦点が行き、自分との対話がはじまることになります。

何も考えないようにしても、そう考えれば考えるほど内的会話は消えません。

「空、空、空」
「無、無、無」

いくら心でつぶやいても、心は考えることをやめてくれません。

しかし、外部音を聞いているとき、心は考えることができません。
人間の心は一度に二つのことができないからです。

外部音に集中しているとき、心は有我一念という状態になっていきます。
もちろん、油断すれば、心はそこから離れすぐに会話がはじまったりします。
また高速で外、内と焦点が移動したりします。

それでも、集中していると、有我一念という状態に近づいていきます。

その音が消えるとき、無念無想の境地に入れると天風哲学では教えられています。
そして、無念無想になることで、「本心、良心」が発現するとも言われています。

個人的には、まだその境地が味わえてはいませんが、
これから、取り組んでいきたいと思います。


ブザーやお鈴を使った瞑想法が、湧くわく本心塾からもCD出ています。
CDを再生しているだけで、音が自動的に鳴って消える、とても便利な音源です。
一度お試しになってみてはいかがでしょうか。

水曜担当…冨樫功



2014年8月25日(月)
古典を読んで大道を歩む                   月曜担当…池田光

昨夜、寝際にどうしたわけか、『論語』はすごいなあと思いました。
『論語』として現在の形にまとめられてから、2000年近くもの間、読み続けられてきたわけです。
もし、そのうち100年ほど読まれない時期があったとしたら、
途中で滅びて、
現在に伝わっていないかもしれないわけでしょう。

しかも、『論語』としての書物に確立される前史をも生き抜いたわけです。
孔子から、原初の『論語』にまとまるまでは
100年もの時間が経っているかもしれない。
その後も、いくつかの異本『論語』が存在し、読まれ続けてきているわけです。
やがて、現在の『論語』にまとまるのは、後漢になってからです。

そして、現在も、隣国である我が国で、
学者の世界だけでなく、
広く僕らのような普通の人々が読み続けている。
あちこちで、『論語』の勉強会をしているのを知るにつけ、
すごいなあと思うんです。
こういう時代を越えて、読ませ続ける力が「古典の力」なわけです。

かつて、ある学者の『古典論』という本を読んだときに、
古典というのは、
異本を発生させ続ける力があるものだ。
つまり、異本が生産され続けるものでないと、
古典として生き残れない、みたいなことを読んだ記憶があります。

『論語』の歴史は、註釈書の歴史でもあるから、
たえず異本が作り続けられているわけです。
それは、『論語』に無量無尽の意味が眠っているからでしょう。

漢代に『論語』の古い註釈が体系的にまとめられました。
そしてその後の1000年くらいは、その註釈の範囲を出ませんでした。
ところが、宋代になって、まったく新しい体系的な註釈が生まれました。
このことは、『論語』には1000年もの間発見されなかった意味が眠っていた、と言えるわけです。

そして、古い註釈と、新しい註釈が発生したことによる緊張関係のなかで、
『論語』の解釈は活性化し、
我が国においては、江戸期に伊藤仁斎や荻生徂徠などに代表されるような画期的な註釈書が生まれたわけです。
こう考えると、「古典」というのは、後世の人々をたえず刺激しているわけです。

『論語』にかぎらず、
古典を読んでいる人に出会うと、
その人のなかに深淵なものを見出すことがあります。

逆にいうと、
古典を読んでいない人は、
たとえ頭が良くても、その頭の良さは、小賢いというか、浅薄な賢さというか、
そういう感じがたえずつきまとっていて、
どこか、「小さい」という感じがいたします。

常識というのは、やっぱり時代が生む常識であって、
古典というのはいろんな時代を生き抜いているから、
その人を囲い込んでくるような常識の枠を取っ払う力があるのかもしれません。
それが、「大きさ」を感じさせるのです。

古典を読んでいる人は、
どこか超然としている骨太さがあります。
それは、その人が「大道」を歩いた経験によるのでしょう。

古典を読んでいない人は、
こせこせと小道を歩いているように見え、
小賢しいと感じさせます。

超訳『論語』だけを読んでいる人をよく見かけますが、
これは、古典を読んでいるのではありません。
自分の考えを似非古典に映しているだけで、
古典に映った自分の考えを読んでいるにほかなりません。

一度でいいから、代表的な註釈とともに腰を据えて『論語』を読み、
「古典に映った自分の考え」をなぞるのではなく、
「古典を読んでみる」こと。
その一度の読書体験だけで「大道」が見えてきます。
古典を読む=大道を歩く、だからです。

このような学びのきっかけづくりを、弊塾ではしたいものだと思っています。

月曜担当…池田光



2014年8月24日(日)
輝く月のように                         日曜担当…八木正典

最近、車に乗るとSuperflyの「輝く月のように」ばかり聞いてます。
発売は2012年の曲なので何を今さらという感じですが、この曲がすばらしくいいのです。

「愛を知って輝きだすんだ、人もみんな世界を照らしていく
夜空の月のように こんなにも輝いているよ・・・・」


なんでこんなにいいと思うのかといろいろと考えてみましたが、ハタと気づきました。
この曲の「愛」をラブでなくアガペー(無償の愛)としてとらえているんだと。

山上の説教で
「あなたがたは世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前で照らしなさい。」
「だから、あなたの中にある光が消えればその暗さはどれほどだろう。」
とあります。
人もみんな世界を照らすとは素晴らしいことで、当塾の一隅を照らすにも通じているような気がします。
ここまで来ると最後は、
「すべて人にせられんと思うことはまた人にもそのごとくせよ」
というゴールデンルールに繋がっていくのでしょう。

とここまで考えて何となく一人で納得したものの、結局は好きな歌を聴いて気持ちいいのが一番だなと思い、また何も考えない空っぽの状態でこの歌を聴いて、うれしく楽しく思っている次第です。

日曜担当…八木正典



2014年8月22日(金)
格好いい大人・・・                       金曜担当…小笹正洋

以下は、「松下幸之助没後20年記念カンファレンス」の中で、水野博之氏(元松下電器産業副社長)が講演で話された一部です。

松下幸之助さんについて最も印象に残っているのは、人の話を聞くときの姿勢です。
ひざの上に手を当てて、姿勢を正して、じっと前を向いてうなずきながら聞いてくれます。
この姿勢を崩さないのです。
少なくとも私は、幸之助さんがあぐらをかいたり、足を組んで座ったりしたのを見たことがありません。
腕を組んだ姿も見たことがない。
人の話を聞くときは、何時間でも、どんな若僧の話でも、一時間でも二時間でも、ひざの上に手を当てて、うなずいて聞いてくれました。
これだけでみんなファンになるのです・・・




孔子の「論語」にも、

子曰く、
吾れ十有五にして学に志ざす。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順う。
七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。

という下りがあります。


本日46歳を迎えた今でも、未だ惑いっぱなしであります。
これからも、きっと惑いっぱなしでいくでしょう。

でも、60歳になるまでには松下幸之助さんのように、人の話に真摯に耳を傾けられる格好いい大人を目指していきます。

金曜担当…小笹正洋



2014年8月21日(木)
本物の成功者                         木曜担当…西端努斗夢

元日本航空キャビンアテンダントの豊澤早一妃さんが、ファーストクラスに乗る人の中でも特に「本物の成功者」だと感じるお客様の特徴をあげていました。

・人格、品格がある
・顔に人生(生き方)が現れている
・笑顔
・謙虚
・素直
・あいさつをする
・人を差別しない
・人を見下すような態度、発言をしない
・常に感謝の気持ちを持っている
・人に感心を持ち、その存在を認めている
・褒め上手
・言葉がけ上手
・場の雰囲気をよくする
・場の状況を察知できる
・観察力がある
・頼みごとのタイミングが絶妙
・さりげなく自己主張する(自分が、と我を通さない)
・身の回りがきれい

ファーストクラスに乗りたいとは思いませんが、こういった特徴は一つでも多く身につけたいと思います。

木曜担当…西端努斗夢



2014年8月20日(水)
本心                               水曜担当…冨樫功

先日、青空文庫で新渡戸稲造の「ソクラテス」というエッセイを読んでいたら、
「本心」という言葉に出会いました。

該当箇所を引用したいと思います。

「私がソクラテスを好み、かつ崇敬する理由を数箇条にして述べてみるならば、
まず第一には、何事をなすにも、はじめ己を省み、本心に伺いをたててからするということで、
これは、今日世間で頻りに唱道しつつある修養なるものの根本となるものである」

ソクラテスはなにをするにも、己を省み、本心に伺いをたててからするようにしていたということです。
また、本心に伺いを立てるということが、修養の根本である、と新渡戸稲造は言っています。

本心を渙発することを目的とする、湧くわく本心塾の考えと共鳴するところがあると思います。

他にもいくつか引用してみたいと思います。

「即ち友人間の交際にしても、あるいは一歩進んで、人生に処する上にも、手を下し、
口を開く前には、一、二歩退いて、我儘の利己のためではないか、ということを慎重に反省してみる。
しかしていささかでもそういう気味を帯びておるとすれば、断然これを中止するのであるが、
一旦、自分が是なり善なりと信ずるに於いては、それを実行するに寸刻の猶予もしない
-------こういうことを思って、やがてはこれを主義ともするようになった。」

論語の中の曾子の三省を思わせます。

「ソクラテスを読んで、一番に面白く思うところは、かのダイモンというものを常に信じて、
絶えず、自分の心の中に、善悪邪正を区別する、我にあらざる一種の力を蔵している。
訳してこれを鬼神とも称すべきか。
とにかく、この一種の力が、たとえ自分の欲することでも、これを行為に顕わさんとする場合には、
予めこの鬼神に伺いを立てて、允許を受けることにしていた。
そして、もしその允許がでない時には、結局実行を見合わすということになっていた。」

ダイモンとはギリシャ思想において、神と人との中間者で運命を導く神霊的な存在とされています。
五井昌久氏や中川昌蔵氏が説くところの守護霊的な感じを受けます。
それを、鬼神と訳すべきか、と言ってるところが面白いと思います。
このエッセイの文脈では鬼神=本心になっているからです。

何をするにしても、自分がやりたいことでも、それを行動する前には、善であるか是であるかを本心に伺いを立てる。
これが修養の根本であると。

この塾での学びを通して少しでも本心が渙発できるように精進したいと思います。


そして、この文章でのもう一つの発見は、
6月の潜学講座の際、小笹さんも書かれていましたが、今西最高顧問より、
「著者の肖像を見ながら勉強する」ということを教わりましたが、
紙幣の肖像にまでなった新渡戸稲造氏もそれを実行していたということでした。

以下、もうひとつ引用します。

「勿論、私はソクラテスの真似をするという訳ではないが、
書斎には常にこのソクラテスと、リンコルン(註:リンカーン)のバストを飾っておく。
これなども、立派に修養の功を積んだ人々には、かかる必要は全くないであろうが、
私の如き未熟なものには、これが一番に強い刺戟になるのである。」

そうなりたい人の書や肖像画を掲げるというのは、昔からある、原始的な魔術のようです。
これをやらない手はないですね。

水曜担当…冨樫功



2014年8月19日(火)
「必笑」                             火曜担当…坂本欣也

甲子園の高校球児たち、毎日気持ちの良いプレーを見せてくれています。

石川県代表の星稜高校のテーマは、「必笑」だそうです。

その言葉通り、星稜の選手たちは、試合中ずっと笑顔で、そして真剣にプレーしていました。

ピンチの時も、乗っている時も、変わらず「必笑」です。

観ているこちらも、「必笑」になってしまいます。

選手たちの顔は、キラキラ光っていました。

勝ちに執着せず、一瞬一瞬のプレーに集中して楽しんでいる姿。

本心が煥発され、輝き、潜勢力が増し、その時の最高のプレーができているのでしょう。

天風哲学を身を持って実践していると思いました。

次は3回戦、また「必笑」を観るのが楽しみです。

火曜担当…坂本欣也



2014年8月18日(月)
<手を叩く音>と、<ポン!>               月曜担当…池田光

一昨日の土曜日のことです。
僕は、梅田で開催された、ある読書会に参加しました。
読書会では、持参した既読の本を、順番に紹介し合います。

その始まる前のことです。
あるご婦人が、
前に読書会でこんなことがあった、
というエピソードを語ってくれました。

こんな話です。
若い女性の番になり、彼女は持参した恋愛小説を紹介して、
「胸がキュンキュンするんです」
と説明したそうです。
すると、参加していた中年男性が
「僕にはキュンキュンということが分かりません。どういうことですか?」
と質問しました。
「とにかく、キュンキュンなんです。そんな気持ちになったことはありませんか?」
「まったく無いです」
まわりの方々も援助しようと色々と口をはさむけれど、話は平行線のままで不快感みたいな感じが残ってしまったそうです。

このお話を紹介してくれたご婦人は、
「読書会に参加する以前のような、こんな子も参加しているんですよ」
とおっしゃいました。
つまり、他人に満足な説明もできないような、読書会に参加すべきでない人まで参加しているんですよ、というニュアンスでした。

が僕には、どういうわけか、その若き女性の言わんとしていることが好ましく聞こえるのです。
「僕だったら、
キュンキュンしたんですか?
キュゥッーという感じではないんですね?
と会話するけどなぁ」
とコメントしました。

キュンキュンは恋愛の初期の胸のしめつけ感で、キュゥッーというほうが強い締めつけ感なのですね。

次に僕がしたことは、その場で、両手の掌を少し丸めて、強めに叩くことでした。
打つと、「ポン!」という音が響きました。

「その若い女性は、この<ポン!>を伝えたかったのだと思いますよ。
これに対して、その中年男性は、<手を叩く音>という合理的な説明が欲しかったのだと思います」
とコメントしました。

<ポン!>は純粋体験です。恋愛そのものの胸の高鳴りです。
<手を叩く音>は、純粋体験に対する説明です。

恋愛小説を読むとは、疑似体験を楽しむところに醍醐味があり、<キュンキュン>を体験できることが最上なのです。
だから、彼女は、
「この本は、<キュンキュン>が体験できる素晴らしい恋愛小説なんですよ」
という紹介をしたかったのです。
つまり、彼女は<ポン!>をみんなに伝え、共有したかったのです。

この<ポン!>というのは、「体の言葉」です。
これを「頭の言葉」に置き換えるのは、とても困難です。

しかし、その中年男性は、彼女に「頭の言葉」を求めました。
<キュンキュン>ではなく、これを説明しろ、と。
なんと、無茶な要求かと僕なら思います。
熱湯がかかって<熱ッ!>という体験を、熱湯の熱さを知らない人に、<熱ッ!>を説明するのは難しいことです。
彼女に、もし説明を求めるなら、恋愛小説の簡単なあらすじでしょう。

「僕にはキュンキュンということが分かりません」
と言ったその中年男性は、心と体が一如ではないような気がします。
心と体がバラバラになってしまった人は、<キュンキュン>が感じられないのではないでしょうか。
体に<キュンキュン>の症状が現われても、心がこれを<キュンキュン>とは掴んでくれないのではないかと思います。
自分のほんとうの気持ちは、心身一如でないと聞こえてきません。

このお話と関連して、数か月前に僕が体験したことを付記します。

10人くらいの園児たちを引率している、3名の保母さんの一行と出会ったことがあります。
その一行が、四つ角に出たときに、一人の保母さんが、
「みんな急いで渡りなさい」
と、道路を早く横断するよう、園児たちに号令をかけました。
たまに車が通る道ですが、それまでに渡り切ろうとしたのですね。
しかし、園児たちはノロノロと普通の調子で歩いていました。

すかさず、その保母さんは、
「みんな、急いで!」
と、叫ぶように語気を強めて号令します。
が、園児たちの歩くスピードはまったく変わりません。
のんびりしたものです。

すると、後ろにいたもう一人の保母さんが、
「みんな、走るんよ」
と声を掛けました。

そしたら、一斉に園児たちが走り出し、あっという間にその道路を渡り切りました。
「急いで」
という言葉にはまったく反応しなかった園児たちが、
「走るんよ」
という言葉に反応したのです。

なぜでしょうか?
「急いで」は、頭の言葉であり、
「走る」は、体の言葉に近いからです。
もっと体の言葉にすると、
「サッサッ」
とか、
「ビュンビュン」
という擬音になります。
つまり、<ポン!>です。
あるいは、<キュンキュン>です。

体の言葉は、体に響きます。
だから、園児たちは、そんな言葉で急ぐことができたのです。

大人になると、僕たちは頭の言葉を使いがちになります。
これは、抽象的な能力が発達する素晴らしいことですが、他方で抽象的な言葉の世界に住んでしまい、体で感じたことを捨象して無感動になりがちです。

坐禅をするとは、頭の言葉を削ぎ落とすことです。
小理屈を削ぐことです。
すると、本心が顕れてきます。
そんなとき、
<キュンキュン>
の一言が、まっすぐ心に響いてきます。
本質だからです。
その言葉だけで、充分なのです。
説明すればするほど、<キュンキュン>とは、遠く離れていくだけ。

恋愛小説を「頭の言葉」でいくら説明してくれようとも、
僕には響きません。
それより、<キュンキュン>という一言のほうが、
まっすぐに刺さってくるのですが、
いかがでしょうか?

月曜担当…池田光



2014年8月17日(日)
水垢離                             日曜担当…八木正典

今週で水垢離が連続100日を超えました。

本塾の坂本さんに教えていただいてスタートしたのですが、おかげ様で無事に毎日続いています。
最初は本当にいやだいやだ、寒すぎて辛いな、こんなの何のためにと思っていたのですが、最近は暑い日もあり水が冷たくて気持ち良かったりしてこれでは修行にならんだろうといっぱしの思いを持ったりしています。不思議なものですね。
それでも続けるというのは自信にもなり、少しずつ自分も変化している気がします。
いいことを教えていただきありがとうございました。これからも継続していきます。

昔、読んだ本にあった言葉で
「酣宴爛酔(かんえんらんすい)の余といえども、一座の工夫無ければ眠らず」
とあります。

「盛大な宴を行って泥酔するまで飲んだとしても、必ず座禅を組み無念無想の一時を持たないと眠らない」というもので、夢窓国師(鎌倉時代末から南北朝時代、室町時代初期にかけての臨済宗の禅僧)が足利尊氏に対してどうしてもかなわないことがあると評して述べたものです。

どんなに泥酔しても毎日座禅を続けるという精神力の強さは驚異的ですし、継続することの難しさを乗り越える意識の高さは水垢離100日超えでものすごく喜んでいる今の自分と比べても大きなレベルの差があります。それでも、舜も人なり、我も亦た人なりでより高みを目指して皆さんと一緒にしっかりと進化向上していきたいと思います。

日曜担当…八木正典



2014年8月15日(金)
忘れてはならない日                     金曜担当…小笹正洋

8月15日は終戦記念日であり、同時に英霊の御霊を弔う日です。
第二次世界大戦で日本人の戦没者は310万人(うち軍属者230万人)とも言われています。

終戦から69年になります。

戦争自体が無益な行為であり、戦争にどちらが良いも悪いもありません。


私は、近年ではこの日が近付くと、日本人であるということを強く意識します。


先日、実家に帰った際に、祖父母の代からお世話になっている近所のおばさんと食事を共にしました。

おばさんの当時の学校、教育、戦争について思い出話しを語って下さいました。


以下の勅語の丸暗記は必須。
・教育勅語
・青少年学徒に賜りたる勅語
・大東亜戦争に賜りたる勅語


ドレミファソラシド♪は、
はにほへといろは♪
だった(戦時中は英語禁止の為)。


女子であったも手旗信号とモールス信号は丸暗記が必須。


戦時中は、上級軍人の子息はサイドカーの横に乗せられて登校してきていた。終戦数日前からその子の姿は見なくなった。


終戦後は教科書の一部に黒塗りが施された。


その他のお話しでは、芸能人の御用達のホテルにも勤務されていたことがあり、石原プロダクションもそのホテルを利用されていたようで、
おばさんは毎回、石原裕次郎さんの宿泊部屋の担当だったようで、石原裕次郎さんは外出時には部屋の中はキチッと整頓されていて、
履き物も揃っていた。枕元にはいつも心付けが新札でなされていた。お礼の手紙を書いても(凄く達筆です)、ちゃんと読んで下さるそうです。
「一流の人はやることが行き届いている」と感心されていました。


そして最後に驚いたことがあります。

帰り道を駅まで一緒に歩いたのですが、歩く速さが私の歩くスピードと変わらないのです。

昭和一桁生まれの女性です。

いつまでもお元気で。


☆写真は、昨年の干支に因んでおばさんに描いて貰った書画です。

金曜担当…小笹正洋



2014年8月14日(木)
子育て                             木曜担当…西端努斗夢

子育てに奮闘中のお母さん、お父さんのためのDVDブック『楽育ママDVDワークセミナー』の出版記念講演会に参加させていただきました。
著者で特定非営利活動法人チッチキンダーガーデン(NPOチッチ)理事長の山口育子さんをはじめ講演会に参加されていた皆さんは、本当に明るく前向きな方ばかりで、こういうお母さんだと素直で明るい子供に育つと思いました。



女性の社会進出に伴い、男性の育児参加が必要不可欠な時代になっています。
私もそれなりに子育てに参加してきたつもりですが、子供への影響力を考えると、やはり母親の存在は偉大だというのが実感です。

木曜担当…西端努斗夢



2014年8月13日(水)
44歳天命説                           水曜担当…冨樫功

零細企業コンサルタントの栢野克己さんが提唱している「44歳天命説」というものがあります。

人は44歳前後で天命に出会い、気づくという説です。
栢野さん自身、そして栢野さんの回りの多くの人が、44歳で天命に目覚めているとのことです。

栢野さんは44歳で念願の本を出版、講演業という天職に出会われました。
また、やずやの創業者矢頭宣雄さんが天職「健康食品」に目覚めたのが44歳。
中小企業コンサルタントの竹田陽一さんが独立したのが44歳。
博多ラーメン一風堂の河原茂美さんが「ラーメン」が天職と天啓を受けたのが44歳。

自分でもネットで調べてみると、以下のような事例がありました。

・空海 43歳の時、高野山に金剛峯寺を建て真言密教の道場を開いた。
・最澄 39歳の時、唐に渡り天台教学を学び、1年後多くの経典を携えて帰国。
     41歳の時、最長が開いた天台宗に正式に僧が割り当てられ公認された。
・親鸞 仏教伝道の道をを開眼したのが42歳の時であるとされている。
・道元 44歳の時、永平寺を開いて弟子の教化を始める。
・金光教始祖 42歳の時、重い病に侵されていた時、神から啓示を受け金光教を開くことになった。
・平清盛 42歳の時、「平治の乱」を勝利して武士勢力の棟梁としての地位を固める。
・源頼朝 42歳の時、平泉の藤原氏を滅ぼし全国を平定する。
・織田信長 43歳の時、「安土城」に移り、「天下布武」の印を使い、天下統一事業に着手する。
・徳川家康 家康は、43歳の時まだ活躍していない。44歳の時、秀吉が関白になり絶頂期を迎える。


そして、湧くわく本心塾の二大支柱の一つである天風哲学の提唱者、
中村天風師も43歳から「心身統一法」の普及を公園での辻説法から始められています。


また、湧くわく本心塾のもう一つの柱である儒教の始祖、孔子は、
「四十にして惑わず。五十にして天命を知る。」と言ったとされています。

これも、44歳近辺で天命に出会ったことに50歳で気づいたと解釈することも可能な気がします。